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2024/7/28 ヨハネの福音書18章15〜27節「否定からの夜明け」

ヨハネの福音書は次の19章で、キリストが十字架につけられ葬られます。その前の18章は、十字架までの逮捕、裁判を伝えています。その合間に、一番弟子のペテロがイエスとの関係を三回も否定した出来事が差し挟まれます。ペテロはイエスの後に不用心についていってしまう。

16…大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。17すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは「違う」と言った。

この否定をきっかけに、二回目、三回目の否定をしてしまうのです。ヨハネだけでなく、四つの福音書がすべてこのスキャンダルを、隠さず伝えています[i]。四つの福音書が揃って、一番弟子のペテロの大失態を正直に伝え、そのペテロを通してイエスが宣教をなさった恵みなどを深く思わせてくれます。しかし、四つの福音書の記事には細かな違いもあります[ii]。特にヨハネが、もう一人の弟子、大祭司の知り合いだった弟子と一緒に、と伝えるのは、他の福音書にない独自の記事です。そうした細かな違いは、矛盾というまでもない、いくつか説明が出来ることですが、少なくともこのもう一人の弟子の手引きということから、ここでペテロが「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言われた時、そうだと認めたら捕まる心配はなかったわけで、ペテロの臆病さか優柔不断か、「違う」と否定した軽率さが際立ちます。

この「違う」は、マタイやマルコでも同じ言葉で否定している台詞なのですが、ヨハネでは5節、6、8節でイエスが

「わたしがそれだ」

と言った言葉――欄外にわざわざ「ギエゴー・エイミ」とある、大事なキーワード――この言葉の否定形でペテロは「違う」と言った。そのコントラストに気づくのです。これは、次の25節での否定の台詞も同じ言葉を訳しています。

さて、シモン・ペテロは立ったまま暖まっていた。すると、人々は彼に「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」と言った。ペテロは否定して、「弟子ではない(ウーク・エイミ)」と言った。

意味としては、弟子かと聞かれた質問への「違う」なので弟子ではない、なのですが、イエスの言葉との対比が際立つのです。イエスは「わたしがそれだ」と宣言できる方。ペテロはそのイエスとは違う。そのことがここでハッキリする。ペテロ自身、イエスの前に胸を張って、自分は弟子です、他の弟子が離れても私はあなたのために命も捨てます、と言い張ったのが、そうではなかった、自分の脆さ、意気地なさ、優柔不断さを痛感した出来事でした。

このペテロの否定は、イエスが予告していたことでした。数時間前の最後の晩餐の席でイエスが予告していました。ヨハネでは13章36~38節にあります[iii]。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」。ですから決してここでペテロがイエスを否定せず、勇気をもって弟子であることを証し出来たら良かったのに、ということではないのです。どうしたらペテロが(あるいは、私たちが)信仰を貫き、立派な証しを立てられるか、挫折のない信仰生活を送れるのか、ではないのです。そもそもの、私が頑張ってイエスに忠実であれば、イエスは喜んで、私を褒めてくださる、という信心が大きな勘違いです[iv]。それは人に寄り頼み、信者を比較したり、裁いたりする、人間的な宗教です。「信じる私」が中心の信心から、はじめに神が動き、いつも先に行動し、近づき、働いてくださる主への深い信頼を中心とした信仰になるため、この時のペテロの大失態は必要な通過儀礼でした。ですから、ヨハネはここで

27ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。

と短く閉じます。他の福音書はペテロの否認の後、鶏が鳴いて、ペテロがイエスの予告を思い出し、「外に出て激しく泣いた」[v]と伝えますが、ヨハネはそこは省き、鶏が鳴き、朝が来る。そして28節

「…明け方のことであった」

と続きます。ペテロの弱さが暴露されたことこそ、十字架の朝の始まりでした。イエスとはどういうお方か、この方との本当の出会いが始まるのです。ペテロよりも、イエスの姿を焼き付けるのです。否定の言葉を言うしかない経験を通してこそ、「わたしがそれだ」と言われる主を見上げるのです。

そのため、ヨハネは、三回のペテロの否認を二つに分けて、間に19~24節のイエスの証言を入れます。そこでのイエスは、大祭司にも平手打ちする下役にも、真っ直ぐに向き合いました。次の総督ピラトに対しても、イエスは真っ直ぐ向き合い、怖気づくことなく語りかけます。単に勇気があるとか不動心とかで、何を言われても気にしなかった、という以上に、権力者とか下役とかに関わらず、イエスは誰をも一人の人として見ています。先にイエスは8、9節で

…わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」とイエスが言われたことばが成就するため…

とあったように、イエスは弟子たちの安全・いのちを見ていました。それなのに、逃がしてもらったペテロは、また戻って来て危険の中に飛び込んでしまいます。彼が見ていたのは、自分が弟子らしく振舞って、イエスに認めてもらう、という自分目線です。イエスはどうだったでしょう。人を恐れない、だけでなく、一人一人を愛されたのです。尋問する敵も恐れないだけでなく人と見、裏切る弟子も見通した上で愛し、私たちをも深く知り、愛し、ともにいてくださるのがイエスでした。そして、イエスの弟子たちへの言葉は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」でした。ご自分への献身や忠誠を求めるより、他者への見方を変えさせる、それがイエスの示された私たちへの言葉なのです。

ここにペテロの号泣や後悔は記されません。しかしペテロをほったらかすのではありません。ご存じの通り、ヨハネ福音書最後の21章は、イエスとペテロのやり取りを伝えますね。イエスはペテロに

「あなたはわたしを愛していますか」

と三度問われるのです[vi]。やはり、イエスはペテロを愛に立ち戻らせるのです。イエスとの関係を拒んでしまうことを通して、ペテロはもっと深いイエスとの関係、自分が考えていたのとは全く土台が違う、イエスの恵みによる絆へと導かれます。ペテロがイエスを三度否定した出来事は、イエスがそのペテロをも深く知って下さり、もっと真実な関係に導いていかれる物語の一部となります。私たちの信仰生活は、証しや頑張りだけでなく、しくじったり躓いたり、何とかして見せなくてしていたことが露わになったりすることも含めて、そのすべてがイエスの御業の中に挟まれているのです。イエスを否定する、自分の信仰に行き詰まる、教会からもイエスからも離れたように見える、そういう出来事さえ、もっと深く、主ご自身と出会うための回り道であることも多いのです。そして、主が私たちを導こうとしているのは、主ご自身への忠実さ、だけではありません。その主が、私を知り、見つめ、愛しているように、私たちも他者を、主に愛されている者として見つめ、向き合うことです。この御心を、「せめて自分が信仰を恥じずに証しする」という低いものに引き下げてしまうなら、それは遅かれ早かれ挫折しますし、行き詰まった方が幸せなのです。

コーリー・テンブームという人がいます。ナチスドイツの時代、家族で強制収容所に入れられました。ドイツの敗色が濃厚な中、収容者を虐待している看守を見て、姉が「あの人たちの戦後が心配だわ」と言いました。彼女は「本当にそうね」と応えて数秒後、姉の心配が虐待される人たちではなく、虐待する側の看守たちに向けられていたことに気づきます。収容所で囚人も看守たちも等しく尊重し続け、亡くなった姉は、コーリーに大きな影響を与え、彼女は戦後、犠牲者たちの赦しと回復の施設を造り、福音宣教のために生涯を捧げました[vii]。主イエスは私たちに強い信仰を求めるのではなく、惜しみない愛を与え、愛する愛を下さるお方です。その愛を、私たちの傷や痛みを通して、祈りつつ受け取ることから、主の業が始まるのです。

「主よ、自分の力で信じていると思っていたペテロが、頽(くずお)れなければならなかったように、私たちも本当にあなたの一方的な恵みの中に、あわれみを受けて立たせていただいていることを知らせてください。主の御業は、私の罪を赦すだけでなく、この壊れた世界をあなたが治め、回復してくださる希望です。ありがとうございます。恵みを感謝し、失敗を通して変えられてきた導きを感謝します。どうぞ必要な力と良き思いを与え、私たちを強めてお用いください」

 

[i] 教会が、人間が作る宗教の教団であれば、何としてでも隠したい過去ですけれども、それをどの福音書も省きません。むしろ忘れてはならないことと書き残します。それは、第一に、教会の正直な姿勢――美化・理想化・英雄化ではない姿勢――を現し、第二に、キリストの十字架とは私たちの罪・弱さが露わになり、自惚れが砕かれる場でもあること、そして第三に、すべてのキリスト者が与えられている赦しと慰めと回復を、ここに読むことを許されているから、と言えます。

[ii] マタイの福音書26章69~75節:ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使いの女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」70ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。71そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。72ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。73しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」74するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。75ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。
マルコの福音書14章66~72節:ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやって来た。67ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」68ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。69召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。「この人はあの人たちの仲間です。」70すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」71するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。72するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。
ルカの福音書22章54~62節:彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。55人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした。56すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました。」57しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。58しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。59それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」60しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。61主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。62そして、外に出て行って、激しく泣いた。

[iii] ヨハネの福音書18章38節:イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が泣くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

[iv] 信仰の入り口には色んなきっかけがあるでしょう。死んでも天国に入りたい、罪悪感から救われたい、良い人に生まれ変わりたい…、安心、平安、承認欲求、将来への希望、意味、癒し…、そうしたもののすべての源は、神である主です。しかし、その「ご利益」のための「神」であるなら、信仰は手段になり、神を「偶像化」していることになります。神は、聖書において、心を尽くし、思いを尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛し、隣人をあなた自身のように愛することを、最も大切な二つの戒めとして啓示されています。

[v] 脚注3を参照。

[vi] その時のペテロは、「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」というのが精一杯です。かつてのペテロなら、胸を張って「はい、私がどの弟子よりも一番、あなたを愛しています!」と答えたかもしれません。しかしイエスを三度否定したペテロはそんなことは言えません。失敗を責められるか、かつての思い上がりを叱咤されても、何も言い訳できないのです。でも、このペテロに、イエスが問われたのは「わたしを愛していますか」です。

[vii] コーリー・テンブームについては、牧師の小窓(115)コーリー・テン・ブームの言葉 福江等 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ (christiantoday.co.jp)や、メッセージ|牛込キリスト教会 (ushigomechurch.or.jp) からお読みください。