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2024/7/7 ヨハネの福音書17章24〜26節「愛とイエスがある」

最後の晩餐の長い説教の後、イエスが口にした祈り「大祭司の祈り」、最後の三節です。

24父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。

「もの」に欄外注で「異本「人々」」とあります。「人々じゃなくて、もの?」。2節「すべての人々」は「すべて(all)」のことで、弟子たち全体を指して「もの」というのでしょう。2行目で「彼ら」と受ける通り、中身としては人々、神がイエスに与える弟子たちです。その人々、引いては私たちを、イエスは「わたしがいるところに、わたしとともにいるようにしてください」と願うのです。イエスがいるところ、そこに私たちもいる。単純に考えれば、イエスが帰っていく父のそばに、私たちもいる、ということでしょう。Ⅰヨハネ3章2節

「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです」。

やがての約束があります。しかしそこで大事なのは、キリストに似た者になる――私たち自身が変えられること。ヨハネの手紙が繰り返すように、キリストの深い愛に似た者になることです。だからキリストを見ることもかなうのですね。

同じヨハネの手紙の有名な言葉に

「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです」

があります[i]。また

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」

とも言います[ii]。このヨハネの福音書12章26節でイエスご自身は言いました。

「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。」

イエスがいるところにいる、とはイエスが愛し、仕え、謙った道を私たちも導かれて、愛する者、仕える者へと謙り、変えられていくことです。人を裁き、見下す思い・憎しみ・高慢を一つ一つ、最終的にはすべて手放させ、目を塞いでいる恵みならざる考え・罪を取り除かれて、イエスの立たれた生き方に立つ。それが

「わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください」

の目標です。そうして私たちが主イエスの深い憐みに立って生きて初めて、イエスの栄光が見えてくる。それは世界の始まる前から、父が御子に与えていた栄光を垣間見始めることです。イエスの愛を受ける、知ったつもりになる、だけでなく、そこに立つ、そこにいる。そうして初めて、イエスの栄光が見える。世界を造られた神を知るのです。それは私たちが自分で出来ることではないし、イエスも私たちに命じるのでなく、父に祈っています。これは全くの恩寵です。

25正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています」。

改めてこの世界が、造り主なる神を神としない、愛に背を向けているので神を知らないことを確認します。しかしイエスは父を知っており、世にいた中から選んだ弟子たちに、父がイエスを遣わされたことを知らせました。神に対して実につれない世にあって、芽吹き始めた嬉しい業です。まだ甚だ不十分で勘違いだらけ。それでも知り始めている。

26わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」

御名を知らせる、とは名前を知らせるだけでなく、神がどんな方かを知らせることです。ですから「これからも知らせ」ます、神の愛の深さを知らせ続ける、とも言われるのです。それによって、神がイエスを愛した愛が弟子たち(私たち)のうちに宿り、イエスご自身が弟子たちのうちに宿ります。イエスを通して神を知ることは、私たちを愛とイエスで満たすのです。

先に23節でも

「わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます」

とも言っているように、イエスは既に私たちのうちにいてくださいます。24節は、イエスがいるところに私たちがいるように、でしたが、同時に、イエスが私たちのうちにいる、とも二つの言い方が言われます。イエスがいるところは、私たちのうちです。私たちは、イエスとともにいることをどこか素晴らしい別世界を夢見るのではありません。今ここで私たちのうちにイエスがいて、そのイエスとともにここにいる。そして、イエスがご自分の心地よい場所から踏み出して私たちのうちに来てくださったように、私たちも、イエスの愛に押し出されて、自分の場から踏み出して、他者とともに生きる[iii]。そんなイメージも思い浮かびます[iv]

17章はこれで終わります。この後イエスは捕らえられ、最期を迎えます。そのことを強烈に予感しつつ、イエスがこの時祈ったのは、弟子たちを一つにすることでした。世界の基が据えられる前からの、父と御子イエスの一致に包まれて、バラバラになり、争い、憎み、裁いている人間が、イエスを通して神の愛に与り、心からの「一つ」(形式や嫌々我慢した見かけの一致ではなく)、神の愛にある一つとするためでした。でもその願いをイエスは必死に懇願したというよりも、父との愛を何度も振り返り、弟子たちの一致を確信して楽しみにおしゃべりしているようでした。13節に

「世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。」

と言います。確かに弟子たちに聞かせるためでもありましたが、聞かせるための言葉だったら、祈りではなく説教でよいはずです。礼拝や集会でも、祈りの場を借りて会衆に聞かせる演説をしたり、誰かに聞えよがしな話をしたりすれば、祈りを利用していると窘められます。イエス自身、人に聞かせるための祈りを偽善と呼んで禁じました[v]。イエスは生涯何度も長時間祈りました。山で、夜を徹して[vi]、寂しいところで[vii]、一人静まって[viii]、祈りました。その内容を聖書はほとんど伝えません。このヨハネ17章はイエスが普段何を祈っていたかを明かされる、希少な資料です。そういう意味で13節はイエスが父とずっと二人だけで会話していた内容を弟子たちにもオープンにしてくれた、それはイエスの喜びが、これを聞く弟子たちのうちに満ち溢れるため、と言われます。そう、イエスと父の祈りは喜びでした。簡潔な要件を箇条書きにした嘆願書ではありません。互いに周知のことを、繰り返し、行きつ戻りつ話しています。そしてこれを聞いている父の御顔も、御子への愛の話をするのを楽しみ、嬉しくて堪らないに違いないと思えます。英国の批評家G・K・チェスタトンはこんな想像をしています。

イエスが一人山に登り、神と過ごしたのは、人間に聞かせるにはあまりに大きすぎる喜び、笑いを隠していたのではないか[ix]

自分たちの昔からの愛の思い出を語り、その愛に弟子たちを加えること、これからの困難が十分予想できても、楽しみでならない――そんな会話に聞こえます。その喜びを、ここでイエスは私たちにも聞かせてくれます。父親と息子というより、母親と娘みたいです。会話を楽しむのは、女性の方が得意で、男性抜きの会話を「ガールズトーク」と呼びますね[x]。父と御子はぎこちなく、詰まらない男性っぽさはなく「ガールズトーク」ならぬ「父御子トーク」を喜び溢れてしている。しかしここで、御子は「神トーク」を今までのように弟子や人間抜きではなく、初めてオープンにして私たちを招いてくださった。それは私たちが喜び溢れて生きるための言葉です。問題は確かに山積みです。この世界にも、私たちの生活や過去にも、そして私たちの中にも、間にも。こんな父と子の会話など弟子たち同士だから出来るわけではないし、親子でも難しいことが多いのです。その私たちを、この御父と御子の会話に包んでくれます。だからこそ、イエスはこの祈りを終えて18章に進んでいきます。ご自身を捧げて私たちのうちに住み、私たちをもその愛に生かしてくださるのです。私たちの思いを超えたこの祈りは私たちのためです。

「父よ。御子イエスが私たちのために祈られたこの祈りは、あなたの御心でもあり、その愛に私たちが包まれ、運ばれ、導かれている恵みを感謝します。この言葉で私たちのうちに、主の喜びを満たしてください。悲しみを喜びに変え、涙を笑いに変え、隔たりに橋をかけてください。そして、イエスがいる場所に私たちもいることを日々選ばせてください。主が私たちに近づかれたように、私たちもあなたの愛が見える場所へと踏み出す勇気と喜びを与えてください」

[i] Ⅰヨハネ4章8節。

[ii] Ⅰヨハネ4章20節。

[iii] また、イエスの愛が私たちのうちに注がれることによって、私たちはイエスがいるところにいるよう必ず導かれます。私たちの足を洗い、私たちのために命も惜しまず捧げたイエスを知らされ続ける中で、自分の狭い視野、人を蹴落とす土俵、冷たい独り善がりな道から踏み出して、愛された者として他者を愛するところに立つよう、主はしてくださいます。その願いを父は聞いてくださるのです。

[iv] イエスは、弟子たちの間の一致と、弟子たちから教えを受けてイエスを信じる人々の間にも一致があるようにと祈っています。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17・21)。このイエスの言葉は、人々の間の一致は何よりも、人間の努力の結果というよりも、天からの賜物であるという奥義を示しています。人々の間の一致は、神の内にある一致を映し出します。人々の一致への願いは深く、強いものです。それは友人との間の、夫婦の間の、コミュニティの間の、国々の間の願いです。そして、本当の一致があるところには、それが与えられたものだという感覚が伴います。一致は、私たちの最も深い欲求を満たしますが、それを言葉や行動によって説明することはできません。一致のための公式は存在しないのです。御父との完全な交わりにあるイエスが一致のために折られたのは、イエスを信じる人々もまた、その一致にあずかることでした。私や他の人を見ていつも気づくことは、お互いの間だけに注意を向け、一致していると思える点をそこに見いだす努力をし、一致を作り出そうとしていることです。しかし多くの場合、幻滅を味わうはめになり、どんな人間も、心の深い願いを適えてくれないことに気づきます。そうした幻滅によって私たちはすぐに、苦々しい、皮肉っぽい、押しつけがましい、暴力的な人間になってしまいます。イエスは私たちの一致を、ご自分の内に、またご自分を通して追求するようにと招いています。もし私たちの注意を、真っ先に互いに向けることをせず、共に結ばれている神に向けるなら、神の内において、私たちもまた互いに結ばれていることを発見するでしょう。最も深い友情は、神が取り持つ友情です。最も堅固な結婚の絆は、神が取り持つ絆です。この真理には、すべての一致を支える源に絶えず戻り続ける修練が求められます。対立、分裂、不和の真っ最中であろうと、互いの一致を見いだそうと神の臨在のうちに共に入って行こうと努めれば、人間の苦悩の多くは和らげられることでしょう。」ナウエン、117〜118ページ。

[v] マタイの福音書6章5~8節。

[vi] マタイの福音書14章23、25節(群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。…25夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。)、マルコの福音書6章46節(そして彼らに別れを告げると、祈るために山に向かわれた。)、ルカの福音書6章12節(そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。)、9章28節など。

[vii] マルコの福音書1章35節(さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。)、ルカの福音書5章16節(だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。)

[viii] ヨハネの福音書6章15節:イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。

[ix] 「ひょっとするとわれわれは、星座を巡らす部屋の沈黙のうちに坐っていながら、天界に響き渡る笑いのどよめきがあまりに大きすぎて聞こえないだけかもしれないのである。歓喜は、異教徒の時代にも広く人に知られたものではなかったが、キリスト教徒にとっても巨大な秘密である。この支離滅裂な書物を閉じようとする今、私はもう一度、キリスト教のすべての源泉となったあの不思議な小さな書物を開いてみる。そして私はもう一度確信を新たにされるのだ。福音書を満たしているあの異様な人の姿は、他のあらゆる点についてと同じくこの点においてもまた、みずから高しと自信したあらゆる思想家に抜きんでて、ひときわ高くそびえ立つのをおぼえるのである。この人の涙は自然にほとばしった。ほとんど不用意と思えるほどに自然であった。ストア派は、古代と現代を問わず、みずからの涙をかくすことを誇りとした。だがこの人はみずからの涙を一度もかくしはしなかった。日常茶飯の事物に触れて、たとえば生まれた町を遠く眺めた時にすら、面をかくすこともせず、明らさまに涙を見せて憚らなかった。だが彼におもては何かかくしていることがあった。厳粛な超人や帝国を代表する外交家たちは、みずからの怒りを抑えることを誇りとしている。だが彼は一度もみずからの怒りを抑えようとはしなかった。寺院の正面の階段から机や椅子を抛り投げ、どうして地獄に堕ちないですむと思うのかと人びとに詰問もした。だが彼には何かかくしていることがあった。私は敬虔の心をもってこれを言うのだが、この驚くべき人物には、恥じらいとでも言うほかない一筋の糸があった。彼が山に登って祈った時、彼には、あらゆる人間からかくしているものが何かしらあったのだ。突然黙りこくったり、烈しい勢いで人びとから孤立することによって、彼が人の目からかくしていることがたしかに何かあったのだ。神がこの地上を歩み給うた時、神がわれわれ人間に見せるにはあまりに大きすぎるものが、たしかに何かしら一つあったのである。そして私は時々一人考えるのだ――それは神の笑いではなかったのかと。」G・K・チェスタトン『正統とは何か』(安西徹雄訳、春秋社、1973年)295〜296頁

[x] 「テッド・ラッソ 破天荒コーチが行く」のシーズン2エピソード1では、ガールズトークについて「ルールNo.1 話しを遮らず、聞く。ルールNo.2 ただ雑談するだけで、何も変えたり解決する必要はない、