2024/1/14 ヨハネの福音書13章12~20節「わたしがあなたがたにしたとおりに」
イエスが最後の晩餐で弟子たちの足を洗った洗足。それはイエスの愛を極みの行動でした。当時、外から帰った人の足は泥や家畜の糞で汚れていました。その足を洗うことは、奴隷や召使でなければしない卑しい仕事でした。教師や主人が生徒や弟子の足を洗うなどあり得ないそのことを、イエスはなさいました。そして、彼ら全員の足を洗った後、上着を着直して、自分の席に横になり、こう話したのです。
「12…わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。13あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。14主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」
イエスを好意的に「先生」と呼ぶ人もいれば[i]、信仰を込めた「主」と呼ぶに至る人もいました[ii]。しかし、どちらにしても大事なのは、その主・先生が弟子たちの足を洗ったように、弟子たちも互いに足を洗い合う事だ。イエスの洗足(せんぞく)は弟子たちもそうするようにとの模範です。だから弟子たち、すべてのキリスト者が、互いに足を洗い合い、先生や主であるイエスに従い、イエスがどんな方かを周りの人に示すこと。それが、イエスを主と呼ぶ生き方なのです。
この「したとおりに」とは「したように」という語で[iii]、その通りを命じてはいません。もっとも教会によっては、洗礼や聖餐式と同じように洗足を行う教派もあります[iv]。司祭が若い新しい司祭の足を洗う、刑務所で教誨師が囚人の足を洗う、夫が妻や子どもの足を洗う…。実際に体験して初めて分かることもあり、洗足の恵みは皆さんにも体験をオススメします。
同時に、当時の生活での「足を洗う」行為、極めて卑しい行為をイエスがしたインパクトと、それを模範として弟子たちも従った驚きは、今の私たちが儀式か美談として足を洗うなら真似事にはなりません。日本語でも「足を洗う」と言います。意味は「賤しい勤めをやめて堅気になる。悪い所行をやめてまじめになる」[v]、或いは、単にある職業をやめる、悪い仲間から離れることです。仏教由来のようで、お坊さんが裸足の修業から帰ってきたら、俗世の煩悩と縁を切る意味も込めて足を洗ったのです[vi]。イエスの洗足との類似も触れられますが「キリスト教には「悪いことを止める」という意味はない」とコメントされます。確かに、日本語の「足を洗う」は、自分で足を洗うのに対して、イエスは「わたしがあなたの足を洗う」と仰います。また、俗世や過去や仲間が悪・汚れの原因なのではなく、きよめていただく必要があるのは自分自身です。過去や世との関係を断つのではなく、洗ってくださるイエスとの関係に生かされ、イエスはその私たちをこの世界へと派遣するのです。イエスとの関係に生かされる。それは、弟子たちも主であり師であるイエスが足を洗ってくださったように、私たちも互いに足を洗い合っていくこと、イエスに倣う心と新しい生き方で仕えなさいと派遣されることです。
「16まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。」
その通りです。イエスは優劣・上下・偉い/卑しいという物差しをひっくり返してしまいました。上へ上へと争っていた弟子たちは、一番低くなったイエスよりも上にあろうとすることは出来ません。上向きの矢印をひっくり返したイエスの弟子・しもべ・派遣される者であるなら、最も低くなったイエスには及ばなくても、低くなることを求められるのです。しかしそれは、恥ずかしいとか貧乏くじとかでなく、幸いなのです。
17これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。
イエスが、弟子たちの汚れた足を、奴隷のようになることを厭わず、上半身裸になり、水を汲み、丁寧に洗い、拭ってくださいました。そのことが分かるなら、そしてそれを自分も実行するなら、それは幸いなことです。「行えば、幸いが報われる」ではなく、「行う」ならその事自体が幸いだ、ということですね。人の足を洗うこと、それ自体を幸いだと思え、というのでもないし、我慢して嫌なこともすればご褒美に幸せにしてあげよう、でもありません。イエスが私たちのため、足を洗い、十字架の死も厭いませんでした。それは、私たちを本当に愛してくださっているから。だから「こんなことはしたくない。恥ずかしい。もっと別の人がやればいい」などと思いもしなかった。その事実と、私たちの行いとが重なることは、幸いなのです。
日本語の「足を洗う」という表現がキリスト教由来ではないと言われる大きな理由の一つは、イエス・キリストの洗足はイエスの愛と謙遜を表しているけれど、日本語の「足を洗う」には、愛や謙遜というニュアンスはない、ということだそうです。成程と思いました。キリスト者の洗足の土台は愛と謙遜です。この愛を忘れて、謙遜だけを考えると、形ばかりの洗足という儀式で終わるかもしれません。或いは、「今に置き換えると何をしたらいいのだろう」、汚れ仕事、人の問題の尻拭い、嫌な役目を引き受けること…など、行動に目を奪われてしまうでしょう。しかしイエスの洗足は、謙遜に先立って愛の極みでした。愛する弟子たちのため、汚れた足を水を注ぎ、罪の汚れのために自らの血を注いでくれました。その愛を忘れて、何をすれば仕えたことになるか、謙遜だ、イエス様みたいだと思ってもらえるか、という方向になりかけたら、思い出しましょう。これはイエスの愛であること、そして私たちも、人に何をするか、より、その人がイエスの愛のうちにあることを思い出しましょう。そこから、では何がこの人に必要か、どんな助けを求めているかが見えます。それが、鼻をつまみたくなるようなことだとしても、だからこそ、その解決を助けて、蟠(わだかま)りない生き方をお手伝いしたい、となるのです。
「そうは言っても、人を愛するのは難しい。特に難しい人、愛を裏切った人、親切を仇で返すような人もいるのです」と言いますか。そうです、そういうことはままあります。教会の中でもあります。ヨハネの福音書が書かれた時代、新約聖書の書かれた当時も、そうした教会内の人間関係の問題はうかがえます。そのような私たちを念頭に、イエスは仰るのです。
「18わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。19事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」
イエスの弟子の中にも、裏切る者が紛れていました。それをイエスはどんなに嘆き、心引き裂かれる思いでいたかは21節に続きます。でも、そのユダの足をもイエスは洗いました。足を洗い、パンを分け合った者が、背を向ける。その辛さをご存じのイエスが、予想外の闇が起きた時にも「わたしはある」「わたしがいる」と仰る方として、いつもいます。その不思議な、力強い言葉をもって、イエスは私たちを遣わされるのです。
「20まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
私たちが誰かの「足を洗う」ような、謙って仕える行為は、私の個人的な道徳や命令ではなく、私たちを通して、イエスがその人に触れ、イエスを遣わした神がその人に届いて、その心にご自身を受け入れさせようとする、派遣の御業です。私たちが汚れた足や見えない目、萎えた手や汚れた心に、誰かに触れてもらう時も、その誰かを通して、イエスが私たちに触れて、きよめて、ご自身との関係を、神に心開く信仰を与えてくださっているのです。
イエスの愛と謙遜に誰もまさることは出来ませんが、その愛と謙遜を毎日いただき、遣わされた生活で、仕える者として行動する。その幸いへと、イエスは私たちを派遣されるのです。
「主よ、あなたが私の足も心も体も丸ごときよめてくださったときも、幸いと思ってくださったのでしょうか。どうぞその愛により、私たちも頑なさや憎しみ、偏見や傲慢からきよめられ、自由にされ、愛の幸いの中で生きることが出来ますよう、どうぞ私たちを新しくしてください。それに及ばない私たちの今の行動をも、どうぞ整えて、つたない私たちの奉仕さえ用いる恵みをもって、あなたの愛の惜しみなさ、力強さを思い知らせて、恵みを崇めさせてください」
[i] ヨハネの福音書1章38節(イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」)、49節(ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」)、3章2節(この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」)、26節(彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」)、4章31節(その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。)、6章25節(そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」)、8章4節(イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。)、9章2節(弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」)、11章8節(弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」)、28節(マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」)、13章13節(あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。)、20章16節(イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。)
[ii] ヨハネの福音書4章11節(その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。)、15節(彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」)、19節(彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。)、49節(王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」)、5章7節(病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」)、6章34節(そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」)、68節(すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。)、8章11節(彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕)、9章36節(その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」)、38節(彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。)、11章2~3節(このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。3姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」)、12節(弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」)、16節(そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」)、21節(マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。)、27節(彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」)、32節(マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」)、34節(「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。)、39節(イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」)、12章13節(なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」)、38節(それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」)、40節(「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように。」)、13章6節(こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」)、9節(シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」)、25節(その弟子はイエスの胸元に寄りかかったまま、イエスに言った。「主よ、それはだれのことですか。」)、36~37節(シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」37ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」)、14章5節(トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」)、8節(ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」、14章22節(イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」20章2節(それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」)、13節(彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」)、18節(マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。)、20節(こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。)、25節(そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。)、28節(トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」)、21章7節(それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。)、12節(イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。)、15~17節(彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」16イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」17イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。)、20~21節(ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。21ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。)
[iii] ギリシャ語「カソース」。
[iv] 改革派神学の聖礼典理解には、①主イエスが命じたこと、②教会が実践していること(使徒の働きなど)、③書簡において命じられていること、の要件があります。洗礼と聖餐は、この三つを満たしていますが、洗足は①のみであり、要件を満たしません。洗足もイエスの命令として礼典とするなら、他のイエスの教え(「右の頬を打たれたら左の頬も差し出す」「持ち物を売り払ってイエスに従え」)などもみな同じように扱わなければおかしくなります。
[v] 「賤しい勤めをやめて堅気になる。悪い所行をやめてまじめになる。また、単にある職業をやめることにもいう。」『広辞苑』第六版。
[vi] 参考、Domani「【足を洗う】の正しい意味は?〝手を切る〟との違いは?細かいニュアンスの違いを覚えておこう」https://domani.shogakukan.co.jp/686108