2023/12/31 ヨハネの福音書12章44~50節「闇の中にとどまることのないよう」[i]
この言葉は、イエスの思い、メッセージをまとめているエッセンスです[ii]。12章を結ぶだけでなく、1章からずっと語られてきたことを改めてまとめ直してくれるのです。「ああ、イエスが言いたかったのはこういう事だったのか」と私たちにも確認させてくれます。
44…「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。45また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。
ここではイエスが、父なる神から遣わされた方として、完全に父を現し、父の御心を行っている、と繰り返しています。神は御子イエスを通して、私たちにご自身の御心を完全に届けてくださいます。それがイエスです。
今年の年間聖句は申命記30章14節
「まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」
でした。みことばが遠くでなく、本当に自分の近くにあった。そういう体験や気づきを、この一年どんな形かで味わってこられたでしょうか。礼拝や学び、普段の生活でそんな気づきがあったことを思い返せるでしょうか。何より、みことばが近くにあるとは、イエスがすぐ近くにいてくださる、ということです。イエスは神のことばそのものです。神はイエスを遣わすことによって私たちとともにいることを現し、みことばを通してイエスがともにおられる慰めや励まし、力を与えてくださっています。みことばは私たちのすぐ近くにあり、口に、心にあり、行うことが出来るほどにされている。それはイエスにおいて私たちに届けられたことです。
一方、来年2024年の年間聖句はヨハネの福音書13章34節です。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
来週、新年最初の礼拝からヨハネ13章に入ります。第四週にこの34節を含む段落を読む予定です。その後17章まで続く「最後の晩餐」の説教で「命令・戒め」が何度も繰り返されます[iii]。この「戒め」と言われている言葉は、今日の12章49、50節に出て来ます。「お命じになった」「命令」と訳されるのが「戒め」と同じ言葉です[iv]。
49わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。50わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。
「父の命令が永遠のいのちであることを知っています」! 父の命令を守ればご褒美に永遠のいのちが戴ける、ではないのです。父の命令=永遠のいのち、なのです。その命令をイエスはこう言い直されたのです。わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい――と。それが、それこそが永遠のいのち、永遠を今ここで生きるいのちだとこの後ますます明らかになっていく[v]。それは父なる神の命令、父の心の毅然(きぜん)とした願いです。そういう神だからこそ、御子イエスを遣わし、イエスの教えとみわざ、そして十字架を通して、神の愛を語ってくださったのです。そういう意味でイエスこそ、私たちに神を見せ、自分自身を見せてくれる光です。
「46わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。」
ここに「光と闇との対立」という図式はありません。1章5節でハッキリ
「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」
と言います。闇が決して光に勝てないように、イエスは闇の中で輝き、信じる者を一人残らず闇から導きだされます。
勿論、色々な闇がイエスを信じた者にも降りかかります。文字通り、目が見えなくなるということもあるでしょう。9章には生まれつき目の見えない人が出て来ました[vi]。また6章には舟に乗った弟子たちが真っ暗な夜の湖を進みながら、強い風に翻弄される様子が出て来ました。この先も、弟子たちは愛するイエスが奪われる闇を体験します。今一年の終わりに当たっても、生活の問題、家族の悩み、愛する人を失った喪失、健康の不安、先が見通せない闇の中にいる方もいます。世界のニュースも暗くなるものもあります。自分自身の弱さや罪や後悔、無力さも重い闇のようかもしれません。その闇の中にあって、闇に留まることのないようにとイエスが来てくださいました。問題や悲しみや不安の底で、神はイエスをそこに遣わしてくださいました。だから私たちの闇よりも強いイエスを信じることが出来るのです。
47だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。
これも慰めに満ちた言葉です。私たちが神のことばを守れたら救う、守れなかったら裁かれる、ではないのです。守れないからこそ、イエスが来てくださったのです。裁くためではなく、救うために来てくださったのです。それがイエスという光です。限りない赦しと再出発があります。裁いたり罰したり脅すのでなく、赦しと救いの愛を下さいます。だから、その愛に与った者として私たちも愛する、愛し合う、というあわれみの循環が続くのです。
勿論、だからみことばを守らなくて良い、というのは屁理屈です。48節の
わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。
はずっと拒み続ける、受け入れようとしない、という継続的な状態を指します[vii]。その場合は裁きを選ぶことになる。
わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。
なぜならイエスの言葉は、父なる神の、人間に対する一貫した御心を示しているからです。
この天地万物、宇宙も時間も、すべてをお造りになった神の命令は、人が今、永遠ないのちで生きることです。さばきではなく救いであり、だからこそ、神は御子イエスをお遣わしくださった。この事が、今12章の結びで確認されています。この方を「私たちが信じる」と言った途端、なぜか私たちは、神の大きさよりも、信じる私たちの側を重く考えてしまいます。自分の信じ方、不信仰、努力や誠意といったものに最後は掛かるかのように、なぜかすり替わりがちです。そんな小さなことではない、とイエスは大きな声で叫んでくださっています[viii]。直前の43節で見たように、人は神の計り知れない栄誉よりも、人からの、移ろい廃れる栄誉を愛する近視眼です。病気、災害、死、問題という闇に怯え、もっと悪いことにその渦中にある人を裁き、「お前か両親の罪のせいだ」「神を信じて何になるか」「もう神も見捨てたのだ」などと言って冷たく突き落とすような闇を持っている。神はその私たちを裁くためでなく、救い、闇の中に留まらないよう、イエスを遣わしました。神を小さく考える貧しさも、私たちの弱さ、躓きやすさ、深い闇も全部ご存じの主が、光となって私たちの側に来て、私たちの歩みを導いてくださる。そして、そこで私たちを慰め、希望を与えるだけでなく、私たちもまた慰め、希望を与える者となるようにしてくださる。イエスという光に出会った私たちもまた、闇の中にいる人にとって、ボンヤリとでもイエスの光を反射する鏡とする。イエスが愛されたように私たちも、誰かを裁くのではなく、その人の救いとなるためにはどうしたらいいだろうと心を使うほど、互いに愛し合うようにする。その、父の命令に押し出されて来てくださったのです。
「みことばは私たちの近くにある」
を年間聖句とした2023年から
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」
の2024年へ。この二つの言葉の間に、イエス・キリストが立って、これを私たちを結び付てくださいます。主は近くにおられて、私たちをみことばの光によって照らし、導き、戒めてくださいます。その主に愛されたように、私たちにも互いに愛し合うように――裁いたり騙したり、軽蔑や恨み、イエスの光に耐えられない闇の中を歩まないようにするために来てくださった。それが御父の命令だからです。
「すべての主なる大いなる父よ。尊いあなたが、私たちを闇から救うため、御子イエスをお送りくださった、計り知れない幸いを感謝します。あなたが私たちが思うよりも遥かに大きく、あわれみ深く、不思議な御業をなしてくださることを感謝します。あなたならぬ一切の闇から救い出してください。この年の終わりに、私たちの歩み、思い、闇も弱さもすべてご存じの主が、私たちの目を開き、心を照らし、主の恵みを、主の十字架を、復活を仰がせてください」
[i] 今年の最後に読みますのは、12章の結び44~50節です。「イエスが大きな声でこう言われた」と書き出されているこの言葉を、イエスが大きな声で叫ばれているつもりで聞きたいと思います。
[ii] 36節で既にイエスは群衆から「身を隠された」とあります。もう群衆相手に口を酸っぱくして語って回心を促す、というようなことはありません。この44~50節は、この時点で誰かに語ったというよりも、イエスが大きな声で言いたかったこと、言っていたことを総括する言葉です。
[iii] これ以前には二度ほど単発で出て来ただけです。
[iv] 命令エントレー 10章18節(だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」)、11章57節(祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。)、12章49、50節(わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」)、13章34節(わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。)、14章15節(もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。)、21節(わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」)、15章10節(わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。)、12節(わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。)。
[v] 加藤常昭『ヨハネによる福音書4』、207頁。
[vi] イエスはその人の目を癒して見えるようにしましたが、大事なのはみんなと同じように見えるようになったということではなく、見えていると思っているから神が見えない、見えていないと思われていた人の方が実は何が真実か、何が大事かを見えている、ということでした。
[vii] 47節の「守らない」はずっと守らなくても、というより、破ってしまった、守らなかった、という行為のニュアンスです。
[viii] 直前にあったのは、イエスがなさったしるしを見ても、人々はイエスを信じず、信じた人たちも人目を気にして告白を躊躇った、という不甲斐ない姿でした。でも――いえ、だからこそ、イエスの叫ばれた言葉がここに改めてまとめられるのです。徹頭徹尾、神が遣わしたイエスの行動に私たちのいのちは掛かっている。その人間のためにこそ、神がイエスを遣わしてくださった。闇の中に留まらないよう光であるイエスが来てくださった。その言葉を聞いても従えないことがあっても、だからといってイエスはその人をさばかないで救ってくださる。その言葉を最後まで拒み続ける者は、いのちのことばによって裁かれる。こう言われていることに気づきましょう。