ようこそ。池戸キリスト教会へ。

2023/12/17 ヨハネの福音書12章37~43節「それにもかかわらず」

37イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。

という言葉で始まりました。ヨハネの福音書の今日の部分は、1章からずっと12章まで、イエスが多くのしるし――水をぶどう酒に変え、病人を癒し、五つのパンと二匹の魚で五千人を養い、嵐を沈め、目の見えない人の目を開き、死者を生き返らせる、を伝えました。それなのに、それを見た群衆たちがイエスを信じる信仰には至らなかった、というここまでの総括をしています。どうしてあれだけのしるしを見ても信じなかったのだろうか。いえ、ヨハネの福音書の書かれた一世紀末も、現代の私たちの周りの人々も、しるしを見たら信じるかといえばそうではない。それはどうしてだろうか?と思う疑問を救い取るような箇所です。

ヨハネは二つの視点で答えます。一つはこれ自体、聖書の預言通りだということです。

38それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」

イザヤ書53章1節です。イザヤ53章はイエスの十字架を預言した有名な「苦難のしもべ」の歌です[i]。そこにも苦難のしもべを見ても、それを信じる者は稀であると言われていたのです。更に

39イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。40「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒すこともないように。」

こちらはイザヤ書6章10節です。イザヤが、神の栄光を幻のうちに見て、罪の自覚と主の贖いの恵みを体験して、そこから預言者として派遣されることが始まった、「イザヤの召命」の箇所です。

「ここに私がおります。私を遣わしてください」

と言ったイザヤに対して、主が告げられたのがこの言葉です[ii]。頑なで主を軽く見る人は、主が見えるようにしない限り、自分では理解も立ち返りもしない。預言の中で既に、人々は多くのしるしを見ても、それで信じるわけではない、と明言されています。だからイエスの当時の人々がしるしを見ても信じないのは、驚いたりガッカリしたりすることではないのです。しかしもう一つ言われます。

42しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。…

イザヤの預言だけを字面通りに取るだけならば、信じなかった人々はしかたがない、神が彼らの心を頑なにされたのだ、で終わりでしょう。ところが「それにもかかわらず」と信じた者もいました。イエスを殺そうとしたのは最高法院の議員にさえ、イエスを信じた者がいた。それも少なからず、というのです。でも彼らはイエスを信じつつも、

…ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。

パリサイ人――ヨハネの福音書の書かれた時代にも存在した厳格なユダヤ教の一派です――彼らがイエスへの敵意を露にして、イエスを信じる者を会堂から追放すると布告していたので、告白を躊躇ったのでした。信じつつも告白しない…。その理由は

43彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。

人からの栄誉を失いたくない。これは5章44節[iii]、9章22節[iv]などで今までにも問題にされてきました。信じることと告白することは切り離せません[v]。告白はしないけど信じている、とは言い訳できません。けれど、「では信じていないのだ」とも言い切れない。しるしを見てもイエスを信じなかったと言いつつ、それにもかかわらず信じた人々がいた…そのことはどうなのだ、と問いかけるこの部分です。これは私たちにとっても非常に現実的な悩みです。福音を聞いて、信じたいと心から思う、でも家族や仕事の関係上、洗礼は受けられない、礼拝も来られない、信仰を表明できない…それを「あの人は、神からの栄誉よりも、人からの栄誉が大事なんだ、残念だ」と言い切ったら良いのでしょうか。「私たちは違う、人よりも神を愛し、信仰をちゃんと告白しているんだ」と胸を張ったらよいのでしょうか。

有難いことにこれには続きがあります。13章から21章までがあります。そこには、イエスの弟子、多くの群衆が信じなかった中、イエスを信じ、いのちを捨てる覚悟も表明していたペテロたちでさえ[vi]、人を恐れて、告白を翻す姿を晒します。脅された訳でなく、知らない人の何気ない言葉に動揺して、命をかけた誓いを翻し、三度イエスを「知らない」と否定します[vii]。そのペテロのためにこそ、イエスは十字架に向かっていました。そして、よみがえったイエスはそのペテロに近寄り、三度、問われるのです。

「あなたはわたしを愛していますか」

と三度、問いかけられるのです。

「あなたはわたしを愛していますか」

これがイエスからの言葉です。

これで終わりならイエスの十字架は要らないのです。このイエスの慈しみと赦しの力こそ、私たちが希望を置き、これこそ「神からの栄誉」、イエスの栄光として心に刻みたいのです。

「人からの栄誉」とは人間に属する栄誉です。社会的な称賛や喝采で、人間のプライドをくすぐるものです。「神からの栄誉」、神に属する栄光はイエスに現された栄光です。プライドや優越感から完全に自由にされ、神と人を心から愛し、惜しまずに謙って仕える栄光です。41節で

イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。

とはそのような徹底したしもべの栄光でした。38節で引用されるイザヤ書53章では、神のしもべは屈辱と痛ましい限りを尽くし、誰もが神からの罰だとしか思えません。しかしそれこそ、

私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれ、…私たちに平安をもたらし…私たちは癒され

るための苦難でした[viii]。また39節で引用されるイザヤ書6章では、イザヤが主の栄光を見た時、彼は自分の唇の汚れ、絶望的な罪深さを自覚します。そして主は、イザヤの口に触れて、咎を取り除き、罪の赦しを宣言してくださいます。イザヤが語ったのは、主の栄光が、人間の好みや常識からは到底信じがたいほどの恵みに満ち、自分を驚くべき栄光に与らせてくださった、という告白です。その栄光が、イエスにおいて完全に現されました。それは今までのしるしにも豊かに示されましたが、最後のしるし、イエスが完全に自分を捧げて十字架にかかり、復活して弟子たちに現れ、新しいいのちを与えたことで成就するのです。

イエスに見る「神からの栄誉」を抜きに、「自分はイエスを告白している」と誇り、様々な難しい事情で、信仰を公に出来ない人を裁くなら、それはペテロたち弟子の姿そのものです。「私が頑張った、私は人より神を愛して告白している、神様見て見て!」という人間的な栄誉は必ず砕かれて、イエスの栄光に目を向けるのです。その時、私たちは自分の罪、プライド、自惚れを照らされます。その私たちを愛し、赦し、立ち上がらせてくださる主の憐れみの栄光に打たれます。そのために、イエスが限りなく謙り、十字架の死にまで低くなってくださった、信じがたい栄光に気づきます。それを自分が信じて告白している事自体、自分の誇りでは一切なく、偏に主の恵みの御業に他ならないと知ります。今、人との関係に引っ張られて、イエスに躓いている人も、いつ告白するようになるかは、主の時の中にあります。事実、この時パリサイ人仲間を気にして告白していなかったのに、十字架で死んだイエスの亡骸を引き取るため、アリマタヤのヨセフと議員のニコデモの二人が、名乗り出て、信仰を表明するのです。早まって人をさばいてはなりません。それ自体、人間的な栄誉を愛している心です。人が、神からの栄誉を愛すること自体、誰も誇れることではなく、ひたすらイエスのあわれみによるのです。

待降節の第三週、クリスマスまであと8日。神の子イエスが人となったこと、弱く小さく裸の赤ん坊としてお生まれになったこと。それは人の栄誉とは真逆です。そこにこそ、神からの栄誉があります[ix]。この方が告白を躊躇う人をもそのままには放っておかないのです。飼葉桶のような心に、冷たく固い私たちの心にも宿ってくださったのです。驚くべき恵みです。

「愛と恵みの栄光の主よ。信じ難い程の深いあなたの御慈悲を目にして、なお人間的な誇りを求め、失うことを恐れる私たちです。今ここにあるのは、ただあなたの憐れみによること、主の十字架と復活の救いが、聖霊によって届けられたからです。どうぞ、私たちの思い上がりを砕いてください。思い上がった信仰ほど醜いものはありません。この待降節第三週を格別に主の謙りに与る時としてください。主の栄光を愛し、追い求めるよう、思いを照らしてください」

[i] マタイの福音書27章26~60節には、イザヤ書53章が多数引用されています。また、ローマ書10章16節でも、イザヤ書53章1節が引用されて、イスラエル人のイエス拒否の理由として伝えられています。

[ii] イザヤ書6章9~10節:すると主は言われた。「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。10この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」

[iii] ヨハネの福音書5章44節:わたしは人からの栄誉は受けません。…44互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。また、7章18節:自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。

[iv] ヨハネ9章22節:彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。また、7章13節:しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。

[v] ローマ10章9~10節:なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

[vi] 13章36~38節。

[vii] 18章15~18節、25~27節。

[viii] イザヤ書53章:私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
2彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
3彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
7彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
9彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
12それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」

[ix] 「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。8人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。9それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。10それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、11すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ人への手紙2章6~11節)