2023/11/12 ヨハネの福音書12章1~8節「香油の香りでいっぱいに」391、536
讃美歌391の元でもある、マリアが高価なナルドの香油をイエスに注いだ記事です。11章の最初でもこの出来事が触れられていて、ヨハネの福音書が書かれた紀元一世紀末、この出来事があってから60年が過ぎ、教会の宣教がローマ帝国中に広まるにつれて、この香油注ぎの出来事も広まっていたようです。しかし、讃美歌の中にも、歌えば送別会やお葬式の記憶を呼び覚ます賛美があるように、この香油の香りは、死者を葬る際に使われるもの、葬儀と結びついた匂いでした。この出来事も、マリアの行為を称えるというよりも、12章に入り、いよいよイエスの十字架の死が近づいたことを際立たせる出来事の一つに他なりません。
1さて、イエスは過越の祭りの六日前に…
つまり、もう一週間したらイエスは過越の子羊として死に、大量の香料を塗られて、墓に埋葬されているのです[i]。
…ベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
11章のラザロの復活は、私たちをよみがえらせるため、イエス自身が死ぬことと結びついた出来事でした。2節はそうした緊迫感とは無縁に、和やかに読めます。人々はイエスに夕食を用意し、マルタは給仕をし、よみがえったラザロは食卓に着いた人たちの中に紛れています。復活の奇蹟が、特別な興奮や運動に結びつことなく、極々日常的な生活があるこの光景も、静かに何かを語るようです。
しかしその穏やかさを破るように、マリアが行動して人々を驚かせます。
3節「マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ〔欄外:約328グラム〕取」
ります[ii]。マタイやマルコの福音書では高価な香油の小さな壺を持って来て割ったとあります[iii]。瓶詰などまだない時代ですから、香油は壺に密閉して、使う時は割って使い切るのです。マリアはその香油を、イエスの
足に塗り、自分の髪でその足を拭い
ます。
家は香油の香りでいっぱいに
なりました。これは歓迎される行為ではありませんでした。女性が男性たちのいる前で髪の毛を解くのは非常にはしたない行為でした。また女性が男性に触れることも、非常識な行動でした。マリアはその両方をしたのです。自分の髪の毛を解いて、イエスの足に塗った香油を拭う。それも非常に高価な香油300グラムも注いで。実に惜しみない、言い換えれば、無駄なことでした。
4弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。5「どうして、この香油を三百デナリ[つまり約一年分もの労賃]で売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。
でも「やっぱりユダだからだ」とは私たちには言えません。マタイやマルコも伝える通り、弟子たち複数が憤慨して
「何のためにこんな無駄なことをするのか」
と言ったのです。金入れを預かりながらくすねることはなくても、羊を預かりながら羊を心にかけずに、自分の損得を優先したり盗んだりする、という姿は10章8節10節でも言われていました[iv]。ヨハネは決してユダを裏切り者呼ばわりすればいいとは思わず、今ここにある私たちの、愛のなさ、貪欲さを省みさせています。4節の
裏切ろうと
には欄外注で「あるいは「引き渡そうと」」とあるように、悪意ある裏切りより最後には引き渡してしまったということです[v]。そもそも私たちも誰かの行動を見て、「どうして違うことをしなかったのか。もっと神様に喜ばれる使い道があったはずではないか」などと、今更言っても仕方がないことで水を差すのは、本当にその良いことを思い、心にかけているから、というよりも、何かしら自分の野望なり、愚痴なり、があるのではないでしょうか。ユダは捧げたり施したりすべきものを、こっそりとまだ自分の物としていました。貧民救済のために売ったはずが、惜しくなって一部を取っておく、という偽善を使徒の働きでは厳しく自戒します[vi]。神に帰すべきものを、まだ自分のものとしているのが盗みであるなら、私たちは皆、生涯この誘惑と無縁ではありません。だからこそ、マリアの惜しみない香油注ぎは、私たちにとっていつも挑戦であり、ハッとさせてくれる出来事です。
7イエスは言われた。「そのままにさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。8貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」[vii]
マリアの香油注ぎは、イエスの葬りの日のためのものでした。この文章は省略されすぎて、マリアに葬りの日のために香油を取っておきなさい、とか色々訳せるのですが、このままを取るなら、過越の六日前にして、既に
葬りの日
に足がかかった、という事でしょうか。実際、ナルドの香油は高価で、この後一週間、最後の晩餐でも、十字架上でも、葬られた時も、しっかりと香りを放ち続けていたと言います。イエスご自身、この香りにこの先の日々を実感したでしょう。ひょっとしたら、よみがえったイエスの足もまだナルド香がしたのかもしれません。
イエスの十字架の死がただ一度きりであって、繰り返されるものではないように、その葬りの日のためのマリアの香油注ぎも一度きりの出来事です。私たちの模範とか、同じようにしよう、などと教訓を引っ張り出すことは第一の目的ではありません。イエスは私たちがいのちを豊かに持つために死んでくださいました。その備えをしたのは、マリアの、無駄で、はしたなくて、愚かと言われた愛の行いでした。勿論それは、イエスに認められるため、褒められたり愛されたり、喜んでもらうためでさえありませんでした。むしろ、イエスに愛されていること、そのためにいのちを惜しまず、まもなく葬られようとしていると、彼女なりに感じていたから、思い余っての行為だったでしょう。それを、勿体ない、もっと賢く、効果の上がるやり方があるのに、などとケチをつける目には、分からなかった。いいえ、彼らにはイエスが自分たちのためにいのちを惜しみなく捨てようとしていることも分からなかったのです。
マタイとマルコの福音書の香油注ぎと、ヨハネとでは違う点もあります[viii]。それを調整する節は色々ありますので、ヨハネがどう書いているか、に集中すれば良いとします。その一つは
「拭(ぬぐ)った」
という言葉です。この言葉は次の13章でもう一度出てきます。「洗足」のところです。イエスが弟子たちの足を洗い、拭いたのです[ix]。マリアの行為を無駄だ愚かだと批判するなら、イエスが私たちのために死んだことも、無駄だ、はしたない、と言えるでしょう。もっと良い施し先があるはずだ、とも言えるでしょう。それをイエスはしてくださいました。マリアに優る、愚かで、惜しみなく、恥も外聞もない愛で、イエスは私たちを洗ってくださいました。そう思えば、まことにその葬りの六日前に相応しかったのは、このマリアの香油注ぎだと思わされ、私たちは自分の思い上がった批判や偽善に恥じ入らされるのです。
家は香油の香りでいっぱいに
なりました[x]。香りと記憶は強く結びついていますが、ヨハネもあの香りでいっぱいになった記憶が年々強烈になったのでしょうか。マリアはイエスに香油を注ぎたかっただけで、部屋を香りで満たすつもりはありませんし[xi]、人の称賛とかイエスの褒め言葉さえ考えずなしたはずです。だからこそこの惜しみない行為は家を香りで満たしました。イエスが愛してくださり、いのちを捧げてくださった恵みは、こんな生き方なのだと示してくれています。未だ、損得を考え、粗(あら)が目につき、批判をしてしまう私たちを、主イエスは静かに諭してくださいます。貧しい人々はいつも一緒にいます。私たち自身が貧しい者同士です。その私たちのために、主イエスが引き渡され、売られて、いのちを施してくださいました。惜しみなく、無駄と思わず、私たちを心にかけて。この恵みに立ち帰りながら、愛を忘れた人からは理解されず、蔑まれるようなことしましょう。主がしてくださったことを、私たち同士がするなら、この香りが私たちの置かれた場所をまた少し、満たすのです。
「主は私たちのために死に、葬られました。マリアの姿とユダの姿、どちらにも私たちを重ねながら、この私たちの全てを包み、受け止め、洗ってくださる、惜しみない御愛に感謝します。どうかその愛で私たちの目を覚まし、冷たい賢さ、恵みを忘れた判断から救い、傲慢さを砕いてください。口より前に鼻を開いて、主の恵みの香りをかぎ取ることが出来ますように。そして私たちも、あなたの香りとしてそれぞれの地、世界の片隅へとお遣わしください。」[xii]
[i] ヨハネの福音書19章38~42節:その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。39以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラ〔約33キログラム〕ほど持ってやって来た。40彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。41イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。42その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。
[ii] 「純粋」と訳された語は、純粋(ピュア)とも、液体とも、ピスタチオの木の、とも言われ、状況は具体的には決め難いところです。
[iii] マタイの福音書26章6~13節、マルコの福音書14章3~9節、参照。
[iv] 盗む バスタゾー取り上げる 10章31節、16章12節、19章17節、20章15節
[v] 裏切ろうとパラディドーミ 欄外「引き渡そうと」 6章64節、71節、13章2節、11節、21節、18章2節、5節、30節、35~36節、19章11節、16節、30節、20節。
[vi] 売るピプラスコー ヨハネでここのみ。使徒2章45、4章35節では初代教会が貧しい人のために所有物を売却した実践がある。そこに嘘が入ったのが5章4節のアナニヤとサッピラ。
[vii] 8節は申命記15章11節の引用です。「貧しい人が国のうちから絶えることはないであろう。それゆえ私はあなたに銘じる。「あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。」これも主の規定でした。貧しい人、苦しむ人、戦火に喘ぎ、抑圧される人に、手も心も開くことは、主の御心です。それをより良い形でするためには、効率とか計画もバランス良く必要ではあります。でも何よりも大事なのは、イエスがひとりのマリアの無駄遣いのような奉仕を喜ばれたように、貧しい人も自分と同じ一人の人として心にかけることであって、「大勢の貧しい人を助ける」という私の側の道徳的な善行ではないはずです。
[viii] むしろ、ルカの福音書8章36~50節の「罪深い女の香油注ぎ」のほうがヨハネと似ているとも言われます。しかし、酷似している点以上に、全く相いれない点の方が多いのです。ルカの出来事と、マタイ・マルコ・ヨハネの出来事と、二回の油注ぎがあった、という理解が穏当です。
[ix] ふくエクマッソー 11章2節、13章5節「それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」
[x] 決して、イエスに認めてもらうため、愛してもらうため、誉めてもらうため、ではなかった。死をたびたび匂わせるイエスに、マリアが思いついたことをした。私たちも、愛されている者として喜んで思いつく捧げ物を、良いこととして主と隣人に捧げよう。認められるため、愛されたり、役に立つため、用いられるため、誉められるため、ではない。伝道も、人を救うため、この人を救うためにするのではない。救うのは神の業、私たちの思いや予想を超えた、神の方法と時でなされる。私たちは、伝道も奉仕も、それ自体が善い業だから、自分の願いだから、したいからする。そういう喜びの業自体が、その場所をいっぱいに良い香りで満たすだろう。マリアの香油注ぎも、部屋に香りを満たすためにしたのではないが、結果的にその惜しみない行為が香りで部屋を満たしたように、私たちが喜んでなす、無償のわざ、報いを求めず、自由にささげる奉仕が、世界を良い香りで満たすだろう。それに文句やケチをつける人もいるし、黙っている人も分かったわけではなかろう。ヨハネでさえ、この時は不可解だったはず。しかし、50年経って、思い出すのはあの部屋をいっぱいに満たした香りだった。
[xi] それをいえば、最も香りがついたのは、彼女の髪の毛だったでしょうが、それを狙ったのでもないのです。