2023/10/29 ヨハネの福音書11章45~53節「一人の人が民にかわって死んで」宗教改革記念礼拝
イエスが死者を復活させたわざが、そこに至るまでを丁寧に描いた末に43~44節で遂にラザロ復活で果たされました。その続きです。
45マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。46しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えた。
ヨハネ福音書では「ユダヤ人」とは、民族としてのユダヤ人のことではなく、イエスに対抗的な人々の総称です[i]。その彼らも、多くがイエスを信じたのです[ii]。それほどラザロの復活はインパクトがありました。しかし「何人か[iii]」はパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えました。ここにも、神様の業を見る体験の力と、それもあまりあてにはならないことの両面が浮かびます。しかし、
47祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。48あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」
イエスが死者をよみがえらせた、それはイエスが本物のメシアだということではないか…とは思わない。「多くのユダヤ人まで信じたのはマズい、このままでは取り返しがつかなくなる」と考えるのです。「最高法院」とは欄外にあるように「サンヘドリン」が原語ですが、ユダヤの自治の上では70名の議員からなる、訳された通り「最高」の機関でしたが、実際はローマ帝国の属州で完全な自治権は奪われ、死刑執行も剥奪(はくだつ)されていました。ローマと民衆のバランスを取っていた議会は、民衆が自分たちの手を離れてイエスに傾けば、ローマは軍を送って、ユダヤは自治を完全に失う、と話します。でも「われわれの土地も国民も」という言葉には、国も人民もわがものだと、勘違いした私物化をしている思い上がりが臭います。これに対し、
49しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。50一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」
大祭司は神殿儀式を執り行う役職です。犠牲の奉献も主な仕事で、年に一度の「大贖罪の日(ヨム・キップール)」には聖所の奥の至聖所に入り、山羊を民の身代わりに犠牲とする大役です[iv]。そうした生贄の儀式に準えてでしょう、大祭司カヤパは、イエスを民の身代わりに死ぬ生贄の動物に準えて、最高法院の議員たちにイエスを死んで、国が滅びないことを提案したのです。その結果、
53その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。
ラザロをよみがえらせたわざは、最高法院がイエスを葬る決意に繋がり、後の逮捕と十字架刑への決定打となった。この後、ヨハネの福音書後半の12章から19章まで、十字架に突き進むイエスの最後の時間が語られていく、という流れになるのはラザロの復活からなのです。
これ自体は残念無念です。大祭司にあるまじき職権乱用です。「お前こそ何も分かっていない!」と言ってやりたい。でもヨハネは言うのです。
51このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、52また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」
勿論「カヤパは実は預言者だった」とか、この時操り人形のように預言をしたと言いたいのでもありません。マタイ、マルコ、ルカはこんな発言は伝えておらず、もっと後に書かれたヨハネだけが、この言葉を知って、「ああ、あれは預言だったなぁ」と思ったのです[v]。皮肉にも、彼が大祭司の仕事に重ねて発言した言葉はまさしく事実であり、イエスは国民の身代わりとなって死なれました。イエスが死なれたのは私たちを滅ぼさないための身代わりの死でした。それはここまで言われた通りです。
3章16節神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
10章10~11節…わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。11わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。[vi]
イエスは民のためにいのちを捨て、民にいのちを与える良い牧者であり、神の子羊です[vii]。そのことをカヤパの言葉は図らずも示していました。それは、結果的に、というこじつけではありません。51節に
「その年の大祭司であった」
とありますが、大祭司は一年交代ではありません。カヤパは紀元18年から36年まで大祭司職にありました。「その年の」とはイエスが十字架にかかるその年の大祭司であった、という意味です。そして、大祭司や祭司職は旧約の昔、モーセの兄アロンが立てられて以来、数えきれないほどの子羊や山羊、牛や鳩を捧げてきましたが、それは本当の贖いの供え物、キリストご自身が来るまでの予表・型に他なりません。大祭司は、生贄を捧げながら、まことの大祭司キリストのまことの贖いが果たされることを示したのです。そしてこの年、遂にイエスが来られて、すべての生贄を終わらせる、決定的な贖いを、ご自分の死によって果たしてくださいました。その年の大祭司がカヤパだったのです。
大祭司カヤパは犠牲の習慣にこじつけてイエスを葬り去ろうとしました。しかしその犠牲の規定こそ、神が語っておられた、人が滅びないため、イエスが遣わされ、民全体のために死んでくださること――ユダヤという国家や民族を越えて、世界に散らされている神の子らを一つに集めるためにも、死んでくださるこの時のための伏線だったのです。私たちは知らされています。イエスが私たちに代わって死んだことにより、私たちが滅びを免れていることを。[viii]
二つの誤解を避けましょう。
一つは「誰かの助けや犠牲など要らない、誰かのお世話になるなんて申し訳ない、誰の助けにもならず自分で出来るししなければならない」。いいえ。私たちのためにイエスの死が捧げられました。誰も自分のいのちを自分で贖うことは出来ません。神は、人のため誰かの、いいえ神の御子自身のいのちで、人間の罪を贖うことを、旧約の最初から示し続けてくださったのです。そして、その本体、イエスが来て、既に死なれたのです。
ですからもう一つの誤解は、既にイエスという唯一の犠牲が捧げられたのに、それでは不十分であるかのように、まだ生け贄が必要だとか、誰かや自分を犠牲にしようとする横暴です。犠牲のシステムは歪められて、生き延びるためには誰かが責任を負わなければならないとか、とにかく自分も我慢するからおまえも我慢すれば何とかなる、という発想になって染みついています。でもそれは根拠のない「神話」です。カヤパはイエスを犠牲にして自分たちを守る方法を「得策」と言います。この言葉[ix]をイエスは16章7節で言います。
「…わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです…[x]」
弟子たち、私たちの益のため、積極的に行動しました。その頂点が自身を捧げた十字架です[xi]。私たちを愛したイエスが、すべての犠牲を終わらせました。それではまだ不十分とか、申し訳ないかのように思って、自分や誰かを犠牲にしなくていいのです。その尊い恵みに与って尊ばれた私たちとして、自分と互いの益を求めていく。自分たちを(犠牲ではなく)贈り物として差し出し、喜んで自分の分を果たすのです。必要なのは、誰かを犠牲にしようというカヤパの提案はあの年でもう終わりなのだ、と知らされて、尊い恵みに与った私たちが、互いを尊び、みなの益を具体的に考えていくことです。
今週31日は「宗教改革記念日」。「聖書のみ、キリストのみ、恵みのみ、信仰のみ、ただ神の栄光のために」、この五つの「のみ」がプロテスタント宗教改革の原則です。キリストのみ。もう付け加える必要は無い。その本当に喜ばしい恵みに変えられ続けるのが教会なのです。
「世の罪を取り除く神の子羊、キリストの十字架により、これまでもこれからもある私たちです。キリストのみが主です。あなたは惜しみない恵みで私たちを滅びから救われました。悪しき企みさえあなたは御心のために用いられますが、その悪意と誤解の十字架の死をも厭われませんでした。キリストのみ、に立ち戻らせてください。まだ足りないとか、歪んだ得策を囁く声が内外にあるからこそ、今日のことばに立ち戻り、あなたの尊い御業に立たせてください」
[i] ここでもユダヤ人たちと出くわすことは危険だと8節でも16節でも臭わされ、37節でも敵愾心丸出しな発言がありました。
[ii] あるいは、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、と訳すべきともされます。
[iii] 見たユダヤ人の何人か、か、あるいは、見た多くのユダヤ人とは別の何人か。
[iv] http://messianic.jp/05-feasts/kippur.htm
[v] 預言するプロフェーテューオーという言葉はヨハネでここだけに使われます。
[vi] 他に、10章15節(ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。)、28節(わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。)
[vii] ヨハネの福音書1章29節(その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。)、36節(そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。)
[viii] 私たちが滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。哀歌3章22~23節。
[ix] スンフェロー ヨハネではもう一度、18章14節(カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。)で使う語です。
[x] ヨハネの福音書16章7節全文は「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」
[xi] 15章16章から概略すると、私たちの「益」とは、聖霊を送って私たちを教え、真理に導き入れ、慰め、喜びと平安を持つことです。