2023/10/8 ヨハネの福音書11章28-37節「イエスは涙を流された」
前回、イエスが「よみがえりであり、いのちである」と言われた言葉を見ました。イエスはこんなことばを真実に言える、神なるお方です。同時にイエスは完全な人でもあります。いのちであるイエスは、人として死に悲しむ人々を愛し、語りかけ、最善の時に駆け寄り、時には深いお考えがあって、ともに居合わせないことをもなさいます。しかし何よりもイエスが、いのちであるイエスが人として見せてくださった姿は、今日の中にある、泣かれたお姿です。
イエスと一緒にいたのは、死んだラザロの姉妹マルタとマリア、そしてユダヤ人たちでした。
28マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」29マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。30イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った。
このユダヤ人たちはずっとイエスに頑固な態度を取り続けてきた人たちの総称で、10章の最後でもイエスを殺しかけ、11章8節では弟子たちが、ユダヤに行くなんて殺されに行くようなものだと考えたほどでした。そのユダヤ人もラザロの死を悼み、マリアとマルタを慰めに来ていたのです。マルタが村の外でイエスと話し、マリアをそっと呼んだのは、ユダヤ人たちに知らせないためでしょう。イエスが村の外にいたのも、ユダヤ人たちを避けての事でした。しかしユダヤ人たちは、出て行くマリアにぞろぞろとついてきてしまったのです。そして、
32マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
21節のマルタの言葉と同じです。一言一句変わりませんが、その後は泣き崩れて言葉が続きません。ついてきたユダヤ人も、イエスに目くじら立てるより、マリアとともに泣くのです。
33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、34「彼をどこに置きましたか」と言われた。…
イエスはマリアとユダヤ人が泣く姿を見て、激しく心を動かされます。「霊に憤りを覚えて[i]、心を騒がせて[ii]」は二つとも強い、激しい、怒りともつかない穏やかならぬ言葉です。それはマリアたちが泣くのをご覧になっての心でした。そして、ラザロを置いた場所を尋ねたのです。
…彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。35イエスは涙を流された。
マリアたちの涙にもらい泣きをした、のではありません。彼女らの泣いたとは違う[iii]、涙をほとばしらせた、という語なのです[iv]。イエスは涙を溢れさせ、拭われなかった。
このヨハネ11章35節は聖書で最も短い節です。(日本語ではルカの福音書20章30節の「次男も、」が最も短いのですが)原文では三語[v]、英語ではJesus weptと二語です。イエスの涙の記録は後2回、ルカ19章41節と、へブル書5章7節です[vi]。どれも自分のためではありませんでした。霊に憤りを覚え、心を騒がせ、涙を流し…こんなにイエスの深く激しい感情は、他には見られません。
「演技の涙」もありますが、自然に溢れる涙は、魂の奥深くが何か言い様もなく揺さぶられて生まれます。この七つ目、最後のしるしは死者の復活というパフォーマンス以上のわざです。即ち、イエスを遣わした父なる神の深い愛を輝かせた、尊いわざ――私たちを愛して、涙も御子も惜しまなかった神の心です。それは敵対していたユダヤ人にも届きました。
36ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」
悲しみ、苦しみ、人間の素の姿は、人の違いを超えて深く訴え、人を繋げることがあります。しかし、その時にも、なおそれに拒んで、却って傷口を広げてしまうことも出来る。
37しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。
これを彼らの冷たさ、罪深さ、イエスへの不信仰とは片付けられるでしょうか。この言葉に、
38イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。…
と続きます。37節の台詞にカチンときて憤った、のであれば33節の憤りはどうなるでしょう。イエスが憤り、心を騒がせ、涙を流されたのは、死や死別に行きつくまでの、神から離れた罪と悲惨のすべてを想ってのことでしょう。
最初の人、アダムとエバは主とともにいました。園の中央にある善悪の木の実を食べてはならない、食べたら死ぬ、と言われました。蛇に「食べても死なない」と唆されて人はそれを食べてしまい、以来、人は死ぬものとなりました。でも確かに彼らは直ぐには死にませんでした。肉体の死は直ぐではなかったのですが、死は直ぐ彼らに入って来たのでした。つまりいのちである主に怯えて隠れ、ごまかし、自分を正当化するために妻のせいにし始めた。
信じ、愛するより、疑い、突き放す。それは、神のいのちとは真逆の、死の状態です。いのちである神に愛されて、いのちの贈り物を授かる幸いを忘れて、いのちを値踏みして、優劣をつけ、ケチをつける。それが憎しみ合う仇(かたき)でなく、慰めようと来た仲でも絶望を超えることが出来ない、言うに事欠いて余計な言葉を言い、却ってマリアたちの心に塩を塗るようなことを言う。信じるに値する神を知らないことは、そういう冷たい言葉に現れます。それは、神から離れた人間の悲惨が拭いがたくある現れでしょう。
死を避けるため、医学は発展して平均寿命も伸びましたが、生きることが不安で、心を病んでいるのも現代です。更にその悲惨さにさえ慣れて「仕方が無い、諦めが悪い、自己責任だ、誰かのせいでは」などとますます息詰まることしか言えない。死ぬのも怖いけれど、生きるのもしんどい。堕落がもたらした罪と悲惨の根深さは、たとえ死がなくなっても何の解決にもなりません。その状況に――神を信じる喜びを忘れて、諦めて泣き、慰めの言葉より、嫌みを言ってしまう人間に、イエスは憤り、心を騒がせ、憚らずに涙を流して嘆くのです[vii]。そして、その根深い悲惨を癒さずにはおかない、イエスの涙なのです。
『罪と罰』という古典文学。私は読了を果たせず挫折した本ですが、あのテーマはラザロの復活だそうです。傲慢で殺人を犯した主人公と、貧しさのため売春婦として生きる女性。冷たい社会の底辺に生きる二人が最後に読むのが、このヨハネ11章です。人を殺めた後悔と、売春婦として生きざるを得ない悲しみを抱える二人が、ラザロの復活を読んで、イエスが自分たちを新しくしてくださる、力強い希望の物語として読まれているのです。
イエスの憤りと涙が見つめる深い人間の闇に気づかないと、私たちも37節のように言いかねません。
「ラザロを生き返らせた方は、今ここでも、あの人を/この人を生き返らせることは出来ないのか」。
そうではないのです。そんな言い草しかできない私たちの不信仰のためにこそ、イエスは憤り、涙されるのです。そして、ラザロを生き返らせた方が、私たちを今生かしてくださっているのです。ご自身を捧げてまで、永遠のいのちをくださったのです。だから例えどんな死に方をしたとしても、それを神の呪いや無力のように思う必要は無く、必ずよみがえることを信じる。
同時に、死の悲しみを無理に慰めたり意味づけたりする必要もありません[viii]。イエスの涙に慰められつつ、十分に泣けば良いのです。「こうだったら良かったのに」などという言葉で傷口に塩を塗るような言い方が染みついている私たちのただ中に来て、イエスは私たちの考えも、そこから出てくる言葉も変えてくださいます。ラザロをよみがえらせたイエスが、私たちのいのちをも死で終わるものでなく、永遠のいのちの始まりとしてくださいました。それが紛れもない現実だと示すのが、次回、イエスがラザロを復活させた記事なのです。
「涙を流された主よ。あなたが目にした、人の悲惨と罪、不信と死は私たちにも染みついています。私の言葉や思いはどれだけあなたを憤らせ、涙させているでしょう。あなたが私たちのために心を裂いてくださったからこそ、私たちはいのちを取り戻せるのです。どうぞ主よ、今、死を身近にしている者を格別に支えてください。同時に、私たち全ての思いを主の涙によって洗ってくださり、生かされていることの尊さと幸い、悲しみと望みとを新たにしてください」
[i] 憤りを覚える エンブリマオマイ(激しく感動した。口語訳)憤りによって揺り動かされる。「馬が鼻をぶるぶるっと鳴らして鼻嵐を吹いて怒る動作」 マタイ9章30節(すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。)、マルコ1章43節(イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。)、14章5節(この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。)、ヨハネ11章33節、38節。
[ii] 心を騒がせる タラッソー 5章7節(病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」)、11章33節、12章27節(「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。)、13章21節(イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」)、14章1節(「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。)、27節(わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。)。マタイ2章3節(これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。)、14章26節(イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。)、マルコ6章50節(みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。)、ルカ1章12節(これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。)、24章38節(そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。」。
[iii] マリアが泣いていた クライオー 11章31(マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った。)、33節(イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、)、16章20節(まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。)、20章11節(一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。)、13節(彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」)、15節(イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」)。また、ピリピ人への手紙3章18節(というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。)も。
[iv] イエスは涙を流された ダクリュオー 聖書ではここのみの言葉。ダクリュ(涙)は、聖書に10回出て来ますが、ヨハネの福音書にはなく、ヨハネの黙示録に2回使われています:ルカの福音書7章38節(そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。)、7章44節(それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。」、使徒の働き20章19節(私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。)、31節(ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。)、Ⅱコリント2章4節(私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。)、Ⅱテモテ1章4節(私はあなたの涙を覚えているので、あなたに会って喜びに満たされたいと切望しています。)、ヘブル5章7節(キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。)、12章17節(あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。)、ヨハネの黙示録7章17節(御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」)、21章4節(神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」)
[v] ἐδάκρυσεν ὁ Ἰησοῦς
[vi] ルカ19章41節(エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。)、ヘブル5章7節(キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。)
[vii] 「それはどういう憤りかというと、カルヴァンが言いますように、「イエスが彼らに同情したことは明らかである。…しかし、主イエスがもっと高い所を目ざしておられたということを、私は疑わない。すなわち、全人類の共通した悲惨と苦難とである」。ウォーフィールドの言葉で申しますならば、「イエスの御怒りの対象は、死と死の背後にあって死の力を持つ者であって、これを、イエスは滅ぼすために世にこられたのである。同情の涙も彼の目に溢れたかもしれないが、それはむしろ偶然のことである。・・・・・・このようにしてラザロの甦えりは、孤立した一つの奇跡なのではなくて、この物語全体で示されているように・・・・・・・・イエスが死と地獄に対して打ち勝ち給うた決定的瞬間であり、それの明らかな象徴となっている」と、言っています。」榊原康夫、351ページ
[viii] イエスは堕落のもたらした悲惨の極みである死別の辛さも、包み隠さずご存じで、泣いてはいけないなどと言うよりも、ご自身が涙を拭わず流しました。