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2023/8/20 ヨハネの福音書10章1-6節「彼の声を知っているから」

「まことに、まことに」

と今日の1節は始まります。新約聖書の原語では

「アーメン、アーメン」

です。ヨハネの福音書だけの言い回しで25回も繰り返されます[i]。そしていつも会話の途中で使われる言い回しです。前回お話ししたように9章からの流れで途切れずに今日の箇所が語られます。9章最後の41節から、10章の1節までを続けて読んでみましょう。

九41…「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。十1まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。…

「あなたがた」とは9章のパリサイ人、当時の社会の責任者・指導者たちです。イエスはその彼らに

「盗人であり強盗」

という言葉をぶつけます。羊にも、牧者だけでなく、泥棒・強盗がいる、と語られて、彼らが

「見える」

と言い張る罪を、「比喩」で具体化されるのです。

聖書には羊がよく出てきます[ii]。イスラエルの地域に羊は身近で欠かせない家畜でした。羊毛を取って敷物や天幕を作るためです。(肉を食べることは滅多になく、年に数回の御馳走でした。)羊たちを昼は水辺や草地に連れて行き、夜は囲いに連れ帰る――その日常で年に数度、羊の毛を刈る。それが牧羊の暮らしだったのです[iii]。大切な羊を守るため、

「羊の囲い」

は石を積み上げた頑丈なもので、上には敵が簡単に入れないよう、茨を敷いていたそうです。羊の群れを守ることは非常に重要でした。そこで、イスラエルや周辺の国々は、自分たちを羊の群れに準(なぞら)え、王や神を牧者(羊飼い)と呼ぶことがありました[iv]。また、ここと同じ言葉がエペソ書4章10節で「牧師」と訳され、欄外注には「牧者」と注意書きされています。教会を「羊の群れ」、その指導者は「牧者」つまり「牧師」と呼ぶのはそういう背景があります。だからこそ、ここでイエスが、イスラエルの民の指導者たちに、盗人・強盗の話をしたのは、実に大胆な批判でした。指導者だ、自分たちは見えている、分かっている、そう自負しているが見えていない、罪が残る。羊には牧者ならぬ、盗人や強盗もいるではないか、と語るのですね。続けて、

 2しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。

後の7節9節ではイエスは

「わたしは羊の門です」

と言われ、11節では

「わたしは良い牧者です」

と言われますが、それをこの2節に読み込むとかえって分からなくなります。「良い牧者」には定冠詞がありませんから、一般的に真っ当な「牧者」のことです[v]

 3門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。

これは今でも見る光景だそうで[vi]、羊飼いが独特な声で羊を呼ぶと、羊は自分の牧者だと分かってメェメェ集まって来る。他の人が真似をしても見向きもしないそうです。また羊飼いは、羊にそれぞれ名前をつけて、その名を呼ぶと羊はついて来る。これも他の人には真似できない、羊飼いとその羊ならではの信頼関係です。そうして、牧者は羊たちを一匹一匹呼び出すのです。

 4羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。

牧者が先頭に立つのは、イスラエルの地形が「長閑(のどか)な牧草地」でなく、ゴツゴツと荒れた危険な岩地だからです。牧者が先に歩いて、道の安全を確かめながら、羊たちを導くのです。決して「俺についてこい」とズンズン先に進むのを、羊たちは必死について行く、という絵ではありません。「俺様タイプ」は牧者ではなく、盗人で強盗です。羊たちを気に掛け、その名を呼び、養うことは二の次…それは、羊泥棒であり、羊も嫌がるのです。

 5しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。

盗人や強盗は、ついて来ない羊に逃げられっ放しではなく、力づくで捕まえたり、鞭で脅したり、巧みに騙して言う事を聞かせようとするでしょう。3節の

「呼ぶ」

と、9章18節、24節の

「呼び出す」

は同じ言葉です。彼らはなるほどあの人の親や本人を呼び出しました[vii]。しかしそれは、羊飼いが自分の羊を呼び、羊たちもその声で自分の牧者だと分かって喜んでついて来る関係とは全く違います。羊を危険に合わせないよう自ら先頭に立つという態度もありません。脅したり追い出したり罪人呼ばわりし、支配しようとするだけで、牧者が羊を呼び羊が喜んでその声についていく姿を忘れています。そして、こう言われても、彼らは見えません。

 6イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。

これは、この個所だけの話ではありません。この背景には、エゼキエル書34章があります[viii]。イスラエルの為政者、祭司たちが私腹を肥やして民を踏みにじっていると厳しく批判されます。新約聖書でも、使徒の働き20章や[ix]ヨハネの手紙第三に[x]、牧師が羊を愛するより、自分を満たすために、その職権を乱用している悲しい姿が登場します。また現代でも、カルト化した宗教の上手な勧誘で大勢が信者になっていますし、教会が羊たちを養わずに、献身を求めることもあるのです。その教会もみことばを語り、教理が異端だと非難はされません。でもその心にあるのは自尊心とか支配欲です。聖書の言葉さえ用いて、従わせようとするでしょう。彼らが羊を呼ぶのは自分のためです。人を人間扱いしないと、番号で呼んだり、勝手に名付けたり、「おい」や「おまえ」呼ばわりします[xi]。羊は怖いから従うだけで、心のどこかで「何かおかしい」と感じている。「出来ればついて行きたくない、隙あらば逃げ出したい[xii]」が本心です。羊飼いの呼び声は違います。羊をよく知り、愛おしむ声です。だから、羊もついて行くのです。

キリスト者の霊性を深めるためのセミナーで、「夫が妻の名前を呼ぶ」という課題が出されました。夫は妻の背中に向かって名前を呼ぶ。妻は、本当に自分が呼ばれたと思うまで振り向かないというルールです。ある名の知れた牧師夫妻も取り組みました。長年連れ添って一緒に仕えてきた二人です。簡単だと思って始めたら、夫が妻を呼んでも、なかなか妻は振り向かない。汗びっしょりになり、20分ほどして、ようやく妻が振り向いた時、妻は涙を流しながら「私は結婚して初めて、あなたに私を呼んでもらえました」と言ったそうです。私が呼ばれた。「〇〇先生の奥さん」や「〇〇ちゃんのお母さん」、色んな肩書でない、用事を言いつけるための指名でもなく、私、この私を呼ぶ声を聞く。私たちはそうやって生きていける羊です。

私たちが、名前で呼ばれるべき羊であることをイエスはご存じです[xiii]。同時に、肩書や用事を抜きに、本当に名前で呼び合うことが麻痺している現実もイエスはご存じです。ですから、私たちは注意深く、心を開いて、盗人の脅しめいた声にも、甘い囁きにも注意しながら、じっくりと時間をかけて、主の声を聞き分け、互いに名を呼び合うことをも求めたいのです[xiv]

この福音書の最後、21章でイエスはペテロに

「わたしの子羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」

と命じます[xv]。牧者であるイエスは、ペテロやヨハネ、教会の牧師・長老、親や責任者、年配の指導者――置かれた様々な場所、立場で、預かった人々を牧者のように養い、導き、生かすよう言われます[xvi]。この方に呼ばれる喜びが生涯かけて私たちの中に育ち、そして、私たちが他者を、見下したり物扱いしたりせず、その名前を呼ぶ。肩書でなく、用事のため、自分のためでもなくて、本当にその人をその人として呼ぶような、そういう私たちに変えられるよう、イエスは私たちの目を開いてくださるのです。

「主よ、私たちの目を開いてください。主の羊の群れであることが見えず、それでも『見える』と言い張る罪から、羊飼いなるあなたの眼差しをお与えください。自分の名が呼ばれる喜びにより導かれていく群れとしてください。恐れや野心、いのちならざる思いによって動かされ、また人を動かそうとする誘惑から、救い出してください。あなたに呼ばれる喜びを求め、聞かせてください。そうして、私たちが喜びをもって互いに名を呼び合うことが出来ますように。」

[i] ヨハネの福音書1章51節(そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」)、3章3節(イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」)、5節(イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。)、11節(まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。)、5章19節(イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。)、24~25節(まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。25節まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。)、6章26節(イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。)、32節(それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。)、47節(まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。)、53節(イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。)、8章34節(イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。)、51節(まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」)、58節(イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」)、10章1節(「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。)、7節(そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。)、12章24節(まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。)、13章16節(まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。)、20~21節(まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」21イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」)、38節(イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」)、14章12節(まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。)、16章20節(まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。)、23節(その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。)、21章18節(まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」

[ii]牧者() マタイの福音書9章36節(また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。)、25章32節(そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、)、26章31節(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。)、マルコの福音書6章34節(イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。)、14章27節(イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。」)、ルカの福音書2章8節(さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。)、15節(御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」)、17~18節(それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。18聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。)、20節(羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。)、ヨハネの福音書10章2~4節(しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。3門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。4羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。)、11~12節(わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。12牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。)、14節(わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。)、16節(わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。)、エペソ4章11節(こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師[欄外:「または「牧者」」]また教師としてお立てになりました。)、ヘブル人への手紙13章20節(永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、)、ペテロの手紙第一2章25節(あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。)

[iii] つい人に話したくなる 聖書考古学 第10回 羊飼いは蔑まれていた!? 月刊『いのちのことば』2013年8月号 https://www.wlpm.or.jp/inokoto/2016/04/26/%E3%81%A4%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%AB%E8%A9%B1%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%80%E8%81%96%E6%9B%B8%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6-%E7%AC%AC10%E5%9B%9E-%E7%BE%8A%E9%A3%BC%E3%81%84/

[iv] 詩篇28章9節(どうか御民を救ってください。 あなたのゆずりの民を祝福してください。 どうか彼らの羊飼いとなって いつまでも彼らを携え導いてください。)、80篇1節(イスラエルの牧者よ 聞いてください。 ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ 光を放ってください。 ケルビムの上に座しておられる方よ。)、イザヤ書40章11節(主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。)、44章28節(キュロスについては『彼はわたしの牧者。わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。エルサレムについては『再建される。神殿はその基が据えられる』と言う。」)、エゼキエル書37章24節(わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただ一人の牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしの掟を守り行う。)、など。

[v] 勿論、究極的にはイエスこそが私たちの牧者、一人一人の良い牧者なる唯一のお方ですが、ここはその手前での教えです。

[vi] Youtubeでも動画が公開されています。たとえば、https://www.youtube.com/watch?v=sIn2CnTUCb0

[vii] 9章18節と24節の「呼び出し」と、10章3節「呼んで」は、同じギリシャ語フォーネオーです:1章48節(ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」)、2章9節(宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、)、4章16節(イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」)、9章18節(ユダヤ人たちはこの人について、目が見えなかったのに見えるようになったことを信じず、ついには、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、)、24節(そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」)、11章28節(マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」)、12章17節(さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証しし続けていた。)、13章13節(あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。)、38節(イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」)、18章27節(ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。)、33節(そこで、ピラトは再び総督官邸に入り、イエスを呼んで言った。「あなたはユダヤ人の王なのか。」)

[viii] 次のような主のことばが私にあった。2「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、牧者である彼らに言え。『神である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。3あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。4弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。5彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた。6わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者もなく、捜す者もない。7それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。8わたしは生きている──神である主のことば──。わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないために、あらゆる野の獣の餌食となってきた。それなのに、わたしの牧者たちはわたしの羊を捜し求めず、かえって自分自身を養って、わたしの羊を養ってこなかった。9それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。10神である主はこう言う。わたしは牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。もはや牧者たちが自分自身を養うことはなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。』」11まことに、神である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。12牧者が、散らされた羊の群れのただ中にいるときに、その群れの羊を確かめるように、わたしはわたしの羊を確かめ、雲と暗黒の日に散らされたすべての場所から彼らを救い出す。13わたしは諸国の民の中から彼らを導き出し、国々から彼らを集め、彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその地のすべての居住地で彼らを養う。1 わたしは良い牧草地で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らの牧場となる。彼らはその良い牧場に伏し、イスラエルの山々の肥えた牧草地で養われる。15わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる──神である主のことば──。16わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。17 わたしの群れよ。あなたがたについて、神である主はこう言う。見よ、わたしは羊と羊、雄羊と雄やぎの間をさばく。18あなたがたは良い牧草地で草を食べていながら、それでも足りないのか。その牧草地の残りを足で踏み荒らすとは。澄んだ水を飲みながら、その残りを足で濁すとは。19わたしの群れは、あなたがたの足が踏み荒らした草を食べ、あなたがたの足が濁した水を飲んでいる。」20それゆえ、神である主は彼らにこう言われる。「見よ、わたし自身が、肥えた羊と痩せた羊との間をさばく。21あなたがたが脇腹と肩で押しのけ、その角ですべての弱いものを突き倒し、ついに彼らを外に追い散らしてしまったので、22 わたしはわたしの群れを救い、彼らが再び餌食とならないようにする。そして、わたしは羊と羊の間をさばく。23わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる。24主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしは主である。わたしが語る。25わたしは彼らと平和の契約を結び、悪い獣をその地から取り除く。彼らは安らかに荒野に住み、森の中で眠る。26わたしは、彼らにも、わたしの丘の周りにも祝福を与え、時にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。27野の木は実を実らせ、地は産物を生じ、彼らは心安らかに自分たちの土地にいるようになる。わたしが彼らのくびきの横木を砕き、彼らを奴隷にした者たちの手から救い出すとき、彼らは、わたしが主であることを知る。28彼らは二度と国々の餌食とならず、その地の獣も彼らを食い殺さない。彼らは安らかに住み、もう彼らを脅かす者はいない。29わたしは彼らのために立派な耕作地を開く。彼らは、再びその地で飢饉にあうこともなく、再び国々の侮辱を受けることもない。30このとき彼らは、わたしが、彼らとともにいる彼らの神、主であり、彼らイスラエルの家がわたしの民であることを知る──神である主のことば──。31あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人間で、わたしはあなたがたの神である──神である主のことば。」

[ix] 使徒の働き20章28~30節:あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。29私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。30また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。

[x] ヨハネの手紙第三9~10:私は教会に少しばかり書き送りましたが、彼らの中でかしらになりたがっているディオテレペスが、私たちを受け入れません。10ですから、私が行ったなら、彼のしている行為を指摘するつもりです。彼は意地悪なことばで私たちをののしっています。それでも満足せず、兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。

[xi] しかし、先の癒された人の親が、指導者の命令に恐れたように、羊があまりに長い間、羊飼いの声を聞くことがなく、牧者ならざる声ばかりを聞かされていたらどうでしょう。その方に慣れてしまい、羊飼いの声を聴いてもピンと来ないというのも当然でしょう。イエスの声(みことば)を聞きさえすれば従うはず、従わなければ、という杓子定規でこの個所を振り翳してしまうなら、それもまた、羊飼いの声には到底聞こえず、出来れば逃げ出したいと思われるのも無理はないのでしょう。羊飼いの声に聴き従うことを羊の義務とするのはこの個所の本意ではありません。羊の側に立って福音書が教えるのは、牧者である神に従う義務、以上に、神が牧者となって羊を呼び、探し、必ず見つけ出してくださる、という恵みです。

[xii]逃げる フューゴー ヨハネでここに三回。マタイの福音書2章13節(彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」)、3章7節(ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。)、8章33節(飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれていた人たちのことなどを残らず知らせた。)、10章23節(一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。)、23章33節(蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。)、24章16節(ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。)、26章56節(しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。)、マルコの福音書5章14節(豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。)13章14節(『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。)、14章50節(皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。)、14章52節(すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。)、16章8節(彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。)、ルカの福音書3章7節(ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。)、8章34節(飼っていた人たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や里でこのことを伝えた。)、21章21節(そのとき、ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。都の中にいる人たちはそこから出て行きなさい。田舎にいる人たちは都に入ってはいけません。)、ヨハネの福音書10章5節(しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」)、12~13節(牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。13彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。)、他。

[xiii] イザヤ書43章1節(だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。)、45章3節(わたしは秘められている財宝と、ひそかなところに隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。)、49章1節(島々よ、私に聞け。遠い国々の民よ、耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいたときから私の名を呼ばれた。)も。

[xiv] 余談になりますが、私たちは、名前に敏感でいることが必要です。レベッカ・ソルニット『それを真の名で呼ぶならば』https://bookmeter.com/books/14999195 をぜひご一読ください!

[xv] そのときも先立って、イエスはペテロの名前を三度、呼ばれていました。イエスを知らないと三度裏切ったペテロにとって、自分の名前を呼ぶイエスの声は、どんな深い響きを持っていた事でしょうか。

[xvi] 羊は牧者の声を知り、その名を呼ばれて喜んでついていき、生かされ、養われる。大規模農場の工場化された家畜のように扱われてはならないのです。勿論、「家畜」だって大切に扱われることが必要です。箴言12章10節:正しい人は、自分の家畜のいのちを知っている。悪しき者は、そのあわれみさえ残忍である。