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2023/8/13 ヨハネの福音書9章35-41節「見えると言っているのですから」

九章の最後になります。お気づきかもしれません、次の十章との間に切れ目はありません。章の区分がなかったなら、スーッと続けて読み進めたろう、そういう流れです[i]。目が見えるようになった人はもう登場しませんが、彼に現された神のわざは鮮明に説き明かされます。10章1節に「羊たちの囲いに、門から入らず」という言葉が見えます。イエスがご自分を羊たちの門、よい牧者だ、羊を守るためご自身が門やいのちを惜しまない方だとして語る章です。それは9章で、あの人が宮から追い出された、という34節。そして、35節で、

35イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

この繋がりがあります。パリサイ人たち、イエスの時代の宗教の権威たち、引いては、ヨハネの福音書が書かれた時代のユダヤ人社会で、庶民を押さえつけ、従わせて、最後には追い出すことも厭わなかった指導者たち。彼らは、庶民に耳を傾けたり、その回復を喜んだりするよりも、自分たちの権威や保身が大事になっていたのでしょうか。その彼の追い出されたことを聞いて、イエスは彼を見つけ出すのです。因みに、彼が追放されたことをどうにか聞くまでも時間があったろうし、追い出したパリサイ人が40節でイエスの側にいてこの話を聞いている、というのも直後とは考えにくいとも言います。イエスがこの人を見つけたのも、超能力で見つけたわけでなく、一人の人として目や耳や足を使って見つけたのでしょう。

この言葉はルカが40回も使う言葉で[ii]、特にルカ15章の、迷子になった一匹の羊を見つけるまで捜し歩き、なくなった銀貨一枚を見つけるまで家中ひっくり返し大掃除して捜し、家を飛び出した弟息子がボロボロで帰って来た時、父親はまだ遠くにいる弟息子を見つけた、という言葉です[iii]。ヨハネもこの言葉を使います[iv]。まさしくイエスはこの人を見つけ出してくださいました。

そしてそこにあるのは「信じる」関係です。18節でユダヤ人たちは、彼の正直な証言を信じませんでした。信じないで、最後には追い出しました。宗教のトップから追い出される、ということは、神から破門を宣告されたも同然です。しかし神の子イエスはその彼を追いかけ見つけ出して、「あなたは人の子を信じますか」と声をかける。「人の子」とはメシア(キリスト)神が遣わすと約束していた救い主、王なる方のことで、旧約の預言者ダニエルが見た幻に基づいて、新約聖書で100回以上使われる言い方です[v]。イエスは見つけたこの人に、メシアを信じるかを尋ねます[vi]。それはパリサイ人が彼を信じず、彼が神を信じる関係を無効だと追い出したとしても、なお彼にはキリストを、ひいては神を信じる関係はある、ということです。イエスが彼を見つけてくれました。それは、羊飼いが一匹の羊が迷子であれば、その羊を見つけるため、探す手間を厭わないから――自分の羊として無条件に大事にしてやまないからです。

ところでイエスは彼に、目を癒したイエスだと名乗ったとはありませんが、彼は声を聴いただけで分かったのでしょう[vii]。それでもまだ、イエスがキリストであるとは知りませんし、イエスを見て、その神々しさに打たれて、この方こそメシアだ、と思ったりはしません。

36その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」37イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」38彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。

この時初めて、彼はイエスを信じる。まだ、イエスの十字架も復活も知りません。罪の赦しと永遠のいのち、という光も知りません。ただ彼が知っていたのは、神が遣わすと約束されたメシアがいることと、そのメシアが自分の見えない目を見えるようにしてくれたイエスだということです。メシアが誰か分かれば信じたいと思っていたのが、実は既に自分に会ってくれて、自分に触れてくれていた、ということです。ここにある

「その人を見ています」

は、「見る力がある」よりも「もう見ている」の見るです[viii]。彼がイエスこそ人の子だと知り信じる前に、既にイエスを見ていた、恵みを注いでくれていた、そう知ってイエスを心から信じた。順番は、私が信じたら主が良いことを報いる、ではなく、主が先にいのちを与え、将来を約束し、今も恵みに与らせてくださる、だからそういう方と知って、私が信じる――これです。アブラハムもノアも、神が恵みを語り、それを彼らが信じた、という順番です[ix]。始まりはいつも神。

この時、彼の目の前にいたイエスは、パリサイ人や大祭司のように黄金の宮に相応しい、煌びやかな衣装や威厳ある雰囲気とは無縁で、むしろ物乞いだった彼と大差なかったでしょう。だからこそ彼は、本当に自分に近く、先に寄り添ってくれていた事実に打たれて、礼拝した(直訳:平伏した)のでしょうか[x]。それは、この人の信仰深さとか謙遜とかより、偏(ひとえ)にイエスが彼を見つけて、彼に差し出し、導き、引き出してくださった信仰の始まりです。

39…「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」40パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」41イエスは彼らに言った。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」

イエスが目の見えない人の目を開かれた後のストーリーのエッセンスがここにあります。私たちは見える、と自負していた指導者たちは、イエスがなさった癒しを見ても見まいとして、罪に留まりました。むしろ盲目であって、自分は見えないことを自覚できていたら、神のみわざを見ることも出来たのです。「私たちは見える(見えている、知っている)」、そう自負するところに罪は残る[xi]。こう言い張るよりは、目が見えなくなった方が遥かに救いに近い[xii]

そして、この続きで10章の、羊と牧者の譬えへと展開していくのです。その内容は、来週からまた詳しく見ていくことにして、一つだけ今日の箇所を心に留めるために触れておきます。それは、羊の視力です。

羊には目がありますし、盲目ではないし、「羊は近眼」と言う説教もありますが、むしろ広い視野をもっていて後ろまで見えるそうです。しかし、奥行きを認識するのが苦手で、遠近が分からない。だから遠くのものに怯えたり、近くの穴に踏み込んで抜け出せなくなるらしい。見えないのではない、むしろ広く見えている。その見えている物の奥行や繋がり、距離感を早合点したり臆病になったりする。それが羊の特性なのです。その特性を克服しようとするのでしょうか。いいえ、その羊たちのために羊飼いがいるのです。羊たちに近づいて声をかけ、守って導いてくださるのです。特に、弱った羊や迷子になった羊を、羊飼いは決して見捨てずに捜して見つけて、豊かに生かしてくださる。そうイエスは語ります。

私たちも結構あれこれ見えています。沢山の情報を持っています。情報が多すぎて、整理しきれず、自分の偏った頭で、高を括ったり、疑心暗鬼になっています。そして、障害や困難や意見の違いを「罪」と引(ひ)っ括(く)るめがちです[xiii]。だからこそ、自分の目の限界を弁えて、イエスの言葉に耳を傾けるのです。

「私たちの目を開いてください」

と祈ることで「見えていたい」という重荷から解放されるのです。日々、です。羊の視力は羊のままです。だからいつも羊飼いの声に聴くことです。私たちも、祈って見えた気になるのではなく、いつも見えるようにと祈り続けるのです。主が見ておられるように、この事あの事を見ることが出来るように、とりわけ、弱さや迷い、自分が冷たく裁いてしまうことにこそ、主がそれをどう見ておられるかを見るようにされたい[xiv]。ひょっとすると、その人の方が見えていることもあるのだ、との謙りを持たされるでしょう。「見えるようにしてください」。これは私たちに贈られた祈りです[xv]

「世の光なる主よ、あなたこそ私たちの光です。あなたにあって初めて私たちは、世界を知り、自分をさえ知るのです[xvi]。私たちが見える、見えないに先立って、あなたが私たちを見つけてくださること、信じ、礼拝する関係を下さっています。主よ、私たちの目を開いてください。御霊を与え、心の目をはっきりと見えるようにし、あなたに与えられた望みを、約束のすばらしさを、私たちに働くあなたの力を知らせ、今ここでの生活を恵みの光で照らしてください」

 

[i] Keenerは、ここから10章18節までをひとまとまりとして見ています。

[ii] ヨハネは19回、ルカは45回使います。

[iii] ルカの福音書15章4~6節(あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。5見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、6家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。)、8~9節(また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。9見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。)、20節(こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」)

[iv] 「見つけ出して」ヒュリスコー 1章41節(彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った。)、43節(その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて、「わたしに従って来なさい」と言われた。)、45節(ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」)、2章14節(そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、)、5章14節(後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」)、6章25節(そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」)、7章34~36節(あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」35すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。36『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」)、9章35節(イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」)、10章9節(わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。)、11章17節(イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。)、12章14節(イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。)、18章38節(ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」こう言ってから、再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私はあの人に何の罪も認めない。)、19章4節(ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」)、6節(祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」)、21章6節(イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。)。

 

[v] ダニエル7章13~14節:私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。14この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

[vi] 「人の子」は、ヨハネで17回:1章51節(そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」)、3章13~14節(だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。14モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」)、5章27節(また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。)、6章27節(なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

6章53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

6章62 それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。

8章28 そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。

9章35 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

12章23 すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。

12章34 そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」

13章31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。

13章32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。

[vii] これは、彼にとってイエスとの二度目の出会いであり、その目で見たのは初めての出会いでした。目に泥を塗って「シロアムの池に行って洗いなさい」と仰ったきり、姿を消していたイエスが、彼を見つけてくれます。二度目の出会いは、イエスご自身が捜してくださったものでした。

[viii] 「見る」ホラオー ヨハネ1章18節(いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。)、33~34節(私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』34私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」)、39節(イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。)、3章3節(イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」)、11節(まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。)、32節(この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。)、4章29節(「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」)、45節(それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。)、48節(イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」)、5章6節(イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」)、37節(また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。)、6章2節(大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。)、14節(人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。)、22節()、30節(それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。)、36節(しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。)、46節(父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。)、8章38節(わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています。」)、56~57節(あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」57そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」)、9章37節(イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」)、11章31~32節(マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った。32マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」)、12章9節(すると、大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。)、21節()、40節(「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように。」)、14章7節(あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」)、9節(イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。)、15章24節(もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。)、19章26節(イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。)、35節(これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。)、20章18節(マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。)、20節(こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。)、25節(そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。)、29節(イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」)、21章21節(ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。)。

[ix] 創世記12章、出エジプト記3章。また、ホセア書11章4節( わたしは人間の綱、愛の絆で彼らを引いてきた。わたしは彼らにとってあごの口籠を外す者のようになり、彼らに手を伸ばして食べさせてきた。)も。また、パウロは第一回伝道旅行で、言葉も知らない遠い地に伝道に行った時も言いました。「神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」(使徒の働き14章16~17節)。

[x] 「礼拝した」プロスキュネオー ヨハネに11回:4章20~24節、9章38節、12章20節など。

[xi] 「残ります」メノー 「とどまる」「つながる」などと訳されて、ヨハネで41回出てくるキーワード。

[xii] 聖書には、この「見える」というところの危うさの指摘が多数あります。特に、箴言には以下の通り:箴言12章15節(愚か者には自分の歩みがまっすぐに見える。しかし、知恵のある者は忠告を聞き入れる。)、14章12節(人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。)、16章2節(人には自分の行いがみな純粋に見える。しかし、主は人の霊の値打ちを量られる。)、25節(人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。)、18章17節(最初に訴える者は、相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。)、21章2節(人には自分の歩みがみなまっすぐに見える。しかし、主は人の心を評価される。)、28章11節(富む者には自分が知恵のある者に見える。しかし、分別のある貧しい者は、彼を調べる。)

[xiii] イエスは、マタイ7章で「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と語る流れで、私たちが人をさばくという目の梁を取り除くとき、初めて人を助けることが出来る、と言われます。マタイの福音書7章5節:偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

[xiv] 「キリスト教は、苦しむ神を告白する唯一の世界宗教です。これはキリスト教徒の間でもそれほど人気のある考えではありません。私たちは苦しみを防いでくれる神を好みますが、それは私たちが得ている神ではありません。十字架が私たちに教えていることは、神の力は人間に選択を強制し、人間の痛みを終わらせる力ではないということです。 むしろ、遠くからではなく間近から、粉々になった破片を拾い上げ、そこから神聖なものを生み出す力なのです。」バーバラ・ブラウン・テイラー 苦しみの神  https://www.fourthchurch.org/sermons/2007/030407.html

[xv] エペソ人への手紙1章18節(また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、)、ヨハネの黙示録3章18節(わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。)

[xvi] 神が出会わせてくださる人は、私たちが「自分は分かっている」と思っている思い上がりを突き崩してくるような人々です。特に都市は、そこでの多文化な伝道、信徒の普段の生活で、このことを突きつけられます。ティム・ケラーはこのように書いています。「第2に、都市はあなたに似ていない人々を引き寄せる独特な力がある。互いに支え合うためにサブカルチャーとマイノリティーに属する人々が自然に集まる。元来,都市は弱者に対してあわれみ深く、独身者,貧困層移民、民族的少数者に安全な場所を提供してきた。都市に住む人々は,常に多様性の中に置かれ、自身の価値観や信念が問われ続ける。思考や実践に対する創造的で新しいアプローチを目の当たりにすると,人はそれまでの伝統的な方法や世界観を手放すか、以前よりさらに情熱を傾けるようになるかのいずれかである。繰り返しになるが、罪の影響によって都市は文化を形成する多様性という長所を失い,当初の目的を損なわせる場所となってしまった。こういった暗黒面に対抗するために福音が必要なのである。 このような挑戦に対して,クリスチャンはどのように対応していけばよいのだろうか。私たちは,福音によって対応するのである。では,福音は具体的にどのように恐れではなく,喜びを持ってこれらの挑戦に立ち向かうのを助けてくれるのだろうか。もちろん、私たちは都市に福音をもたらす。しかし,都市自体が私たちに福音をもたらすのである。都市は私たちに新しい方法で福音の力を発見するようにと挑んでくる。例えば,都市で、霊的にも道徳的にも絶望的と思えるような人々に出会うだろう。「あの人たちは絶対キリストを信じないだろう」と思うことがあるかもしれない。しかしそのような考え自体が何かを明らかにしている。もし、救いが本当に自分の善行や実績ではなく、恵みのみによって与えられるのなら、どうして自分以外の誰かをクリスチャンにはなりそうにないなどと考えることができるだろうか。この自分が救われたのなら、誰が救われてもおかしくないのではないだろうか。私たちは都市で、実は自分が一方的な恵みを信じていないことに、はたと気づかされる。救われるのは、自分のような善良な人々であるという考えがあることに否が応でも向き合わされるのである。 都市において,私たちは自分よりもはるかに知恵深く親切で配慮に満ちた他の宗教を信仰している人たちや無宗教の人たちに出会う。それは,私たちが恵みによって成長しているとしても,私たちの多くはクリスチャンではない人々よりも弱いからである。もしこの事実に驚かされることがあれば、しばらく思い巡らしてほしい。恵みの福音が真理なら,なぜクリスチャンがノンクリスチャンよりも人として優れているなどと考えられるだろうか。一般恩恵の生きた見本を前にすることで,私たちは信仰のみによる義認を教理として頭では理解しているが,実際には救いは善行と行いによると考え続けていることに気づかされる。 リディーマー教会の開拓初期にクリスチャンが都市に同情を感じるのは見当違いであり,自分たちを都市の「救い主」と考えるのは有害だと気づかされた。謙虚になり,都市とそこに住む人々に敬意をもつことを学ばされた。彼らとの間に意識的な相互関係を築かなければならなかった。彼らの人生の内にある神の一般恩恵を積極的に見出さなければならなかった。彼らには私たちが必要だったが,同じように私たちも神とその恵みについて理解するためには,彼らの存在が必要だったのだ。」、ティム・ケラー『センタリングチャーチ』278~279頁。