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2023/7/16 ヨハネの福音書9章1-12節「神のわざが現れるため」

7節の「シロアムの池」とは都エルサレムにある池です[i]。イエス一行がエルサレムの街中を静かに歩いていた時です[ii]。通りすがりに、生まれつき目の見えない人がいました。8節に「物乞いであった」とありますから、人通りの多い道で座っていたのでしょう。

 2弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

生まれつき目が見えないなんて、きっと誰か罪を犯した報いに違いない、というのです[iii]。なんて残酷な言葉でしょう。しかしこれが、弟子たちのみならず当時のユダヤ教の考えでした。いや二一世紀の今でも溢れている、残酷で非現実的で、差別や多くの悲劇を引き起こす迷信です。先天的な障害や、「普通でない」病気や異常は何かの祟りや原因があるに違いない、という。この考えはイエスの弟子にも染みついていました。この問いに、イエスは答えます。3節、

この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。

この人に神のわざが現れるため[iv]。原因探しではなく目的志向です。過去に説明を求めるのでなく、これからに意味を確信させます。教会の歴史二千年、この言葉で救われた人がどれほど多いでしょう。障害や災難、ハンセン病、理不尽な目にあっただけでも辛いのに、更に「何か理由があるのだ」と決めつける言葉で苦しんできた方々が、このイエスの言葉で恨みや諦めの闇から、意味と希望の光を見て、人生が変わった。そのような証しが多くあります。その方々の殆どは、病気や災厄が癒されたわけではありません。「神のわざが現れるため」とは癒しや奇蹟を体験することとは別のことが多いのです。イエスは以前、こう言っていました。

「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(6章29節)[v]

イエスを信じること、信頼すること。もっと言えば、生まれつき障害のある自分など罪の報いを背負っているのだ、などという人間の捏ち上げを信じることを止めて、障害や自分の丸ごとを通してイエスを信じて喜んで生きること。それが神のわざです。イエスの言葉も続きます。

 4わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」

イエスはここで「わたしは」でなく

「わたしたちは」

と仰います。「この生まれつきの障害も、何か神のわざが現れるためだ」から、ただ待っていればいい、と受け身ではないのです。

「なければならない」

は、道徳的な義務として「しなければだめだ」というよりも「必ずすることになっている」「することが必然だ」という意味です。必ず神のわざを行うことになっている。それを先延ばしには出来ません。昼のうちに、出来る時にするのです。やがて夜が誰にも来ます。イエスもご自分の使命が完了する時を常に見つめていました[vi]。イエスの前触れをして大きな活躍をした洗礼者ヨハネも、自分の働きの終わりを悟り、それを静かに迎えました[vii]。弟子のペテロは、やがて若い時のようには動けなくなる時が来ることを言われました[viii]。私たちは、自分に与えられた昼の時を、イエスを遣わした神のわざを行うために生きるのです。

 6イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。

どういう意味なのでしょう。他にも唾を使って癒されたことは二度あります[ix]。口から出る唾は言葉の象徴なのでしょうか。それともⅡ列王記5章のナアマンがあえて汚いヨルダン川で体を洗えと言われたようなチャレンジでしょうか[x]。或いは、泥を造ったのは、創世記二章で神が人を

「大地のちりから作られた」

とあるのと重ねるでしょうか[xi]。実に神は、無から世界を作り、塵から人間を作られる創造主。そして目の見えない物乞いを神のわざとする方です。

しかし、それは「癒されて良かったね」と受け入れられる続きにはなりません。この後、近所の人たちは彼が癒されたことを疑い、13節以下では宗教者のパリサイ人たちが彼を尋問してイエスに癒されたことを何とかして否定させようとします。その上、18節からは両親が呼び出されると、両親も事を荒立てるのを嫌って逃げ腰になるのです。

一方、見えるようになったあの人は、そんな扱いを受けながらも、単純にイエスを信じます。12節ではイエスがどこにいるか

「知りません」

と言ったのが、17節で

「あの方は預言者です」

とキッパリ言い、33節では

「あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです」

と告白し、それで追い出されてしまいますが怯みません。38節で

「主よ、信じます」

と告白するのです。体の目が見えるようになった、以上の逞しさを見せてくれます。そして、むしろその彼の信仰に人々が怯むのです。不幸の原因は罪だと片付けて押さえつけておきたい、何かあればその原因を論って、自分たちは安全だと思っておきたい…そういう心理が人には――私たちにはあります。そこに来られたイエスが、罪を犯したからではない、神のわざが現されるためですと言われて癒されたこの人の癒し、喜び、イエスへの確信は、人々をざわつかせます。うるさがります。イエスが現された神のわざは、自分たちは見えていると思っていたい人々の目の暗さ、神のあわれみを軽んじている心の闇の深さを浮き彫りにします。

どうしてこの人は病気で生まれたのか、なぜあの人は交通事故や大病に見舞われたのか。悲しいことに今も多くの人が先天性の病気、貧困や家庭環境、紛争地のような場所に生まれ、そのため短い命で亡くなっています。

世界では、先天性の視覚障害児は、毎年50万人が生まれていると言います。
視覚障害だけでなく、何らかの先天性の障害は、日本の新生児の3~5%にあります。
世界の疾病・貧困・社会的なギャップは、医学的な疾病ではなく、環境的な因子により、6人に一人の子どもが、極度に貧困で危険な生活を強いられています。

神を忘れて、自分たちの見える世界だけを考えて、自分には好ましくない障害・病気・悲惨を見たら、きっと本人か親が悪いのだ、と思いたがる――そんな目は神のいのちが全く見えていません。でも、そこで説明を求めることをイエスは止めさせ、「この事を通して現される神のわざ――いのちをもたらすわざ、生き生きとしたいのちをもたらす神のわざがある」と見させます。

人が不幸、呪い、可哀想、と言うことを通して、それを通して初めて現されるみわざ、神のいのちを見せてくださいます。何かを自分のせいだと責めたり、親を恨んだりする苦しみをイエスは終わらせました。生まれつきの環境や病気で死に行くこども、大勢の難民の一人、通り過ぎられていくたった一人の孤独死などでさえ、理由付けしたり統計の一人にせずに、そこに現されるべき神のわざを求めるのです。そのいのちのために涙して、友として丁寧に葬ろうとするのです。その時、既に亡くなった人のいのちが、誰かの生き方にいのちを吹き込むことさえあります。それは、人の押しつける道徳やそれを誇るプライドを崩してしまう程の変化をもたらします。そこにも神のわざを見る目を戴くのです。

5歳未満児死亡率は、2000年時点では1,000人の出生あたり71.2から、2019年には37.1に減少し、新生児死亡率も同様に2000年の28.0から、2019年には17.9に低下しています。https://sndj-web.jp/news/001513.php

イエスは人の痛みを、神のわざという光の中に置かれました。たとえ自分の罪が招いた結果であっても、その闇からイエスは立ち上がらせてくださり、深い回復を与えてくださいます。

想像してみてください。あなたの家庭、誰かとの会話や世界のニュース、聖書を読んでいて、痛ましい事実を目にした時、「可哀想に」と言いつつ問題の原因を捜すことを止めて、「この人に現される神のわざがある」と信じて、そこにおられるイエスを見ようとするようになったらどうでしょう[xii]。そしてそのみわざのため、何がこの人に必要だろう、最善の回復や癒しになるだろう、私に何が出来るだろう…、そんな風に私たちがまずなれたら、それはまさに神のわざです。いのちを愛おしまれる神が、見えなくても働いています[xiii]。自分たちの毎日の雑多な営みも、決して無意味や無駄ではなく、神のわざを現す尊い営みなのです[xiv]。やがて夜が来るまで、与えられた光の中で、主イエスを遣わされた神のわざをするのです。

祈りの後、讃美歌495番「イエスよこのみを」を歌います。盲目の讃美歌作者ファニー・クロスビーの作品です。

「造り主であり、癒し主なる神様。私たちの目を開いてください。見えないのに見えていると思い上がり、あなたの慈しみ深い働きを忘れていました。私たちにもあなたのみわざを現してください。冷たく無慈悲な、あなたを信じない考え方から強いてでも救い出し、あなたの謙りと憐れみに思いも心も近づけてください。私たちをあなたのみわざとし、すべての人が神のわざを現す尊い一人一人だと見る、主イエスの目を与えて、私たちを日々新しくしてください」

[i] 参照、Rettrip「キリストの奇跡スポット!「シロアムの池」の見所とエルサレムの歴史」https://rtrp.jp/articles/83007/ など。

[ii] これは果たしていつのことでしょうか? 8章59節からの続きで、身を隠した後、逃げている途中で「通りすがり」と読むこともできます。また、10章22節の「宮きよめの祭り」とあるのがクリスマス頃ですから、7章8章の「仮庵の祭り」(9月中旬~10月中旬)から2~3ヶ月が経っています。その間の(10月から12月までの)どこかだとも推測できます。しかし、いずれにせよ、イエスに対する危険が強まっている中でのこと。のんびりと歩いていたわけではなく、身を隠しながらの時期です。

[iii] 「罪を犯した」ハマルタノー ヨハネで四回。5章14節(後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」)、8章11節(彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕)と、この9章2、3節(弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」3イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。)。

[iv] 現れるファネロオー 1章31節(私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」)、2章11節(イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。)、3章21節(しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。)、7章4節(自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」)、9章3節(イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。)、17章6節(あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。)、21章1節(その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された現された次第はこうであった。)、14節(イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。)

[v] 「神のわざ」6章28-29節(すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」29イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」)、10章25節(イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、)、32節(イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」)、37節(もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。)、17章4節(わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。)。

[vi] ヨハネの福音書2章4節(すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」)、7章6節(そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。)、8節(あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」)、12章23節(すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。)、他。

[vii] ヨハネの福音書3章26~30節:彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」27ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。28『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。29花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。30あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」

[viii] ヨハネの福音書21章18~19節:まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」19イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

[ix] つばを使った癒やしをイエスは二回。マルコ7章33節(7:33 そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。)、8章23節(イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれた。そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた。)。

[x] Ⅱ列王記列王記第二5章:アラムの王の軍の長ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。それは、主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。この人は勇士であったが、ツァラアトに冒されていた。2アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていた。2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていた。3彼女は女主人に言った。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」4そこで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。5アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王に宛てて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは、銀十タラントと金六千シェケルと晴れ着十着を持って出かけた。6彼はイスラエルの王宛ての次のような手紙を持って行った。「この手紙があなたに届きましたら、家臣のナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを治してくださいますように。」7イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の衣を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを治せと言う。しかし、考えてみよ。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」8神の人エリシャは、イスラエルの王が衣を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人を遣わして言った。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」9こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。10エリシャは、彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」11しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。12ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。13そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」14そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。15ナアマンはその一行の者すべてを連れて神の人のところに引き返して来て、彼の前に立って言った。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」

[xi] 創世記2章7節:神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

[xii] 「被同伴者の体験を、神が綴っておられる物語、神の民の物語という観点から見るならば、その体験は何を意味しているのでしょうか?その苦しみ、喜び、葛藤、解放は、神の物語の中で他者の人生と、神の民の歴史と、どうつながるのでしょうか?霊的同伴者は、被同伴者がそういったことを思い巡らし、振り返るのを助け、そのプロセスに寄り添います。」、中村佐知「魂をもてなすー霊的同伴への招待」25頁

[xiii] 7節でこの人をシロアムの池へと遣わした後、イエスは長く舞台から消えます。まるまる二ページ近く、35節まで姿が見えません。今も私たちはイエスの姿や答えをハッキリと分からないことがあります。それがなぜかは分からないとしても、その間も神は働いています。

[xiv] ヘンリ・ナウエン「誰を責めることができようか? さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。――ヨハネ9.1~2人間のジレンマとの直面  生まれつき目の見えない人の境遇の責めは誰が負うのか、という問いに対し、イエスは答えました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3) 自分の、あるいは他の人におそった悲劇の責任は誰にあるのかと困惑し、私たちは多くのエネルギーを費やします。――両親、自分自身、移民局、ユダヤ人、ゲイ、黒人、原理主義者たち、あるいはカトリック教徒が悪いのではないのかと探します。私たちは、責めるべき相手を示すことができると、たとえ自分であっても奇妙な満足感を覚えます。それが、何らかの説明やすっきりした見方を提供してくれるからです。 しかしイエスは、自分を責めたり、他人を責めたりする問題解決をお許しになりません。彼が突きつけたチャレンジは、私たちの置かれた闇のただ中で、神の光を判別することです。イエスの目からすればすべてが、たとえ最も悲惨な出来事でさえも、神の業が現れる機会となりえます。 もし人を責めることを止め、私たちのただ中で働かれている神の業を伝えるのに専念したとしたら、人生は根本から改まることでしょう。だからといってそれは、外見上の生活が大きく変わるわけではありません。すべての人間はそれぞれ、死、落胆、裏切り、拒絶、手を差し伸べる貧困、別離、喪失など、さまざまな悲劇をかかえて生きています。そのほとんどを人は変わざえることができません。ただしそれらを、他人を責める機会とするか、神の業を見る機会とするかの選択は、私たちいかんにかかっています。 旧約聖書の全体は、悲劇的な人間の物語です。しかしそれらの悲惨な出来事を、イスラエルの人々に対する神の無条件の愛の啓示として継承し、想い起こしていくなら、その物語は神聖な歴史となります。」『ナウエンと読む福音書 レンブラントの素描と共に』(マイケル・オラーリン編、小渕春夫訳、あめんどう)、59-60頁