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2026/11/1 イザヤ書46章1〜7節「わたしはそうしてきたのだ」

 1節に出て来る「ベル…ネボ」というのは、バビロン帝国で拝まれていた神の名だそうです。バビロンの王のベルシャツァルとかネブカデネザルという名前は、この神々の名前を織り込んで箔をつけた名前です[i]。その異国の神々の名前をここで持ち出して、イザヤは言うのです。

「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの像は獣と家畜に載せられる。あなたがたの荷物は、疲れた動物の重荷となって運ばれる。彼らはともにかがみ、ひざまずく。重荷を解くこともできず、自分自身も捕らわれの身となって行く。

 これはバビロンの都でのお祭り、パレードの様子らしい。ベルやネボの大きな像(ご神体)が山車に載せられて、牛たちに引かれていくのです。神々だ、有難いと崇められながらのパレードです。けれどもその像は動くことさえ出来ません。人の重荷を解くどころか、引いて行く牛たちは疲れて見え、ただの重荷お荷物となっています[ii]。それでも、人はそうした像でも崇め立てて、御利益があると信じていました。バビロンの繁栄は、ベル様、ネボ様のお陰だ、と手をこすっていました。バビロンの国民だけではありません。預言者イザヤの同胞、まことの神に選ばれたイスラエルの民も、ネボやベル、外国の偶像、周囲の宗教に心を惹かれていたのでした。

 今日の箇所も含めて、イザヤ書はずっと他の神々は人間が作り上げたに過ぎないことを思い出させています。天地を造られた神である主、私たちを造られた生ける神、主がおられるのに、自分たちが造った作品を「神」にするちぐはぐを、本末転倒と思うどころか、一緒になってその像に膝を屈めている。それが、ここの背景にある、神の民の実態でした。人を救い、助け出すどころか、家畜に運んでもらっているだけで、自分をさえ救い出せない荷物ではないか。そう思い出させます。そして、その事を踏まえて、主がどのような方かが3節から告げられます。

 3ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。4あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。

 1節で「運ぶ」とあった言葉をここで二回繰り返します。ベル、ネボを担いでパレードするお祭りを踏まえた3、4節です。ただし「偶像と違って、運ばれなくていい」とか「本当に運ぶ価値があるのはわたし、主だ」ではなく、「わたしがあなたを背負い、運んできたのだ」なのです。母の胎内にいる時から[iii]、生まれる前から、主が私たちを運ばれていたのです。主は今も私たちを運ばれ、やがて年を取っても、同じようにしてくださいます。白髪は「栄えの冠」でもあり[iv]、衰えのしるしでもあります。若さや力を誇った人生の夏から、スピードを緩め、力や能力も衰えていく秋、そして冬へと進んで行くとしても、主は私たちを背負い続け、運び続けてくださいます。勿論、白髪ロマンスグレーも抜けて薄く、禿げたとしても、主は変わりません。

…わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。

 この3、4節の言葉は「敬老の日」や高齢者に向けた言葉として抜き出して使われることの多い言葉です。髪が白くなり、歩くことも記憶力も覚束なくなるとしても、主は変わらず私たちを背負い続けてくださるのです。人の側からの不安を汲み上げてくれる詩篇71篇と合わせて、この箇所は、神である主の前に、老いを受け止める慰めを与えてくれます。

 同時にこの3~4節をイザヤ書のこの箇所に置いて読むことは更に力強い事です[v]。イザヤがまず呼び掛けるのは、当時の神の民イスラエルが、主に運ばれている恵みを忘れて、他の民が拝んでいる大きな「神々」に惹かれているあべこべです。

5わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。6袋から金を惜しげなく出し、銀を天秤で量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、ひざまずいては、これを拝む。7彼らはこれを肩に担いで運び、それがあったところに安置すると、それはそこに立ったままである。これはその場所から動かない。これに叫んでも答えず、苦しみから救ってもくれない。

 お金を惜しげなく出せる人が、金細工人を雇って、金や銀の像を造って、跪いて拝む。それが動いたり喋ったりしない、まして願いをかなえたり救ってくれたりするわけがない。でも金銀の像を造る…どういう心境なのでしょうか。一つには、立派な像を造ることで、何か自分にすごい力があるかのように思えるのでしょうね。それは神として崇める宗教的なものに限りません。大きなビルを建てる、大豪邸に住む、世界一とか記録的な何かを残すこと…そうした業績が自分の価値や力を証明してくれるように思うから、でしょうか。実の所、そうしたものは何一つ、私たちの価値を証明はしませんし、やがて廃れることを止める力もありません。そんなものと、神である主とを引き換えにするなら、自分の価値を根底から見誤っているのです。

 かつてのイスラエルと同様、キリスト教会の二千年の歴史においても、同じ誤りは繰り返されてきました。手を変え品を変え、人生での偉大なことをするとか、普通ではない、特別な体験をすることを、神様の証しだとすり替えてしまう。ベルやネボの像を運ぶのでなく、聖書の神、主やイエス様を運んでいるのだ、そういう自分に特別な出来事を期待している…。私自身、どこかでまだ、そんな特別な奇蹟とか力への夢があって、心の空しさを埋めようとしている思いを感じます。(それは、若い頃から老年期へと差し掛かる中年期にこそ、一層強くなる焦りでもあります。)その時、主は自分の満たされない思いを満たすための偶像になっています。

 そういう私たちだから、今日のイザヤ書の言葉があるのです。

胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。

私たちの人生は最初から主に運ばれてある人生です。誰の人生も、そのままでは詰まらない人生はありません。金や銀の像やメダルや賞を取らなければ、たいしたことのない平凡な人などいません。私が神様の力を引き出して、自分の生活を色付け用などとする前に、すべての人の歩みは、主が背負ってくださっているのです。

 その事を忘れて、主を小さく考え、偶像に心寄せている間違いまで、すべて主が導かれたのだ…ということではありません。ここで主は彼らの選択を求めています。生き方を間違って選ぶのは本人の生き方であって、それまで神のせいにすることは出来ません。しかし、偶像を慕う彼らをさえ、主は見捨てず投げ出さないのです。大きな偶像を人や牛が息を喘がせながら運ぶのとは違い、神である主にとって私たち人間が重すぎることはないでしょう。むしろ軽すぎるくらいでしょうに、決して、軽すぎる、価値がないと私たちを投げ出しはされません。主は、私たちを「高価で尊い」と見続けて、私たちを担い続けてくださるのです。

 3節の「生まれる前から」は「生まれた時から」とも訳せる言葉です[vi]。あえて「生まれる前」と訳されることで、胎児の時点で、主がそのいのちを支えていることが分かります。ですから、胎児の時点で流産・死産となったいのちであっても、その人生は主が運ばれた尊いものです。生まれる事が許された私たちが、生かされていること自体の測り知れない恵みを忘れて、主ならぬあれこれに救いを求めて生きても、なお主は私たちを背負っています。苦しい時「主がどこにいるか」と思う時こそ(「あしあと」という詩が歌ったように[vii])主は私たちを運び続けておられます。やがて、年老いて、自分の誇りとしてきた物が何一つ頼りにならず、自分で自分の事が分からなくなったとしても、主はその白髪の私たちを、背負ってくださいます。私が運ぶのは、偶像の神か、本当の神か、ではないのです。私が神や人生を運んでいくと思っていたのが、その自分こそ神である主に背負われている――母の胎から死の先まで、背伸びしようと運ばれるしかなかろうと、主に背負われた私たち…。そう目を開かれて生きてゆけるのです。

「私たちを背負い、運んでおられる神、主。あなたの目には私はどのように映っているのでしょう。背負ってくださるあなたを忘れ、何か足りないように手を伸ばして回り、年が過ぎていきます。それでもあなたは私を愛おしみ、御子イエス・キリストによる恵みを下さいました。毎日が主による日々です。胎児の時から今まで、そしてこれからと、私たちが変わってもあなたは変わらず、神でいてくださいます。その慈しみが私たちの普段の日々に花咲きますように」

[i] 「「ベル」は太陽神マルドゥク、聖書ではメロダク、エレミヤ五〇2参照、及び「ネボ」はベルの子で学問の神とされ、それぞれネブカデネザル、ベルシャツァルなどの王名に使用されている。」、鈴木、289ページ

[ii] 「神々が「獣や牛」の背に乗せられて厳粛な宗教行列をなす様子を描写していると考えられる。言い換えれば、神々はパレードにおける宗教的な「山車」のようなものだ。別の解釈としては、想像上の敗北の後、パニックに陥って町から運び出されている様子を描いているとも考えられる。意図された嘲笑は、神を乗せた動物が一歩踏み出すたびに、動物の背に乗せられた神(像、イメージ)が傾き、不安定でよろめいているように見えるという点にある。軽蔑的な詩人は、「神」を粗雑にイメージに還元しているが、これはバビロニアの信者自身は決して行わないことだろう。

しかし、この軽蔑的な嘲笑は、神々を滑稽に見せようとするだけではない。より深刻な神学的主張は、神々は重荷を「救済」できないということである。神々は、自らの物質的な形態、すなわち自らの像そのものを守り、安全に保つことができないのだ。」ブルッゲマン

[iii] この言葉は、44章2節で既に言及され始めていたモチーフです。

[iv] 箴言16章31節「白髪はくはつは栄えの冠。それは正義の道に見出される。」 同20章29節「若い男の栄誉は彼らの力。老人の輝きはその白髪。」

[v] 「しかし神は、自然を超越しておられるのと同じく、歴史的過程をも超越しておられる。ふつう私たちは、子どもが成熟すれば、もはや抱かれる必要はなくなると考える。さらにたいていの場合、やがて子どもが年老いた親を支え始める時が来る。ここで神は、その比喩を超越される。私たちが神への依存を卒業する時は決して来ない。私たちは幼子であった時と同じように、老年になっても神に依存している(詩71:9、18)。また、よぼよぼになった祖父のような神が、何らかの仕方で私たちにもたれかからなければならず、私たちが新しい時代のために若く力強い神を探さなければならない、という時も決して来ない。神は歴史に従属しておられない。どの時代においても、神は変わることのない「わたしは彼である」方である。この句の一つの意味は、今述べたとおり、神は常に同じであるということである。しかし、それ以上のこともまた含意されており、それは出エジプト記3章にまでさかのぼる。「わたしはある」と言われる方は、自己存在し、自己依存し、非偶然的であり、また不変である。神は、時間と空間の変化、制約、予期せぬ事柄を超えておられる。神は、私たちに何が起ころうとも、確かに私たちを担い通すことがおできになるのである。」、オズワルト

[vi] 聖書協会共同訳は次の通り(傍点は拙文):3聞け、ヤコブの家よ/またイスラエルの家のすべての残りの者よ/母の胎を出た時から私に担われている者たちよ/腹を出た時から私に運ばれている者たちよ。4あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。

[vii] 『あしあと』

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

 

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

 

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

わたしと語り合ってくださると約束されました。

それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

ひとりのあしあとしかなかったのです。

いちばんあなたを必要としたときに、

あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

わたしにはわかりません。」

 

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

ましてや、苦しみや試みの時に。

あしあとがひとつだったとき、

わたしはあなたを背負って歩いていた。」

マーガレット・F・パワーズ

translation copyright(C)1996 by Pacific Broadcasting Association

『ずっと背負われてきた』イザヤ書46章3~4節 金沢キリスト教会