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2026/7/12 イザヤ書42章18〜25節「見えないことに気づく」

イザヤ書42章は、主のしもべの喜ばしい紹介で始まり、10節の「新しい歌を歌え」と、胸が高鳴りました。そこから一転、18節からは

耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目を凝らして見よ

と、厳しい言葉が続きます。19節の「わたしのしもべほど目の見えない者が…」とあるのは、1節の「わたしのしもべ」とは同じとは思えない、目も見えず、耳の聞こえないと嘆かれる「しもべ」ですが、20節で「あなたは多くを見ながら、心を留めない。耳が開いているのに、聞こうとしない」と続きますから、これは1節の「しもべ」――やがて来られるイエス・キリストを指す方とは別の、今イザヤの言葉を聞いているイスラエルの民の事なのでしょう。彼らの心の鈍さ、頑なさを、見えない、聞こえないと言うのです。

これは、イスラエルの民以外の異邦人、まことの神である主を知らない人々の事でなく、まことの神、主を礼拝し、その「しもべ」と親しく呼ばれている主の民の事でした。主の「使者」として送られ、主との和解を戴いていた人々です。本来なら彼らがまず「主のしもべ」であり、主の心が喜び、主の霊を授けて遣わされ、国々に裁きを行う器です。既にその立場を与えられていたのに、彼らは主の偉大さが見えず、自分たちが何者であるかも見失い、「新しい歌」を歌おうともしていません。主への不満や諦めばかりでしょう[i]。だから「20あなたは多くを見ながら、心に留めない。耳が開いているのに、聞こうとしない。」」と主は嘆いて言われます。

この20節の欄外注にはローマ2・21~23とあります。パウロがローマの教会に宛てて書く手紙で、キリスト者ユダヤ人に向けた言葉です。

どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか…

と問うのです[ii]。また、5月の講壇交換の黙示録3章も思い出します。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない[iii]

新約のこうした言葉、教会への譴責を思う時に、イザヤ書の言葉もまた、未信者や教会外の人への言葉ではなく、自分に向けられた言葉として聞きたいのです。

21主はご自分の義のために望まれた。みおしえを広め、これを輝かすことを。

主がイスラエルの民や教会を選ばれるのは、主の民がみおしえを広め、輝かすためです。新しい歌を喜び歌わせるためです。なのに、主の民にはそれが見えず、良い知らせを聞けません。それは「22しかし、これは、かすめ奪われ略奪された民、彼らはみな穴の中に陥れられ、獄屋に閉じ込められた。かすめ奪われても、助け出す者はなく、略奪されても、返せと言う者もいない。」こう例えられるのがピッタリのような、囚われた状態、視力も考えも、神ならぬものに奪われ、もうこんなもんだ、これが自分だ、この世界だ、と思い込んでいるのです。主がそんな囚われの身から救い出すと言っているのに、いや、もう救い出してくださっていてさえ、その恵みを心に留めず、恵みならざる思いで生きている…。その鈍感さに、呼びかけるのです。

民の心の目は見えておらず、その目を主が開いてくださること。これはイザヤ書の中で何度も繰り返されるイメージです[iv]。また、聖書の最初の創世記から、最後の黙示録に至る大きな枠でもあります。創世記の3章でアダムとエバは禁じられていた木の実を食べました[v]。「食べるそのとき、目が開かれて…神のようになって善悪を知る者となる…」という誘いに乗ってしまったのです。しかし結果、彼らは目が開かれて神のようになったかといえば、自分たちが裸であることを恥じて、無花果の葉で裸を隠そうとする――そんなことをして、神から逃れようとするぐらい、目が曇ってしまったのです。自分たちの現実から目を背け、神を小さく、疑わしく考えるようになった。神の言葉に聞くより、自分の曇った目で見えることだけで、全部わかったかのように思い上がり、善悪を判断し、人を裁き、自分の間違いや限界を認めようとしなくなった。それが、創世記3章以来、見えていないのに見えていると思っている歴史です。その見えない目が開かれて、主を見るようになる――それが、主が与えてくださる御業です。

23あなたがたのうち、だれがこれに耳を傾け、後々のために注意して聞くだろうか。24だれがヤコブを、奪い取る者に渡したのか。イスラエルを、かすめ奪う者に。それは主ではないか。私たちはこの方の前に罪ある者となり、主の道に歩もうとせず、そのおしえに聞き従わなかった。25そこで主は、憤ってこれに怒りを注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても彼は悟らず、自分に燃えついても心に留めなかった。

ここでは「なぜ」や「いつ」でなく「だれが」と言われます[vi]。肝心なのは、理屈や原因捜しの前に、目を向けるべきは誰かに気づくことです。それは民のうちの誰かでなく、目を外に向け、主ご自身に向かうことです。人の罪、主の道に歩もうとせず、その教えに聞き従おうとしない頑なさと、それを怒って報われる主がいます。でもその結果の火の海に囲まれ、自分に燃えついてもまだ気づけない、それが人間の現実、盲目さ、鈍感さです[vii]。だからこそ、次の43章で、主ご自身が立ち上がり、語りかけてくださるのです。主が私たちの頑なさを責めるだけで終わらず、思いもよらない恵みを語ってくださいます。ここに人の望みがあります。[viii]

エペソ人への手紙1章でパウロは祈ります。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。[ix]

私たちは知っているでしょうか。神の召しにより与えられる望みがどのようなものか。聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか。神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神の優れた力がどれほど栄光に富んだものか、知っているでしょうか。「知っていません」というなら、まずは、私たちが精一杯想像できる以上の望みを与えられていることを――精一杯考えているよりも、遥かに桁違いの大きな祝福を私たちは受け継ぐことを――人間の知識を結集しても思いつかない程の恵み深い、栄光に富んだ神の力を、私たちに働かせて止まないことを、受け止めたいのです。

それは決して私たちが願い通り、この世界の幸福度の基準に照らしての幸せが約束されている事ではありません。また、私たちの目が開かれて、神のように何でも理解できることでもありません。(それこそエデンの園で蛇が囁いた騙し事でした)。神に目を向ける時、私たちは自分が神ではないことを悟ります。神がすべてをご存じであると告白する時、自分たち人間にはほんの僅かしか見えていないことを告白し、知ったかぶりは止めます。見たいものだけを見るのでなく、神が見ておられるように、世界の悲惨や問題にも心を痛めます。僅かに見える事、ほんの一部をぼんやりしか知らないことで、人を評価したり、訳知り顔をしたりするのは慎まずにおれなくなります。そうした慎みも、目が開かれるからこそ分かる、自分の限界でしょう。

私たちの目が開かれる時、自分が神ではなく、小さく、神の憐みと赦しと恵みを必要としていることが見えます。そして、主イエスが来られ、十字架の死と復活をもって、贖っていただいたことが分かります。主は私たちの罪も惨めさも、頑固さも鈍感さも知り尽くして私を神の子どもとされましたから、もう立派さや敬虔さを装う必要もありません。言い換えれば、主が目を開いてくださる時、神の恵みが分かるだけでなく、自分が何者であるかも初めて分かるのです。主が私たちの主であり、私たちが主のしもべである事実が見えず、冷たく、暗く、不自由に囚われているとしても、主が私たちを知り、尊び、生涯かけて目を開いてくださるのです。

「主よ、見えるようになることです[x]。主イエスは目の癒しを最も多くなさった事は、私たちも見えるよう、癒しを必要である証しです。あなたからの希望、栄光、力を見せて、あなたを褒めたたえ、自分を鮮やかに見させてください。人を、あなたがご覧のように見る心を下さい。私たちの言葉や思いを縛る囁きから、自由にしてください。それが見えない時にも、主よ、あなたが私たちを、この世界を大きな恵みで知り、運んでおられることに立ち戻らせてください」

[i] 「ここでのヤハウェの厳しい言葉は、ここでは引用されていないものの、想定されているイスラエルの発言に対するものです。イスラエルのその発言は、明らかに、イスラエルの現在の絶望的な状況に対するヤハウェへの不満です。おそらくこの訴えは詩篇40篇27節の「わたしの道は主から隠され、わたしの権利はわたしの神に無視される」と類似しているのだろう。実際、同じ断固とした非難をより明確に表現したものが、典礼詩篇44篇9-12節にある。

しかし、あなた方は私たちを拒絶し、辱め、私たちの軍隊と共に出陣しなかった。

あなたは私たちを敵から引き返させ、敵は略奪品を手に入れた。

あなたは私たちを屠られる羊のようにし、諸国の民の中に散らしました。

あなたはわずかな代価で自分の民を売り渡し、彼らに高い代償を求めなかった。」、ブルッゲマン

[ii] ローマ人への手紙2・21〜23 どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。22姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。23律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。

[iii] ヨハネの黙示録3・17〜18:あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。18わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。

[iv] イザヤ書における「目が見える」の用例:11:3 この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、

17:7 その日、人は自分を造った方に目を留め、その目はイスラエルの聖なる方を見る。

17:8 自分の手で造った祭壇に目を留めず、自分の指で造った物、アシェラ像や香の台は見ない。

29:18 その日、耳の聞こえない人が、書物のことばを聞き、目の見えない人の目が、暗黒と闇から物を見る。

33:17 あなたの目は麗しい王を見、遠くまで広がる国を眺める。

33:20 私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、移ることのない天幕、エルサレムを見る。その杭はとこしえに抜かれず、その綱は一本も切られない。35:5 そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。

42:7 こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。

42:16 わたしは目の見えない人に、知らない道を歩ませ、知らない通り道を行かせる。彼らの前で闇を光に、起伏のある地を平らにする。これらのことをわたしは行い、彼らを見捨てはしない。

42:18 耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目を凝らして見よ。

42:19 わたしのしもべほど目の見えない者が、だれかほかにいるだろうか。わたしが送る使者ほど耳の聞こえない者が、ほかにいるだろうか。わたしと和解した者のような目の見えない者、主のしもべのような目の見えない者が、だれかほかにいるだろうか。

43:8 目があっても見えない民、耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ。

44:16 半分を火に燃やし、その半分の上で肉を食べ、肉をあぶって満腹する。また、温まって、『ああ、温まった。炎が見える』と言う。

49:18 目を上げて、あたりを見回せ。彼らはみな集まって、あなたのところに来る。わたしは生きている──主のことば──。あなたは必ず、彼らをみな飾り物として身に着け、花嫁のように彼らを帯に結ぶ。

51:6 目を天に上げよ。また、下の地を見よ。まことに、天は煙のように消え失せ、地も衣のように古びて、その上に住む者はブヨのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義は絶えることがない。

56:10 神の見張り人は目が見えず、みな何も知らない。彼らはみな口のきけない犬、ほえることもできない。あえいで、横になり、眠りを貪る。

59:10 私たちは見えない人のように壁を手さぐりし、目が無いかのように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、強健な者の中にいる死人のようだ。

60:4 目を上げて、あたりを見渡せ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来る。娘たちは脇に抱かれながら。

64:4 とこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなた以外の神が自分を待ち望む者のために、このようにするのを。

[v] 創世記3・4〜7 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」6そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。

[vi] 「23-25 受け入れがたい真理を伝えていることを認識して(「あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け」)、イザヤはイスラエルの状況の神学的核心へと目を向けさせる。第一に、鍵となる問いは「なぜ」ではなく、「だれが」である。「なぜ」という問いは、論理的な叫びであって、人生に起こる悲劇を人間的に満足できるパターンに合わせようとする。これには答えがない(5.8)。「だれが」は私たちを主の主権の上に休むように導く。「それは主ではないか」とあるように。第二に、神の民にとっては、神のことばは人生のヒントである。悲劇は罪を通してやって来る。「主の道に歩むことを望まず・・・・・・聞き従わなかった」は、すなわち、特に啓示された真理を持ちながらもそれに従わない罪である。「歩むことを望まず」は、不服従の意志である。「従う」は「聞く」ということで、神のことばへの心の服従である。第三に、神の与える懲罰の現実が挙げられる。主の個人的な「燃える怒り」である。「怒り」については、5・25を参照。「激しい戦い」。歴史の主である方は、不従順の民を罰するために、歴史上の列強の力を用いることがある。第四に、不従順は苦難と喪失をもたらす。「焼き尽くしても・・・・・・燃えついても」とあるように。しかし、第五に、打ち負かされる時の苦難ばかりでなく、束縛と損失(22節)もまた改革を生み出したのである。イザヤが同胞の民を見たとき、霊的な無理解を見抜いていた。「悟らず・・・・・・心に留めなかった」とあるように。彼らは神の民であるにもかかわらず、主の真理を抱いていても、変容という内側での働きをいまだ必要としている。まずは精神に触れ(「悟る」、直訳「知る」)、その後で「心」、すなわち反応と方向性の内的な泉に触れるのである(箴言4.23)。」、モティア、355ページ

[vii] 「これらの節は、この文脈では異質であり、むしろ1章から39章にかけての裁きの響きに近い。これらは、旧約聖書で非常に顕著であり、申命記の伝統で最もよく知られている報復の神学を簡潔に表現したものである。この神学は、ヤハウェの歴史の統治には道徳的な対称性があり、したがってイスラエルの流刑における苦しみは当然の報いであると主張する。25節の最後の告発は、18節から20節の重苦しいテーマに関連している。イスラエルはそれを理解していない。エルサレムが破壊された瞬間にも理解していなかったが、2世代後もなお理解していない。イスラエルは、ヤハウェの契約が要求が厳しく、最終的には大きな代償を伴うものであることを理解できない。

学者の中には、第43章の最初の7節は、42章18~25節に対する肯定的な対照として配置されていると示唆する者もいる。しかしながら、これらの節自体の厳しさは、それ自体では全く和らげられることはない。苦しみからの唯一の救いは、ヤハウェの驚くべき律法を聞き、見ること、すなわち、それに耳を傾けることである。この厳しさと、10~12節の驚くべき賛美、そして15~16節の途方もない期待との対比は、実に衝撃的である。」、ブルッゲマン

[viii] モティアは、ここから44章23節までを、43・21までと、それ以降の二つの平行関係に分析して、以下のような構造でまとめている(モティア、352ページ)

42・18〜43・21 補修は国家の解放によって終わりを告げる 43・22〜44・23 罪は霊的贖いによって取り扱われる
42・18〜25 捕囚 43・22〜24
43・1〜7 この必要が満たされること 43・25〜44・5 この必要が満たされること
43・8〜13 偶像と対照的な救い主であり、唯一の神であられる主 44・6〜20 偶像と対照的な贖い主であり唯一の神である主
43・14〜21 バビロンからの贖い(買い戻し) 44・21〜23 罪からの贖い

 

[ix] エペソ1・15〜23:こういうわけで私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、16祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。20この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。22また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。23教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

[x] マルコ10・51〜52 イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」52 そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。