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2026/7/5 イザヤ書42章10〜17節「新しい歌を歌う世界へ」

新しい歌を歌え。この言葉は詩篇や黙示録にも出て来る言葉です[i]。このイザヤ書42章でも言われます。

新しい歌を主に歌え。その栄誉を、地の果てから。

この言葉があるから、私たちは今、イスラエルから見れば東の「地の果てから日本」主に歌う礼拝をしているのです。

では「新しい歌」とは何なのでしょう[ii]。新曲の賛美歌を作って歌えということでしょうか。イザヤ書でわかるのは、この直前9節の

新しいことを、わたしは告げる。

という言葉との繋がりです[iii]。神である主が告げる「新しいこと」、それはイザヤがここでずっと語っている、希望の約束です。42章でいえば、主が「主のしもべ」を遣わして、不正を正してくださること――世界の片隅で、傷んだ葦、くすぶる灯心のような、人の目には留まることのない痛み、犠牲にまでいのちを回復させてくださり、目を開き、囚われた人々、闇の中に住む人々を解放してくださる――それが「新しいこと」でした。その新しさは、人間の新しさとは違います。今年の新曲や新人賞、新米も最新型も、来年には旧式になり、次の新しいものにとって変わります。古くなる新しさです。神が語る「新しいこと」はいつまでも新しいこと、「異なる」と訳すことも出来る新しいことです。それゆえに、「新しい歌を主に歌え」と言われるのです。そして、主の「新しいこと」は私たちに「新しい歌」を歌わせるような、喜ばしいこと――歌い、踊り、喜び叫ばせるような、素晴らしいことです。

10新しい歌を主に歌え。その栄誉を、地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。11荒野とその町々、ケダル人が住む村々よ、声をあげよ。セラに住む者たちは喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。

イザヤの時代、同胞たちは自分たちの民族のことしか考えていませんでした。それがここでは海に下る者、島々の住民、荒野の民まで呼び掛けられます。ケダルとは東のアラビアの地名、セラもその辺りか、逆に西かは諸説ありますが、イスラエルにとっては異邦の町です[iv]。その東の荒野の人々も、西の島々の人々も、ともに歌え、新しい歌を歌う仲間となります。これ自体がイザヤの時代の人々にとって想定外のこと、「新しいこと」です。言葉や文化、肌の色が違っても、すべての人に「新しい歌を歌え」と呼び掛けられて、ともに新しい歌を主に歌う。それ自体が「新しいこと」でもあります。そして、それを妨げるものはありません。

12主に栄光を帰せよ。島々にその栄誉を告げ知らせよ。13主は勇士のように出で立ち、戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって力を見せつける。

主は勇士、戦士、勝利者として描かれ、そう歌うに相応しいお方です。続いて14節以下、

「久しく、わたしは黙っていた。静かにして自分を抑えていた。今は、子を産む女のようにうめき、激しい息づかいであえぐ。15わたしは山や丘を荒らし、そのすべての青草を枯らし、川を中州ばかりにし、沢を涸らす。

戦士に自らを準えた主は、今度は「子を生む女」性のようと言われて、新しいことを産み出すための労苦、覚悟、渾身の思いを言われます。山や丘を荒らし、青草や川や沢を枯らすとは、今、人間が胡坐をかいてふんぞり返っている秩序や状態を終わらせるということでしょう。山も川も姿を変えるほどの強烈な光景を想像させられるからこそ、主の言われる「新しいこと」が印象的に迫ってきます。そして、その一方で語られるのがまた不思議な光景です。

16わたしは目の見えない人に、知らない道を歩ませ、知らない通り道を行かせる。彼らの前で闇を光に、起伏のある地を平らにする。これらのことをわたしは行い、彼らを見捨てはしない。

目の見えない人を癒して、見えるようにする、ということなのでしょうか。それもあるでしょうが、この後、19節以下、43章にかけても「目の見えない」という言葉はしつこい程に繰り返されます。それは、文字通りの視覚障害というより、理解の目が塞がれていること、霊的な無知、神である主を恐れないという見えなさの事です。それでも、自分には見えている、分かっている、賢いのだと思っている、二重の意味での無理解がここで言われていきます。

そう考えるとこの16節も、見えなかった人(肉体的な意味でも、霊的な意味でも)が見えるようになる、というだけでなく、自分が見えていないこと、分からないことがたくさんあるのに、分かっているように思い上がり、早合点し、うわべで人を裁くことを自覚すること――「かつては見えなかったけど、今は見えます」という面と、「自分には見えている、分かっているだなんて到底言えない。すべてが見えているのは、ただ主だけ。その私の手を、主が引いてくださって、導いてくださっているのです」、そのように言うように、謙虚な者に変えられることでしょう。主の前に心から謙り、かつ、主への信頼とそれゆえに足を踏み出せる勇気を持つようになること、そしてその旅路の先々を照らし、起伏ある地も平らにしてくださる主の約束が、ここで言われているのでしょう。同時に、自分の視野の狭さ、理解の乏しさを心から言えることは、聖書の敬虔の大きな部分でもあります。自分に分かるのはほんの一部ですと言えない頑なさが、この先、43章44章でじっくりと扱われていきます。これは本当に根深い問題でもありますが、だからこそ、そういう私たちの心を深く変えるなんて、人には出来ません。自分でも信じがたいでしょう。まことの神だからこそなしうる恵みです。人の手で彫ったり鋳型で造ったりした像は、神である主と並べたり出来るものでは全くないのです。

17彫像に拠り頼み、鋳像に向かって『あなたがたこそ私たちの神々』と言う者は、退けられて恥を見る。

造り物に向かって礼拝や祈りを捧げても、何にもしてくれないでしょう。もし口をつけて話せるようにしたとしても「私はただの像なんだから、本当の神さまの所に行ってくれ」と言うでしょう。それに対して、真の神は何と言われているのでしょうか。それは、新しいこと、人の思いを遥かに超えたことです。ご自分のしもべを遣わして、弱った人々をも力づけ、消えかかったいのちの火を再び灯し、世界の島々からもすべての人に主を褒め歌わせるとの約束です。

「新しい歌を主に歌え」という言い方はイザヤ書でここだけに出て来ます。けれども「喜び歌う・ほめ歌(を歌う)」といった言葉は幾つもあって、イザヤ書で50回以上繰り返されます[v]。それは、主がなさる「新しいこと」を歌う歌です。また、その「新しいこと」は、歌を歌わずにはおれなくさせるほど、喜ばしいこと、素晴らしい恵みだからです。私たちの痛みを癒し、罪の赦しがあり、敵として恐れるしかなかったすべての力や不平等、不法を、すっかり終わらせてくださる――私たち自身の惨めさや恥からも救い出してくださるのです。これが、歌わずにおれるでしょうか。そして、「新しい歌」を歌うこと自体が、主の「新しいこと」の一部に他なりません。人間の考える宗教、精一杯の技術や知恵でひねくり出す理想や未来は、報いとか休息とか再会とかで、永遠だなんてボンヤリとしか考えられません。そんな私たちのお粗末な想像力を遥かに超える神は、私たちに歌を歌わせてくださるのです。教会は、賛美を歌う共同体です。私たちは、歌う旅人の群れです。そして歌うことで、主の言葉は、私たちの体に染み渡り、深く新しい力になります。主の御業を歌う時、主は私たちの魂を慰め、力づけ、新しくします。「新しい歌を主に歌え」と言われるのですから、歌って初めて分かるのです。

主の言葉はまだ続きます。18節以下、主の民の鈍さを嘆く言葉が長く続きます。私たちの歌はただ明るく能天気な賛美ではありません。世界も自分もあるべき姿ではないと嘆く歌でもあります。そしてその世界を新しくするため、イエスが来てくださったことに驚く歌です。それゆえ、私たちは必ず新しくされて、すべての人と和解してともに主を歌う日が来る。私たちはその大きな物語の中に生かされていると歌う歌です。新しい歌を歌え、と主は言われます。

「栄光ある唯一の神、主。あなたが私たちに新しい歌を授けられます。主の愛するしもべ、御子イエスが、私たちの手を取り、神ならぬものを慕う生き方から救い出し、自分との病んだ関係も癒し、世界の人々を見る目も新しく変えてくださいます。まことに、あなたの慈しみの不思議さを褒めたたえます。今から賛美を歌います。この賛美を力づけ、毎日の生活でも賛美を歌わせて、私たちの心を開き、慰めと希望と、世界と隣人への新しい思いを与えてください。」

[i] 以下も参照。

詩篇33・3 新しい歌を主に歌え。 喜びの叫びとともに 巧みに弦をかき鳴らせ。

40・3 主はこの口に授けてくださった。 新しい歌を 私たちの神への賛美を。 多くの者は見て恐れ 主に信頼するだろう。

96・1 新しい歌を主に歌え。 全地よ 主に歌え。

98・1 賛歌。新しい歌を主に歌え。 主は 奇しいみわざを行われた。 主の右の御手 聖なる御腕が 主に勝利をもたらしたのだ。

144・9 神よ あなたに私は新しい歌を歌い 十弦の琴に合わせて ほめ歌を歌います。

149・1 ハレルヤ。 新しい歌を主に歌え。 敬虔な者たちの集まりで 主への賛美を。

ヨハネの黙示録5・9 彼らは新しい歌を歌った。「あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、

14・3 彼らは御座の前と、四つの生き物および長老たちの前で、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかは、この歌を学ぶことができなかった。

[ii] 20世紀後半には、世界的に「礼拝改革運動」が進み、その中で「新しい歌を主に歌え」をスローガンに多くの新しい賛美、および讃美歌集(「讃美歌21」「新聖歌」「教会福音讃美歌」、ゴスペルフォーク、ワーシップソングなど)が造られました。「新しい歌を主に」というタイトルのコンテンポラリーな讃美歌集もあったと記憶していますが、今回調べても見つかりませんでした。

[iii] どちらの「新しい」もחָדָשׁハーダシュです。

[iv] 「著者は、最も遠い海やより近い海岸から内陸の砂漠へと話題を移します。ケダルはイシュマエルの次男(創世記25:13)であり、アラビアの砂漠の住人を象徴しています(イザヤ書 21:16-17 も同様。また、60:7、雅歌 1:5、エレミヤ書49:28 も参照)。ここで用いられている haşerîm(囲い地)は、創世記 25:16 に見られる用法の区別を反映しています。これは、ベドウィンの「野営地」(tîrôt)よりも恒久的な居住地を指しています。セラ が、後にペトラと同一視されるエドム人の都市を指す固有名詞(ここではケダルに相当)として用いられているのか、それとも「岩」(ここでは「山々」に相当)という普通名詞として用いられているのかは明らかではありません。この節の明らかな交差構造を考慮すると、前者のほうが可能性が高いと思われます。」、オズワルト

[v] 歌う שִׁיר イザヤ書で3回

歌 שִׁיר イザヤ書で6回

ほめ歌を歌う רָנַן 14回

褒め歌を歌う זָמַר 1回 > ほめ歌 זִמְרָת

喜びの歌声 רִנָּה 9回

ほめ歌 זְמִיר 2回

歌 עָנָה 19回

5:1 「さあ、わたしは歌おうשִׁיר。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌שִׁירを。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。

12:2 見よ、神は私の救い。私は信頼して恐れない。ヤハ、主は私の力、私のほめ歌זִמְרָת(イザヤ書でここのみ、OTで3回)。私のために救いとなられた。

12:5 主をほめ歌えזָמַר(イザヤ書でここのみ)。主はすばらしいことをされた。これを全地に知らせよ。

12:6 シオンに住む者よ。大声をあげて喜び歌えרָנַן。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる大いなる方。」

14:4 あなたはバビロンの王について、このような嘲りの歌を歌ってמָשָׁל(イザヤ書でここのみ)言う。「虐げる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。

14:7 全地は安らかに憩い、喜びの歌声רִנָּהをあげる。

16:10 喜びと楽しみは果樹園から取り去られる。ぶどう畑の中で喜び歌うרָנַןこともなく、大声で叫ぶこともない。踏み場でぶどう踏みをする者も、もう踏まない。わたしが喜びの声を絶えさせたのだ。

23:15 その日になると、ツロは七十年の間忘れられる。一人の王の生涯ほどの期間である。七十年が終わると、ツロは遊女の歌שִׁירのようになる。

23:16 「竪琴を取り、町を巡れ、忘れられた遊女よ。うまく弾け、もっと歌えשִׁיר。思い出してもらうために。」

24:9 歌いשִׁירながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒も、飲む者には苦い。

24:14 彼らは声をあげて喜び歌いרָנַן、西の方から主の威光をたたえて叫ぶ。

24:16 地の果てから、私たちは、「正しい方に誉れあれ」というほめ歌זְמִירを聞く。しかし私は言った。「私はだめだ、だめだ。ああ、悲しい。裏切り者が裏切った。裏切り者が裏切り、裏切った。」

25:5 砂漠の日照りのように、あなたは他国人の騒ぎを抑えられます。暑さが濃い雲の陰で鎮まるように、横暴な者たちの歌זְמִירは鎮められます。

26:1 その日、ユダの地でこの歌שִׁירが歌われるשִׁיר。私たちには強い都がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。

26:19 あなたの死人は生き返り、私の屍は、よみがえります。覚めよ、喜び歌えרָנַן。土のちりの中にとどまる者よ。まことに、あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。

27:2 「その日、麗しいぶどう畑について歌えעָנָה。

30:29 あなたがたには、聖なる祭りの祝いの夜のような歌שִׁירがあり、主の山、イスラエルの岩に行くために笛に合わせて進む者のような、心の喜びがある。

35:2 盛んに花を咲かせ、歓喜して歌うרָנַן。これに、レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光が授けられるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。

35:6 そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌うרָנַן。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。

35:10 主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いרִנָּהながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。

42:10 新しい歌שִׁירを主に歌えשִׁיר。その栄誉を、地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。

42:11 荒野とその町々、ケダル人が住む村々よ、声をあげよ。セラに住む者たちは喜び歌えרָנַן。山々の頂から声高らかに叫べ。

44:23 天よ、喜び歌えרָנַן。主がこれを成し遂げられたから。地の底よ、喜び叫べ。山々よ、喜びの歌声רִנָּהをあげよ。林と、そのすべての木々も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに栄光を現されたからだ。

51:3 まことに、主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜びがあり、感謝と歌声זִמְרָה(ここのみ)がある。

51:11 主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いרִנָּהながらシオンに入り、その頭には、とこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。

52:8 あなたの見張りの声がする。彼らは声を張り上げ、ともに喜び歌っているרָנַן。彼らは、主がシオンに戻られるのを目の当たりにするからだ。

52:9 エルサレムの廃墟よ、ともに大声をあげて喜び歌えרָנַן。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたからだ。

54:1 「子を産まない不妊の女よ、喜び歌えרָנַן。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べרִנָּה。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。──主は言われる──

55:12 まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、平安のうちに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声רִנָּהをあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。

61:7 あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受け、人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌うרָנַן。それゆえ、人々は自分の地で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが自分のものとなる。

65:14 見よ、わたしのしもべたちは心の底から喜び歌うרָנַן。しかし、おまえたちは心の痛みによって叫び、霊に傷を受けて泣き叫ぶ。