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2026/6/28 イザヤ書42章1〜9節「傷んだ葦を折らない正義」

今日の42章1節、

見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。…

と始まります。この「わたしのしもべ」=「主のしもべ」の歌が、ここ42章の他、イザヤ書の49章、50章、52~53章にかけてと、全部で四回繰り返されます[i]。「主のしもべ」の登場を語ることは、イザヤ書の大きな特徴の一つです[ii]。そしてイザヤが預言したこの「しもべ」こそ、後に来られたイエスのことだと、キリスト教会は告白してきたのです。新約聖書のマタイの福音書12・16は、この42・1~4をそっくり引用します[iii]

ところで1節は「見よ」と始まるわけですが、直前の29節も「見よ」と始まりますし、24、15、11節と遡っても「見よ」がチラホラあります。神である主は、イザヤの時代に人々が頼っていた偶像、崇め慕っていたものが何の力もないことを「見よ…見よ…見よ」と繰り返してきましたが、ここ42章に至って、そんな造り物の偶像や「神々」が無力なのとは対照的な「わたしのしもべ」を「見よ」と指し示します。また、41・14~16で、虫けらのようなイスラエルを、主は助ける、贖う、力強くし、あなたがたは喜び、誇る、と新しい将来が約束されました。そんな将来を描き出のは、造り物の神ではなく、生ける神、創り出すまことの神だけです。ではそのような将来を、どうやって主は実現するのか、という方法が、ここに明らかにされます。つまり、この「わたしのしもべ」を通して、主は国々にさばきを行われるのです。

しかしその「さばき」は人間が考える裁きでは異なります[iv]。力ない偶像しか想像できない、有限な人間が思いつく裁きとは根本的に違います。

彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。

大声を上げたり言い争ったり、表おもてで演説しよう、そんな態度は全くない。むしろ

傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。

それが、主のしもべのやり方です。葦は、水辺に真っ直ぐに育つ植物です[v]。結構頑丈な植物ですが、傷んだら、それを治すのは熟練の業です。下手に手をかけたらもっと痛んでしまう。いっそ手をかけずに折って捨ててしまったのでしょう。そんな傷んだ葦をも、主のしもべは折るのではないのです。もう一つの灯心は、当時のランプで、油を吸い上げる細い糸です。段々、芯まで燃えて朽ちて来ると燻って仄暗くなってしまう。その時、芯の先を切るのですが、火を消さずにそっと切るのは注意と忍耐が必要だったそうです。いっそ火を消して、芯を捨てて変えた方が楽でしょう。しかし主のしもべは、そのくすぶる灯心をも消さずに丁寧に切って、もう一度輝かせてくださる[vi]。そんな隅っこの、周辺のこと、裏通りの痛みや燻りに手を伸ばすことに、主のしもべの真実なさばきはあります[vii]。そして、

衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」

こんなさばきを果たすしもべを通して、主の御心は成し遂げられるのです。罪と不正を怒るより、罪と不正がもたらした傷、消えかかるいのちを生かす。そんな事を語り、出来るのは主だけです。だから、この歌に続く解説の言葉が続きます。それが5節から9節までです[viii]

天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、そこを歩む者たちに霊を授けた神なる主はこう言われる。「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。

この「あなた」は、主のしもべです。神である主が、ご自分のしもべに、優しく、かつキッパリと任命と激励の言葉を告げるのです。そして、その派遣の使命ミッションは7節、

こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。

いわば、傷んだ葦、燻る灯心の言い換えでしょう。私たちが目が塞がれて神が見えなくなっている、世界も自分のことも見えなくなっている。囚人と言われるように色々なものに囚われて不自由になっている。更に、実際に闇や牢獄に閉じ込められている現実もある。そういう人間の不自由で暗い生き方から、主のしもべは来られて、見える目、自由、解放された生き方へと救い出してくださる。そして、そこから誰一人取り零すことなく、手が回らないとか、気づかれずに見落とされることはない、というのです。こんなことは人間には出来ません。人間に出来るのはせいぜい「最大多数の最大幸福」です。それでさえ私利私欲が入ります。だから、

 8わたしは主、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない。初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」

神である主が、神にしかできないことをしてくださる。偶像には出来ないし、人間には考え付くことも願うことさえ出来ない、主がご自分のあいするしもべを遣わして、傷んだ人、囚われたすべての人を解放してくださる――ここに、神である主の栄光があります。そして、その言葉は、イエス・キリストにおいて実現した、とマタイの福音書はこの言葉を引用するのです。

傷ついた葦…くすぶる灯心。イザヤ書や旧約聖書でもここにしか出て来ない表現――それこそ目立たない言葉ですが、とても深く刺さる言葉です。私は高校生の時、この言葉に出会いました。『ほのぐらい灯心を消すことなく』という、原爆で殺された子どもたちの記録を読んだのです[ix]。「戦争を終わらせた」と原爆が正当化され、「戦争さえ終われば」と憎しみや貧困、抑圧は目を瞑り、「正義」の名のもとに「多少の犠牲はやむを得ない」と片付けます。人の裁きや正義は、どうしても漏れが出て来ます。「小さなことには目を瞑って」と言ったりします。だから神のさばきや正義にしても、どこかでそういうものだろう、と思っていないでしょうか。聖書の正義は「人を不当に扱わないこと」「人を生かす」という意味です[x]。ともすると、私たちはそれよりも「秩序」ということで正義を取り違えているのかもしれません。

マタイの福音書で、今日のイザヤ書を引用する12章は、その直前の記事では、片手の萎えた人をイエスが癒されたとあります。その癒しをパリサイ派の人々は批判しました。その人の苦しみよりも、安息日の秩序の方を優先させました。でもイエスはその人を癒すことこそ優先されました。そしてイエスはそこで論争を続けようとはせず、そこを離れます。

すると大勢の群衆がついてきたので、彼らをみな癒された。

ともあります。そして

ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。

とあって、このイザヤ書42章が置かれるのです。

イエスは言い争い、口で負かそうとしたりせず、障害と人の言葉で傷つき折れていた人の側に立たれました。人を癒しても、その事を黙っているように、と言われました。注目や賞賛を求める気は全くなく、それにも増して、人にしゃべればまた人の言葉で――傷ついた葦を折り、燻る灯心を踏み躙る言葉で振り回されると案じたのでしょう。黙る時、主イエスの言葉――傷んだ葦を折らない方の言葉が、心に灯火をまた明るく燃やすでしょう。本当にイエスの正義は、ひとりひとりの深いところの回復、解放を重んじる正義でした。徹底的にそれでした。これが主の方法です。イエスのその姿、なさり方が、この主のしもべのあり方、主なる神の治め方を、ハッキリと教えています[xi]。この主のさばき、正義が私たちには必要です。そうだ、私もあの人も傷ついた葦なのだ、表面的に「良い人」や「敬虔なクリスチャン」に見えようとどうだろうと、実は自分も誰もが、燻って消えそうな灯心みたいなものだ――そこに立つことから始まるのです。主がこの私たちの見えない、深い所に目を留めて、漏らさず、真実にかかわってくださる。優しく、じっくりと、時間をかけて、再び真っ直ぐに生きるよう、火を灯すよう、働くと言ってくださっている。この言葉への驚きを新たにします。主のしもべを通して、神だけがなされること――「新しいこと」――をイエスは私のうちに始めてくださっています。

「主のしもべなるイエス・キリスト。あなたの優しさ、深い愛を、傷んだ葦を折らず、くすぶる灯心を消さないという、忘れ難い姿に託して、聴かせてくださいました。そのお心だからこそ、今ここに私たちがあります。どうぞ、思い上がった心を謙らせ、私たちにもこの世界の痛みを、片隅の不当さを、見つめる者とならせてください。私たちには出来ない、あなたにしか思いつかない正義をあなたがしてくださる。この言葉に希望をかけ、私たちも用いてください」

[i] 「しもべの歌」第二歌49・1~16 島々よ、私に聞け。遠い国々の民よ、耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいたときから私の名を呼ばれた。

2 主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私をかくまい、私を研ぎ澄まされた矢とし、主の矢筒の中に私を隠された。

3 そして、私に言われた。「あなたはわたしのしもべ。イスラエルよ、わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」

4 しかし私は言った。「私は無駄な骨折りをして、いたずらに空しく自分の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは主とともにあり、私の報いは私の神とともにある。」

5 今、主は言われる。ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、母の胎内で私をご自分のしもべとして形造った方が言われる。私は主の御目に重んじられ、私の神は私の力となられた。

6主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

7 イスラエルを贖う方、その聖なる方、主は、人に蔑まれている者、国民に忌み嫌われている者に、支配者たちの奴隷に向かってこう言われる。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。真実である主、あなたを選んだイスラエルの聖なる者のゆえに。」

8 主はこう言われる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、わたしはあなたを助ける。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を復興して、荒れ果てたゆずりの地を受け継がせる。

9 わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、闇の中にいる者には『姿を現せ』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘のいたるところが彼らの牧場となる。

10彼らは飢えず、渇かず、炎熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、湧き出る水のほとりに連れて行くからだ。

11 わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。

12 見よ。ある者は遠くから来る。見よ。ある者は北から西から、また、ある者はシニムの地から来る。」

13天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。

14 しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。

 

第三歌 50・4~9 神である主は、私に弟子の舌を与え、

疲れた者をことばで励ますことを教え、

朝ごとに私を呼び覚まし、

私の耳を呼び覚まして、

私が弟子として聞くようにされる。

神である主は私の耳を開いてくださった。

私は逆らわず、うしろに退きもせず、

打つ者に背中を任せ、

ひげを抜く者に頬を任せ、

侮辱されても、唾をかけられても、

顔を隠さなかった。

 

しかし、神である主は私を助けてくださる。

それゆえ、私は侮辱されることがない。

それゆえ、私は顔を火打石のようにして

自分が恥を見ないことを知っている。

私を義とする方が近くにいてくださる。

だれが私と争うのか。

さあ、ともに立とう。

だれが私をさばく者となるのか。

私のところに出て来るがよい。

見よ。神である主が私を助けてくださる。

だれが私を不義に定めるのか。

見よ。彼らはみな衣のように古び、

シミが彼らを食い尽くす。

第四歌 52・13~53・12 「見よ、わたしのしもべは栄える。

彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。

多くの者があなたを見て驚き恐れたように、

その顔だちは損なわれて人のようではなく、

その姿も人の子らとは違っていた。

そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。

王たちは彼の前で口をつぐむ。

彼らが告げられていないことを見、

聞いたこともないことを悟るからだ。」

私たちが聞いたことを、だれが信じたか。

主の御腕はだれに現れたか。

彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。

砂漠の地から出た根のように。

彼には見るべき姿も輝きもなく、

私たちが慕うような見栄えもない。

彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、

悲しみの人で、病を知っていた。

人が顔を背けるほど蔑まれ、

私たちも彼を尊ばなかった。

 

まことに、彼は私たちの病を負い、

私たちの痛みを担った。

それなのに、私たちは思った。

神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、

私たちの咎のために砕かれたのだ。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、

その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、

それぞれ自分勝手な道に向かって行った。

しかし、主は私たちすべての者の咎を

彼に負わせた。

 

彼は痛めつけられ、苦しんだ。

だが、口を開かない。

屠り場に引かれて行く羊のように、

毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、

彼は口を開かない。

虐げとさばきによって、彼は取り去られた。

彼の時代の者で、だれが思ったことか。

彼が私の民の背きのゆえに打たれ、

生ける者の地から絶たれたのだと。

彼の墓は、悪者どもとともに、

富む者とともに、その死の時に設けられた。

彼は不法を働かず、

その口に欺きはなかったが。

 

しかし、彼を砕いて病を負わせることは

主のみこころであった。

彼が自分のいのちを

代償のささげ物とするなら、

末長く子孫を見ることができ、

主のみこころは彼によって成し遂げられる。

「彼は自分のたましいの

激しい苦しみのあとを見て、満足する。

わたしの正しいしもべは、

その知識によって多くの人を義とし、

彼らの咎を負う。

それゆえ、

わたしは多くの人を彼に分け与え、

彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。

彼が自分のいのちを死に明け渡し、

背いた者たちとともに数えられたからである。

彼は多くの人の罪を負い、

背いた者たちのために、とりなしをする。」

[ii] 「主のしもべ 同様にイザヤは、罪や贖いといった語彙を使うに当た って新しい意味を用いなかった。しかし、その幻と用語 の適用の仕方において、イザヤは独創的となる。特に33 ―55章における主のしもべのテキストでそうしている。 このしもべを理解しようとして、この百年以上もの間、 議論に次ぐ議論が生み出された。イザヤ書には、このしもべを民族、すなわちイスラエルとして考える根拠がある。たとえば、この民は1・8において「わたしのしもべ」と呼ばれており、そのしもべは40・3では「イスラエル」と名付けられている。それでも、そのようにしもべを集団と同一視すること(民全体であっても、その中の一部の「残りの民」であったとしても)を徹底的に検討し始めるや否や、この論理は崩壊する。どのような意味合いで、民やあるいはグループが、50・4-9においてこのしもべに立証されているような従順を主張することができるだろうか。その民が今まで、他者の罪を負う者に要求されるような罪のない状態を有しただろうか(33·9。出エジプト12・5参照)。どのような意味で、民がその民を神に引き戻すことができるのか(40・5-6)。同様に、4・1-6と50・4-9に見られるような自伝的表現は、使徒8・24における問いに対して回答を与えている。しかしまた、しもべの役割の範囲と要求されている内容は、過去に知られているいかなる個人(イザヤにしてもほかの人にしても)の性質や能力をも越えているが、しもべが何らの記録も波紋も歴史に残さずに過去に到来し、生きて死んでいった、ということはあり得ない。注解が示しているように、B・ドゥームによって始められた細分化主義を拒絶し、主のしもべの歌に統合的な発展があることを主張するなら、主のしもべは、誤りを犯し霊的に無感覚となった民からも(42・18-25)、霊的に献身し、希望を持つ残りの民からも(51・1-52・12)区別される。まずこのしもべはすべての人を驚かす(52・13)。なぜなら、彼は他者の罪を負って死に至り(53・4-9)、彼らのために勝ち取った救いを与えるために生きるからである(53・10-12)。

主のしもべの死を描くことにおいて、イザヤはすでに確立されたレビ的・モーセ的神学と実践の語彙に敬意を払っている。それは、神のみこころによって、他者(53・5-6、8)、すなわち他者の罪を負うことによって(53・12)彼らのために正義を備える(53・11)罪なき苦難の人(53・9)に罰が下されることによる身代わりと神との平和である。イザヤの非常にすぐれた預言者的感覚は、人間の身代わりのためには人間が必要であることをはっきりと見ていたことに表れている。動物犠牲は原則を示すことはできるかもしれないが、ただひとりその役割を自発的に受け入れる者が(53・7)、また自分自身を自発的に注ぎ出す者が(53・12)すなわちそれは、罪深い意志にとって代わる意志を備えるということになるが――真実の身代わりによって、身代わりとなった対象の人々のために十全な、実に最終的な救いを達成することができるのである。」、モティア、28〜30ページ

[iii] マタイの福音書12章17~21節:

これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。

「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、

わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。

わたしは彼の上にわたしの霊を授け、

彼は異邦人にさばきを告げる。

彼は言い争わず、叫ばず、

通りでその声を聞く者もない。

傷んだ葦を折ることもなく、

くすぶる灯芯を消すこともない。

さばきを勝利に導くまで。

異邦人は彼の名に望みをかける。」

[iv] 「41:1-7 は、神が使者キュロスをバビロンに送ったときの偶像崇拝者たちの恐怖を強調しています。しかし、41:8-20 は、無力なしもべイスラエルに、歴史の出来事を彼らを祝福するために形作っている神を恐れる必要はないと保証しています。そして 41:21-29 は、偶像にはできない未来を予知する神の能力を強調することで、攻撃をさらに強めています。さて、42:1-9 では、神は、ご自身のしもべを通して、どのようにご自身の有益な秩序 (mišpāt) が地上を支配するようになるかを予言しています。これは、神がどのように世界を統治するかを示す未来の予言です。したがって、42:1-9 は 41:21-42:9 の具体的な結論であり、41:1-42:9 の一般的な結論でもあります。これが構造の正しい解釈であることは、8-9 節で示されています。神は唯一の救い主です。これは神だけの栄光であり、偶像はそれを共有することはできません。以前の予言が真実であることが証明されたように、この後の予言も真実となるでしょう。」、オズワルト

[v] 沼地や水辺に育つ「カネー」qanehと呼ばれる植物は多分ヨシである。多年草の大きな植物で熱帯から温帯にかけて広く分布している。

地下に根茎を縦横にのばし、そこから直立した茎を出す。高さはしばしば2~3mにも達し、円柱形でたくさんの節がある。披針形の先のとがった葉がこの節についている。茎の先に穂状の円錐花序をつける。その先の方がうな垂れるので、ヨシはしばしば弱さを象徴するのに使われる。しかし植物自体はそれほど弱い感じはしない。

イスラエルにはヨシに似た植物が何種類かある。サトウキビの仲間やエンゲディなどにあるダンチク(Arundospp.)などである。しかし聖書の「葦」はフラグミテ・アウストラリスPhragmiteaustralis(Phragmitecommunis)であろうとされている。

聖書時代には垣根、マット、秤、ペン、木笛や家造りに使用されていた。葦の記載が丈夫なものを表している時にはダンチク(アルンド・ドナクスArundo donax,アルンド・プリニイArundo pliniiなど)の可能性もある。

アフリカでも根茎は吐き気止め、健胃剤,解熱剤、痛みの激しい関節炎,黄疸,肺の腫瘍,食毒の解毒、発汗剤,利尿剤などに使用している。

日本でもよしずやすだれに用いる。ヨシの若芽は食用になる。ヨシの根茎を漢方では蘆根といい、肺を清め胃を養う薬物として、解熱,止渴,利尿薬として使用し、葦茎は消炎性排膿利尿薬として用いられる。漢方処方の葦茎湯や蘆根湯はこれらが含まれている。

ヨシは通常沼地や水辺に生えるが、時には驚くほどの乾燥状態にも耐えることができる。あるヨシは塩性土壌にも耐える。死海周辺にはこのような所がある。

かつてヨシに寄生する菌核からバクカクと同様にバクカクアルカロイドを集める試みがなされたことがあった。ヨシにつく菌核にはバクカクに劣らない量があるからである。しかし生産量が少なかったので行われなくなった。qanehという言葉はショウブを指して使用されることもある。

「よし」や「葦」としてはこのほかに列王記上14:15,ヨブ記40:21,詩編68:31,イザヤ書19:6,35:7,36:6,42:3、エゼキエル書29:6などにあるが、そのほかにもqanehを「秤」や「竿」として使用している箇所もある。」、『聖書植物事典』、87〜88ページ

[vi] 「パスカルは『パンセ(瞑想録)』の中で、「人間は考える葦である」と言いましたが、パスカルは、イザヤ書四二章三節の言葉から、その言葉を作ったのです。「くすぶる燈心を消すこともなく、」昔の燈火は油を入れた器に燈心を浸して、その先に火をつけました。火が燃えてゆくに従って燈心の先は燃えがらになり、暗くなりました。そのため先端を切る必要がありましたが、十分に気を付けて切らないと火を消してしまいます。乱暴に、不注意にではなく、そっと切ったのです。しもべはくすぶる燈心をそっと切って、風を送ってもう一度炎を起こすことが出来ました。」、油井、342ページ

[vii] 「傷んだ葦、ほのぐらい灯心」については、この他にも解釈の説があります。一つを以下に紹介します。

「ミシュパットというのは、どちらかというと法廷のことばなんですね。それを考えた時には、「傷んだ葦を折ることなく」、というのも、もう一つの説があります。当時、裁判の時には裁判官は一本の木を持ってきていたそうです。そして死刑判決を下す際には、その木を折っていました。「傷ついた葦」とは、この判決に使われる棒のことだと言います。しかし本当のメシアであるイエス様は、ミシュパットを貫くけれども、このミシュパットでは、決して葦の棒を負って、人に死刑判決を下さないお方だ、というこういう意味だというのです。

くすぶる灯芯を消さないという後半のことばに関しても、当時の裁判の風習を反映しているという説があります。

ひとりの人の裁判がおこなわれて、有罪の判決が告げられる。そうするとその伝令が、町の大通りに出て行って、誰にでも聞こえるようにその判決文を読み上げる。

そうしたら、伝令はそこの家にまで乗り込んで、その家のともしびをフウッと吹き消すという、オリエントの風習があったらしいのです。

ですからこの両方のことばを併せて考えると、この主のしもべであるメシアというお方は、人に対して正義の名において、有罪の判決をくださないお方とも読めるわけです。見捨てないお方、そして有罪の判決をくださないお方、両方の意味があるのではないかと思います。

しかし、そういう優しいお方、というのは、一方でそばにいてほっとする柔和なお方であるけれども、もう一方では神の国の王としてのメシアの厳しさ、というものに欠ける、ふにゃふにゃしたお方なんでしょうか?もちろんそれは違う。ミシュパットのもととなっている意味は、「分ける」ということだそうです。何が善で、何が悪かを分ける。だから正義とも訳されるわけなんですけれども、そういう完全な正義のお方でもある。

その正義の神の前に私たち人間が立たされたら、本来はひとたまりもないんですけれど、そのさばきをこの主のしもべであるイエス・キリストは終わらせてくださいました。ご自身が十字架の上で裁かれることによって、公正をもたらしてくださいました。イエス様の十字架!これがまさに、神のミシュパット・公義・公正の極みが実現した場所なのです。罪をさばかれる完全に正義の神のさばきが、十字架の主イエスに、全部くだってしまいました!この神の正しさは、主のしもべであるイエス様を、死者の中から復活させることによって確立されました。もう、さばきは終わりました!あなたは、裁判官の持っている棒を折られることもないし、有罪を告げる伝令があなたの家まで言って、灯火を吹き消すことはもはや無い!あなたは完全にゆるされました。これがミシュパット。」、田村隆明「礼拝メッセージ『傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。』 2025年1月5日 新約聖書 マタイの福音書第12章15~21節

[viii] 「5-9節は、1-4節の末尾を成している。しもべについての章句――通常「主のしもべの歌」と呼ばれる(ほかに49・1~16、50・4-9、52·13-5312)―の鍵となる特徴の一つは、それぞれに末尾が続き(49.7113、50・10-11、54・15・13)、しもべについて言われたことは何であっても支持していることである。5節からのこの特別な末尾はまず(5節)、すべての被造物の主を強調することによって、主のしもべの普遍的な役割を支持している。第二に(6-7節)、主がそのしもべを助けてくださることが約束されている(1節参照)。第三に(8-9節)、偽りの神々の崩壊を予告し、歴史の主が約束された新しい状況をもたらしてくださることを確証して、しもべの成功を支持している(4節参照)。」、モティア、346〜347ページ

[ix] 奥田貞子『ほのぐらい灯心を消すことなく』(キリスト新聞社、1979年)、現在は、改題されて『空が、赤く、焼けて 原爆で死にゆく子たちとの8日間』(小学館、2015年)として入手できます。「あの当時、どんなに苦しくても、悲しくても、戦争のことはどんな小さな子どもであっても、 いっさい、口にしてはならなかったのです。そのもどかしさ、くやしさは今も私の心に黒い、 固い、なまりのような重いものとなって残っています。私はこれからも、戦争のおろかさを訴 え続けたいと思います。 安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから――。私たちの だれもが、このことばの前に、重い重い責任を負わされています。私はこの責任を覚え続けることを、これからも、私の生きるしるしとしたいと念じております。」(はじめに、12〜13ページより)

[x] 加藤常昭、『マタイによる福音書 3』、116ページ

[xi] 「2-3 キーワードである「公義」の二度目の用例がここにある(3c)。ここではしもべが神の啓示をもたらす様子と関連付けて考えられている。しもべは決して自己主張的ではない(2節)。恐らくここでの三つの動詞は積み重なって、彼の静かで攻撃的ではない振る舞いを強調しているのであろう。しかし、「叫ぶ」(金切り声を出す)ということばで、しもべが驚かないことを表し、「声をあげる」ということばで、人を言い伏せることがないことを表し、「声を聞かせる」ということばで、自分自身を売り込もうとしないことを表している。しもべはいつも他者のことを考える。役に立たず、手直しすることもできないように見える(「いたんだ葦」)者を助け、過ぎ去り、消えてなくなってしまうように見える(「くすぶる燈心」)者を助ける。しもべはいたんだ葦を治すことができ、くずぶる燈心に風を送ってもう一度炎を起こ すことがおできになる。前者は内面的に打撃を受けてきたのであり、後者は外面的に養いの油に事欠いてきたのである。しもべは、いやしと供給両方に適格なのである。」モティア、346ページ