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2026/3/29 マタイの福音書27章39〜50節「わが神、わが神、どうして」

使徒信条でこう告白します。「主は…十字架にかかり、死にて、葬られ…」と。その十字架はイスラエルの「過越しの祭」においてでした。「過越」とはかつてイスラエル人がエジプトの奴隷生活から救い出される時、小羊を屠って生贄とし、その血を玄関に塗った家は、死の禍が過ぎ越したことの記念です。その過越祭の時にイエスが十字架にかかられたのは、イエスこそ神の子羊として、私たちを滅びから救うため、生贄となってくださったからです。この過越し祭は、太陰暦で14日に行われました。受難週とイースターは、毎年、月齢によって3月から4月まで前後して分かりにくいのですが、あえてそうするのは、イエスこそまことの過越しの小羊であることが大事だからです。今年は、今週が、その受難週です。

マタイの福音書の27章35節からには、十字架にかけられたイエスを、人々が罵り、嘲った事が書かれています。十字架につけたことは35節に短く記されています。その前には、十字架を担がされてここまでの道を連れて行かれたことがあり、その前にも裁判や群衆の前に引き回され、殴られたり唾を掛けられたり、鞭や茨の冠を強いられたとあります。どこから始まったと言い難い、主イエスの受難です。その末に、この十字架の場面があります。

十字架は、木の杭に人を磔にする、残酷極まりない処刑法です。イエスは、手と足を釘で木に打ち付けられ、下着も取られて、晒されました。その痛み、苦しさは想像も出来ません。そのイエスを見て、通りすがりの人たちは、罵り、嘲笑いました。

40「神殿を壊して三日で建てる人よ。もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」…42「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。43彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」

こうした姿は、今もニュースで見る暴力とも重ならずにおれません。殴る蹴る、拷問する、そしてそれらを周囲が囃し立て、笑って、カメラを回す…。そういう残酷な暴力は今でも続いています。十字架という形は出て来ないとしても、形を変えて、人間の残忍さ、人を笑いものに出来てしまう冷たさ、暴力、憎しみ、傲慢があります。その私たち自身の罪、人間の深い闇の底に、イエスは降りて来られました。この箇所を読む時、イエスの受けた苦しみだけを見て、現実に同じような酷い扱いが、この世界にも私たちの中にもある事と切り離してはなりません。

37節に「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きをイエスの頭の上に掲げたとあります。42節の、祭司長、律法学者、長老たちの台詞にも「彼はイスラエルの王だ」とあります。皮肉として言ったに他なりませんが、11節でも29節でも「ユダヤ人の王」とあります。昨年のクリスマスにマタイの福音書1章からお話ししました。その時も、マタイの福音書のテーマそのものが「王であるキリスト」であることをお話ししました。その王であるキリストの頂点が十字架です――頂点というよりもどん底と言った方がいいかもしれません。イエスという王は、この世の支配者が横柄にふるまい、偉そうにした人が権力を振るっているのとは反対に、民を救うため、ご自分が低く謙り、自分のいのちを与えました。当時の最も残酷な道具である十字架をも引き受けたのは、イエスが最も深く、底知れない罪から、自らのいのちをもって私たちを救ってくださること、そのための苦難や辱めも厭わないお方である証しです。

聖書のページ数では、福音書が先で、パウロたちの手紙は後になっていますが、書かれた順番は手紙が先です。キリストの受難の描写に先立って、教会が大事にしたのは、キリストが十字架に死に、そしてよみがえったという告白とその意味です。いくつかを挙げてみましょう[1]

ガラテヤ3・13「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」イエスは十字架という呪わしい刑を受けました。それは、私たちが神の律法に背いて、呪いを招いていたからこそです。だからキリストは十字架にかけられて、私たちは今や呪われた者ではなくなりました。そればかりか、祝福を受け、他者を祝福する者とさえなりました。そのためにイエスは十字架にかかったのです。

コロサイ1・21~22「あなたがた[は][2]、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。」イエスに、人々は敵意を剝き出しにし、罵り・嘲りを露わにしました。それは、私たちが神から離れて以来、敵意や攻撃、人も自分も傷つける者となっているからで、イエスの十字架は、そこから私たちを救い出し、私たちを傷も責められる所もない者とするためでした。イエスの死は、神との間の敵意・不和を和解させた死です。

Ⅰテサロニケ5・10「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。」イエスが十字架の死にご自分を献げたのは、私たちを生かすためです。最初の堕落以来、人は死ぬ者となってしまいました。その私たちのため、イエスが死にまで謙って、そしてよみがえってくださったので、私たちの死は全く違うものになりました。恐れずに死を覚え、死の先にも希望を持って生きることが出来ます。なぜなら、イエスが私たちのために死んでくださったから、そして復活したからです。

ローマ5・8「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」人間の堕落は、神の愛を見失わせました。愛ならぬ脆い絆で人は生きるようになりました。人々は十字架の主にも皮肉で嘲りました。イエスが十字架の上で叫んだ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」の言葉は、私たちの想像を絶する、孤独・捨てられた思い・絶望をイエスが体験された叫びです[3]。イエスが私たちを罪から救うためには、この恐ろしい体験を私たちに代わってしなければなりませんでした。私たちも日常的に味わっている感覚もその一部です。見捨てられるんじゃないか、いつかは独りになるんじゃないか、誰か自分を愛してくれる人がいるんだろうか…。そういう疑い・不信の中にあった者のため、キリストが死なれたことは、神が私たちに対する愛を証ししています。私たちの罪の呪い、罪のもたらす問題、死、断絶…すべてから救うため、イエスは死なれました。罪のもたらす残酷さや痛ましさがどれほど酷く深いかは、イエスの十字架の記録に十分に見て取れます。その死を最後まで飲み干したイエスの死は、私たちのためであり、私たちを神と和解させ、呪いから祝福に、死をいのちに変え、私たちの孤独や恐れ、憎しみ、叫びにも届いてくださるための、確かな出来事です。

イエスの死は、私たちの救いのため、神と和解させるための決定的な死です。これをただ私たちの模範として「イエスの苦しみや恥に倣って、私たちも痛みを黙って我慢しましょう、理不尽な目にあっても御心と思って感謝しましょう」という道徳にするのは的外れです[4]。しかしイエスの死は、確かにこの世界の壊れた心を露わにします。イエスは、人からの称賛を受け、痛みを避けるよりも、私たちを愛するためにいのちも惜しみませんでした。自分の成功や繁栄よりも、罪の悲惨さを全身で受け止め、その救いのために謙りました。イエスの十字架は確かに私たちの生き方を変えるのです[5]。でもそれも、私たちの力で変わるのではありません。イエスは、十字架と復活の主です。よみがえった主が、その力で私たちを新しくしてくださるのです。測り知れない苦難の十字架と、そこから復活した主――「使徒信条」をもって教会が告白しているのはこの驚くべきイエスです。私たちも、十字架と復活のイエスを告白します。

「王なる主、十字架の苦しみを死なれた主よ。主の死を通して示された、神の愛、和解の恵みを感謝します。どうぞ私たちの目を開いてください。この世界の破綻を、壊れた私たちを、主はその身に負うてくださいました。その痛み、悲しみが、どれほどであるかを見せるとともに、そうして与えられている主の愛、神の子とされた恵みの確かさをも、ますます温かく、優しく、見せてください。そして、私たちの生き方を、主に健やかに倣う道へと引き寄せてください」

1 ・ 罪は、私たちが死ぬ運命にあることを示します。しかし、イエスは私たちに永遠のいのちを与えるために死なれました。「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです」(Iテサロニケ5・10)。

  • 罪は、私たちがのろわれた者であることを示します。しかし、イエスは私たちを祝福された者とするためにのろわれた者となってくださいました。「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3・13)。
  • 罪は、私たちが恥ずべき者であることを示します。しかし、イエスは私たちに栄光を与えるために十字架の恥に耐えてくださいました。「今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです」(コロサイ21)。
  • 罪は、私たちが有罪であることを示します。しかし、イエスが有罪とされ、その刑罰を受けてくださったので、私たちは無罪の宣言を受けることができました。「私たちに不利な、さまざまな規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(同2・14)。
  • 罪は、私たちが神の敵であり神の怒りを受けるべき者であることを示します。しかし、神が私たちに好意を向けられるよう、イエスはその怒りをご自身のほうに向けられました。「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただきました)」(ローマ5・10)。
  • 罪は、私たちが神との交わりから締め出されたことを示します。しかし、イエスが孤独のうちに十字架で死なれたことで、私たちはもう二度と孤独になることはありません。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、・・・・・・あなたがたを神に導くためでした」(Iペテロ3・18)。
  • 罪は、私たちに永遠の幸せという希望がないことを示します。しかし、イエスは私たちに永遠の喜びを与えるために悲しみを背負ってくださいました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担(いました)」(イザヤ53・4)。

ジャック・クランペンハウワー『見せよう イエスさまを 福音に生きる子どもたちを育む』(楠望訳、いのちのことば社、2025年)52〜53頁

 

[2] 原文では「あなたがたも」。

[3] ――主よ?

「ああ、あなたか」

こんなことを申し上げるのは大変僭越なのですが、でも、ずっと頭にひっかかっていて、どうしてもお話したくて。

「言ってごらん」

私はこの聖句が好きじゃないんです。『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」なんか、あなたらしくないんですよね。あなたのおっしゃる言葉のようには聞こえないんです。

いつもは、あなたの語られることが大好きなんですよ。一生懸命、耳をすませる。力に満ちたあなたの声、“雷。のごときあなたの指令、力強いあなたの命令を思い浮かべながらね。

そういうのが、私は聞きたいんです。

音のない永遠の中にあなたが歌いこんだ創造の歌を覚えていらっしゃいますか。あれこそ、あなたなんだ。あれこそが神の御業ですよ!

そして、あなたが波に砕け散るように命じると、波は逆巻いた。星が空にばらまかれるように宣言されると、星は空に散った。あなたが命あれと命じられると、すべては始まったんじゃないですか。土でこねたアダムに息を吹きこまれて……あれは最高潮のあなただった。私が聞きたいのは、ああいうあなたなんですよ。ああいう声を聞くのが好きなんです。

だから、私はこの聖句が好きじゃないんです。本当にこれはあなたがおっしゃっているんですか。あなたの言葉なんですか。本当にあなたの声なんでしょうか。茂みを燃え上がらせ、海を分け、天から炎を放った――。

でも、今のあなたの声はそうじゃない。

この聖句を見てください。文頭に「なぜ」とあって、文末は疑問符(?)で結ばれている。あなたは疑問なんか持たれる方じゃないのに。

感嘆符(!)はどうなったんです。あれがあなたのトレードマークじゃありませんか。あれがあなたの結びの署名でしょう?その前の言葉と同じく力強く堂々として――。

ラザロに命じた言葉の最後に、それはあった――「出て来なさい!」

悪霊を退散させたときにもあった――「行け!」

湖の上を歩き、弟子たちに命じられたあなたのように雄々しく、それはあった――「しっかりしなさい!」

あなたの言葉には感嘆符がふさわしい。感嘆符はフィナーレのシンバルの響き、勝利の祝砲、敵をうち破る戦車の轟きなんです。

あなたが言葉にするだけで、峡谷が形づくられ、弟子たちを燃え立たせる。語ってください、主よ!あなたは、命そのものの叫び――感嘆符なのだから…………..

それなのに、なぜあなたの言葉の最後に疑問符(?)がつきまとっているんですか。弱々しいマーク。前屈みになって、頭をうなだれ、もうくたくただと言わんばかりに背中を丸めて。あなたがこのマークを、感嘆符(!)のようにまっすぐにしてくださればいいのに。背筋をのばさせて、しゃきっとさせてくだされば―――。

そして、歯に衣着せずに言わせていただくなら――私は「見捨てる」という言葉も見たくないんです。命の源が……見捨てられる?愛の与え手が……ひとりぼっち?すべての父なる方が……孤立無援?

それはないでしょう。まさか、本気でおっしゃってるんじゃないですよね。神なる方が見捨てられたと感じるなんて。

私たちで、あの文をちょっと変えてもいいですか?一部でいいんです。動詞だけで。

「では、どんな言葉がいい?」

「試練を与える」なんていうのはどうです?――「わが神、わが神。どうしてわたしにこのような試練をお与えになるのですか」このほうがよくありませんか。これなら、私たちも拍手喝采できる。あなたが命を捧げてくださったことに対して、あなたの勝利を宣言することができる。われわれの子どもたちにも話して聞かせることができる。これでやっと意味をなすようになる。これであなたも英雄だ。英雄ですよ。歴史に英雄はつきものですからね。

試練を乗り越えた者――これこそが英雄じゃないですか。

それとも、これがお気に召さなかったら、もうひとつあるんですよ。「苦しめる」、これなんてどうでしょう――『わが神、わが神。どうしてわたしを苦しめられるのですか」そうそう、これですよ。これであなたは、真理を擁護する殉教者です。悪しき者に刺しつらぬかれた愛国者。剣をとり、すべてをかけて戦う高貴な騎士――うち倒され、血に染まり、けれども勝利を手にした兵士。

「苦しめられる」のほうが「見捨てられた」よりずっといいじゃありませんか。あなたは殉教者ですよ。パトリック・ヘンリーやアブラハム・リンカーンと同じトップクラスの――。

主よ、あなたは神であられるのですからね!見捨てられるなんてことが、あるはずないじゃないですか。ひとりぼっちにされることも、いちばん苦しい瞬間に捨て置かれることも、あるわけないでしょう。

見捨てる……それは犯罪人への刑罰。見捨てる……それはもっとも邪悪な者が産み出した苦しみ。見捨てる……それは卑劣漢に対するもの。あなたに対してのものじゃない。「王の王」(11)たるあなた、「初めであり、終わり」であるあなた、”生まれることなき神たるあなたにじゃない。なんといっても、あなたはバプテスマのヨハネのいう「神の小羊」なのではありませんか。

なんというすばらしい呼び名でしょう!これこそがあなたですよ。「しみも傷もない」神の小羊。私にはヨハネがこの言葉を言うのが聞こえます。目を上げてあなたを見るのが、微笑んであなたを指さし、ヨルダンじゅうに聞こえるように声を張り上げて、「見よ……神の小羊」と宣言するのが、見えるようです。

そして、彼の言葉が終わらないうちに、すべての人の目があなたに向けられる。日に焼けた、たくましい若者。広い肩に強靭な四肢——。

見よ……神の小羊”

「あなたはこの聖句が好きかい?」

もちろんですよ、主よ。私のお気に入りの聖句のひとつです。まさにあなたにぴったりですよ。

「前半の部分はどうだい?」

はあ?

「「見よ」のあとの部分だよ」

ええと、「見よ」と「神の小羊」のあいだのところですね。ちゃんと全部、覚えているかな―――「見よ、世の罪を取り除くために来られた神の小羊」主よ、これでいいんですよね?

「そうだよ。では、神の小羊が何をするために来たのか、考えてごらん」

それは、世の罪を取り除くために来られた――ちょ、ちょっと待ってくださいよ。「世の罪を取り除くため」……この言葉のことは、これまで考えたことがなかったな。

読んだことはあるけど、考えたことはなかった。私は、あなたがただ罪を追いやったとしか考えていなかったんです。罪を追放されたとしか。ただ、私たちの罪の山の前に立たれて、立ち去れと命じられただけだと。あなたが悪霊にされたのとまったく同じに。神殿の偽善者たちにされたみたいに―――。

私はあなたが、罪に出ていくように命じられただけだと思っていたんです。あなたが「取り除かれた」なんてまったく気づかなかった。あなたご自身が、実際に罪にふれたなんて夢にも思わなかった。いや、もっと悪い。罪があなたにふれたんでしたね。

それはどんなにおぞましい瞬間だったことでしょう。罪にふれられることがどんなことだか、私にはわかります。罪の放つ強烈な悪臭を嗅ぐことがどんなことだか、わかっています。以前の私がどんなだったか、覚えておられるでしょう?あなたを知るまえの私は、罪の泥沼の中に溺れきっていたのですから。単に罪にふれていただけではない、私は罪を愛していました。

罪の美酒を飲み、罪と快楽のダンスを踊り、罪のまっただ中にいたのです。

でも、なんであなたにお話してるんでしょうね。あなたは覚えておられるのに。あなたは、私を見ていてくださった方なのに。あなたこそ、私を捜し出してくださった方なのに……。私はさびしかった。不安でたまらなかった。覚えておられますか。「なぜ、なぜ、この私じゃなきゃいけないんですか。どうして、こんなにつらいことばかり起きるんですか」

あれは質問なんてものではなかったのは、わかっています。まともな質問じゃなかった。でも、あのときは、ああ訊ねるしかなかった。おわかりでしょう、主よ、私の気持ちはもうぐちゃぐちゃだったんです。つらくてつらくて・・・・・。罪はそうやって人を追いつめる。罪は人生の海で難破させ、人を孤児にし、漂流させる。罪は人を見捨て―――

え?それはもしかして――。

ああ、なんてことだろう。主よ、そういうことだったんですか。罪は私にしたのと同じことを、あなたにもした、と。

ああ、ごめんなさい。本当にごめんなさい。ちっとも知りませんでした。わかっていなかったんです。あなたは、本当はひとりぼっちだったんですね?

主よ、あなたの投げかけた問いは真実の心の叫びだったのですね?あなたは本当は恐れておられた。本当はさびしかった。私がそうだったように。ただし、私は自業自得、報いを受けて当然だったのに、あなたはそうじゃない。

ああ、主よ……。私が軽率にも、いろいろ言ってしまったことを、どうか赦してください。」

マックス・ルケード『ファイナル・ウィーク――イエス・キリスト、十字架への道』(佐藤知津子訳、いのちのことば社、2001年)266〜272ページ、第二十五章「主よ、お赦しください」

[4] 参照、リタ・ナカシマ・ブロック&レベッカ・アン・パーカー『灰の箴言 暴力、贖罪における苦しみ、救済の探求』、福嶋裕子・堀真理子共訳、松籟社、2025年。

[5] 参照、ティモシー・ゴンビス『力は弱さのうちに 牧会者パウロ 十字架の姿を生きる』、立木信恵訳、後藤敏夫監訳、いのちのことば社、2025年。