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2026/4/5 マタイの福音書28110節「復活のイエスが先に」 

 主の復活をお祝いし、イースターの朝を迎えました。先週に引き続いて、マタイの福音書を開き、マタイが記すイースターの記事を聞きました。先週もお話しした通り、このマタイの福音書は「王であるイエス・キリスト」をテーマとしています。イエス・キリストは王であることを繰り返して説き明かします。同時に、その王であるとは、人間が考えがちな王とは全く異なるものです。イエスは、低く仕え、貧しくなり、大きな権力を求めずに最も卑しまれている人とともにおられます。その逆転の最たるのが、十字架の死でした。妬みと憎しみによる十字架は、この世界の罪を自らに引き受けるため、いのちをも惜しまなかった死でした。でもそれは、人の目には敗北であり、死であり、終わりでした。その死と葬りが27章の最後でした。 

 その翌週の朝です。

二八1さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。

そしてこの御使いが告げるのです。

御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。 

 こう告げて、十字架に死んだイエスが復活したこと、ここにはいないこと、それは前もってイエスが告げていた通りであることを伝えます。その証拠に、墓の中を覗けば、そこにはその遺体も復活したイエスもいないのが分かったのです。イエスは本当に復活しました。 

 大きな地震とか御使いとかあると、何かイエスの復活を仰々しく飾り立てるような描き方をしているようです。しかし、実際は、石が墓を蓋したままでは中が見られないから、御使いが石を転がしたのですし、それが大きな地震として感じられた、ということです。決して、復活したイエスが墓から出て来られないと困るから御使いが石をどけたのでもありません。イエス様がよみがえった時、地震を起こし、石の蓋も吹き飛ばして出て来たのでもありません。イエスはもうそこにおられなかったのです。そして、女たちがこの知らせを他の弟子たちに知らせようと走って行くと、その先にイエスはいました。

彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。10イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」

 このように行ったことを記すだけです。ここに復活の出来事を、天使や地震や奇蹟といったセンセーショナルな出来事で飾り付けようという雰囲気はありません。そういう期待をもって復活記事を読むとしたら、あまりのあっさりした書き方に、肩透かしを食らうでしょう。 

 主イエスの十字架と復活は、キリスト教信仰の中心であり原点でありすべてです。これは最大の奇蹟であり、これなくして私たちの信仰は空しいとパウロも言います。復活は、これだけを切り離して持ち上げて、「イエス様は死んだけれど復活した。イエス様はすごい!」と浮かれるようなものではないのです。(そんなふうに長く思っていたのは、他ならぬ私ですが…)。復活したイエスは、女弟子たちに現れてくださいました。後には、16節以下で、ガリラヤの山で弟子たちを迎え、世界宣教へと派遣しました。

18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」 

 イエスの復活は、私たちが間違いなく確かに、このイエスが王であると確信させます。天においても地においてもすべての権威を持っている方、死からもよみがえらされたイエスこそが、私たちとともにいて、私たちを治めています。私たちが生きる時も死ぬ時も、教会でも社会でも家庭でも、日曜日も月曜日から土曜日も、いつでもどこでも、イエスが私たちとともにいてくださり、何物も(死でさえも)この方の権威から私たちを奪うことはないのです。 

 だから、ここではそれと対照的な、番兵たちと祭司長たちの目論見が、11節から15節にさしはさまれています。御使いを見て、死んだイエスの復活を聞いたはずの番兵が、ユダヤの権威筋の所にこのことを報告すると、祭司長や長老たちは兵士を金で言い含めて、弟子たちがイエスの遺体を盗んだのだと言わせた、というのです。そしてその話の方が広まってしまいます。人間の権力者たちは、自分たちの地位・支配を守るため、イエスを殺しました。殺したイエスがよみがえったらしいと知っても、なお賄賂、お金の力、嘘で狡賢く真実を覆おうとします。そしてその方がうまく行くように見えます。そういう現実もあります。しかし、それでもイエスがよみがえった事実は変わりません。そういう罪の世界から救えるのは、奇蹟を見せたり、力で脅したりすることではなく、この世界のためご自分を惜しみなく与えてくださったイエスの方法による以外ありません。そして、イエスの復活は、まぎれもなく、この世界をイエスが新しくしてくださる――世界は新しくなる、というしるしです。 

 イエスの復活や処女降誕を信じない人は「よくそんなことを信じられるね」と言うでしょう。しかしキリスト者は、復活やイエスの癒しに先立って、聖書の初めから、神が天と地を創造されたと言われる言葉から信じるのです。この世界があることが、神の奇蹟です。神の御手に支えられて、この世界があるのです。しかし、その中にある人間が、神に背を向けて以来、社会も世界も本当の王を見失って、罪や争い、暴力が入りました。人が人を踏みつけ、男尊女卑、上下関係、諦めや絶望や死が当たり前だと思われるようになってしまいました。その世界に、造り主なる神の御子イエスが来てくださったのは、この世界を造られた神が、この世界を諦めておらず、正し、癒してくださるためでした。罪に染まって、その罪を自分ではどうしようもできない人間に代わって、イエスが罪を背負って死に、そして復活してくださるためでした。イエスは、踏みつけられる人々の友となり、復活の最初に女たちに出会い、復活の証人としました。当時、女性たちは裁判の証人とはなれないとされていました。そのような女性たちに、復活のニュースが託されたのは、非常識なことです。そうです、イエスは、人間が囚われている多くの常識を引っ繰り返し、無効にして、新しく生かしてくださる王です。 

 イエスの死が罪の身代わりの死で、その死を信じるなら、死んで天国に行ける、というような信仰(これもかつての私の思い込みですが)では終わらず、イエスの復活は、死後や魂がではなく、今のこの世界の価値の回復です。私たちのこの体も、世界の自然も、悲しみや問題も、神は担っておられ、憐み、尊んでいます。イエスの復活は、私たちのからだも復活する保証であり、今の私たちの労苦も無駄ではないと信じさせてくれます(Ⅰコリント15章参照)。i 

 イエスの復活は、死からの復活であって、不死身とは違います。復活には十字架が先立ちました。歪んだ力、憎しみ、嘘…主の支配に堪えないものは、十字架にかかるのです。イエスの復活は、十字架を経た復活だった――私たちの罪を背負い、底知れない闇の中で、私たちの赦しを祈ってくださった、あの死を経ての復活です。イエスの復活に与るとは、その十字架にも与ることです。自分の罪や問題だけでなく、自分そのものを主に捧げ、教えられる――そういう地上の生涯となったのです。主のからだのよみがえりは、私たちの体も、この世界も新しくしました。主が今日も私達とともにおられ、私たちに先立って、尊い生涯としてくださいます。 

「復活の主イエス・キリストの父なる神様。まことに主はよみがえり、死は打ち破られました。未だ、死や悲しみ、嘘や暴力がある中で、主が復活された事実を祝い、死の力の終わりを祈ります。私たちの中の死、命ならざる思いや考え、罪や嘘を砕いてください。私たちの中に、永遠のいのちを輝かせて、主こそ王である喜びが広まるために、どうぞ教え、用いてください」