2026/4/19 イザヤ書38章9〜20節「私のすべての罪を神の後ろに投げやりたもう」
ヒゼキヤ王が、病気にかかり、死を宣告された時、泣きながら祈った祈りを主が聞かれて、もう15年のいのちを加えられた、という出来事です。同じ出来事は、Ⅱ列王記20章にも記されていますが、今日読んだイザヤ書38章9~20節の詩うたは、列王記には記されておらず、イザヤ書だけが伝えてくれる詩です。この歌から、ヒゼキヤの回復の意味を、イザヤはどう語ろうとしてくれるのでしょうか[i]。ここで繰り返されているのは、人のいのちの当て所のなさです。
10私は言った。生涯の半ばで私はよみの門に入る。私は残りの年を失ってしまったのだ。
この時、ヒゼキヤは39歳[ii]。当時の平均年齢からすれば決して若過ぎはしないでしょうが、突然の病気は、生涯の半ばで、残りの年を失った、というショックがあったことでしょう。新約においては、死後、キリスト者は主にあって眠り、やがては栄光のからだによみがえり、主に背いた人は最終的には「第二の死」やゲヘナと呼ばれる場所に行く、という教えに展開されます[iii]。既に旧約にも、ダニエル書12・2にハッキリと、死の先の永遠のいのちと永遠の嫌悪とが述べられます[iv]。しかし他の地域の宗教が、早くから死後の世界を具体的に描いて、民衆を操ろうとしていたのとは対照的に、聖書は死後について多くを語らなかったのです。それは、死後に望みを置くよりも、今生きている人生、この世での生涯をまず尊ぶからです。ですから、死については「よみ」という他、多くは語らず、死を嘆く態度が11、12節にもあります[v]。羊飼いの天幕のよう――すぐに移動のため引き抜かれる。機織りの布のよう――織りあげたらチョキンと切り離され、畳まれてしまう。そんな唐突な死の淵を覗き込んだのです。
そして13、14節では「主は雄獅子のよう」として、自分は「燕や鶴のように…鳩のように」弱々しく、泣き、呻くと描きます[vi]。燕[vii]、鶴[viii]、鳩[ix]。9節は、回復した後に歌った詩と言ったのに、この自覚が詳しく綴られます。本当に強烈な気づき、元に戻れない体験だったのです。
15何を私は語れるでしょう。主が私に語り、主が自ら行われたのに。私は自分のすべての年月、自分のたましいの苦しみのゆえに、ゆっくりと歩んで行きます。
ヒゼキヤは、何も語れる言葉も資格もない、自分の小ささ――雄獅子の前の燕や鳩のような自分の身の程を深く告白します。「ゆっくり歩んで」とはその弁えを感じさせる歩き姿です。そして続く
主よ、これらによって人は生きるのです。
とは、主の言葉や主の下さる年月とも読めますが、直接には「自分のたましいの苦しみ」によって生きる、と読むのが自然でしょう。苦しみの中で
どうか私を健やかにし、私を生かしてください。
とも願いつつ、続けて
17ああ、私の味わった苦い苦しみは平安のためでした。
と言うのです。死の淵に立たされて初めて、まだまだ続くと思っていた人生が、自分のものではなく、主に生かされている自分なのだと気づけたのです。
あなたは私のたましいを慕い、滅びの穴から引き離されました。
とは不思議な言葉です[x]。主は、私の魂ネフェシュ(いのち)を恋い慕っておられる。だから、苦しみや病にも合わされた。そうヒゼキヤは悟ったのです。
あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。
これも不思議な表現です。ヒゼキヤが重病にかかったのは彼の罪のせいではないのですが、ヒゼキヤの心には「自分への罰ではないか。あの罪か、何か主の怒りを買ったのではないか」という不安が兆したのでしょうか。しかしヒゼキヤがその罪の償いとか懺悔とかなしに、回復が与えられた時、彼は自分のすべての罪を、主ご自身が主の後ろに投げやった…もう私の手が絶対に届かない所に放ってくださった――私と主の間を罪が妨げるというのでなく、罪と私の間に主がどっかりといてくださる――そんな告白に思い至るのです。
この歌で、ヒゼキヤは何度も、生ける・生かす・いのちという言葉を繰り返しています。9節の「回復する」も21節の「治る」も「生きる」という語の意訳です[xi]。生きている事の脆さ、生かされているのだ、という強烈な気づきがあります。同時に、ここでヒゼキヤが全く言及していないのが、自分が王であることやこれまでの業績です。王だとか敬虔な人生とか、身分や肩書は一切関係ない、すべての人が主に生かされている、小さな存在であり、かけがえない人生を戴いているのです。以前この章の3節では、ヒゼキヤは
私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきた
と口走りました。それが、18、19節では「あなたの真実」に転じます。自分の真実を持ち出したヒゼキヤは、主こそが真実であり、その真実を慕い求め、語り告げることを繰り返しています[xii]。また、17節の「平安のためでした」は平安シャローム「完全」で、3節の「全きサーレーム心」と共鳴します[xiii]。ヒゼキヤは、病気と死の宣告の苦しみが降りかかり、自分の完全な献身を訴えたのですが、今は、その苦しみを味わってこそ、自分はより完全にされた――単なる「心の安らぎ」とか「平常心」以上のシャローム――私の魂を恋い慕い、苦しみを通して引き上げ、大泣きして祈った、言葉足らずな祈りも聞いてくださる、真実な主の平安シャロームを、心から告白するのです。そして、それが出来るのは、死ぬ前、よみに行く前の、生きている今、生かされている日々に他ならない、と言います[xiv]。
最初に申し上げたように、聖書の信仰は、神が造られたこの世界、この体、今のいのちをまず重んじます。周辺の他宗教は死後の世界を想像逞しく描いたのとは対照的です。もっと哲学的なギリシャも「この地上や肉体は、脆て儚く、労苦や禍がある」として軽んじ、見えない世界・精神の理想に平安を見出そうとしました。そんな中、聖書は、世界は神の作品である――痛みや苦痛、病気もあり、体は醜く衰えると思っても、この世界は神が造られた美しい世界、一人一人は神が恋い慕う存在、苦い苦しみも(それが、なければいい汚点ではなく)そこからしか見えないものを見せて生かしてくださっている――そう言い切ります。ヒゼキヤがこう言うに至ったように、私たちも、自分の人生設計がガタガタと崩されて、死のただ中で生かされていることに気づく体験を通らされます[xv]。苦しみは避けることも美化することも決して出来ない。ただ苦しみある人生を、主は平和シャロームへの道としてくださり、人は生きていくのです[xvi]。
これに加えて、イザヤ書全体を見ていく時に、この38章、39章には、ヒゼキヤを来たるべきメシアとして過剰な期待をすることを戒める目的がある、とも多くの学者が同意します[xvii]。36、37章での活躍からヒゼキヤを英雄視する期待に釘を刺して、ヒゼキヤが弱く、小さく、私たちと同じ人間に過ぎないことを、印象付けるのです。ヒゼキヤだけでなく、その後に登場する指導者たち(王、カリスマリーダー、牧師…)も、同じ人間であれば、救い主になることを期待しては間違います。イザヤが預言するメシア、来たるべき救い主はこの700年後に来られた方、イエス・キリストだけです。主イエスは、私たちのため、この世界に来られました。不死身の体や疲れ知らずのスーパーマンとしてではなく、同じ肉体を持ち、病を知り、涙を流し、疲れて眠り、空腹を覚え、最後は十字架で死にました。その苦い苦い苦しみの生涯こそ、私たちに平安を与え、私たちの苦しみをも主に近づける平和の道へと変えました。この方は、私たちの罪を引き受けてくださいました。ですから、私たちのすべての罪は、主イエスの十字架の後ろに投げやられたと信じて良いのです。ですから
20主は私を救ってくださる。私たちは生きている日々の間、主の宮で琴を奏でよう。
――確かに、主イエスは「よみに下り」、私たちは死の後にも主と共にいることも、終わりには栄光の体を戴くことも約束されているのですが、今は今、ここで生かされているいのちを生きるのです。苦しみや痛みを恐れたり、誰かヒーローや救世主が現われることを夢見たりせず、このガタつく体で、罪も限界ある同志、赦しと知恵を戴きながら、私たちはともに琴を奏でたり、祈り合い、助け合い、赦された限りある命と役割を愛おしみながら、歩ませていただくのです。生かされているのです。
「いのちの主よ。生きているのではなく、生かされているのだ、と気づかされたヒゼキヤの祈りを、ここに記してくださり有難うございます。繰り返して、生かしてくださり、罪を遠くに投げやり、苦しみをも益としたもうあなたを仰がせてください。主イエスが私達の救い主として来てくださいました。あなたの御力を信じ、奇蹟や癒しを祈りつつ、苦しみや死、涙の中に、あなたの真実を待ち望み、平安を見出し、あなたを褒め称える私達とならせてください。」
[i] 「この詩篇は、現代の詩篇研究家にとって深刻な疑問を提起する。なぜなら、この詩篇は一般的に受け入れられている形式のいずれにも当てはまらないからである。一見すると、特に題名(9節)からして、感謝の賛美歌であると予想される。しかし、19節と20節を除けば、内容も形式もそのような期待を明確に裏付けていない。一方、内容と韻律(3/2)は嘆きを示唆しているものの、冒頭の主への呼びかけといった形式的な特徴が欠けている。15 これらの要素は、研究者が資料を無理やり特定の方向に押し付けるべきではないことを警告するものである。また、この異例の形式の意義についても疑問を呈する。なぜこの詩篇は完全に嘆きでもなければ、完全に感謝でもないのだろうか?作者は何を伝えようとしたのだろうか?」 オズワルト
[ii] 列王記第一18・2、参照。
[iii] マタイの福音書25・46(こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。)など。
[iv] ダニエル書12・2:ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。3賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。
[v] 11私は言った。私は主を、生ける者の地で主を見ることはない。私は、死人の国の住人とともにあり、再び人を見ることもない。12私の住まいは牧者の天幕のように引き抜かれ、私から取り去られた。私は、機織はたおりのように自分のいのちを巻いた。主は私を、機はたから断ち切られる。
[vi] 12…昼から夜へと、あなたは私を終わりに近づけられます。13私は朝まで叫びました。主は雄獅子のように私のすべての骨を砕かれます。昼から夜へと、あなたは私を終わりに近づけられます。14燕や鶴のように私は泣き、鳩のようにうめきました。私の目は上を仰いで衰えました。主よ、私は虐げられています。私の保証人となってください。
[vii] 「ツバメ
SWALLOW
ひな この鳥にふれる文は、すべて旧約聖書にあり、著者た ちが観察によって知ったにちがいない、確認された習性 について語っている。すなわち、巣作りや移動の方法、 飛び方、鳴き方である。「あなたの祭壇に、鳥は住みかを 作り、つばめは巣をかけて、雛を置いています」(詩篇 84:4〔3〕)という文は、人の居住地の近くに、また家 や神殿そのものに巣を作る、この鳥によく見られる習性 にふれている。「山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る」 (エレミヤ8:7)という文は、ツバメが春の到来と共に規則正しく戻ることに注目している。また、ツバメの絶 え間ない鳴き声は、ギリシア人の間で、多弁を表わす通 り言葉となったが、それは「つばめや鶴のように、わた しはすすり泣きの声をあげ、・・・・・・」 (イザヤ38:14)とい う句にも見られる。
ツバメに関する、かなり謎めいた文が箴言の中にある。 「鳥は渡って行くもの、つばめは飛び去るもの。理由のな い呪いが襲うことはない」(箴言26:2)。その意味は、 ツバメが地上に降り立たず、飛び去って行くように、不当な呪いは誰の上にも留まらず、誰をも害することなく、 飛び去る、ということと思われる。この例に関しては、 大部分の時間を空中で過ごすアマツバメ (Swift)が、 もっともふさわしいイメージを提供する。
ヘブライ語はデロルで、その訳は一致している。ただし一部の註釈者たちは、アマツバメ (Swift) やイワツバ メ (House Martin)も同じようによく適合すると考える。
その訳を疑う理由はない。欽定訳の時代に知られていた、 次のような言い伝えがある。ツバメは飛んでいる時に、 互いに向かって絶え間なく鳴く。そのため、ツバメをつ ぶしたスープが、てんかんや吃音の薬として勧められた。 ツバメ (Swallow (Hirundo rustica〕)は、聖書の地に今 なおよく見られる渡り鳥である。また、その同類、イワ ショウドウツバメ(Crag Martin (Ptyonoprogne rupes- tris]) やコシアカツバメ (Red-rumped Swallow [Hirun- do daurica))も、そこで記録されている。」『聖書動物事典』69〜70ページ。燕の鳴き声はこちら https://youtube.com/shorts/QLbwt6LaQ5E?si=t0HKINGjWjFM_puq
[viii] 「この鳥の声と移動性について比喩的にふれている二つ の箇所がある。「つばめや鶴のように、わたしはすすり泣 きの声をあげ、鳩のようにわたしは呻く」(イザヤ38: 14)。また、「空を飛ぶこうのとりもその季節を知ってい る。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る」(エレミヤ8: 7)。
そのヘブライ語はアグルで、現代の動物学者たちはグ ルス属 (Grus) のツルと同定している。特徴のある声で 知られ、タルムードには「彼はツルのような叫び声を上 げた」という表現がある。クロヅル (Grus grus)は、聖 書の地を周期的に移動する。飛行が終わる時にあげる鳴 き声は、かなり離れた所でも聞こえる。ツルが、北ヨーロッパー帯の繁殖の地から、アフリカの冬の暖かさを求 めて南へ向かい、今より静かな旧約聖書時代の空を通過 する時、この大移動は、壮大な眺めだったであろう。ツ ルは背の高い鳥で、サギ (Heron) やコウノトリ (Stork) によく似ている。ただし、どちらの同類でもない。体の 色は大部分が灰色だが、頭と翼の端が黒、首の側面には 白い縞があり、頭の頂点はあざやかな赤である。その尾 は、立っている時には、羽毛の大きな房の中に隠れてし まう。ツルは主に湿地帯に住み、草や穀物から虫や小さ な哺乳動物まで、様々な物を食べる。今日、ツルはまれ な冬の来訪者として記録されている。しかし、1月中に 多数で北へ移動するのが見かけられる。」『聖書動物事典』71ページ。鶴の鳴き声はこちら https://youtube.com/shorts/qJT2SREwaXo?si=MoxcsNt57qyx7uLs
[ix] 「ハト DOVE Dove (ハト)には31回、Pigeon (ハト)には11回の 言及がある。ハトは明らかに聖書の中で最も重要な鳥で ある。われわれの時代では、上の2つの語は、事実上同 じものを意味する。ヘブライ語の同じ言葉が、Pigeon、 あるいは Doveと、様々に訳されている。したがって、両 方を一緒に扱って良い。ハトは、聖書に最も早く登場す る鳥の1つである。ノアによって箱船から3度放たれ、 1度目は休む場所が見つからずに帰って来るが、それか ら7日後に放たれた時には、オリーブの枝を口にくわえ て、すなわち木々の頂が現われたことの印を持って帰っ て来た。3度目は最後になり、帰ってこなかった(創世 8:8-12)。ハトは、遠くまで飛べることが知られてい る(詩篇55:7〔6〕)。また、美しくて清らかである(雅 歌1:15,2:14, 41, 52, 12, 6:9)。しか し、その歌は悲しみを帯びている(イザヤ38: 14,59: 11)。そして、その愚かさは、エフライムの思慮のなさを 言い表わすための例とされる(ホセア7:11)。ハトは、モーセの律法に記されている、犠牲のための唯一の鳥で あり、広範に、特にあまり裕福でない人々によって用い られた。アブラハムは、神から祝福の意図を示された時、 ハトを用意した(創世15:9)。
子の誕生の後、一定の時に、母親は犠牲として子羊と ハトのひなを持って行かなければならない。もし、そう するには貧しすぎるなら、ハトを2羽持って行っても良 い(レビ12:6-8)。新約聖書において、イエスの母は、 貧しかったので、この規定を利用した(ルカ2:24)。ら い病人の清めのために、コキジバト (Turtle Dove、新共 同訳・口語訳「山鳩」)2羽、あるいはイエバト (Pigeon) 2羽が、1羽は贖罪の献げ物 〔罪祭〕のため、もう1羽 は焼き尽くす献げ物 〔燔祭〕のための捧げ物として、記 されている(レビ14:22)。 しょく はん
ハトが、犠牲としてこのように広く用いられたため、 神殿の商人たちはその在庫をもっていて、それがイエス によって追い散らされた(ヨハネ2:16)。神の霊は、ハくだ
トの姿をとってイエスに降った(マタイ3:16)。また弟 子たちは、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさ い」(マタイ10:16)と教えられた。ハトは、アッシリア 人やバビロニア人の旗に描かれたが、平和の象徴として ではなくて、女神セミラミスの栄光をたたえるためで あった。セミラミスは、両王国を創建し、42年間統治し た後、その権力を息子に譲って退位し、ハトの姿になっ て天に飛んで行ったといわれる。
ハトは、ヘブライ人によって崇拝されたことはなかっ たが、「清い」鳥でありながら、旧約聖書の中で食物とし て名をあげられている箇所はない。ハトは、その純潔の ゆえに、イスラエルの表象とされていた。ソロモンの玉 座の上には、タカの上に鉤爪でとまるハトがつけられ、 戦うすべての国々が、イスラエルの手に渡される時が来 ることを象徴している。ヘブライ伝説では、ハトの生活 から倫理も導き出される。ハトは一雌一雄であって、人 間のために道を指し示す。
欽定訳の時代に、博物学者バーソロミューによって記 録されている1つの伝説があった。その中でコキジバト (Turtle Dove)の特色は、きわめて真剣な貞節とされて いる。
ハトは、その妻を失っても、他の相手を探そうとせ ず、独りでいて、交情の思い出を抱き、たえず呻き 苦しむ。寂しい所を愛して選び、交わりを避ける。春に現われては、呻き声をもって時の新たなことを 告げる。
ハトの種類は、2つのグループに分けられる。カワラバト属(Columba)は、モリバト (Wood Pigeon)、ヒメ モリバト (Stock Dove)、カワラバト(Rock Pigeon) を含む。そしてキジバト属 (Streptopelia)は、コキジバ ト (Turtle Dove) やシラコバト (Collared Dove)を含 む。5種のハトすべてが聖書の地に見出される。モリバ ト (Wood Pigeon (Columba palumbus〕) は、冬の間、 樹木の茂った地域、特にギレアデの森のあたりに多い。 しかし、3月には北に向かう。これは、ヨーロッパで見 られるものと同じ種類である。ヒメモリバト (Stock Dove (Columba oenas〕)は、もっと少なく、首の白い 飾りや翼の線がないことで識別される。やはり、冬の来 訪者である。カワラバト(Rock Dove (Columba livia)) は、飼いならされたハトの祖先であり、ほっそりと整っ た体形をもつ、現代のレース用のハトにかなり似ていて、 渓谷の岩の多い斜面に住む。コキジバト(Turtle Dove [Streptopelia turtur〕)――― その独特な鳴き声は、コキジ バトという種のラテン名(turtur〔トゥルトゥル〕)を連 想させる―――は、さらに小さく、栗色の頭と特色のある 黒い尾を持っている。それは聖書の地に、留鳥としても、 渡り鳥としても存在する。広い範囲にわたって生息し、 広々とした平野や森林地帯から、農耕地や庭園にまで及 ぶ。これよりわずかに大きいシラコバト (Collared Dove [Streptopelia decaocto〕)は、その首の周囲にある黒い半 分の輪が特徴となっている。これは、町や村を含む、さ らに広い地域に移り住み、今日ではキジバト属(Stre- ptopelia)の中で最も多く、最も広く適応に成功した種で ある。」『聖書動物事典』93ページ。
鳩の鳴き声はこちら https://youtu.be/1N9nMkZt1l0?si=igeUWPdL7-bdv96n&t=20
[x] 以前の新改訳では「あなたは私のたましいを滅びの穴から取り出されました。」と意訳し、欄外に原文として「恋い求め」が注記されていました。
[xi] 生涯(10)יוֹם(昼12、13、今日19、日々20)、生ける者חַי…死人の国(11)、いのち・生きている(12、16、19*2、20)חַי、終わり(12、13)、生きる・生かして(16)חָיָה、よみ(10、18) 回復(9)・治る(21)もחָיָה
[xii] 「17節で私たちが最も興味をそそられるのは、その動機から神が人々に神の忠実さへの希望を抱かせたいと願っていることが示唆されている点です。18節と19節で使われている「忠実さ」という言葉こそ、この箇所の要点だと私は考えています。癒しは、死に至るまで耐え忍ぶ神の忠実さの結果です。ここでのヤハウェの忠実さが、救うことのできなかった王の忠実さ(同じ言葉、3節)を凌駕していることは、決して軽視できるものではありません。ヤハウェの信頼性は、より根本的で、より根本的で、より決定的なものです。ゼキヤの忠実さと神の忠実さの結びつきは、ルターが詩篇143篇1-2節で指摘した、人間の義と神の義を対比させるものと似ています。王の救済は、まさに神のご性質に根ざしています。王には他に訴えるものはなく、また、訴えるものも必要ありません。」、ブルッゲマン
[xiii] שָׁלֵם。イザヤ書ではここのみ。
[xiv] 「最後に、感謝の歌によくあるように、18節で賛美の結末が描かれます。死の病に倒れていた王は、今や生きている者たちの中にいます。神は「生ける者の地」のために「私の命を留めておられた」のです。今や確証され、保証された命の賜物こそが、神の至高の賜物であり、感謝の根拠となります。死に渡されなかった生ける者たちは感謝を捧げます。この感謝は、死に代わる力強い選択肢であるヤハウェの忠実さを声に出すためです。死によって得られる究極の権利などあり得ません。そして、忠実なイスラエルはまさにこの点を若者たちに教えているのです。この詩が王とその病から目を逸らしていることに注目してください。王はもはや私たちの関心を引くものではありません。真の主題はヤハウェとヤハウェの忠実さなのです。」、ブルッゲマン
[xv] 「なぜイエスは弟子たちを嵐の中へ送り出したのでしょうか。イエスは、時としてあなたを嵐の中へ送り込むのと同じ理由で、彼らを送り出しました。つまり、私たち人間には、栄光を見るために嵐が必要なことがあるからです。信仰者にとっての平安は、楽な人生の中に見つかるものではありません。真の平安は、救い主であり、王であり、子羊であり、「わたしはある」であられる神の、臨在と力と恵みの中にのみ、見つけられるのです。この平安は、人生の嵐があなたの能力、知恵、力をはるかに超えて襲ってきても、あなたのものです。自分は決してひとりではないと知ると、以前であれば落胆と恐れに陥っていたであろう状況においても、希望と勇気をもって生きることができます。「わたしはある」の神は、すべての状況、人間関係、場所を恵みで支配しておられます。神はあなたのうちにおられます。あなたとともにおられます。あなたのためにおられます。この神こそ、あなたの希望です。」ポール・デービッド・トリップ『365日の恵み浴』(ブラッシュ木綿子訳、CBI Press、2025年)、2月26日より。
[xvi] 「人もまた、神という陶器師によってその御手で不純物を取り除かれ、従順になるよう揉み練られ、みmことばと聖霊の火によって幾度となく焼かれて、締まった器となる。火が物質を変化させる力を持つように、神の力は私たちを本質的に変えることができるが、作陶と同様に人が神に従うまでには、いくつもの工程をゆっくりと経ていく必要があるのかもしれない。…神も一つひとつの器を愛おしんでそれぞれに合った用い方をなさるのだろう。」、澤田郁子「見えない陶器師」『舟の右側』(2021年1月~12月号連載)、2021年12月号、45ページ。
[xvii] なぜヒゼキヤの死すべき運命と無力さをこれほど強調してこの書に記さなければならないのかという疑問への答えとして、この問いが浮かび上がります。明白に思える答えは、ヒゼキヤが約束のメシアではないことを意識的に明らかにしようとしているということです。ヒゼキヤは神を信頼し、滅亡の淵から民を救い出す能力を持っていましたが、イザヤが語った「子」ではありません。ヒゼキヤは、民が神に仕えるために不可欠な信頼を体現していましたが、その信頼を託すべき方ではありません。その方については、より詳細な啓示(40章から66章)がまだこれからです。 オズワルト

