2026/3/15 イザヤ書37章21〜32節「神の熱い決意」招詞:マルコ2・17b~c
紀元前702年、エルサレムの都をアッシリア帝国の大軍が包囲しました。その時、エルサレムの王ヒゼキヤは主の宮で祈りました。そのヒゼキヤに届けられたのが、今日の21節以下35節までです。ヒゼキヤの祈りを、主は確かに聴かれました。アッシリアの軍隊に包囲されて、嘲りの言葉をかけられても何も言い返せない中、もう絶体絶命としか思えない所に、この主の言葉が届けられます。人間の武力、権力、勢いが「向かう所敵なし」と思う――弱小の国はもう絶望だおしまいだと思っているところに、主の言葉が届けられます。ここに、今までイザヤ書でずっと繰り返されてきた、主こそが王である、歴史の支配者、私たちの唯一の主であるとの告白が、実例として語られるのです。その言葉を今日は32節まで読みましょう。
22主が彼について語られたことばは、このとおりである。
『処女である娘シオンはおまえを蔑み、おまえを嘲る。娘エルサレムは、おまえのうしろで頭を振る。
主はまず、今アッシリアが包囲して嘲っているエルサレムが、逆にアッシリアを嘲る、と逆転を宣言します。神がおまえを蔑む、でなく、お前が蔑んでいるエルサレムがお前を蔑むと引っ繰り返るのですね。更に、主は、おまえが罵ったのは誰なのか、と問います。
23おまえはだれをそしり、だれをののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる者に対してだ。
人間の高慢、思い上がりは、聖なる神に対する嘲りなのです。主は、人間の心の奥の声も聞きておられ、歴史を動かすような大きな業績も、漏らさず治めておられるお方です。
24おまえはしもべたちを通して、主をそしって言った。「多くの戦車を率いて、私は山々の頂に、レバノンの奥深くに上って行った。そのそびえる杉の木と美しいもみの木を切り倒し、その果ての高地、木の茂った園にまで入って行った。25私は井戸を掘って水を飲み、足の裏でエジプトのすべての川を干上がらせた」と。
センナケリブの誇るのはまず「多くの戦車」武力です。そして、イスラエルの北、レバノン杉で有名な山林も侵略しました。イスラエルの南、エジプトの大河ナイルをも踏みつけて干上がらせたと豪語しています。これらの言葉を情景に思い浮かべれば、どんな映像、どんな恐ろしいニュースになるでしょうか…。しかし、それに対して主は続けてこう言われるのです。
26おまえは聞かなかったのか。遠い昔に、わたしがそれをなし、大昔に、わたしがそれを計画し、今、それを果たしたことを。それで、おまえは城壁のある町々を荒らして、廃墟の石くれの山としたのだ。
神である主の、遠い昔からの御計画があっての、人間の営みなのです。それがなければ、街を荒らして廃墟にすることもなかったのです。そもそも、
28おまえが座るのも、出て行くのも、おまえが入るのも、わたしはよく知っている。わたしに向かっていきり立つのも。29おまえがわたしに向かっていきり立ち、おまえの安逸がわたしの耳に届いたので、わたしはおまえの鼻に鉤輪を、口にくつわをはめ、おまえを、もと来た道に引き戻す。
鼻に鍵輪(大きなフック)を掛けるとは残酷ですが、アッシリアの侵略においては常套手段でした。その残酷な仕打ちが、自分に帰って来る。そうして、主はアッシリアの思い上がりを罰するのです。
ここ、特に26節から、ともすると神の予定とか運命論・決定論のようなものを間違って引き出してしまわないようにしましょう。戦争とか侵略、悪や暴力も、大昔から神が計画していたのだ、などと結論して、神のせいにしてしまい、人間の責任ではない、とするなら、こことは真逆になります。主は王の責任を問うています。思い上がりを責めています。神のご計画を、人の暴力を正当化しません。「すべては神のご計画」であるとともに、その神は人の思い上がりを挫き、人にふさわしい報いを与え、小さい者の祈りに応えてくださる神なのです。決して、悪の犯人ではありません。またアッシリアが攻めて来たのは、ユダの民の罪を罰するため、という一面も大きくあるのですが、主はそのアッシリアの侵略をここで終わらせます。罪を犯してきた罰を受けるのでさえも、自業自得だ、神のご計画だからどんな嫌な思いも本人が悪い、何でもしてよい、ではないのです。一人一人、自分が嘲ったり、虐めたり、踏みつけたりしたことは責任が問われます。神のご計画だからこそ、人間の傲慢や心の声、勘違いもまた、漏らさず問われる。アッシリアの王さえ例外ではない、それがここの趣旨です。
だから30節で主はセナケリブからヒゼキヤに向き直って次のように希望の約束を告げます。
30あなたへのしるしは、こうである。「今年は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、それから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。31ユダの家の中の逃れの者、残された者は、下に根を張り、上に実を結ぶ。…
今年はアッシリア軍の包囲があったので、麦畑は手入れできず、落ち穂から生えた麦を食べるしかない。来年はそれから生えたものを食べて種蒔きをして、三年目にその収穫を食べる[i]。葡萄畑も造って、その実を食べるようにもなる。この先の希望が約束されます[ii]。それは畑や食生活だけでなく、民全体が復興し、残された者を中心に繫栄していくことと重なるのです[iii]。
32エルサレムから残りの者が、シオンの山から、逃れの者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
主の計画は、永遠から定まっているとはいえ、そこで人間が思いつく、決定事項をこなしてくようなレールの上のスケジュールではないのです。万軍の主の熱心――神の熱い決意、私たち以上に私たちに心血を注いで止まない。悪を罰するだけでなく、ご自分の民に、希望を約束してしまう、深い恵みの御計画です。神とは、そういう熱意、情熱、アツいお方であって、決してそのご計画が、人間に都合よく、言い訳にされるような冷たい神ではないのです。
私たちはセナケリブやヒゼキヤのような一国の王ではありませんが、やはりこの言葉の前に、主のご計画を忘れて、自分の力や業績に思い上がることを省みます。また、主のご計画を告白するにしても、それを何か、神の罰だの、警告だのさばきだの、決まったことだと勝手に解釈してしまうこともしません。主イエスは、地上の御生涯で、権力者や宗教者が庶民や低い者を「罪人」と見下す迷信に対決しました。生まれつきの病人を、本人か親の罪のせい、とする考えを撥ね付けました。女に生まれた者は律法を学ぶ資格がない、とされた文化で、イエスはサマリアで、ベタニアで、復活の墓の前で、女性たちと語りました。苦しみや低い身分、不利な環境を、神の名を持ち出して固定化する考えをイエスは引っ繰り返しました。そんな考えを煙たがる宗教家たちに対して、こう言い切りました。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです[iv]」と。
今日の最初は、小さな娘エルサレムが、セナケリブ王を蔑み、嘲り、首を振る姿でした。主は自ら愚かな人間を笑うだけでなく、この権力者が馬鹿にしている小さな町、弱者に、王を笑わせてくださるお方です。力で抵抗することは出来なくても、その自慢話を笑わせてくださるのです。力づくではないけれど、無抵抗なのではなく、非暴力の抵抗です。神の計画や定めを信じる者は、無情な運命を「神のご計画だ」と諦めはしません。主の熱心、私たちのための良い御計画を信じて、横暴な言葉を嘲ります。希望を語り、歌を歌い、どんな願いをも祈ります。そして、そんな私たちの働きも、主の遠い昔からの御計画の中で、どんな尊い業を果たすのでしょうか。勿論、与えられた力、チャンス、働きを謙虚に受け止めながらも、主は遠い昔から、不思議な尊い計画を定めています。私たちもその一環を担う、そう信じることが出来るのは、何とワクワクすることでしょう。私も用いてください、と祈れるのは何と感謝なことでしょう。
「神である主、あなたの大いなる御手は、昔も今も、人間の傲慢を笑い、卑しめられている者を引き上げます。そして私たちにも、あなたの笑いを満たしてくださいます。主よ、私たちを恵みによって押し出して、あなたに立ち帰り、悪を悪と名付け、熱心をもって種を蒔かせてください。今も暴力に苦しむ世界をあわれみ、あなたの慰めと勇気を、良き心を与えてください」
[i] 「このしるしの正確な展開については推測の余地があるが、大筋は十分に明らかである。それは「食べる」を意味する ‘akal の絶対不定詞で始まり、終わり、一般的な経験が何に関係するかを示している。今年、唯一の食料は、畑に偶然こぼれた種から発芽した穀物である。¹ 翌年には、以前の植物の根から発芽したものだけが利用可能となる。しかし、3 年目には、植え付けと収穫という通常の生活に戻る。このことわざの全体的な意味は、現在の包囲状態によって経済の農業基盤は徹底的に破壊されているものの、アッシリアの脅威の痕跡がまったく残らない日が間もなく来るということであるのは明らかである。ヤングが「種を蒔く、収穫する、植える、食べる」という命令形は予言の確実性を伝えることを意図していると示唆しているのはおそらく正しいだろう。」 オズワルト
[ii] 「問題は、その期間の長さにあります。救出は間もなく、しかも完全に行われるであろうという兆候があります。もしそうなら、その効果が感じられるまでになぜ3年もかかるのでしょうか。いくつかの解決策が提案されていますが、最も実現可能性が高いのは2つです。1つは、「3」という数字はヘブライ預言では慣習的であったため(16:14参照)、特定の暦の日付を意図したものではなかったというものです。しかし、この説明は、明確な兆候としての預言の価値を弱めてしまうように思われます。より適切なのは、デリッチらの提案のようです。それは、実際の暦では3年を意図しているものの、対象となるのはわずか14~15か月程度だというものです。この見解には、偶発的な成長が食べられていた「今年」が終わりに近づいていたため(32:10)、この預言は秋になされたという示唆が含まれています。救出は秋の植え付けまでに間に合わず、翌年は以前の植物の根から生えてきたものしか利用できないことになる。しかし、翌年の秋、つまり暦の3年目が始まる頃には、アッシリア人がいなくなり、通常の生活に戻ることができるだろう。全体として、これが最も満足のいく解決策であるように思われる。」 オズワルト
[iii] 「31-32節で預言者は農耕の比喩をユダとエルサレムに当てはめています。こぼれた穀物のように、民の残りの者たちは再び実を結び、古い台木のように再び芽を出し、耕され種を蒔かれた畑のように、神の民は再び地に広がるでしょう(4:2, 3; 10:20, 21; 11:1)。神の民への熱意は決して衰えることはなく、彼らの中にほんのわずかな信頼の火花が現れるたびに、神の息吹がそれを燃え上がらせます。
これらの人物像は7章から12章をも想起させます。冒頭、イザヤの子の「残りの者は帰る」(7章3節)において、残りの民の姿が際立っており、10章20節と21節、そして11章11節と16節にも再び現れます。イスラエルの罪は、かつての姿の影に過ぎないほどにまで衰退させているかもしれませんが、神の尽きることのない恵みによって、その影さえも生命の輝きを放っています。2 ここでの残りの民とは、アッシリアがエルサレムの残りの地域を征服した後もなおエルサレムに生き残ったユダヤ人を指していると考えられます。預言者は、この小さな種から国が再び満ち溢れることを約束しています。」 オズワルト
[iv] マルコの福音書2・17。

