2026/3/8 イザヤ書37章1〜20節「唯一、生ける神なる主」
イザヤ書37章は前回の36章の続きで、都エルサレムをアッシリア帝国の大軍勢が包囲し、最後通牒を迫られた時の物語ストーリーを伝えます。紀元前702年で、歴史の史料を調べても、流石に自国に不利な歴史をアッシリアが残すことはしないにせよ、エルサレム包囲とその撤退などは、疑う余地ない、事実とされます。現実に、主はエルサレムを救ってくださった。大国アッシリアから、ご自分の小さな民を守ってくださったのです。しかし、その結論に行く前に、そこまでの経緯をイザヤ書は丁寧に記します。そこを、私たちもじっくり聞き取りましょう。何しろここまでも、イザヤの語る預言、主の言葉に耳を傾けない姿こそ、責められて来たのですから。
ここでもそうです。前回のアッシリアの将軍から告げられた侮辱に、1節で
ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を引き裂き、粗布を身にまとって主の宮に入った。2彼は、宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに粗布を身にまとわせて、預言者である、アモツの子イザヤのところに遣わした。
とあります。衣を引き裂き、粗布を纏うのは、悲しみと悔い改めとの強い表現です。ヒゼキヤは単に、主に祈ったとか、祭司に沢山の犠牲を献げさせ、必勝祈願の儀式をしません。むしろ、衣を裂き、側近や祭司たちにも悔い改めを命じ、そしてイザヤに遣わしたのです[i]。前回36章はイザヤの登場も言葉もない、イザヤ書唯一の章です。平行箇所の列王記第二18章を見るとハッキリと書かれています。ヒゼキヤは、この包囲に先立って、アッシリアの要求に屈して、主の宮の金を剥がして渡していたのです。主を信頼するより、アッシリア王を宥めることに腐心し、背きました。しかしここでヒゼキヤは、そうした罪を悔い改めて、主の宮に行きます。でも自分で祈るより、イザヤに祈ってくれと、使いを遣わします。3節は今の無力さを痛感する言葉です[ii]。4節で「おそらく、あなたの神、主は…」と言うのは、今まで自分も長官や祭司さえも、主を蔑ろにしてきたから、「私の神」「私たちの神」とは言えなかった。敵から助けてください、この苦難から救いたまえ、とも言えません。ただ「彼の主君、アッシリアの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、お聞きになったそのことばをとがめられます。…」と言います。アッシリアの王が、人間に過ぎないのに、生ける神、主を謗そしるという冒瀆を訴えます。神、主がその言葉を咎めることに訴えかけます。そして、その祈りの声をあげることを、イザヤに願うのです。
その伝言を携えた長官たちが来た時[iii]、イザヤは言います。
6…あなたがたの主君にこう言いなさい。『主はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。7今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」
イザヤはヒゼキヤに、主からの言葉を告げるのですね。それも「恐れるな」――新約で主イエスが何度も告げる、あの力強い言葉――を言われるのですね。衣を裂くしかなく、自分で祈ることも出来ず、粗布を纏っているヒゼキヤに、主は希望の言葉を語ってくださるのです。
その後、8節でアッシリアの将軍
ラブ・シャケは退いて、リブナ[エルサレムの北、数十キロ][iv]を攻めていたアッシリアの王と落ち合った。…
と続きます。一旦の退却は、7節の言葉「あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる」の成就かと期待したでしょうが、これは本国への引き上げではなく、すぐ王の使いが送られてきます。
10「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえが信頼するおまえの神にだまされてはいけない。…
先の36章14節では住民に対して「ヒゼキヤに騙されるな」でしたが、ここではヒゼキヤに対して「おまえの神に騙されるな」です。内容は36章18~20節と変わりませんが、ヒゼキヤに直接、主への信頼を疑わせるのです。ヒゼキヤはどうしたでしょう。
14ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取って読み、主の宮に上って行き、それを主の前に広げた。15ヒゼキヤは主に祈った。16「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。17主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセンナケリブのことばをみな聞いてください。18主よ。アッシリアの王たちが、すべての国々とその国土を廃墟としたのは事実です。19彼らはその神々を火に投げ込みました。それらが神ではなく、人の手のわざ、木や石にすぎなかったので、彼らはこれを滅ぼすことができたのです。」
ヒゼキヤは主に直接祈ります。16節では四つの称号を重ねて、主の偉大さ、比類なさ、力強さ、支配、創造を告白します。主という太字の名前が畳みかけられます。主は、他の神々――神ならぬ偶像とは違う、ただおひとりの神です。17節は、主に目や耳がついている、という事ではありません。他の国の神々の像には目や耳も彫られていても、見たり聞いたりは出来ませんでした。主は人の目には見えない方で、人よりも遥かに深くすべてを見通し、どんな声も心の囁きや、声なき小さな者の呻きさえ聞き逃さないお方です。最初にヒゼキヤが、アッシリアの王からの手紙を主の前に広げたのも、「読んでください」とのつもりではないし、内容を説明してもいません。ただおひとりの生ける神は、ご存じだと知っています。だからこそ、その冒涜的な手紙を丸ごと、主の前に差し出して、主が正しく怒ってくださるよう祈るのです。
20私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知るでしょう。
「私たちの神、主」と祈る――先にイザヤに「あなたの神、主」としか言えなかったのが「私たちの神、主」と言える関係に回復されました。それはただおひとりの神、主の恵みです。主を冒涜するアッシリアが打たれて、その手から救い出される、という話に見えて、実は、エルサレムの民も、ここまで主を冒涜してきたのでした。神である主を礼拝しつつも、周囲の繁栄や宗教にも二心でした。神の主権を認めると言いながら、他の国々も勝てなかったんだから、自分たちも無理ではないか、と神殿のものをアッシリアに送ったのはヒゼキヤでした。もし彼らの心の本心が、手紙に書かれて主の前に読まれているとしたら、ヒゼキヤたちも決して無実ではありません。「私たちの神」などとは申し上げられないのです。私たちも同じです。
しかし、ヒゼキヤたちのためにイザヤは主の言葉を告げてくれました。「恐れるな」――懺悔や苦行や条件付きの勝利ではなく、待っていたかのように主の言葉を告げました。それゆえ、ヒゼキヤは大胆に「私たちの神、主」と祈る関係に回復されたのです。「主を侮る敵は滅ぼされる」以上に、私たちが、主を侮り、小さく、自分たちの想像力の中だけで考えていたのが、主を頼り、信頼するようになる。そうしてくださる主の御業をここに見るのです。
この何十年か前、主はアッシリアの首都ニネベに預言者ヨナを遣わしました。ヨナ書は主がニネベをも惜しむ神であることと、それを拒むヨナの心を取り扱うことにあらゆる備えを惜しまないことを迫る書です[v]。ただおひとり、神である主はどんな大軍をも打ち破ることが出来ます。それ以上に私たち人間の心を勝ち取って、「あなただけが、世界の神、私たちの主」と心から告白させる事に力を現します。人の心が手紙なら、神の前に広げられて、不信仰や疑い、神への冒涜や罪悪感や恐れでいっぱいです。主は、その私たちの神となる神です。御子イエスは人となってくださいました。冒瀆に怒るより、散々の冒瀆の限りを受けても父に赦しを祈り、いのちを献げてくださいました。復活し、生きておられる主が、聖霊により、主への心からの信仰を、私たちに下さいます。その御業の前に謙るなら、私たちが敵や頑固な不信心者と思う人にも、主は、新しい心を下さるかもしれない、という目も開かれるのです[vi]。
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
すると彼は起き上がり、家に帰った。(マタイの福音書 9:5-7 )
「万軍の主。あなたは、力を誇る者を挫く、大いなる神。私たちが心揺れ動く時も、あなたが私たちの神でいたまいます。罪の赦しを、信じる心を下さいます。どうぞ頑固な私たちの心を、いのちで潤し、和らげてください。あなたの力が私たちの目を開き、心を変え、新しく生かしてくださることを信じ、願わせてください。その恵みの中に、他者を見る目をも与えてください。私たちをみことばの約束のうちに守って、あなただけが主であることを知らせてください」
[i] 「この祈りまで長い道のりをわれわれがたどってきたのは、王が強い不安にかられて祈ることになった、その背景を理解することが重要だったからである。ヒゼキヤ王が祈りをささげた理由は、彼が弱り果て、万策尽きたからである。ヒゼキヤ王は、どこにも助けを見いだせず、絶望的になっていた。19章2—4節において王は、慣例に従って祈りの人・預言者イザヤに託することにした。しかしアッシリアの三度目の演説の終わるころには、われわれは、事態が緊迫しており、王は預言者の仲介を待つこともできないほどに絶望状況に陥ったという印象を受ける。王は自ら一歩を踏み出し、彼自身の祈りをささげた。 王は祈るためにエルサレム神殿へのぼって行く(19・14)。おそらく王が神殿にのぼるにあたっては定められた王宮の流儀があり、壮麗な行列が進んでいったと考えられる。しかし王を見守る民にとって、彼がひどく逼迫し疲弊している様子は一目瞭然だったであろう。これは国家の非常事態であり、この状況における王の祈りは、軍事的脅威に応えるドラマである。」、ブルッゲマン『叫び声は主に届いた』、福嶋裕子訳、日本キリスト教団出版局)166 ページ。同書159〜173ページ第8章は、ヒゼキヤの祈りを取り上げています。
[ii] イザヤ書37・3 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『今日は、苦難と懲らしめと屈辱の日です。子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がないのです。』
[iii] 彼らが王の言葉を伝えたか、伝える前にか、は書かれていないだけで、定かではありません。そうした書かれていないところを、あまりドラマチックに深読みしようとすることは、本筋から外れるでしょう。
[iv] 「リブナの位置はまだ明確には特定されていません。以前はラキシュの北約20キロにあるテル・エ・サフィとされていましたが、最近では北約10キロのテル・エル・ボルナトではないかと示唆されています。アッシリアの王がラキシュからそこへ移動した理由は明らかではありません。おそらくラキシュが陥落し、アッシリア軍が周辺の従属地域を「掃討」していたのでしょう。あるいは、セナケリブがエジプト軍と対峙した際、エルサレムを真後ろではなく側面に置こうと北へ後退していたのかもしれません。」、オズワルト
[v] 参照、ヨナ書。
[vi] 「[平行箇所のⅡ列王]19章15~19節のヒゼキヤの祈りは、権力政治のまっただなかで極めて異例である。圧倒的な抵抗の力を前に恐れを抱く民に囲まれたにもかかわらず、ヒゼキヤは信仰の人として行動し話した。信仰の人とは、世界を支配する因習的な力を拒絶する、ひとつの意志とひとつの主体性に訴える人である。危機に際してヒゼキヤは軍隊を発動させるのではなく、すべての因習的な常識を超えて神が歴史に介入してくださるという、歴史の開放性を信じる「とらえどころのなさ」をもって危機に対処した。このテクストにおけるもっとも重要な約束とは、祈りが生活の慣れ親しんだいつもの領域に制約されないことである。このテクストのもっとも誘惑的な部分は、「祈りの力」を無批判に国家の大義のために利用することである。祈りにおける忠実なパートナーとは、帝国ではなくて弱小国であることをテクストはきっぱりと告げている。帝国の力を手にしている合衆国のわれわれは、このことを心に留めておこう。帝国の脅威にさらされている人々のくちびるにこそ世界を変える祈りがあるのだ、と。」ブルッゲマン、『叫び声は神に届いた』、171~172ページ。

