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2026/3/1 イザヤ書36章「何に拠り頼んでいるのか」

 イザヤ書36章は、一目見て分かる通り、35章までのような詩文とは違う、散文になります。ここから39章までの四章は、間に長い詩が二つ入りますが、ヒゼキヤ王を主人公とする出来事を伝えます。長いイザヤ書の中間で、このヒゼキヤ王の経験が、イザヤの言葉と目の前の現実とを強く結びつけます。また読者である私たちにも、イザヤ書がリアルとなるこの部分です。

 これは「ヒゼキヤ王の第十四年のこと」で「アッシリアの王センナケリブ」が都エルサレムまで攻めて来た、絶体絶命の国難です。Ⅱ列王記18、19章にも記されています。列王記ではっきりと分かりますが、これに先立つ20年前、紀元前七二二年に、アッシリアは北のイスラエル王国を既に攻め落としています。その後[i]、南ユダまで迫って来たのです。その大軍に立ち向かうだけの軍事力はヒゼキヤにはなく、一度は、エルサレムの財宝、神殿の金まで剥がして貢ぎ物にし、軍を引き上げてもらったのですが、前七〇一年、再びアッシリア軍はやってきました。そして「上の池の水道のそば」、エルサレムの城壁の上から声が聞こえるような場所で、ヒゼキヤが遣わした三人の側近が交渉にあたるのです[ii]。しかしラブ・シャケ将軍は、圧倒的な優位にありました。4節から10節の言葉は、横柄な最後通牒であり、侮辱の言葉です。

…ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王がこう言っておられる。『いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。口先だけのことばが、戦略であり戦力だと言うのか。今おまえは、だれに拠り頼んでいるのか。私に反逆しているが。

 まずヒゼキヤは呼び捨てで「王」と呼ぶことは一度もなく、アッシリアの王は「大王」「私の主君」の称号を欠かしません。また4節から9節には「拠り頼んでいる」という言葉が6回も繰り返されます。これはイザヤが、主を信頼せよ、と呼び掛けて来たのと同じ言葉です。イザヤの言葉を茶化すように聞こえます。実際、ユダヤの民はまだ、主に信頼する、主のみに拠り頼む、と言い切るようなものではありませんでした。6節で

おまえは、あの傷んだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、…

と言われるように、南のエジプトが頼りだという声も多かったのです。また7節に

おまえは私に「われわれは、われわれの神、主に拠り頼む」と言う。その主とは、ヒゼキヤがその高き所と祭壇を取り除いて、ユダとエルサレムに「この祭壇の前で拝め」と言った、そういう主ではないか。」

と言います。ユダの民衆の間では、主に対しての祭壇(「高き所」)を築いて拝んでいた習慣があった。ヒゼキヤはその弊害を取り除くため、個人的な祭壇を止めさせて、都の神殿の聖所に集中させたのですが、その上からの宗教改革に残るわだかまりをついたのが7節でしょうか。そうして、お前達の拠り頼んでいるのは当てになるのか、と揺さぶる。8節で

乗り手をそろえることができるのなら、おまえに二千頭の馬を与えよう

というのも、到底そんな騎兵は揃えられないことを思い知らせます。極めつけが、

10今、私がこの国を滅ぼすために上って来たのは、主を差し置いてのことであろうか。主が私に『この国に攻め上って、これを滅ぼせ』と言われたのだ。」」

 主なる神がこの国を滅ぼせと命じた、という。勿論、はったりに違いありませんが、イザヤたち預言者は確かに、主がユダの民の罪を、アッシリアを用いてさばくという言葉も告げてはきたのです。その預言を逆手にとって、戦意をすっかり挫いてしまおうという戦略です。

 こうして色々な言葉で揺さぶりをかけて来るのは、狙いがエルサレムの中にいる人々をバラバラに分裂させて、無力化することにあったからですね。だから、11節で長官たち3人が、アラム語で話すよう願っても、城壁の上に座って耳を欹そばだてている住民にこそ聞かせたい、と言って、13節から大声で呼びかけるのです。その言葉が、20節まで続きます。ここでは

救い出すことができない

ことを7回も繰り返します。

ヒゼキヤが「主が必ずわれわれを救い出してくださる」と言っても、そうはさせない

と何度も言います。合間に、

私と和を結び、私に降伏せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、自分の井戸の水を飲めるようになる。

という餌をぶら下げますが、ついさっき

自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになる

と言ったばかりではありませんか。その後、他国に連れて行くとそこは

穀物と新しいぶどう酒…パンとぶどう畑の地である

と言われますが、実際には、アッシリアが侵略した地の住民を捕囚として移住させた先に、そんな楽園は待っていません。

 こんな飴と鞭、絶望の崖っぷちと薔薇色の未来と、いろんな言葉を畳みかけて揺さぶって来られたら、住民たちはどうするでしょう。恐れて絶望したり、敵の言葉を信じようとしたり、喧嘩や分派が起きるでしょう。この時、民の中でどんな会話がなされただろうと想像します。

 しかしここで、ヒゼキヤの賢明さが生きます。

21人々は黙って、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。

この「人々」というのがエルサレムの住民なのか、3人の長官のことなのか、どちらとも読めるのですが、どう答えるかより、黙ったまま、答えずに帰って来る。こう命じたヒゼキヤのことをわざわざ記します。そこには、私たちが、神をも恐れぬ敵が、実際に強く、勝利や成功を収めて、実績のある敵が、言葉巧みに嘲ったり、私たちの信頼、信仰を揺さぶるような理屈を重ねたりしてきた時にも言えます。何か答えようとするより、黙っているように、という知恵があります。[iii]

 もちろん、いつでもただ黙っていればいい、反論には答えてはいけない、というものでもありません。耳を貸すべき批判もあるし、間違いを認めて出て行くべき時もあることは聖書にも例がある通りです。この沈黙は、不安や疑いを煽り立てる声に距離を置いて、静まって、正しく考えるための沈黙です。そしてこの後22節で、3人は

…自分たちの衣を引き裂いてヒゼキヤのもとに行き、ラブ・シャケのことばを告げた。

黙って口を閉ざして、思考や感情もシャットアウトするのではないのです。敵の前から離れたところで、しっかり嘆くことも大事でしょう。そしてその沈黙を支えるのは、拠り頼むに値するお方、主がおられるからです。私たちを救い出す主がおられるから、言い返すより黙ることが出来ます。

30・15立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。

 この信頼は前半4節から10節で「だれに拠り頼んでいるのか」と挑発した、あの言葉です。そしてあの30章でもこの36章でも、人々は主に拠り頼んではいませんでした。信頼するよりも動いていました。だからこそ、ラブ・シャケのこの横柄な言葉は彼らを揺さぶったでしょう。エジプトも倒れた、北イスラエルも、他の国々も勝てなかった、あいつの言う通りじゃないか――自分たちには騎兵も揃えられない、弱点だらけだ――こうなったのも主の御心じゃないか、もう主は我々に愛想が尽きたんじゃないか…。そういう心配や疑り深い思いが膨らんでしまう。戦争だとか地震や災害、コロナ禍の非常事態…、ニュースとデマとで翻弄される世界の姿もここに重なります。主イエスも、戦争や地震や何かあると「世の終わりだ、キリストの再臨だ」と騒ぐ人々に惑わされないようにと警告します[iv]。あれこれと惑わすことは起きるのです。真面に受け止めれば翻弄さる事は起きる。一々いちいち答えていては振り回される声は飛び交います。争いや憎しみや分断を引き起こして笑っている悪があります。けれどこの危機さえ、却ってヒゼキヤも長官や民衆も、主に拠り頼む機会になりました[v]。「主に拠り頼めば守られる。大丈夫」という能天気なご利益信仰ではなく、自分たちの罪・間違いを認めざるを得ない、頼りにならないあれこれに縋っていた恥も暴露される、痛い所を突かれたのも事実、これからどうなるかも分かるわけではない――そういう絶体絶命な中で、そこから「必ずわれわれを救い出してくださる」主を、このイザヤ書36章以降、平文が伝えてくれます。その証しを聞きましょう。

「主よ。私たちには、沈黙が精一杯の知恵でしかない時も、あなたは私たちの拠り頼む、生ける聖なる神です。アッシリアを破り、最後の敵である死をもご自分のいのちをもって破られた主が、私たちを救い出す方であると、多くの危機を通して体験します。どうぞ御言葉に教えてください。怪しげなデマや、判別つかない意見の飛び交う世界で、静かな信頼をもって地の塩、世の光であらせて、拠り頼むに足るあなたを証しさせ、あなたの御手としてお用いください」

[i] この間に、アッシリアの王はサルゴン2世からセンナケリブ1世に交代しています。

[ii] この「上の池の水道」は、イザヤ書7章3節にも出て来ます。ヒゼキヤ王の父アハズ王が、アッシリアとの同盟をイザヤに非難されたのがこの場所でした。イザヤ書36~39章は、不敬虔なアハズ王と対照的な、敬虔王ヒゼキヤの姿を取り上げて、メッセージとしていると言えます。

[iii] 「きょう読む箇所……イザヤ書三六章 「しかし人々は黙っており、彼に一言も答えなかった」(二一) 再び歴史の舞台に戻ります。ヒゼキヤ王の第十四年、いよいよイザヤの預言どおりにアッシリア王セナケリブがユダに攻めのぼって来ました。 エルサレム城外に立ちふさがった大将ラブ・シャケは勝ち誇り、大音声をあげて、降伏をよびかけました。「私と和を結び、私に降参せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぐどうと自分のいちじくを食べ、また、自分の井戸の水を飲めるのだ。その後、私が来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行こう。そこは穀物とぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地である」(十六―十七)。 このような誘惑や好餌は、かつてエバになげかけられて以来(創世三・四―五)、今日でも私たちの耳のそばにまつわりついています。 「しかし人々は黙っており、彼に一言も答えなかった」とあります! 沈黙の解答! そうです。無用な議論よりも、黙して、神を待つことの必要に気づきましょう。」 小畑進『きょうの力』489ページ

[iv] マタイの福音書23~25章参照。

[v] 「実際、この挑戦こそが流れを変えた。ユダはどういうわけか目を覚まし、イザヤが長年訴え続けていたことに気づいた。「神以外に信頼できるものは何もない!」」オズワルト