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2026/2/15 イザヤ書34章1〜16節「その宮殿には茨が生え」

イザヤ書は全六六章ですから、それで言えば34章から後半です。実際34~35章はイザヤ書の前半と後半を繋ぐ蝶番とも、後半の要約とも言われる大切な歌です[i]。この34章は

国々よ、近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。…

と始まって、諸国に対する裁きを告げます。イザヤの時代、イスラエルの民だけでなく、周辺の国々もその横暴さ、思い上がりをさばくことは、イザヤ書の13章から23章で詳しく告げられます。その宣告をもう一度まとめているのが34章です。

主がすべての国に向かって激しく憤り、そのすべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、虐殺されるにまかされたからだ。

この「聖絶」という言葉が表すように、ここでの描写は、聖なる神の諸国に対する徹底的した裁きです。それは人間に対して厳しさを極めるにもまして、

天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は枯れ落ちる。…

と言われるように、世界を終わらせて、そこまでの歴史を総決算する、最終的な判決です。

この裁きは、人間個人々々にも向けられますが、それにもまして国――王、為政者、権力者――社会を管理する力と責任を与えられながら、それを乱用する者たちが、中心的な対象です。それが5節以下で、エドムを引き合いにする展開です。

「まことに、天でわたしの剣は血に浸されている。見よ。これがエドムの上に、わたしが聖絶すると定めた民の上に下る。」

エドムとはイスラエルの民とは文字通りの兄弟関係にある民です。地図の上ではすぐ東隣にありました。しかし兄弟仲は必ずしも良くなくて、戦争もしましたし、イスラエルに他国が襲撃した時は、助けるどころか見物をしたり、嘲ったり、略奪に加わったりしました。エドムの罪はあちこちで非難されていて[ii]、旧約聖書で最も短い預言書オバデヤ書は、丸ごとエドムへの厳しい言葉です。イザヤもここでエドムを、裁きを受ける国々の代表として名指しします。実は13~23章の諸国への宣告には「エドムへの宣告」はありませんでした[iii]。だから、ここは満を持してということか、エドムがその横暴さの仇を返される姿が描かれるのです。

ここには血生臭いどころではない描写が続いていますが、文字通りの血みどろな光景というよりも、人間の残虐さを神は決して見逃されずに報いられることを言いたいのでしょう。例えば7節の「野牛…雄牛…荒馬」はエドムの権力者、有力者たちを指す、というように。また、9節以下

エドムの川はピッチに、その土は硫黄に変わる。その地は燃えるピッチになる。10それは夜も昼も消えず、その煙はいつまでも立ち上る。そこは代々にわたって廃墟となり、もうそこを通る者はだれもいない。

と、エドムが焼け野原になると言いつつも、

11ふくろうと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏からすがそこに住む。…

とも言うのですから、字面通り、永遠に燃え盛る火の海だと言うよりも、彼らが誇った繁栄はすっかり朽ち果てて、聳え立つ建物もすっかり崩れて、野生動物たちが巣食うほどに荒廃する、ということでしょう。

11…主はその上に茫漠の測り縄を張り、空虚の重りを下げる。

この茫漠という言葉は聖書の一頁目、創世記1・2に出て来る言葉です。地が創造された時、光が造られる前の状態を指します。その最初の状態に主は戻すのです。主こそ神であって王だからです。人間の自惚れや神を忘れた計画は、神の裁きの前に立ち果せることが出来ません。そしてそれに続いて描かれるのが、今日朗読で聞いた13節から17節までの鳥獣戯画です。

ここに登場する動物たちは、家畜や生贄や食用にはしないような野生動物たちばかりです。11節の「ふくろうと針ねずみ」から始まって、12種類の動物や鳥が出て来ます。それらが実際何の動物を指すのか明らかでなく、違う翻訳では全然別の名前だったりするでしょう[iv]。それぐらい普段の生活には馴染のない動物、律法では「汚れた動物」とされる獣や鳥がこの廃墟に集まって、のんびりと塒ねぐらにしている――。ぱっと見は恐ろしい、忌まわしい光景で、そんな所には行きたくないと思う人が多いでしょう。でも、不思議とこの野獣たちは平和で、憩いや休み場を得ています。

15蛇もそこに巣を作って卵を産み、それをかえして自分の陰に集め…鳶もそれぞれ自分の伴侶とそこに集まる[v]16主の書物を調べて読め。これらのもののうち、どれも失われていない。それぞれ自分の伴侶を欠くものはない。…

廃墟に集まった獣たちも伴侶パートナーを得ている――これには、あのノアの大洪水の裁きの時が思い出されます。地が暴虐で満ちた時、主は箱舟にノアの家族とともにすべての動物を、一番ひとつがいずつ乗せました。きよい動物は七組、きよくない動物も雄雌一番ずつを乗せて生き延びさせました[vi]。あの記事がここで「主の書物」と言われているとは言い切れませんが[vii]、このように言うことはこれらの動物をも絶滅させず、繁殖させることが、小さくない主の御心だと印象付けます。

ここでも烏[viii]や蛇が集まっていると想像するとゾッとします。14節の「野山羊」[ix]や「夜の鳥」[x]は当時信じられていた夜のお化けのようなものかもしれません[xi]。そうしたものもひっくるめて、主は人間の虚栄の宮殿を廃墟にされた後に、そこを嫌われ動物たちの憩いの庭とする。人間が邪魔に思って、絶滅しても気にしないような動物たちをも、雌雄番しゆうつがいで集めて再出発をさせようとなさる――。ジャッカル[xii]が貴族の住まいを踏み周り、梟[xiii]が超高級な品々を羽だらけにさせる――それは、神の裁き、破壊であるとともに、神の祝福、新しい始まり、今まで価値あると思われてきたものが笑われて、主のいのちの業が祝われる、大いなる幕開けなのです。

17主はこれらのもののためにくじを引き、御手が測り縄で測って彼らに分け与えたので、彼らはとこしえまでもこれを所有し、代々にわたってここに住む。35・1荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。

と歌って、35章に繋がって行くのです。汚れた動物をも憩わせ、繁殖をさせる主の御業が、喜び、踊りへと続いていくのです。いいえ、烏もジャッカルも蛇のいのちをも決して失わせまいとする神は、すべての人をも慈しんでおられます[xiv]。人間が同じ人間を、汚れているとか宮殿や要塞を立てるための労働力としか見ずに作り上げた繁栄を、惜しみなく終わらせて、二度と同じようなものは造らせず、永遠の廃墟とされます。そして、その廃墟を始まりの場としてくださいます。この希望は、主のさばきを少しぐらい甘く考えてもいい、というような事では決してありません。主の報いは徹底的です。人の横暴な思い上がりに対する訴えは、必ず聞かれます。だから私たちは誰もが、今ある不当な仕打ちを堂々と訴えてよいのです。主が仇を返してくださるよう求めて良いのです。だからこそ、自分に対する訴えもあることを、謙って受け止めて、私たちの生き方で、変えるべきことは変えることが出来るようにも、祈り求めます。決してその裁きをうまく逃げ果おおせますように、と願うのではないのです。今、築き上げた自分の城が倒れませんようにとか、日本(や自分の国や民族)が偉大になるように、という夢が弾けた跡地に、主が、人を集めてくださり、誰も失われることのない場を始めてくださる――その約束を、ここからも戴くのです。廃墟に見えて、そこにも主の慈しみがあります。そこを茫漠とするだけでなく、茫漠の測り縄を張り、空虚の重りを下げる、という――何か工事を始めるような言葉遣いをされる――主は、最初の茫漠とした地に「光、あれ」と言われたように[xv]、この廃墟にも、獣たちの村を造られます。嫌われ者の動物にも優しい主は、まして、人間にはどんなにか深い恵みを注いでくださるでしょう。焼け跡の廃墟に立つような思いをする時にも、ここから主が始めてくださることがあると信じることが出来ます。もうダメだ、と思う時にも、その事を通して、主が取り戻そうとしている本来の世界のあり方、壊れていたものが直されていくご計画がある、と信じることが出来ます。いや、今の争いや競争の虚しい混沌とした中に、この主の幻が光のように私たちに届けられて、目と心をどこに向けるかを教えてくれるのです。

「聖なる主よ、あなたの徹底した正義、この世界の叫びを聞かれる厳粛な事実と、その廃墟に戯れる梟ふくろうや針鼠の永遠に憩う庭、どちらも私たちへの贈り物です。あなたの造られた世界は驚くべき御業で溢れています。主イエスの十字架と復活により神の子どもとされた私たちです。主よ、世界で力を振るっている悪を終わらせ、恵みの力で私たちを結び合わせてください。終わりに見えても始まりだと、あなたにあって信じられるこの幸いに、いつも立たせてください」

[i] 「厳しさと喜びの新たな統治 イザヤ書 34-35章 これらの章は、神の正しい裁き、報復、そして復讐の否定(34:8)と肯定(35:4)です。神は世界を束縛、干ばつ、抑圧の中にある現状のまま放置するのではなく、正しい方向へと導きます。「ここにあなたの神がいます」(35:4)という福音を軸とする、この更生のための変革は、追放されたイスラエルの復興に焦点を当てています。しかし、35章の叙情的な肯定が可能になる前に、神は敵対的な勢力を一掃しなければなりません。これは、34章の不吉な働きです。

第35章の究極のテーマは帰郷である。しかし、この章は干ばつ(1-2節)と人間の障害(3-6a節)の問題を並置するように構成されており、水(6b-7節)そして帰郷(8-10節)によってその障害は解決される。詩人はあらゆるイメージを用いて、あらゆる従来の範疇を凌駕する新しさを声に出そうとしている。こうしてこの詩は「自然」と「歴史」、「創造」と「救済」の間を自在に行き来する。なぜなら、ここで主張され、称賛されているのは、現実のあらゆる領域に対する神の新たな統治だからである。

34章から35章にかけての裁きと恵みのパターンは、40章から55章にかけてのより大きな主張を予期する序曲です。そこでは、バビロン(ここでのエドムのように)が脅威として排除され、神の民が故郷に帰還することが示されます。このように、34章から35章は、イザヤの伝統の中でこれから起こる多くの出来事を支配するテーマを主張しています。さらに、悪の敗北と神の新しい統治の到来に関するこの二重の肯定は、キリスト教の希望にとって極めて重要なものとなります。35章は、教会のアドベント・テキストの中で重要な位置を占めています。アドベント・テキストは、神の完全な王国の到来を告げる、喜びに満ちた、控えめなテキストです。このような大きな希望は、この詩人のような詩人たちの唇の上に、あふれんばかりに宿っているのです。」ブルッゲマン

[ii] エレミヤ書49・7〜22、エゼキエル書25・12も参照。「エドムは神の審判に値するすべての諸国民に対する代表的タイプとして役立っている。」(サイツ、342ページ)

[iii] 11・14に「彼らは西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、ともに東の子らからかすめ奪う。彼らはエドムとモアブにも手を伸ばし、アンモン人も彼らに従う。」とあったのが、唯一の言及でした。

[iv] この節に出てくる鳥や動物の正確な正体は、ワタリガラスを除いて依然として不明です。最初の鳥は伝統的にペリカンとされています。ペリカンは水鳥であるため、砂漠と関連付けられるのは奇妙に思えます。そのため、「フクロウ」という名が提案され、ほとんどの現代訳にも登場しています。10 しかし、ペリカンが人里離れた場所に巣を作る習性があることから、この節にペリカンが登場する理由が説明できるかもしれません(ゼパニヤ2:14、詩篇102:7 [英訳6]参照)。 いくつかの現代版では、qippodの翻訳として「にがり」の代わりに「ハリネズミ」が使われるようになりました。11しかし、一般的な合意はありません。 フクロウはヤンショープの翻訳である。もしこの名前が擬音語として意図されていたとすれば(おそらくそう思われる)、不気味な鳴き声を出す鳥を意味する(NEB「screech owl(金切りフクロウ)」)。オズワルト

[v] ハゲワシVULTURE モーセの律法によって忌むべきものとされた猛禽類に含まれ(レビ11:14、申命14:13〔新共同訳・口語訳「鳶」])、またその視覚の鋭さが注目を受けている。「猛禽もその道を知らず、禿鷹(AV-vulture、口語訳「たか」)の目すら、それを見つけることはできない」(ヨブ28:7)。これは、タルムードに記されているように、バビロンのハゲワシはパレスチナの死骸を見ることができると、古代に信じられたことを反映している。また、エドムの滅亡の幻の中で、その川がタールに、その土が硫黄に変わる時、「そこに鳶(AV-vulture)も、雌も雄も共に集まる」(イザヤ34:15)。ヘブライ語はダア、あるいはダイヤで、これらはトビ(Kite、その項を参照)を意味するアラビア語のラダヤと結びつけられてきた。しかし、ハゲワシは聖書の地に十分に定着しており、聖書の中にもその位置が保証されている。また、ハゲワシの視覚の鋭さは、死骸のある所に群がる習性と共に、それが登場する文脈に適合する。 ハゲワシは、終末を扱うヘブライ伝説の中で特別な役割を演じる。すなわち、ハゲワシにはメシアの到来を告げる務めがあって、それを地面にすわり、賛美の歌を歌うことによって果たす。見つけることが難しく、したがって、その神話的な能力を吟味することが容易でない多くの動物のように、ハゲワシには魔術的な治癒力があると、博物学者バーソロミューは考えた。 その心臓は、それを携帯する人の安全をヘビや野獣の間でも確保する。ライオンかオオカミの皮に包んだその心臓は、悪魔を追い払う。その左足に縛りつけられた右足は、痛みを取り去る。その左足はまた右足をもいやす。鉄の道具でその舌を抜き出し、新しい布に包んで人の首に掛けると、その人は望むものが手に入って幸福になる。 聖書の地のハゲワシの中で最も一般的な種は、シロエリハゲワシ(Griffon Vulture (Gyps fulvus〕) であって、上空を旋回するのがよく見かけられ、翼の黒い羽と対照的な、きわめて白に近い色が特徴である。この地域で最も大きなものはヒゲワシ(Bearded VultureあるいはLammergeier (Gypaetus barbatus))で、現在まれな留鳥として生息している。この鳥は他のものたちと共に獲物に群がらない傾向があり、遠く離れた高い山に留まる。ヒゲワシは骨を非常に高い所から落として、小さく砕き、食べやすくする習性を持つ。その事は欽定訳の名Ossi-frage(語源のラテン語はossifragus「骨を砕くこと」という意味を持つ。〔〈ヒゲワシ〉の項を参照〕)と関連する。ミミヒダハゲワシ(Lappet-faced Vulture (Torgos tra-cheliotus))とクロハゲワシ(Black Vulture [Aegypius monachus))もこの地域に見られるが、非常にまれである。前者はここで繁殖し、後者は渡り鳥である。この科の中で最も小さいものは、よく見られる夏の渡り鳥、エジプトハゲワシ(Egyptian Vulture (Neophron perc- nopterus))である。それは黒と白の対照的な色をしており、普通、人が居住する地域のごみ捨て場をあさるのが見かけられる。」『聖書動物事典』(P・フランス、平松良夫訳、E・ホスキング/D・ホスキング写真、教文館、1992年)

[vi] 創世記6・18~7・4:しかし、わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは、息子たち、妻、それに息子たちの妻とともに箱舟に入りなさい。19また、すべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたとともに生き残るようにしなさい。それらは雄と雌でなければならない。…7・2あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌を七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌を一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌を七つがいずつ取りなさい。それらの種類が全地の面で生き残るためである。

[vii] 「主の書という記述は、著者がどの書を指しているかが明確ではないため、問題があります。21 基本的には4つの可能性が考えられます。(1)イザヤは後代の読者にこの記述を当時の事実と比較するよう勧めており、それらの事実が彼の預言の霊感を受けた性質を裏付けると確信している、(2)彼はこの預言を以前の預言と関連づけており、参照は13章21-22節である、(3)16a節は捕囚後に挿入されたもので、預言の霊感を証明しようとしている、(4)これは天の「運命の書」に対する文学的な暗示である。残念ながら、これらのいずれも問題がないわけではありません。

最初の選択肢は、もし本文中にそれが未来の読者に向けられたものであることを示す何かがあれば、非常に魅力的でしょう。しかし残念ながら、そのようなものは見当たりません。したがって、この箇所は当時の読者に向けられたものであると推測せざるを得ません。

二つ目の選択肢もまた、この章と13章の両方が、エドムとバビロンという特定の例を通して世界に語りかけているように見えるという点で魅力的です。しかし、それ以上に、この二つの箇所の間には関連性はなく、前者の記述を後者の記述の真正性を証明するために用いる論理的な理由はないように思われます。

第三の提案は、キッサネが1-15節を捕囚前の日付のままにしようとしたことに由来する。しかし、それが現在のテキストを指しているのであれば、捕囚前の筆者も捕囚後の筆者と同様にそのような記述をする可能性が高い。しかし、問題は同じである。つまり、テキスト自体が自らを証明しているわけではないのだ。

残るは第四の選択肢です。ヘブライ人の間には、天の運命を記した書物という概念があったようです。22こうして著者は読者に対し、これらすべては確かであり、神の書物に記されていると保証しているのです。最大の欠点は、読者、あるいは聞き手は招かれていても、その書物について調べることができないということです。解決策としては、招きは単なる文学的表現に過ぎないということが考えられます。もしこれが実現できれば、この提案は最も困難が少ないと思われます。」オズワルト

[viii] カラス:カラスRAVEN 旧約聖書に10回、新約聖書に1回、合計11回登場する。ヘブライ語はオレヴ、ギリシア語はコラクスである。その訳については異論がない。カラスは聖書の中に最初に登場する鳥である。すなわち、ノアは、水が引いたかどうか調べるために、カラスを放った(創世8:7)。モーセの律法はこの鳥を食べることを禁じている(レビ 11:15)。カラスは、ケリトの川〔ケリテ川〕のほとりにいた預言者エリヤに食物を運んだ(列王上17:4-6)。また、神の保護者としての愛を示すものであることが明瞭に語られている(ヨブ38:41、詩篇147:9、ルカ12:24)。フクロウ(Owl)やサンカノゴイ(Bittern)と共に、エドムの荒廃のしるしである(イザヤ34:11)。恋人の黒髪は、カラスの光沢ある漆黒の羽に比べられる(雅歌5:11)。また、箴言30章17節には、死骸の目をつつくというカラスの習性について、不気味な描写が見られる。 ローマ人は、カラスを運命を予示する鳥とみなしていたことが、エジプトやアッシリアの記念碑によって知られる。しかし、聖書では主に、神の保護の代行者、あるいはその象徴として用いられている。箱船でそれが果たした役割の結果として、カラスは遠くの陸地を感知する能力があると考えられ、昔の探検のための航海にしばしば連れて行かれた。ヘブライ伝説の中で、カラスは、陸地を探すために箱船を離れることをノアが頼んだ時、1度拒んだので、彼の呪いを受けている。カラスはひなに対して冷酷だという評判を得ており、そのために神はこれを特別な保護の下に置き、次のように取り計らわれたのである。すなわち、ひなが生まれてから3日間、両親からまったく放っておかれる間に、両親の糞から出て来るウジがひなの食物となり、それはひなの羽が黒く変わって、両親の世話を受ける時まで続く。またカラスは人間に対して教訓をも与える。それはかつて他の鳥と同じように普通に歩いていたが、ハトのように優美な歩き方をしたくなり、自分のそれまでの歩き方をやめて、ハトをまねようとした。ところが、その試みのために骨を折りそうになり、他の鳥たちに笑われると、自分の元の歩き方に戻そうとした。しかし、それを忘れてしまい、今ではぎこちなくぴょんぴょんと跳んだり、歩いたりしている。このように、カラスは不平屋の比喩である。人生における自分の分け前に満足しない者は、正しくは他の者に属するものを手に入れようとして、自分が持っている少しのものまで失うことになる。 欽定訳時代の博物学者たちは、カラスが驚くべき魔法の力を持つことを翻訳者たちに信じさせた。アルベルトゥス・マグヌスは、『動物の美点について』という著書の中で次のように書いている。 カラスの卵をゆでて巣に戻すと、そのカラスは紅海にある1つの島にすぐに飛んで行き、・・・・・・ある石を持って帰る。そしてその石を卵につけると、卵は以前のように生となる。ゆでた卵が生き返るのはすばらしいことである。さて、月桂樹の葉の上にその石を輪の形に置き、閉じた扉につながれた人にそれをつけると、すぐに束縛は解かれ、扉は開く。また、その石を耳の中に入れると、すべての鳥の言葉が理解できるようになる。この石は様々な色を持ち、すべての怒りを忘れさせる。 ワタリガラス(Raven (Corvus corax〕)は、カラス科の中で最も大きな鳥で、今日の聖書の地ではかなりまれな留鳥である。ただし、チャエリガラス(Brown-necked Raven (Corvus ruficollis〕)はよく見られる。それは輪郭がノスリにたいへん良く似ていて、大きい、くさび形の尾と多少角張った翼を持つ。ノスリのように、しばしば非常な高さにまで舞い上がり、すばらしいアクロバット飛行を見せる。すなわち、宙返り、急降下、垂直降下、そして逆さになって飛ぶことさえする。野外観察用のガイドブックには、そのように飛ぶ時に立てる音が、「プルック、プルック」、「グロック」、「クルック」、「ファウ」、「グロッグ」と書かれている。 ワタリガラスは、小さな哺乳動物を捕えて殺し、食物とするが、また特に聖書の地では死骸、すなわち死んだ子ヒツジやヒツジの胎盤を食べる。生息地の範囲は広く、山から砂漠や海岸にまで棲む。普通、険しい岩山に巣をつくるが、時折、枝を乱雑に組んだ大きな巣が、高い木の頂近くに見かけられる。

[ix] 山羊は、サテュロスとの訳が多い。以下、『聖書動物事典』より:サテュロスSATYR 預言者イザヤが、バビロンとエドムの滅亡について語る時にのみ登場する。「家々にはみみずくが群がり、駝鳥が住み、山羊の魔神(AV-satyr、口語訳「鬼神」)が踊る」(イザヤ13:21)と彼は書く。また後で、「荒野の獣はジャッカルに出会い、山羊の魔神(AV-satyr、口語訳「鬼神」)はその友を呼び、・・・・・・」(イザヤ34:14)と書いている。ヘブライ語はサイルで、文字通りには「毛深い者」を意味する。動物学者たちは、聖書のどの動物についても独自の解釈を主張する傾向があるが、この語に関してはエジプトおよびアラビアの、大きな犬のような頭を持つヒヒ(Baboon(Papio))を指すにちがいないと考えている。それは、ヒヒがエジプトの記念碑に見出され、しかも、ヒヒがアフリカから北のエジプトにもたらされ、そこで崇拝の対象となったという物語があるためである。しかし、この引用箇所の神話的内容を否定する理由はない。イザヤ書は無味乾燥な直写主義に従って書かれたのではない。荒廃した場所の特徴の一つは、悪魔がそこに来て住むことと信じられていた。そして、集団で踊り、叫ぶことがサテュロスの特徴であった。したがって、サテュロスのヘブライ概念が、その神話的な動物にギリシア人のもたらしたもののすべてを含むと考えることはできないが、それの意味するものは、半分人、半分ヤギで、踊り、夜に荒廃した情景を見ては嘆く、不思議な動物と考えるのは適切なことと思われる。

[x] 「12節が示すように、そこは「生命のない」場所であり、明確な政治秩序も機能する支配者もなく、すべてが無秩序な無政府状態と死に陥っています。この政治的言及は、13節から15節で、茨やあざみ、腐肉食動物、夜の生き物、そして不吉で定義の曖昧な悪魔の力など、豊富な否定的表現によって強調されています。ここで注目すべきは、旧約聖書に悪魔の力の一種であるリリスが唯一言及されていることです。この誇張されたレトリックの意図は、エドムの地を不吉で危険で、沸き立つ死に満ちた、人間が居住不可能な場所として描くことです。この場所の感覚は、現代において、いまだに致命的な非難に満ち、人間が危険を冒して立ち入ることのできない、廃墟となった原子力発電所に似ているように私には思えます。この詩は理性的な論考ではありません。むしろ、ユダヤ教の信仰世界においてエドムが明確な現実として消滅したという、深い感慨を呼び起こすことを意図しています。この誇張された破壊は、二つの認識を伴います。一つは、ユダヤ人の幸福への道が今や開かれたということであり、これは35章で取り上げられているテーマです。もう一つは、ヤハウェが主権者であるということです。ヤハウェを軽視すべきではありません。ヤハウェの復讐は壮大で容赦ないからです。創造主である神は、被造物を支配するか、生命を不可能にするかのどちらかです。第三の選択肢はありません。」ブルッゲマン

[xi] 11節の「野牛」も、「一角獣」と訳されてきた言葉でもあります:雄牛:いっかくじゅう (一角獣)UNICORN 9ヵ所に登場し、そのうちの何ヵ所かは、欽定訳の翻訳と矛盾すると思われる文脈の中にある。その特徴は非常な力強さにある(民数23:22、24:8〔新共同訳・口語訳「野牛」])。それは、去勢した、またそうしていない雄ウシと結びつけられる(イザヤ34:7〔新共同訳・口語訳「野牛」〕)。農耕に使われる(ヨブ39:9-12[新共同訳・口語訳「野牛」〕)。また申命記33章17節〔新共同訳・口語訳「野牛」〕については、現代の翻訳者のすべてが一致して、その文はこの動物の角が1本だけではないことを明瞭に示すと考えている。すなわち、厳密に訳すと、「その角(複数)は一角獣の角(複数)である」となる。 ヘブライ語はレエムで、その訳はRV以来‘wild ox’ (野ウシ)に変えられた。現代訳のすべてがこれにならっている。しかし、この名を持った神話的な動物がユダヤ人の伝説に登場する。それは巨大な動物で、たった1つがいしか同時に存在できなかった。そうでなければ、世界を思うままに支配したであろう。神は、彼らが70年に一度だけ会って生殖すること、そして他の時には地の両端に別れて住むことを定められた。雌はみごもったまま12年を過ごし、その期間が終わった時に雄と雌の双子を産むが、母自身は分娩中に必ず死ぬ。子たちは、生まれるとすぐに、1頭は東に、もう1頭は西に向かい、互いから離れて行く。彼らが再び会うのは70年後である。また、アダムが初めて日没を見た時に、暗闇がそのまま永久に地をおおい、世の終わりが来るのではないかと恐れた。そこで彼は一角獣を犠牲として神に捧げたと言われる。その角がひづめより先に造られたという点に、特別な価値があったからである。すなわち、この獣が原始の泥土の中から出現した時、すでに角が出来ていた頭を初めに出した。 欽定訳の時代には、一角獣に関する信仰は教養ある人々の間で魅力を失いつつあった。シェイクスピアは、『アテネのタイモン』(4幕3場14行)と『ジュリアス・シーザー』(2幕1場19行)の中で、一角獣にふれた文を証言として紹介している。しかし、その後の『テンペスト』では、プロスペロが魔法を使って現わした光景に対して、セバスチャンに次のように応じさせている。「生きているあやつり人形です。こうなるとなんでも信じたくなる。一角獣が実在することも」(3幕3場122行)。 パーチャスの『巡礼者』の1616年版には、「この百年間に一角獣を見た者は1人もいない」と記されている。しかし、トーマス・ブラウン卿は、『民間の誤解』の中で、一角獣の存在を肯定している。またトプセルは、『四つ足の獣』の中で、一角獣の存在を疑う者たちを非難し、彼らの懐疑的な態度は無神論に近いとまで言う。 一角獣に関する信仰の状況についてはこれくらいにする。聖書のレエムは、神話的な要素と自然的な要素を合わせたものである可能性が高い。『聖書動物事典』12〜13ページ

[xii] ジャッカルJACKAL 欽定訳には見られないが、改訂訳 (RV) 以後の翻訳は3つのヘブライ語をこう訳している。欽定訳は、そのうち、イイム、文字通りには「吠えるもの」を‘wild beasts’ (野獣)、タンを‘dragon’ (竜)、シュアルを‘fox’ (キツネ) と訳している。 今日では、下に引用する文において、ジャッカルが正しい訳であるという、一般的な合意がある。引用文には新インターナショナル訳 (NIV) が使われている。この動物が登場する背景は、主の怒りがバビロンに下り、「立ち並ぶ館の中で、山犬が、華やかだった宮殿で、ジャッカル(口語訳「山犬」)がほえる」(イザヤ13:22)時のような、滅亡と荒廃の状況である。エドムは、書かれているように、「山犬(NIV-jackals)が住み、駝鳥の宿るところとなる」(イザヤ34:13)。この句は、滅びに定められた町々を脅かす言葉の中に、しばしば繰り返される。 「わたしはエルサレムを瓦礫の山、山犬(NIV-jackals) の住みかとし、…………」(エレミヤ9:10〔11〕)。「それはユダの町々を荒廃させ、山犬(NIV-jackals)の住みかとする」(エレミヤ10:22)。「こうして、ハツォルはジャッカル(NIV-jackals) の住みかとなり、永久に廃虚となる」(エレミヤ49:33)。「シオンの山は荒れ果て、狐(NIV-jackals、口語訳「山犬」)がそこを行く」(哀歌5:18)。また、著者たちが人間の悲惨の極みを描こうとする時、やはりジャッカルが登場する。「山犬(NIV-jackals)の兄弟となり、駝鳥の仲間となったかのように、・・・・・・」(ヨブ30:29)。「わたしは・・・・・・裸、はだしで歩き回り、山犬(NIV-jackals) のように悲しみの声をあげ、駝鳥のように嘆く」(ミカ1:8)。最後の時に、贖われた地は、以前ジャッカルの巣だったころの荒廃した状態と対照される。「山犬(NIV-jackals)がうずくまるところは、葦やパピルスの茂るところとなる」(イザヤ35:7)。 これらの文すべてに、「竜」という語も同じように良く当てはまる。それをジャッカルに代えたのは、聖書から迷信と思われる表現を排除しようという現代訳の願いである。また一方で、ジャッカルは、数世紀の間、そして今なお、聖書の地で最もよく見られる四つ足の捕食動物であり、聖書の著者たちにもたいへんよく知られていたにちがいない。したがって、もしそれが聖書から除かれていたら、かえって不思議であろう。またこの動物は、キンイロジャッカル (Oriental Jackal あるいは Golden Jackal (Canis aureus〕)とも呼ばれ、姿がキツネと非常によく似ているが、毛の色がわずかにうすく、キツネと違って、単独よりむしろ群れで狩りをすることから、たいへん簡単に識別できる。このために、サムソンが300頭のキツネを捕え、その尾にたいまつを結びつけ、ペリシテ人の穀物畑に放って、そこを駆け抜けさせたという有名な物語の中で、多くの註釈者たちは、キツネに代えてジャッカルを選ぶ。サムソンは、単独で行動するキツネを300頭も捕えることは決してできなかったはずだが、群れをなすジャッカルなら、もっと容易に300頭を手に入れることができたであろうというのが、註釈者たちの主張である。サムソンの手柄を私達の時代にもっと信じやすいものに変えるつもりはない。またこの事について、そうするのに十分な理由があるとも思えない。 ヘブライ伝説において、ジャッカルはその子を嫌うと言われている。母でさえも、その乳を飲む子を、もし神が子の顔をおおって、母に見えなくすることがなかったら、むさぼり食うというのである。 ジャッカルは、適応性があって多産なようで、年に1度、60日から63日の妊娠期間の後、3頭から8頭の子を産む。子は12ヵ月ほどで性的に成熟する。今日その数は減少した。1つには、狩猟のためで、また1つには、この国の衛生状態が向上し、腐肉が得にくくなったためである。しかし、その長く、不安をかき立てる、よく通る鳴き声は、今なお夜になると、聖書の地の町や村の周囲で聞こえる。

[xiii] ペリカン:ウCORMORANT イスラエル人が忌むべきものとした鳥の中に、「森ふくろう、魚みみずく(AV-cormorant、口語訳「う」)、大このはずく」(レビ11:13-17)がある。ここのヘブライ語はシャラクで、現代の翻訳者たちもその訳をウ(Cormorant)としている。しかし、ウが荒廃の象徴となっている箇所が2つある。「代々にわたって廃虚となり、にそこを通る人はない。ふくろう(AV-cormorant、口語訳「たか」)と山あらしがその土地を奪い、……」(イザヤ34:10-11)。また、「主は……ニネベを荒れ地とし、……ふくろう(AV-cormorant、口語訳「はげたか」)と山あらしは柱頭(AV-the upper lintels)に宿り、……」(ゼファニヤ〔ゼパニヤ〕2:13-14)。ここではもう1つのヘブライ語カアトが使われている。現代の翻訳者たちはそれをフクロウの1種と訳している。フクロウの方が、廃墟に住む可能性が高いからである。それに対して、ウは水から遠く離れた所に住み着くとは思えない。ある権威者たちは、カアトをペリカンと訳した。しかし、これが楣 (lintel 〔窓や戸口の上の横木〕)に宿ることは、ウの場合よりもさらに可能性が低い。 ここでフクロウの方を選ぶと、不吉な響きの多くを失う。ミルトンはウを、木の上にうずくまり、アダムとエバの堕落を画策する、サタンの象徴として用いた。マンテーニャの有名な絵「園の苦悶」では、黒い体のウが、ゲッセマネの園の上、高い所にとまり、祈るキリストを冷たく見つめている。その名前そのもの――ウミワタリガラス(Sea Raven [Corvus marinus)) ―が、暗黒と果てしない大海原を暗示する。地中海の周辺には、通例2種のウ、すなわちカワウ(Phalacrocorax carbo) とデスマレストウ(Phalacrocorax desmarestii)が見出される。トリストラムも、キションとリタニで、ピグミーウ (Pygmy Cormorant (Phala- crocorax pygmaeus)〕)に出会った。この鳥はたしかに不吉な印象を与える。それは全身が黒いヨーロッパの海鳥の中で最も大きなものであり、先端で曲がった長いくちばしを持っている。くちばしのつけ根とももには、白い斑点がある。海岸に沿って散在する裸の岩の上に、露天の巣を作る。今日、カワウ(Cormorant (Phalacrocorax carbo〕)は、聖書の地によく見られ、越冬をする鳥として記録されている。ピグミーウ(Pygmy Cormorant (Phalacrocorax pygmaeus))は、非常にまれだが、今もなお冬の来訪者として見かけられる。同類のヨーロッパヒメウ (Shag (Phalacrocorax aristotelis〕)は、非常にまれな偶来性のものである。

[xiv] 「カルヴァンは次のように述べています。 もし神が野獣に、神が割り当てた場所を占有させているのなら、神は人間のために天と地と海とそこに含まれるすべてのものを創造したのであるから、人間をどれほど残すであろうか。(注釈第8章59節)」ブルッゲマン

[xv] 創世記1・3。