2026/2/1 イザヤ書33章1〜8節(1〜12節)「主はあなたの時を堅く支え」
1わざわいだ。自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは。自分が踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる。
何ともドキッとする言葉ですが、この言葉は、主の民を踏み躙り裏切ってきた敵、悪者たちに対する言葉です。イザヤの時代、イスラエルには北からアッシリア帝国が迫っていました。アッシリアは諸外国を蹂躙しました。イスラエルは、アッシリアと和平を結んだり、貢ぎ物を差し出したりしましたが、アッシリアはその協定を反故にして、裏切りました。そのような大国の横暴さは、必ず自らに降りかかります。傲慢さは砕かれ、報いが帰ってくる。ですから、いくら大国が強く、恐ろしく、「寄らば大樹の陰」と思いたくなっても、間違ってはならない。人間に過ぎないものに寄り掛からず、真実な方、大いなる神だけが拠り頼むに足るお方です。
1節の「わざわいだ」は、28章1節の「ああ」と同じで、それ以降、何度も繰り返されてきた嘆きの言葉です[i]。しかしこの33章の「わざわいだ」はイスラエルの民に対してではなく、イスラエルを踏み躙り、裏切って来た敵に対しての宣告です。そして、ここから35章までが大きな纏りとなって、28章からの「ああ・わざわいだ」を結びます。そして、今日の1節から6節が導入で、7節の「見よ」から33章最後までが、それを展開していく序論になっています。今日は、この33章の前半、12節までを読みましょう。
2主よ、あわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに私たちの腕となり、苦難の時の、私たちの救いとなってください。3その鳴りとどろく声に、もろもろの民は逃げ、あなたが立ち上がると、国々は散らされます。
これが主の民の祈りです。人間に過ぎないものがどんなに大きい顔をしようと、横暴に振舞って国々を踏み躙り、裏切っていても、私たちは神である主を待ち望みます。私たちの腕(力)となり、救いとなってください、と祈る。そして、すべての国々も到底敵かなわない、という告白です。それが4節にも受け継がれます。
4あなたがたの分捕り物は、いなごの若虫が集まるように集められ、いなごの群れが飛びつくように人々はそれに飛びつく。
人間の国や軍隊が分捕り物・戦利品だと誇っているものが虫の大軍が食い尽くすように、人々に分配される、とブラックに皮肉って描きます。戦争で勝利した国は、勝利の証しに、敗者の財宝を誇るものですが、そんな自慢は虫けらのように跡形もなくなる。国家は終わり、主は人だけを残すのです。
5主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と義で満たされる。6主はあなたの時を堅く支え、救いと知恵と知識の富となられる。主を恐れることは、その財宝である。
ここには、主が力で敵や悪を罰して報われる、というだけでなく、主の民が集まる場所シオンを公正と義で満たされる――正しい関係、正しい思いで満たして新しくして、その時――生涯の一日一日の堅い支えとなりたもう。ご自身で豊かに満たしてくださることが、想像できないほど鮮やかに歌われています。主がいと高き方、天におられる神、ということは、私たちにとって遠い彼方の存在、ということではありません。むしろ逆に、大いなるお方だから、地のすべてを治めて、私たちの日々、生活の隅々まで満たされる、ということです。2節で「朝ごとに」とありました。毎日が――昨日までの一日一日も、今日からの一日一日も、主が私たちの力となってくださるのです。「苦難の時」とありました。苦難の時がなくなりますように、とか、苦しいことがあるから主はいない、信じても無駄、というのではない。苦難が続き、悪が大きな顔をして傲慢に振舞うことが起きる歴史のただ中で、主の救いを、公正と義で私たちを満たしてくださることを願う、という信仰の告白が、ここに与えられているのです。
この6節までを導入として、7節は「見よ」と、新しい区切りの言葉から始まって、人間の誇る思い上がりが覆る荒廃が描かれますね。9節の
…レバノンは辱めを受けて枯れ果てる。シャロンは荒れ野のようになり、バシャンもカルメルも葉を振り落とす。
とある四つの地名はすべて豊かな地ですが、それらの産物が凶作となることで、人間の誇りが終わるのです[ii]。しかしこうした地名は出て来ますが、ここにアッシリアとかエジプト、バビロンといった敵国の名前は出て来ません。ここで言われているのは、いつのことの預言なのでしょうか。或いは、その時には2節にあるように「主よ、あわれんでください」と民が心から言うのでしょうか。口先では神妙に敬虔そうな祈りを捧げても、それは薄っぺらで、直ぐにまた手のひらを反すんじゃないか、と突っ込みたくなる、そんな言葉でしかないのではないのか、と思ってしまう。
この言葉だけでなく、イザヤ書の多く、また他の預言書も、将来の予言というより、神から預けられた、主の民へのその時の言葉です。未来の予定表を先に告知するよりも、今ここで聴くべき言葉が告げられるのです。将来に触れるとしたら「あなたがたが予想しているのとは違う将来があるのだ」と、今の生き方を変え、整えることを促しているのです。夜空の星座を形作る星々は、私たちの目には並んで見えても、実際には遠く離れていて、地球からは十倍も離れていたりします[iii]。北斗七星だと近い星と遠い星とでは3倍以上離れています[iv]。しかし、同じ方向にあるから柄杓型に見えて、北を教えてくれるシンボルになる。同じように、イザヤは将来に起こる様々な出来事の点と点を結んで、横暴な者にはその報いが降りかかる、主に「あわれんでください、私たちはあなたを待ち望みます」と呼び求める生き方を示してくれます[v]。
10「今、わたしは立ち上がる。――主は言われる――今、わたしは自らを高く上げ、今、わたしは自らを高める。11あなたがたは枯れ草をはらみ、藁を産む。あなたがたの息は、自分たちを食い尽くす火だ。12諸国の民は焼かれて石灰となり、刈り取られて火をつけられる茨となる。」
この「今」というのも、いつこういうことが起きたのか、と考えると分からなくなりますが、主ご自身が、主の御心の時に「今、わたしは立ち上がる」と言って立ち上がってくださる方である、という信仰を私たちの中に呼び覚ます言葉なのです。この33章は特にそうした性格が強く、礼拝の祈祷文、交読文のようです。「預言者による式文」とも呼ばれます[vi]。イザヤを通して与えられている、礼拝の定型文です。これを読む私たちは、まだ主への信仰と、主ならぬものの力のほうが大きく見える現実の狭間で揺れています。イザヤの時代も激しくそうであったように。だからこそその中で、日々立ち戻るための手掛かり(ガイドライン)としてこの33章も備えられている。そして、見える現実では入れ替わり立ち替わり、色々な出来事が起こるとしても、私たちが置かれたその場所で、主を信頼することを語っています。主の御業は、小さな私たちが主を待ち望み、主を恐れる者として生きることから始まる。闇の中の星は遠く、小さく見えても、十分な目印として輝くように、主の民の小さな存在こそが大事なのです[vii]
「主を恐れること」は箴言が繰り返す知恵の本質です。日本語訳ではイザヤ書33章6節と箴言24・3~4には共通する言葉が沢山あります。
家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。部屋は知識によって、尊く好ましいあらゆる宝物で満たされる。
この二つは深く共鳴するようです[viii]。大きな事ではない、私たちの家や部屋、手の届く範囲の生活――それさえしっちゃかめっちゃか――だとしても、その生涯もまた、主が堅く支えられます。完璧主義や傲慢から救い、罪を認めて悔い改め、謙虚に、憐れみ深く、赦しと希望を与えられる事はまず身近な空間を変える、救いと知恵と知識の富です。不完全で酷く壊れているこの世界の片隅にある、私たちの家、部屋、この場で、主がおられ、支えとなりたもう。裁いたり怒ったり心閉ざすことから救い出し、待ち望む心をもって生かすため、立ち上がるお方です。
「いと高き主、私たちのために立ち上がりたもう主よ。この世界もその歴史も、すべてはあなたの大いなる御手の中にあります。未来を知り、世界が変わることを夢見るよりも、あなたがともにいたもうことこそ何よりも幸いです。まことに、主よ、朝ごとに私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。私たちの時を堅く支え、救いと知恵と知識の富となり、私たちの家や部屋をも満たしてください。そうして私たちから主の支配を始めてください」
[i] 29・1、15、30・1、31・1、そして、33・1。
[ii] 「「レバノン」とは、いつも青々としていることの象徴であり、「シャロン」は美しさの象徴であり、「バシャン」 は肥沃の象徴、「カルメル」はよく手入れされた果樹園 の象徴である。ここで「しなび」るはここにだけ現れ、 15・6の文脈に対応している。これは悪疫によってレバ ノンの森が枯れてしまうことを示しているのかもしれな い。いずれにしても、人間の罪が次第次第に取り返しの つかない悪影響を環境に及ぼすことを意味している。」モティア、279ページ、「言及されている4つの地域は、かつて最も肥沃な地域です。今ではそれらは不毛です。豊穣と不毛の相互作用、そしてそれらがどこから来るのかという問いは、イザヤのお気に入りのテーマです。彼にとって答えは明白です。不毛は自立の結果であり、豊穣は神への信頼の結果です。ここで、その真理を比喩的に表現した例がもう一つあります。」オズワルト、「条約の破棄、誓約の軽視、そして人間性の軽視という三つ巴は、共同体における生活が破綻していることを示している。 しかし、さらに大きな訴えの主題があります。9節の描写は深刻な干ばつに関するものです。「レバノン」とは緑豊かな山岳地帯を指し、シャロン・バシャン・カルメルは豊かな農業地帯です。すべてが干上がり、木々は萎れ、葉を落としています。ここでは、地域社会の混乱と干ばつ、つまり「歴史的」危機と「自然的」危機の間に特別な関連性は示されていません。この詩は単に、どちらの危機もヤハウェの配慮を待ち受けており、その点で両者は確かに相互に関連していると主張しているだけです。預言者の伝統は、正義を踏みにじることは環境を乱すと執拗に主張しています。この訴えは、人生のあらゆる側面におけるシャロームの喪失についてです。このような窮地に陥ったユダは、ヤハウェに頼る以外に頼る場所がありません。ユダは強い希望を抱いてそうするのです。」ブルッゲマン
[iii] https://koyamachuya.com/contents/99941/
[iv] http://kirrah.net/ooguma04.html
[v] 「今と後 私たちは、預言者たちがおもにまだ生まれていない人々――私たちのような――のために生きたように思うことがある。「預言者」という言葉自体が、水晶玉を見つめて未来を語る人を意味するようになっているのだ。その「預言者」という言葉はほごにして、「見る者」に置き換えることができればと思う。「見る者」のほうが、他の人には見えないものを見る、X線的に現在と未来を見るという役割をよく伝えている。預言者は、他の誰よりも、よくものが見えるだけなのだ。 預言書を読むと、「今」のほうが「後」より重要であることが明らかになる。預言者たちの洞察はざっと三つのカテゴリーに分けられるだろう。
一 「今」。おもに預言者自身の時代に関わる預言(アッシリヤはモアブに攻め入る。イスラエルとエジプトの同盟は予期に反した結果を招く)。
二 「後」。預言者自身の時代からは離れているが、後に歴史の中で成就する未来の出来事の予言(たとえば、新約聖書の記者たちがイエス・キリストのこととしている、メシヤに関する多くの預言)。
三 「ずっと後」。まだ先のことのように思われる預言(世界的規模の苦難に陥る時代や、ユダヤ人が集団で回心する未来についての言及も含まれるかもしれない。ただし、学者たちはそうした言及の正確な意味については意見を異にしている)。
預言書で最も混乱するのは、預言されている出来事―――侵入、地震、指導者の到来、地球の再創造――が翌日に起こるのか、千年後に起こるのか、それとも三千年後に起こるのか、あえて語られていない点である。事実、すぐ先の預言とはるか先の預言とがしばしば同じパラグラフに書かれていて、共にぼやけているのである。たとえば、イザヤ書一三章を読んだ人は、ぺルシヤ人によるバビロンの打破が世界の終わりを招くものと思うだろう(おそらく預言者たちはタイムテーブルを知らなかったのだ――イエスも、地上に生きていたとき、神のスケジュールは不明であることを認めておられた)。 あるいはヨエル書二章を考えてみよう。そこに描かれているのは、イナゴの大群によって引き起こされる荒廃だ。ほとんどの人が、ヨエルは自分の時代――私が「今」と呼んだ時期―――に実際に起こった、虫による災害のことを言ったのだろうと推測している。ところが、その同じ章が、聖霊がすべての人間に注がれ、息子や娘が預言をする時代についても語っているのである。明らかにその箇所は、「後」の出来事、ペンテコステ直後の時期を言っている。使徒の働き二章の説教で、使徒ペテロもそう言っている。しかし、同じパラグラフの真ん中の、この節はどうだろう。「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」ヨエルはもちろん隠喩的な言葉を使っているのだが、続けて、最後のさばきのためにすべての国民が集まると言い(ずっと後に?)、その後、当時のイスラエルの隣国ツロとシドンについての議論に話題を戻している。 複雑な話だが、預言者たちは、一つは今、一つは後でというように、明らかに異なる二回の成就を描くことがある。「処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル」と名づける」(イザヤ七・一四)というイザヤの有名な預言は、このカテゴリーに当てはまる。それに続く二つの節で、このしるしがイザヤ自身の時代に成就したことがわかる(多くの学者が、その子どもとはイザヤ自身の子どもだろうと考えている)。しかしマタイは、この預言の最終的な成就を処女マリヤに結びつける。 聖書学者は預言書のこの特徴を、二重・三重の成就、全体に対しての部分、創造的バイソシエーションと名づけている。当然、そうした複雑な仕組みは疑問を呼び起こす。預言者がこの時代(今)のことを言っているのか、まだ成就されていない(後もしくはずっと後の)ことを言っているのか、あるいは両方なのかということを、私たちはどうやって知ることができるのか。預言者の作品は、アメリカの素朴派の絵画を思い起こさせる。素朴派の絵画は、どこから見たらよいのかわからない。家、山、木、動物、農夫たちが全部同じ次元に押し込められているからだ。これらさまざまな要素をばらばらにしてから、視覚的に意味をもつよう再構築して、その情景を解釈しなければならない。 この預言の仕組みは確かに理解しがたいが、神の歴史の見方をかいま見せてもいる。預言者たちは「見る者」として、神の見方を洞察しているのである。時の束縛の外におられる神にとって、順序は小さな問題だ。使徒ペテロの言葉によると、小羊は「世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました」(Iペテロ一・二〇)。パウロは、神は彼の弟子たちを「世界の基の置かれる前から」選ばれたと付け加えている(エペソー・四)。同様に、私たちの永遠のいのちへの希望は「永遠の昔から」約束されていた(テトス一・二)。アインシュタインの時間と空間に関する相対性理論が知られるずっと前に、新約聖書の記者たちは、真理のいくらかをきわめて文字どおり、時間に限定されないものとして確立していたのである。C・S・ルイスは、時間に限定されない実在である神は、芸術家が自分の描いた絵画の中に入り込むように、時間に縛られた私たちの歴史の中に入られた、と言う。 時間に縛られない存在が時間の中へ突然侵入したことが、イザヤの時代、マリヤの時代、そして私たちの時代にも影響する意味をもっているのは、驚くべきことだろうか。アハズ王の統治した時代に、預言されていたとおりの子どもが誕生したことで、イザヤの預言能力は確証された。したがって、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」が来られるというイザヤの高貴な預言が必ず成就する証拠ともなった。イザヤは預言の最終的な成就に時間の枠をはめなかったが、おそらく彼は、そうした時間の枠を理解さえしなかったのだ。」、フィリップ・ヤンシー『イエスの読んだ聖書』(山下章子訳、いのちのことば社、2000年)、244〜248ページ
[vi] 「「預言者的典礼」「昔の学者は、「預言者的典礼」として三三章に言及した。それは生前の状況と歴史的位置についての付随的な思索と共にその内部的な構造に基づいてである(一―六節脅威。七―九節嘆き。一〇―一三節託宣。一四|一六節典礼。一七―二四節救いの約束)。われわれは、その章の解釈をもっと密接に「脈絡における状況」、この場合、全体として二八―三三章のより広い提示を含むが、それに結びつけることを選ぶ。これらの章は、シオンの救いとアッシリア人にまさるヤハウェの賞揚を約束する。ヒゼキヤは正義をもって統治する王として現れるであろう。彼の祈りはシオンの救いを保証する。しかしあの四つの章の複合体としての結論は、われわれにまた未来の不吉な決定的な展望を与える。そのときバビロニア人は遠くからやって来て、王室とその宝物を運び去るであろう(三九・一一八)。そうすることにおいて、諸国民の部分のより広い歴史的レンズは、バビロニア人によって成し遂げられた世界審判のその強調と共に、位置づけられる。前七○一年の敗走において、シオンの救出はその時、前五八七年のエルサレムの崩壊に続いて起こる神の最終的ゆるしとシオンの回復のただ前兆でしかない。」サイツ、340ページ。「この記述は、歴史的記録として理解することも、神学的な結論として理解することもできます。スミスが示唆するように、もしこれが歴史的記録であるならば、それは、主だけが自分たちとセナケリブの間に立っていることを悟ったときの、民の懲らしめられた態度(ヒゼキヤ記37章14-20節に典型的に見られる)を指していることになります。もしこれが正確であれば、後の展開が示すように、神への回心は部分的なものに過ぎなかったことになります。しかし、それは、神のみを信頼できるというイザヤのメッセージの正しさを示すには十分だったでしょう。 一方で、これらの考えがここで現れているのは、実際の出来事の展開に大きく依存しているというよりは、神学的な結論を反映しているのかもしれません。つまり、人々が神の王権を認め、信仰をもって神に立ち返るなら、必ず復興と再建がもたらされるという点が強調されているのです。この分析は、この部分の全体的な展開と一致しています。第28章と第29章は指導者たちの愚かさ、第30章と第31章は指導者たちに従った結果、第32章と第33章は神に従った結果です。したがって、この時点で神への立ち返りがあったとしても、この箇所がこの時点で出現したことは、おそらくそのような出来事に完全に依存しているわけではないでしょう。」オズワルト。後者の考えを「預言形式の式文」とも呼びます。
[vii] 最初に申し上げたように、28章からずっと「ああ、わざわいだ」と、繰り返してきました。そう繰り返しつつ、その禍をも主権的に治め、さばいて、回復を与えてくださる主がおられることを語って来ました。そしてその「わざわいだ」の最後として語り始めているここで、私たちに主を見上げさせています。それは、将来に望みを置くという以上に、今日ここで、今、朝ごとに、主に目を向けさせるための、式文、歌なのです。
[viii] 箴言24・3: בְּ֭חָכְמָה יִבָּ֣נֶה בָּ֑יִת וּ֝בִתְבוּנָ֗ה יִתְכּוֹנָֽן׃
イザヤ書33・6: וְהָיָה֙ אֱמוּנַ֣ת עִתֶּ֔יךָ חֹ֥סֶן יְשׁוּעֹ֖ת חָכְמַ֣ת וָדָ֑עַת יִרְאַ֥ת יְהוָ֖ה הִ֥יא אוֹצָרֽוֹ׃

