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2025/12/28 イザヤ書29章15~24節「さかさまの聖なる神」

今は絶版となったキリスト教書に『あなたの神は小さすぎる』という本があります[i]。読んだことが無くてもこの題タイトルだけでもハッとさせられます。今日のイザヤ書も、人間と神との関係を「陶器と陶器師」の間柄に準えつつ、粘土がその身の程を弁えない愚かさだと言うのです。

15わざわいだ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らは闇の中で事を行い、そして言う。「だれが私たちを見ているだろう。だれが私たちを知っているだろう」と。16ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。

「陶器と陶器師」の例えは、ここだけでなく、イザヤ書で繰り返され[ii]、新約でも、使徒パウロがローマの教会の信徒に対して使っています[iii]。そして現代でも同じく、私たちは神を自分のレベルに引き降ろして小さく考えやすい。主を礼拝しながら、神を小さくコンパクトに考えて、神殿に閉じ込めたり、暗闇に隠れたら神も見ていないように思いやすいのです。

では、神は大きいのだ、強いのだ、何でもお見通しで、決して逃げも隠れも出来ないのだ、かというと、それもまた、神を小さく薄っぺらく、乏しい想像力で考えただけに過ぎません。

17もうしばらくすれば、確かに、レバノンは果樹園に変わり、果樹園は森に見えるようになる。

レバノンは北方の、杉材で有名な地で、イザヤ書では人間の繁栄や高ぶりの象徴として描かれてきました[iv]。人間の高ぶりを象徴するレバノンは「切り倒される」とも言われますが[v]、そのレバノンが「果樹園に変わり」と言われ、「果樹園は森に見えるようになる」。粘土を尊い陶器に変える主は、杉林を果樹園に変え、果樹園を森に変える神である。それはもっと具体的に18節からこう描かれます。「その日、耳の聞こえない人が、書物のことばを聞き、目の見えない人の目が、暗黒と闇から物を見る。19柔和な者は主によってますます喜び、貧しい者はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。」障碍者――ハンディのある人と呼ばれる人、柔和に生きようとして出し抜かれる人、貧しく力のない人――今の社会では日の当たらない人々が、生き生きと生きる図が描かれます[vi]。一方、弱者を虐げ、排除してきた力は生き残れません。

20横暴な者はいなくなり、嘲る者は絶え果て、よこしまなことを企む者はみな絶ち滅ぼされるからだ。21彼らはことばで他人を罪に陥れ、城門で戒めを与える者に罠を仕掛け、正しい人を、理由もなく押しのける。

横暴な者、嘲る者、邪なことを企む者…。そうした悪が、人を踏み躙る、罪に追いやられる、訴えられても揉み消してしまう――そんな不条理はもうなくなる。だから障害がある人も、柔和な人や貧しい人たちも、もう脅されたり笑われたりすることを一切恐れずに、喜び、楽しむ。そういう内も外も新しい将来がここで力強く描かれます。

先月日本でデフリンピック聴覚(障害者のスポーツ大会)が開かれました。開催に伴って誹謗中傷への警戒がニュースになりました[vii]。障害や貧困、どうしようも出来ないことについて、横暴な発言や振る舞いをするのは邪よこしまで、どんな理由も許されません。今もひどい差別があります[viii]。聖書では「嘲る人」とは最も愚かで神を恐れぬ人です。大勢が集まってのヘイト、こっそり匿名で投稿すること、そうした差別の根となる冷たい心――そんな悪がすっかりない世界がここに描かれます。虐げられた人々が喜び、横暴な人々が絶え果てる将来が来る。今はそれとは真逆――神を侮り、悪が幅を利かせるように見える、泥団子よりひどい世界を、陶器師なる神は、捏こね上げて、練り直して、新しい器にされる――必ず完成させ、始めなさる。こういう将来像を主は明かされます。それが、聖書を一貫する贖いの筋書きなのです。

22それゆえ、アブラハムを贖い出された主は、ヤコブの家についてこう言われる。「今からヤコブは恥を見ることがなく、今から顔が青ざめることはない。

聖書の最初、創世記12章で、主がご自分の民の父として選ばれたのがアブラハムです。アブラハムと「贖い」が結び付けられるのはここだけです。アブラハムが罪や滅びから贖い出された、というよりも、神である主の民とされたことそのもののことでしょう[ix]。主は、人が神からどんどん離れていく世界に、生ける神であるご自身を示すため、アブラハムを選びました。彼と妻は、子どもがおらず、既に今でいう後期高齢者でした。人間的には希望もなく、惨めで不幸とされる老夫婦を、主は選びました。それは人の思いとは真逆のご自分のいのち、栄光を現させ、神である主が生きておられることを世界に示して、神に立ち帰らせるためです。ちっぽけな神しか知らない人間を、生ける神、主を喜ぶ生き方へと贖い出されたのです。そのアブラハムの孫がヤコブで、彼の12人の息子がイスラエル12部族となります。ヤコブもイスラエル民族も決して、神の民として模範的な信仰深い生き方をしたわけでは全くありません。今、イザヤはイスラエルの甚だしい罪を責めています。それでもイスラエルの民は悔い改めず、傲慢に逆らっています。その彼らを責めながらも、イザヤを通して主は言うのです。

23彼が自分の子らを見て、自分たちの中にわたしの手のわざを見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる者を聖として、イスラエルの神を恐れるからだ。」

この主の「手のわざ」とは何よりも、17~21節で宣言されたことでしょう。耳の聞こえない人や目の見えない人が強くされ、柔和な者、貧しい者が喜び楽しむ祝福――横暴、嘲り、邪が一切絶え果てて、それが爪痕一つ残せない裁き――それこそ、主のわざです。そしてそれが、誰かやどこかの話ではなくて、自分たちの中に主がしてくださるわざなのです。そしてその時、彼らは主の名を聖とする――ヤコブの聖なる者(すなわち、主なる神)を聖として、イスラエルの神を心から恐れるようになる…。そういう約束なのです。

この言葉は「主の祈り」第一祈願「御名が聖なるものとされますように」を思い出させます。御名が聖である、主が聖であるとは、その聖によって私たちも聖とされることです。聖なる主が触れてくださる時、人はその聖によって心から変えられます。それがまさにここで起きています[x]。主は名陶器師であって、粘土の塊を、誰も思いつかないような尊い器に仕上げます。逆に、人間は、障害とか外見、出身や過去など、変えることが出来ない属性で人を決めつけ、一括りにして、貶めてしまう――これが差別です。「ああいう人たちはダメだ、変わらない」とレッテルを貼ってしまう。しかしそれとは反対に、主は、どんな人の中にもかけがえない将来を創造なさる。私たちにも触れて、心を変える方です。そして、主イエスは「主の祈り」を教えただけでなく、私たちの中にみわざを届けるため、ご自身を捧げてくださいました。大いなる神の偉大さは、神々しさを輝かして圧倒することではなく、ご自身を惜しまずに捧げて、処女マリアの胎に宿る小ささにまで遜ることに現されました。イエスが罪人と呼ばれる人の友となり、最後はご自分を十字架につけた人々を見て、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られた[xi]。そうした御業が、主の霊によって私たちの中に届けられて、私たちが主の声を聞き、主の眼差しに目が開かれます。

24心迷う者は理解を得、不平を言う者も教訓を得る。

イジメを受けた人とは反対に、虐めた側は自分が何をしたかには無理解です。また、差別の心理には不平や被害者意識もあるとも言われます。そういうこともこの24節には重ねて思います。自分が横暴だった、嘲る者、ひどいことを企んでいた、心迷う者だった、不平を間違った相手にぶつけていた――そういう深い理解をいただくことも必要です。人間の想像を引っくり返すような将来を語り、私をもその御業に向けて変えてくださる。そのために、主イエスはこの世界に来てくださいました[xii]

「聖なる造り主なる主。あなたはこの世界を造り、私たちをも御手の中の土塊つちくれとして形造り、聖なる御業を入れる土の器とされます。未だに自分のちっぽけな理解で、分かったような口ぶりをする浅はかさを思い、恥じ入ります。どうかあらゆる横暴さ、嘲り、暗い謀はかりごとを取り除いてください。神を小さくする声に心が囚われる時、贖い出してください。あなたを逆さまに考えている時、聖なる尊い御手のうちにあることを思い出し、喜びと希望を与えてください」

[i] J・B・フィリップス『あなたの神は小さすぎる』、清水氾訳、小峰書店。

[ii] イザヤ書45・9 ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。陶器は土の器の一つに過ぎないのに、粘土が自分を形造る者に言うだろうか。「何を作るのか」とか「あなたが造った物には手がついていない」と。10わざわいだ。自分の父に「なぜ子を生むのか」と言い、母に「なぜ産みの苦しみをするのか」と言う者。

同64・8 しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。

[iii] ローマ9・20~21 19すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。20人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。21陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。22それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。23しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。24このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

[iv] 「この書のいくつかの箇所で、レバノンの森は力ある者の象徴として用いられ(2:13、10:34、33:9、35:2、60:13)、森の伐採は屈辱の象徴として用いられています(2:13、10:34、37:24)。したがって、ここでも同じ比喩が用いられていると考えられます。森は耕された畑となり、畑は森と呼ばれるほど豊かに茂るようになります。このように、ユダと世界の力ある者は倒れますが、神の平民は栄えるのです。」 オズワルト

[v] イザヤ書2・12~18(まことに、万軍の主の日は、すべてのおごり高ぶる者、すべての誇る者の上にあり、これを低くする。13またそれは、高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、14すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、15すべてのそそり立つやぐらと、すべての堅固な城壁、16タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船の上にある。17その日には、人間の高ぶりはかがめられ、人々の思い上がりは低くされ、主おひとりだけが高く上げられる。18偽りの神々はことごとく消え失せる。)、10・34(主は林の茂みを鉄の斧で切り倒し、レバノンは力強い方によって倒される。)

[vi]「15-22イザヤはやがて来たるべき変容を素描するために、社会の三つの側面に焦点を当てている。第一に、まことの信仰の自由な表現である。「へりくだる者」は、もともと横暴な者のえじきとなっていた。「貧しい人」は、財産がないので他の人の保護を受ける必要があった。しかし、しばしば両者は、この世俗の社会の中で信仰を持って主に仕えようとしている人々を描写している。来たるべき新しい社会においては、そのような人々は圧迫から自由にされ、「イスラエルの聖なる方によって楽しむ」生活へと解放されるのである。第二に、社会は破壊的な力や否定的な要素、すなわち無節操で(「横暴な」13・1、25・3-5)けなす者(「あざける者」20・14、2)、そしてトラブルを起こす者(「悪をしようとうかがう者」)から自由にされる。第三に、そこには健全で公正な司法制度が回復され、うわさ話(21a)であるとか、「あげあしを取る」(2b)とか、無実の者のために法廷が保護されないようなことがなくなる。」モティア、255ページ

[vii] 世界陸上の誹謗中傷、SNSで500件 230件に削除依頼 JOCが発表 Yahoo!ニュース

国際大会におけるアスリートへの誹謗中傷とその対策 … 新日本法規

[viii] キム・ジヘ 『差別はたいてい悪意のない人がする』大月書店安田 浩一『新版 学校では教えてくれない差別と排除の話』、皓星社、など参照。

[ix] 「24 そして、心において迷う者は悟りに達し、不平を言う者は教えを受け入れるであろう。「アブラハムの贖い主」という語句は、その文法的構造が不自然であることと、その言及が不明瞭であることの両方から、注釈者にとって厄介な語句であった。その文は字義的には「アブラハムを贖ったヤコブの家に主がこう言われる。『もはや…』」となる。最も自然な解釈はヤコブをアブラハムの贖い主とすることになるが、これは明らかに不可能である。11 ローウェンタールは「ヤコブの家の神」(「神」を意味する「エル」を「~に」を意味する「エル」と読む)と読むことを提案した。この提案は魅力的であり、多くの現代の注釈者が従ってきた。しかしながら、カイザーが指摘したように、こうした修正を正当化する根拠は訳本の中に見当たらない。したがって、明らかに不自然ではあるが、MTを維持するのが最善と思われる。

神学上の問題は、正典文献の中にアブラハムの「贖い」について何も語られていないという事実に起因している。外典の伝説は、彼がウルの偶像崇拝者から救出されたことを伝えており、特にこの部分を後期のものと見なす学者たちは、これをここでの記述の根拠と見なしている可能性がある。12 同時に、最も一般的な意味では、神がアブラハムを贖ったことは明らかである。つまり、神は彼を御自身のもとに招き、罪の死から救い出したのである。そして、ここで意図されているのは、まさにその救済のみなのかもしれない。前述のように、要点は示唆に富んでいるように思われる(「主はこれまで助けてこられた」)。そして、私たちは神がこれからもその助けを続けてくださると信じることができる。」、オズワルト。

「この最後の約束は、非常に特徴的な導入部で始まっています。最初の「それゆえ」は、おそらく新たな預言の始まりと言えるでしょう。しかし、この箇所でこの言葉が使われていることから、続く約束は17-21節の保証の帰結であることが示唆されます。さらに、「ヤコブの家」という慣例的な言及は、「アブラハムは贖われた」という特異な言及によって強調されています。この言及は、私たちを創世記の祖先の物語、そして相続人、ひいては未来を確保するという、繰り返し起こる問題へと引き込みます。

「もはや」という二重の表現は、イスラエルが今や恥辱に暮れ、青ざめた共同体となっていることを示唆しています。祖先物語のイメージにおいて、恥辱と青ざめの原因は後継者がいないこと、そしてそれゆえに未来が保証されていないことです。ここでのこのイメージは、54章1-8節で、子供がいないことが恥辱をもたらすことを予期しています。この預言において、現在の状況は「たちまち、突然に」(5節)と「間もなく」(17節)に一致する形で克服されます。創世記の物語世界における「アブラハムが贖われた」とは、後継者を得ることであり、それによって未来が開かれることを意味します。

実際、これが23節aの本質的な保証です。アブラハム――喪失の中にあるイスラエル――は「わたしの手の業」、すなわち子らの賜物を見るでしょう。絶望は可能性へと変わり、呪いは祝福によって克服されます。感謝と安心に満ちたイスラエルの応答は、ヤハウェの聖なる御名を受け入れ、聖なるアイデンティティを自らのものとして受け入れること、すなわち、世界におけるヤハウェの民としてのアイデンティティを再び受け入れることです。」、ブルッゲマン

[x] 「御名が聖なるものとされますように」とは、自分のことは棚上げして、神様さえ崇められますように、という願いではありません。ここにあるように主の手のわざが自分たちの只中になされて、心から「ああ、本当に主は聖なる方です。主は陶器師で、私たちは粘土。あなたの御手で、私たちを変え、目を開き、聴く耳を与えてください」と、自分自身を差し出す祈りです。

[xi] ルカの福音書23・34。

[xii] 「しかし、キリストに従うということは、天国が今あなたが考えているものとは全く違うことを意味します。あなたはたぶん、永遠のマール・ア・ラゴ(トランプ氏の別荘)のような場所を思い浮かべるでしょう。天国はかなり違います。そこに着くまでにこの道を進むと決意すれば、自分が全く違うものを求めていることに気づくでしょう。 あなたは神を、全く異なる生き方に変えられるような方法で見るでしょう(マタイ5・8)。今あなたが重要だと思っているものはそうでなくなります。あなたが軽視している多くのことがとても重要だと分かるでしょう。あなたのホテルにいる貧しいエルサルバドル人のメイドが、あなたより有名になって支配し君臨していることに気づいて驚くかもしれません(ヤコブ2・1~8)。あなたは、ホワイトハウスに招待されることなど決してない人々の生活の中にイエスが隠れていたことに気づくでしょう(マタイ25・31~46)。私はあなたの心の中で、天国を再び偉大に(Make Heaven Great Again)しようとしています。[以下、略]」 ラッセル・ムーア「「天国へ行きたい」トランプ大統領への助言」『クリスチャン新聞』2025年10月19日号、10面より。