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2026/1/4 イザヤ書30章15~18節(1~18節)「それゆえ、あわれみを与えよう」

イザヤ書は紀元前8世紀に書かれました。北方からアッシリア帝国が迫って来る時代です。イザヤは都エルサレムを中心に、主の言葉を伝えました。ここで責められているのは、イスラエルの民が、主を頼るよりも、南のエジプトを頼りとして同盟を結び、アッシリアの脅威を逃れられると考えた不信仰です。そのことが、1~7節で言われています[i]。6節には

ネゲブの獣についての宣告

と13~23章を思い出させる言い方が出て来ますが、ネゲブとはイスラエルの南に広がる荒野の一帯で、その先のエジプトに行く通り道です。その道は危険な獣がいて、ライオンや毒蛇がおり、ろばやラクダに頼っての旅です。その道を、貢物を携えてエジプトまで行くのは、それだけのリスクに見合うと思うからです。エジプトを、数々の獣にも勝る強者に見立てたのです。7節最後のラハブとは神話的な獣です。聖書に出て来る、レビヤタンやベヘモテ[ii]と並ぶ怪獣です。しかしここでも皮肉って「何もしないラハブ」と呼んで、エジプトの頼りなさを笑います。そんなものより、ネゲブの荒野の獣たちの方がよっぽどましです[iii]

しかし、一旦エジプトに頼ると決めると、それで大丈夫だと思い込み、イザヤの言葉に耳を貸せなくなるのが、ユダの民衆でした[iv]。そして、イザヤが語る主の言葉を聞こうとしない。自分たちに都合のいい事だけを語れ、と堂々と要求するようになる。それが8~11節です。[v]

10彼らは予見者に『見るな』と言い、先見者にはこういう。『われわれについて正しいことを幻で見るな。われわれに心地よいことを語り、だましごとを預言せよ。11道から外れ、道筋からそれ、われわれの前からイスラエルの聖なる方を消せ。』」

主を頼みとするより、エジプト同盟で安全保障を得られると決めたので、「正しいことではなく、心地よいことを語れ」と求める。「イスラエルの聖なる方」という、恐れ多い、みだりに口に出来ないはずの告白を「消せ」などと簡単に言っています[vi]。それに対して、12~14節は「イスラエルの聖なる方」ご自身が応えて、主の言葉を退けて、虐げと悪巧みに拠り頼む結果は、城壁の倒壊、陶器師の壺が粉砕されるようなものでしかない、と厳しくいうのです。

こうしたやり取りの末に出て来るのが、15節の言葉です。エジプトに縋って安全だと思おうとする態度と、その間違いを訴える主の言葉との合間に語られる、深く、輝いている言葉です。

15イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」…[vii]

「立ち返る」とは「帰る・戻る」の意味です。主のもとに帰ることです。主に背いて、神を忘れた道を彷徨う生き方を、回れ右して、神の元に帰る。これを悔い改めと言います。神を神とする、神の家に帰って、みことばによって生きる、本来の生き方に立ち返る――これが、イエス・キリストがその最初から語っている宣教です[viii]。悔い改めを、神の元に帰る前にするべきこと、神に帰るときに後悔・反省していることだと思われている節もあるようです。神の元に帰りたければ、反省の色とか、償いの行為とか、そういうことが必要だ――と考えていると、主が求める悔い改めとは、帰るための条件ではなく、帰ることそのものだというのは驚きです。そしてそのための償いも、帰るための準備も、帰りたいという思いも、神が下さるのです。神がひとり子イエス・キリストを通して、その生涯と十字架と復活のみわざすべてで、私たちが神に立ち帰るための備えを果たし、それを聖霊が私たちに届けてくださったのです。[ix]

これは神からの一方的な恵みの贈り物です。そうでなければ私たちは「悔い改め」さえ、自分の謝罪や懺悔の行為で神の怒りを宥めることだと思ってしまうものです。いや、もっと酷いことに神に立ち帰って、神に信頼するよりも、エジプトに信頼して安全で、自分たちの好き勝手も出来る人生の方がいい、と思い、神に背くのです。[x]

15…しかし、あなたがたはこれを望まなかった。16あなたがたは言った。「いや、私たちは馬で逃げよう」と。そう言うなら、あなたがたは逃げてみよ。また、「私たちは早馬で」と言った。そう言うなら、あなたがたの追っ手はなお速い。

「馬」は旧約聖書の時代、当時の戦争や社会の文化を大きく変えた道具で、紀元前の技術革新でした。しかしハイテクも、過信するなら最後は惨めに終わるでしょう。なのにこの時代の人々は、主に立ち返って落ち着くよりも、エジプトや馬、権力や最新技術に頼ればなんとかなるはずだ、と高を括る道を選びました。この、帰って来なさいと呼びかける主と、その声を振り払って逃げて無残な末路を迎える民――それは神と人間との関係の凝縮された図です。単に、主につくか、エジプトか何かを信じるか――キリスト教を信じるか、他の宗教を信じるか――ではないのです。ここでも対象はイスラエルの民、かつてエジプトの奴隷生活から救い出され、今も主への礼拝や律法の儀式を行っていた人々です。そして、これを読む教会も、この言葉は他人事とは出来ません。

「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」

はこの40年でよく聞かれるようになった言葉です。キリスト者の霊性の貧しさを見つめる中、奉仕や伝道や活動をすることdoingにばかり終始して、活動を休めて手を置き、そこにあることbeingを疎かにしてきたことを問う。忙しい現代の影響を、私たちも強く受けて静まることを忘れている――そこでこのイザヤの言葉も立ち上がって来たのです。

そしてイザヤの言葉を読む時、最後の

「しかし、あなたがたはこれを望まなかった」

も――残念ながらというか、幸いにもというか――見過ごせません。落ち着き、静かに信頼することを望まず、動いていたい、自分にも主導権や拒否権を残していたい、まず静まることを望まない――突き詰めれば、それは主なる神を信頼して落ち着くよりも、エジプトとの同盟、少しでも対等な関係で、自分が何かしている方が落ち着ける――そっちを選びたい。何かしていないと不安だ、何もしないと自分が無力で無価値で平凡に思えて落ち着かない――そういう心に呼びかけるこのみことばに、耳を塞ぐのです。そして、主を静かに信頼する心がないままの生き方は、うまく行かずに失敗するか、もっと悪いのはうまくいって、人を裁いたり見下したり、自惚れてしまうことで、いずれにせよ孤独に行き着きます。その時、響くのは18節です。

18それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようとして立ち上がられる。主が義の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。

この「それゆえ」なのです。「けれども主は…」ではなく

それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち…

なのです。全知全能、唯一真の絶対神、というのではなく、あくまでも恵みを与えよう、あわれみを与えよう、不義を罰するだけでなく、主を信じきれずに走り回る者を主を待ち望む者に変える、そういう「義の神」こそ、主、唯一真の神です。[xi]

17節の後に一行空いていますが、17節と18節は「それゆえ」でシッカリ結ばれています[xii]。またこの18節はイザヤ書全体の要約でもあると言われます[xiii]。主は私たちを恵もうと待ち、あわれもうと立ち上がられる方です。そういう義の神です。人間が、その神を拒み、神に立ち帰る救いから逃げようとしているのです。けれども、だからこそ、そんな人間のために待ち続け、立ち上がりたもう主がおられる。そして、その証しは何よりも、主イエス・キリストにおいて私たちにハッキリと示されたのです。主イエスが下さる悔い改めは、私たちが主に立ち返り静まって信頼する、深い方向転換です。生きていて、脅威が迫って、エジプトやハイテクや何かに縋りたくなる時、何よりの力は主に立ち返って静まることです。間違って、躓き、どうしようもなくなる時、その時こそその私たちを待ち、立ち上がると言われる主に帰る時です。この一年の始まりに、イザヤ書の半ばで、この15節と18節の言葉を聞き、静まりたいのです。

「世界の主、歴史の導き手、恵み深い神、主よ。2025年、ともにイザヤ書に聴きながら、礼拝の民として守られ、2026年を迎えました。みことばと御業を信頼するよりも、直ぐに人の言葉、自分の行いに心を奪われる私たちが、あなたに立ち返り、静まりと信頼の力をいただかせてください。恵みにより平安をいただき、新しくされて、遣わされた場所での日々を重ねさせてください。主の恵みを思い起こして感謝し、なお続く旅路を、主とともに歩ませてください」

[i] イザヤ書30・1~7:「わざわいだ、頑なな子ら。――主のことば――彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示を仰がない。ファラオの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。しかし、ファラオの保護に頼ることはあなたがたの恥となり、エジプトの陰に身を隠すことは恥辱となる。その首長たちがツォアンにいても、その使者たちがハネスに着いても、彼らはみな辱められる。自分たちにとって役に立たない民のゆえに。その民は彼らの助けとならず、役にも立たない。かえって恥となり、そしりの的となる。ネゲブの獣についての宣告。「苦難と苦悩の地を通り、雌獅子や雄獅子、まむしや、飛び回る燃える蛇のいるところを通り、彼らはその財宝をろばの背に載せ、宝物をらくだのこぶに載せて、役にも立たない民のところに運ぶ。エジプトの助けは空しく、当てにならない。だから、わたしはこれを『何もしないラハブ』と呼ぶ。」

[ii] ヨブ記40・15(欄外)、41・1、イザヤ27・1など参照。

[iii] 「じっと座っているラハブは、観念の上で著しい不協和音を呈しています。21 ラハブは、民衆の伝説に登場する海の怪物です。彼女は、神々が生き残るために苦闘し、最後の力を振り絞ってようやく屈服させた、古代の混沌とした物質です。ヘブライ人は、神がエジプトを征服して彼らを解放したと語る際に、この伝説を文学的な暗示として用いました。22 では、エジプトとは一体何者なのでしょうか?混沌の破壊力すべてを操る古代のラハブでしょうか?決してそうではありません。彼女はむしろ、太陽の下で眠そうに座っている太った老婆のようなものです。なぜ、彼女の助けを買うためにそこまでの努力をするのでしょうか?」、オズワルト

また、「宝物を満載した隊商が、ライオンや蛇が跋扈する荒地を苦闘しながら進む。すべては、実際には無力な老竜の助けを得るためだ。預言者は「あらゆる努力と富は水の泡となる」と告げる。」ともオズワルトは言います。

[iv] ユダのヤハウェへの依存という神学的な強調と、賢明な政策を重視する地政学的な強調を超えて、これらの節の背後には、言及こそないものの、ユダヤ人の聴衆が確実に認識していた古代の出エジプト記と、モーセの治世下での危険な荒野(ネゲブ)の旅の物語が潜んでいる可能性が高い。奴隷状態から脱却し、ヤハウェと共に旅し、約束の地に到達するために、イスラエルは荒野を横断しなければならなかった。今、その物語は愚かにも逆転している。イスラエルは救済の物語を逆行させているのだ!つまるところ、エジプトとは破壊的で宇宙的な混沌の力を持つラハブなのである(詩篇87:4、89:10)。聖域と見えるものは無秩序であり、危険なネゲブへの旅は、エジプトという目的地と同じくらい混沌とした脅威に満ちた道なのである。

[v] 「今、行って、彼らの前でこれを板に書き、書物にこれを記し、後の日のために永遠の証しとせよ。彼らは反逆の民、嘘つきの子ら、主のおしえを聞こうとしない子らだから。

[vi] これは、今日の教会においても、自戒すべきことです。パウロは、次の箇所で警告しています。ローマ16・17~18(兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。18そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。)、Ⅱテモテ4・2~5(みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも謹んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。)

[vii] 聖書協会共同訳:「立ち帰って落ち着いていれば救われる。/静かにして信頼していることにこそ/あなたがたの力がある。」

[viii] 「「立ち返る」は「帰る」ことで、見せかけの戻ることではなく、神に信頼して「静まる」ことを目標にして立ち返ることである。「落ち着いて」は、心が動揺し、不安になるようなことのない心の状態である。これは人生に直面することを拒否せず、神のみに「信頼」することの結果である」、モティア、260ページ

[ix] 「ここで、イザヤ神学の中心的な宣言の一つに出会うので、これらの節には特別な注意を払う必要がある。この単位には三つの要素を見出すことができる。まず15節、「イスラエルの聖なる者」の畏敬の念に満ちた言葉を通して、詩人は伝承の核心的な主張を、9章7節に内容と重要性において匹敵する文章で明言している。イスラエルは、信頼、すなわち帰還、休息、静寂のうちに生きるとき、救われ、強くなる。この四つの言葉は、ヤハウェへの注意深い従順を物語っている。これらはすべて、イザヤの信仰の概念、すなわちヤハウェへの完全な信頼と献身とほぼ同義語である。この主張は、1節から14節でユダが非難されている熱狂的な不安の行為と明らかに矛盾するものである。ユダのシャロームは、ヤハウェと共に生きることに依存し、そこから生じる。ヴィルトバーガーは次のように判断する。:信仰の政治は弱さの政治ではなく力の政治であり、敗北主義ではなく妥協しない忍耐の意志であり、降伏ではなく反対の克服です。なぜなら、「私たちの信仰は世に打ち勝った勝利です」(ヨハネの手紙一5:4)が、世が考えるような力の勝利ではないからです(Jesaja 28-39, 1118 [著者訳])。」 ブルッゲマン

[x] 「一五節は、神がユダの民に神に信頼をするように語りますが、ユダの民がそれを拒んだと言います。「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』しかし、あなたがたは、これを望まなかった。」不信仰な民に救いの望みがないわけではありません。救いは、彼らが悔い改めて立ち返り、神に信頼する事によって実現します。人間の行為をやめて悔い改めて神に立ち返り、静かに神の約束に頼って安んじれば力を受けるのです。しかし、悲しむべき事に「あなたがたは、これを望まなかった」のです。」油井、240ページ

[xi] 「主が正義の神であるという解釈は二通りに理解でき、どちらもある程度の妥当性を持っている。第一に、ヤングは、神は公正な神であり、神の恵みを受けるには神の正義を経験しなければならないので、神の恵みは待たなければならないと示唆する。第二に、カルヴァンは、その意味は中庸と秩序であると示唆する。神は単に激怒して民族全体を滅ぼすことはしないので、希望がある。後者の見解は、神の正義の宣言の後に「神を待ち望む者は皆幸いである」と続く聖句の構成によって裏付けられているように思われる。神に訴えることができるからであり、神の名のために迫害と苦難に耐える人々の叫びを神は聞くからである。それゆえ、彼らは幸福な民であり、これからも幸福な民となるであろう。」オズワルト

[xii] 「多くの人は18節を8-17節から切り離して考えます。しかし、この節は神の声に耳を傾けないことに関するこのセクション全体の適切な結論となっています。なぜなら、その拒絶は私たちに裁きをもたらすだけでなく、神が私たちに与えたいと願っている恵みをも妨げるからです。」、オズワルト

[xiii] 「この節は、ある意味でこの書のメッセージを要約しています。自分の必要を満たそうとして自分を高める者は、必ず失敗する運命にあります。なぜなら、この宇宙で高く上げられるのは神だけであり(2:12-17)、神だけが人々の必要を満たすことができるからです(40:27-31)。人生の鍵は、神を神として受け入れ、神が私たちの必要を私たち自身よりも百倍も満たしてくださることを知るまで、神に完全に依存するよう自分自身を訓練することにあります。」オズワルト