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2025/12/21 マタイ1章18~25節「私たちとともにおられる神」

クリスマスに読まれる聖書の箇所といえば、マリアに御使いが現れた受胎告知、ベツレヘムに生まれたイエスが寝かされた飼葉桶、その知らせを最初に告げられた羊飼いたち、そして東の国の博士たちが星に導かれてやってきた訪問、などがあげられます。今年は、それと並ぶ、マタイの福音書1章の、ヨセフの出来事を聴きましょう。新約聖書の1頁目です。そしてこの最初の1節から17節は、延々と名前が連なるだけの系図が書かれています。その系図を導入として、登場するのがヨセフであり、ヨセフの婚約者マリアが、聖霊によって身籠って、ヨセフはマリアを迎え、生まれた子に「イエス」と名をつけた、というのが今日の粗筋です。

このヨセフを書き出す前に、長々とした系図を書く通り、彼はダビデ王朝の末裔でした。6節に「ダビデ王」とあります。その後、ソロモン、レハブアム、アビヤ…と続くのは、王位を代々受け継いできた名前です。その末裔がヨセフです。つまり、ヨセフはダビデ王の王位継承者だったのです。ヨセフ王と名乗れる人物だったのです。しかし、実際のヨセフにそんな面影はありません。ヨセフの遥か前(11節では「バビロン捕囚」とある出来事で)それ以降の人物が王を名乗ることはなくなっていたのです。そして、その末裔のヨセフは、ユダヤの北のガリラヤ地方の寒村ナザレで大工をしていたらしい。没落した王家の末がヨセフでした。そして、そのヨセフの家に、イエス・キリストは来て、生まれたのです。ダビデの家に生まれたイエスは王位継承者であり、クリスマスはイエスという王の誕生です。

マタイの福音書の主題テーマは「王であるイエス・キリスト」です。最初に「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」書き出し、それに系図を続けます。2章の博士たちは

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」

という台詞で登場します。この後も、イエスはダビデの子、王であることが謳われます。クリスマスの歌でも、王のお生まれを祝う歌詞はあちこちにあります[i]。私たちもクリスマスを、私たちの王、この世界の本当の王が生まれたことを覚えて、喜び、祝うのです。それもこの方は、輝かしく、神々しい王として来られた、私たちにとって手の届かない高貴な姿の王様ではありませんでした。よくクリスマスに連想される、メルヘンチックなファンタジーや、雪景色や奇蹟が舞い降りて来るような非日常のドラマもありませんでした。イエスは、ヨセフの婚約者マリアの胎に、結婚前に宿って、ヨセフはその結婚を破断にしようと悩んだとあります。それも、ヨセフが身勝手だったからではなく、正しい人だったからこその考えでした。それでも、思い悩んでいた中で、夢に神の使いが現れて、マリアを迎えて、生まれる子にイエスと名付けるよう命じたのです。

こうした出来事をまとめて、マタイは22節23節にこうコメントを書き入れています。

22このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。

23「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

この「神が私たちとともにおられる」もまた、マタイの福音書が繰り返すメッセージです。イエスが王であることとは別の、もう一つのテーマというのでなく、イエスは私たちとともにおられる王である、ともにおられるイエスこそ私たちの王だ、という2つで一つのテーマなのです。マタイの福音書の最後、28章20節は

…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

という言葉で結ばれます[ii]。この「いつも」は直訳すれば「すべての日々に」という文です。私たちのすべての日々――嬉しい日、順調な日、神を賛美する日も、平凡な日々も、今日も。そして、悲しみや逆境の日、「神がいるならどうして」と思わずにおれない日、それでもイエスは私たちとともにいてくださいます。イエスはそういう王なのです。

この1章23節の言葉は、旧約聖書のイザヤ書7章14節の言葉です。今年、池戸キリスト教会の礼拝では、ずっとイザヤ書を読んで来ました。66章もある大書のイザヤ書の、半分近くまで読んでくる中で、その背景で触れ続けているのは、当時の世界情勢、国際関係でした。王や為政者たちに触れる言葉でした。「預言者」とは、未来にこんなことが起きると予言(予めの言葉)を告げた人ではなく、神からの言葉を預かって語った人です。このイザヤの言葉も、将来、処女が身籠って男の子を産むだろう、と先の出来事を予告したというよりも、やがて処女が身籠って男の子を産み、インマヌエルと呼ばれるようになる――それほどに、神は将来も今も、私たちとともにおられるのだ、という、何よりも当時の人々への言葉です。とりわけ、この言葉が語られたイザヤ書7章に出て来るのは、アハズ王という二心で、日和見的な王です[iii]。主の言葉を聴きながらも耳を貸さず、のらりくらりと逃げて、周辺諸国の王たちの顔をうかがっていたアハズ、自分の力や知恵に頼ってコントロールしようとしていたアハズに対して、イザヤが告げたのがこの言葉です[iv]。人間が力で支配しようとしたり、争ったり、未来を予測したりする――それがうまく行ったり行かなかったりで、いい気になったり絶望したりする――そんな中、イザヤを通して語られたのがこの言葉です。神は、いのちを生み出せるはずのない処女に、子を宿させることが出来る。そうして生まれる子が、神が私たちとともにおられることを現す。その子こそ、真の王となる――その預言が、イエスにおいて成就したのです。

ダビデ王やその子孫たち、王を名乗る人間の支配は、不完全で、戦争や冷戦になり、平和とは程遠い世界しか作れません。イザヤ書は、その人間の間違い、罪や高慢を責めつつ、やがて真の王なるお方が来ることを告げています。その約束であるイエスがおいでになった時、王としての支配をどこからお始めになったでしょうか。ここにそのことが端的に語られているのは、21節の御使いの言葉です。「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。

王であるイエスは、没落したダビデ王家の末裔ヨセフの所に来ました。その婚約者マリアの胎に宿りました。そんな現れ方をしたら、悪ければ石打にされるか[v]、そうでなくても離縁されそうになった通り[vi]、一生「不実の子」と指さされる一人となる道を選んだのです[vii]。そして、その生涯、イエスは罪人と呼ばれる人の友となりました。(実は、この福音書を書いたマタイも「罪人や取税人」と呼ばれて嫌われていた一人でしたが、イエスに呼んでいただいて、人生を変えられた一人でした。9章9節に書かれています)最も小さい一人に目を向けました。自分の罪に苦しむ人に、赦しと癒しを与えました。疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさいと招いてくれました[viii]。イエスが来ても、ローマ帝国がすぐに終わったでなく、当時のヘロデ大王が失脚しもしませんでした[ix]。イエスの平和作りは、そういう上から始まるのではなく、まず一人一人が、自分の罪の赦しをイエスから戴き、罪そのものから救われて、新しくされることから始められるのです。そのために、イエスは、偉い王様としてでなく、小さく小さく、マリアの胎に宿る、一つの受精卵になるほどの謙りをした王なのです。そして、人の夢の中や、心の深い呻きにも、神は来られます。正しい道を求めても悩まずにおれない日を送り、恐れや罪に責め苛まれても、そこで「わたしがあなたとともにいる」と仰るのです。

預言者イザヤの時代、イエスが生まれた時代、そして、現代の私たちの時代では、大きな違いがあります。それでも、イザヤが語る平和――剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す[x]将来が備えられているという希望は、ますます切実に待望せずにおれません。そのイザヤの示す支配が、主イエスの誕生において始まりました――それ自体、イザヤが語っていたことですが――大きなことから始めるよりも、まずご自分が貧しく、か弱い胎児となって、弱い者、傷ついた者、罪の重荷に囚われている人の所においでになり、罪からの救いを与えてくださる。世界はまだ暴力や不正で動いているとしても、このイエスが私たちと世界を本当に治める、唯一の王です。

「王なる主イエス。あなたの誕生と十字架と復活がなければ、世界は救いのない、罪と悲惨で病んでいます。その中にあなたが来られ、ともにおられるゆえに、自分もこの世界も、尊く美しく、救いの御手の中にあると信じて毎日を歩めます。主よ、今日だけでなくすべての日々に、あなたがともにいて、あなたとともに歩ませて、あなたが王である証しとならせてください」

[i] 讃美歌94番3節(ダビデの裔なる主よ、疾く来たりて、平和の花咲く国を建てたまえ。主よ、主よ、御民を救わせたまえや)、97番3節(救いを賜う主、世に生まれぬ、高きも低きも来たり祝え、天地治らす主、世に現る、万の物みなどよみ歌え)、その他、「平和の君」「君の君」の訳語は頻出します。

[ii] 他にも、ほぼ中ほどの18章20節(二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」)や、4章1~11節の「荒野の誘惑」において、悪魔の「あなたが神の子なら…」の誘惑に対して「人は」との答えを貫かれたことなど、随所にイエスの「ともにいる」が鏤められています。

[iii] マタイの福音書1章9節、参照。この前後のウジヤ(8、9節)の死んだ年にイザヤは主の幻を見(イザヤ6章)、アハズとヒゼキヤ(9、10節)に語り、マナセ(10節)によって殉教したと伝えられています。

[iv] イザヤ書7章13~14節:イザヤは言った。「さあ、聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人々を煩わすことで足りず、私の神までも煩わすのか。14それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。…

[v] 申命記22・13~21:人が妻を迎えて彼女のところに入ったが、彼女を嫌い、14口実を設けて、「私はこの女を妻として近づいたが、処女のしるしを見なかった」と言って汚名を着せる場合、…20しかし、もしこのことが真実であり、その娘に処女のしるしが見つからないなら、21その娘を父の家の入り口のところに連れ出し、町の人々は彼女に石を投げ、彼女を殺さなければならない。彼女が父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱となることをしたからである。あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。

[vi] 申命記24・1:人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、

[vii] 「シンシアという若い未婚の弁護士が、勇敢にもシカゴにある私の教会で会衆を前に、とっくに知られている罪を告白したことがあった。毎日曜日、彼女の活発すぎる息子は通路を走りまわっていた。シンシアは父親のいない子を産み育てるという孤独な道を選択した。子どもの父親はすでに町を出ていた。シンシアの罪はほかの大勢の人々より重いわけではなかったが、彼女が言うには、人の目にそれとわかる結果をもたらした。彼女はその一度きりの情熱の結果を隠すことができなかったのである。おなかが突き出てくる何か月の間も、生まれた子どもが一日一時間ごとに変わっていく間も、彼女の残る生涯ずっと隠せないのである。ユダヤのティーンエージャーだったマリアがひどくとまどったのももっともだ。情熱のなせるわざは関係なかったにせよ、マリアもまた同じような事態に見舞われようとしていたのである。

現代のアメリカでは年間百万人を超える少女が未婚のまま妊娠するため、マリアの陥った苦境の大きさがいくらか薄められてはいる。だが、緊密な人間関係のユダヤ人社会で一世紀に天使がもたらした知らせは、もろてを挙げて歓迎されるようなものではなかったはずである。律法は、姦淫によって妊娠した婚約中の女は石打ちの刑に処すよう定めていた。

マタイによると、ヨセフは度量が大きく、マリアを責め立てず、密かに去らせることにした。すると間もなく天使が現れ、マリアがヨセフを裏切っていないことを知らせたのである。ルカによると、動揺したマリアはわが身にふりかかっていることを理解してくれるであろう唯一の人間、すなわち親戚のエリサベツのもとへ急いだ。彼女は別の天使から宣告を受け、老齢の身でありながら奇跡的に身ごもったのであった。エリサベツはマリアを信じ、喜びを分かち合うのだが、この場面は二人の女性の違いを痛烈に描き出している。自分に起きた奇跡ゆえの恥を隠さなければならなかったマリアをよそに、村はエリサベツの胎が癒された話でもちきりだったのだ。

数か月の後に、バプテスマのヨハネの誕生が大ファンファーレをもって迎えられた。助産師もいれば、子どもが大好きな親戚もおり、伝統的な村の合唱隊がユダヤ人男子の誕生を祝福するというように、何もかもがそろっていた。その半年後、家から遠く離れた場所で生まれたイエスには、助産師も親類縁者もいなければ、村の合唱隊も来なかった。ローマの人口調査には、一家の家長が赴けば事足りただろう。ではヨセフは、身重の妻が故郷の村で不名誉な出産をしなくてすむように、彼女をベツレヘムまで連れて行ったのだろうか。

C・S・ルイスは神の計画についてこう書いた。「すべてがどんどん狭まって、ついに、槍の先のようなほんの小さな一点に集約します――祈っているユダヤの少女です。」今日、イエス誕生の記事を読むと、私はこの世の運命を思って震えるのである。この世は、二人の田舎出のティーンエージャーの応答にかかっていた。マリアは神の子が子宮壁をけとばすのを感じたとき、天使の言葉を幾度思い出したことだろう。ヨセフは、婚約者の体つきの変化を村人たちがじろじろ見ている中で、恥ずかしい思いに耐えていたことだろう。そして、自分が天使と出会ったのはただの夢ではなかったか、と何度も思い直したことだろう。

イエスの祖父母について私たちは何も知らないが、彼らはどう思っていただろう。今日の未婚のティーンエージャーを持った両親と同じように、道徳に反していると怒りを爆発させ、しばらくむっつりと黙りこんでいたものの、やがて目のぱっちりした赤ん坊が生まれるや冷ややかな態度も和らぎ、家族の間で弱々しい停戦協定を結んだのだろうか。あるいは今日のスラムに住む祖父母たちのように寛大に、子どもを引き取ろうと申し出たのだろうか。

ぎこちない説明を九か月も続けていれば、スキャンダルの臭いが漂ってくる。神はご自身の登場にあたって、まるで、えこひいきという非難一切を避けようとするかのように、できうるかぎり最高に謙遜な状況をしつらえたように見える。神の子は人間になるとき、父親の知れない少年は、小さな町では冷たくあしらわれるという厳しいルールに従った。私はそのことに感銘を受ける。

マルコム・マゲリッジは次のように述べた。家族計画の相談にのる診療所が、家名を汚すような「過ち」を正す便利な方法を提供する今の時代だったら、「およそイエスが生まれるのを許されたりすることなど、実際問題として、現状では、きわめてありべからざることである。環境は貧しく、また父親の知れないマリアの懐妊は、まぎれもない中絶処理のケースであったろう。また聖霊の介入の結果として懐妊したことを彼女が口にすれば、これは精神医療が必要だということになったろうし、妊娠中絶の論拠をさらに強めることにもなったろう。かくて今日の世は、過ぎし日の、おそらくはいつにもまして救い主を求めていながら、あまりに人間本位で救い主の誕生を許すことができず、あまりに人知が開け過ぎて、いやさらに垂れこめる闇の中に世の光の輝くことを許すわけにはゆかぬのであろう」。」、フィリップ・ヤンシー『私の知らなかったイエス』(山下章子訳、いのちのことば社)、33~36頁。

[viii] マタイの福音書11章28節。

[ix] 「表面上は何も変わっていなかった。独裁者へロデの統治が続き、ローマの軍隊はなお愛国者たちをさらし者にしており、エルサレムはいまだに物乞いであふれていた。しかし、どういうわけかシメオンには、深いところではすべてが変わっていたことが感じ取れたのである。」フィリップ・ヤンシー『私の知らなかったイエス』、38頁。

[x] イザヤ書2章4節。この言葉はニューヨークの国連本部のレリーフになっています。