2025/3/16 イザヤ書5章18~25節(18〜30)「悪を善、善を悪と言う者たち」
イザヤ書5章は、主なる神が当時(紀元前8世紀)のイスラエルの民を、ぶどう畑に例えた歌です。収穫をしてみたら、酸っぱい葡萄、苦くて食べられたものでない病気の実だった、と例えて、民を強い言葉で嘆き非難します。
18わざわいだ。嘘を綱として咎を引き寄せる者。車の手綱でするように、罪を
引き寄せている、と非難し、20節でも
わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。
と都合よく事実や善悪の基準を捻じ曲げる悪が弾劾されます。これはイスラエルの社会の中でも、特に指導者たち、社会の有力者・支配者層の責任を問う、預言書の批判です。
21わざわいだ。自分を知恵のある者と見なし、自分を悟りのある者と思い込む者たち。22わざわいだ。酒を飲むことにかけては勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけては豪の者。23彼らは賄賂のために、悪者を正しいと宣言し、その悪者から正しい者たちの正しさを遠ざける。
自分は知恵があると自惚れています。酒に強いというだけで、勇士や豪傑を自称しています。賄賂で裁きを歪め、悪者を守っています。責任ある立場の者の、私腹を肥やす不正ぶりです。冒頭に「わざわいだ。」が4回ありますが、8節、11節にもあり、全部で6回も使われます。その6つの「わざわいだ」の真ん中にあるのが19節、イザヤの預言への嘲笑です。
19彼らは言う。「彼のすることを早くさせよ。急がせよ。それを見てみたい。イスラエルの聖なる方のご計画が近づいて、成就すればよい。それを知りたい」と。
勿論これは正直な願望ではなく、イザヤの活動を嘲る皮肉であり、イザヤの語る主の御計画の否定です。彼らは、神殿での礼拝儀式、形式的な宗教上の「義務」は果たしていました。しかしその主が、いけにえよりも公正、捧げものよりも弱者への心あるケアだ、という所は聞こうとしませんでした[i]。イザヤが彼らの不正を非難し、罪に対する神のさばきを語っても、彼らは怯えるどころか「彼のすることを早くさせよ。急がせよ。それを見てみたい」と笑って憚らないのです。しかし、イザヤを通して主が語られる言葉はこけ脅しではありません。
24それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、枯れ草が炎の中に溶けゆくように、彼らの根は腐り、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のことばを侮ったからだ。
主の教えを蔑ろにし、その言葉を侮った報いが降りかかると断言されます。25節からもその予告が続きます。26節からは具体的に「主は遠く離れた国に旗を揚げ」とあって、非常に強力な兵士たちの大軍勢が襲い掛かると言われます。少し先に飛びますが10章に「5アッシリア」帝国のことが名指しされます。北のアッシリア帝国が、ぐっと南下して北のイスラエル王国を滅ぼし、南のエルサレムまで包囲します。その脅威を5章26節は言っているのでしょう。
少し先の10章と言いましたが、この5章は他にも幾つもの伏線を張っています。とあるのは、5章25節の最後
それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。
は9章12節以降、にも4回繰り返されます[ii]。また5章の最後、30節の
…地を見やると、見よ、闇と苦しみ、光さえ雨雲の中で暗くなる。
は8章最後の
彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。
で木霊(こだま)します。つまり5章は伏線となる言葉を仕掛て、この先12章まで主の言葉と裁き、そして希望を語る展望があるのです[iii]。
5章は6章以降に続いていく、そう思って読む時に、次の6章にある言葉はズシッと来ます。
5…この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。…
これは今日の5章後半と繋がっています。嘘を憚らず、真実を歪め、主の計画を侮っている。そういう「唇の汚れた民」です。イザヤはそれを他人事と出来ず、その中に住んでいる自分も、唇が汚れていると強烈に自覚します[iv]。その時に、主がイザヤの唇に触れてくださる。滅びるしかないと思ったイザヤを、主はきよめてくださって、主の言葉を語る者としてくださる。こういう展開が、5章を受ける6章に待っていて、その先にも続いていきます。
それを考えても、今日のところでの嘘、言葉の罪というのはとても重いはずです[v]。それは、ただ道徳として「嘘はいけない」という以上に、もっと深い所の問題です。それは、神ご自身との関係が壊れている、という問題です。聖書の最初、創世記には、初めに人間が信じた嘘は、神が嘘をついている、隠し事をしていて、人間の可能性を嫌がっている、というサタンの声でした。神が真実で、信頼するに値する方である、という大前提が捨てられたのです。私たちを愛して創造し、喜んでくださる神――それゆえにこそ、関係を壊す罪を憎み、悪を忌み嫌われますが、憐み深く、ご自身が犠牲を厭わずに御手を伸ばして、赦しと回復を与えてくださる主。そういう方への信頼ではなく、罰や裁きが怖いからいい子にする、でも出来れば逃げ出したい、あるいはご機嫌をとっておけば祝福してくれる神であればいい――そんな神イメージは、主が私たちに願っている関係――心から信じ、愛する関係――とは全く異なります。[vi]
イザヤは、罪を憎み、弱者を思いやる神、即ち
イスラエルの聖なる方
を語りました[vii]。その言葉を笑(わら)い種(ぐさ)にする為政者、指導者たちが、自分の都合で勝手に事実を捻じ曲げて支配を続けるなら、その社会全体が病むでしょう。下に行けば行くほど重症な不信を植え付けます[viii]。それは「あなたがたは、正しい扱いを受ける権利などない。不当な思いを訴えても信じる人はいない」と言い続けることですし、実際、そういう生活しか出来ない。そのうち本人も「人は信じられない。自分のことも信じられない。困っていることを訴えても、裁判を求めても、信じてはもらえない。人としての価値も、あるがままで愛されることもない」と思い込んでしまう[ix]。悪意ある人が意図的に嘘や操作をして、自分を信じられなくすることもありますが[x]、そうでなくとも平気で噓をつく人々が権力を握っている社会では、人間不信が深く根を下ろしてしまい、「真実で正しい神がおられる」と言われても信じることが難しいのも当然です[xi]。
しかし主はここで、上に立つ者たちの嘘と、主の言葉への嘲りとを、強く非難します。まるで彼らのせいで、疑いで一杯(いっぱい)になった人々の叫びを汲み取るかのようです。そして、ここで彼らが嘲る台詞を封切にして、主の計画という言葉がこの後イザヤ書では大事なキーワードとして繰り返され、高らかに歌われていきます[xii]。本当にこの、イスラエルの聖なる方のご計画は実現するのだ――あなたがた人間の謀(はかりごと)と違って、神のご計画こそは必ずなるのだ、返って来るのがテーマになるのです[xiii]。それは悪を罰してさばくことと、その先に備えられている回復、喜びと癒し、もう嘘や恐怖におびえる必要のない、祝福と喜びに溢れた将来です[xiv]。
嘘で固めた権力を罰することは出来ても、それで信頼関係が出来るわけではありません。嘘つき支配者が滅ぼされても、下々で踏みつけられてきた痛みがすぐに癒えるわけがありません。「主の御計画」とはそんな勧善懲悪ではないのです。だから、5章は暗く、侘しく終わります。闇と苦しみの、やりきれない深さを汲み取るのです。しかし、続く6章でイザヤは個人的な赦しを体験します。7章、9章、11章ではキリストが来られる預言の言葉が響きます。それも、輝かしい姿で現れる救い主ではなく、小さく貧しく、傷つきやすい赤ん坊として生まれる姿を預言します。そして、本当にキリスト・イエスは、この唇の汚れた民の世界に来てくれました。神への嘘が染みついた世界で生きることをしてくれました。虐げられた人の友となり、忌み嫌われた人にそっと触れました。神との断絶がもたらす死を、十字架の死によって背負ってくださいました。そして、その死からの復活と、弟子たちに近づいて現れたこと、また私たちに出会ってくださることで、あらゆる関係を癒して回復するご計画に、私たちを入れてくださるのです[xv]。このイエスこそ、イザヤが預言した「イスラエルの聖なる方のご計画」です。
「真実にいます主よ。すべての偽りを晴らしてください。ごまかしが罷り通る世界で、あなたの言葉も遠く空しく響きそうです。この呻きをもあなたは聞きつつ、回復の約束を今日も語っておられます。信じきれない思いをも、恵みによって包み、癒してください。私たちの唇をきよめ、嘲りでも綺麗事でもなく、闇に光を、苦しみに救いをもたらす道具とならせてください」
[i] 参照、イザヤ書1・13~17。
[ii] イザヤ書9・12、17、21、10・4を参照。
[iii] 「われわれはまた、イザヤの召命を第五章のわれわれの読み方に基づいて、かなり異なって描写してきた。イザヤは、ぶどう畑の脈絡においてヤハウェの語り手として現れる。その同じ脈絡において、われわれはイスラエルとユダの両方に待ち受ける運命を学ぶ。イザヤ書五・九は、この同じ点において別の重要なテキストである。ここで発せられた審判の宣告は、次の言葉で導かれる。「万軍の主はわたしの耳に(誓って)言われた」。クレメンツは、その言語が、神の会議にふさわしいものであると注記する。すなわち、預言者は神の従者との討議の脈絡の中で、神によって発せられた審判の宣告を「ふと耳にする」(Clements,Isaiah1-39,p.63)。第五章は、われわれにイザヤの召命の明白な暗示を与える。それから六章で、より十分な表現を受ける。この結びつきにおいて預言者は、ウジヤの死(六・一)あるいはシリア・エフライム戦争の危機よりも、さらに遠くさかのぼる神の審判の計画の意味を与えられる。そして、そこにはぶどう畑、イスラエルに対する審判の代理人として正体不明の民の召喚を含む。六章は、預言者が実際に神の会議に入り、離れた所におかれても、特別な課せられた務めを直接委任されるように、神の意図の十分な宣言を次々に与える。」、サイツ、96ページ
[iv] 唇שָׂפָהサーファー 13回・6・5(私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」)、6・7(彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」)、11・4(正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。)、19・18(その日、エジプトの地には、カナン語を話し、万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こる。その一つは、イル・ハ・ヘレスと言われる。)、28・11 まことに主は、もつれた舌で、異国のことばでこの民に語られる。)、29・13(主は言われた。「それは、この民が口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れているからだ。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことである。)、30・27(見よ、主の御名が遠くから来る。立ち上る濃い煙とともに、怒りに燃えて。その唇は憤りに満ち、舌は焼き尽くす火のよう。)、33・19(あなたはもう横柄な民を見ない。難しくて聞き取れない外国語を、口ごもって、わけの分からないことばを話す民を。)、36・5口先だけのことばが、戦略であり戦力だと言うのか。今おまえは、だれに拠り頼んでいるのか。私に反逆しているが。)、37・29(おまえがわたしに向かっていきり立ち、おまえの安逸がわたしの耳に届いたので、わたしはおまえの鼻に鉤輪を、口にくつわをはめ、おまえを、もと来た道に引き戻す。』)、57・19(わたしは唇の実を創造する者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼を癒やす。──主は言われる──)、59・3(実に、あなたがたの手は血で、指は咎で汚れている。あなたがたの唇は偽りを語り、舌は不正を告げる。)
また、舌לָשׁוֹןラーソン(入江の意も。11・15)は15回:3・8(これは、エルサレムがつまずき、ユダが倒れたからであり、彼らの舌と行いが主に背き、主の栄光の現れに逆らったからである。)、5・24(それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、枯れ草が炎[舌]の中に溶けゆくように、彼らの根は腐り、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のことばを侮ったからだ。)、28・11(まことに主は、もつれた舌で、異国のことばでこの民に語られる。)、30・27(見よ、主の御名が遠くから来る。立ち上る濃い煙とともに、怒りに燃えて。その唇は憤りに満ち、舌は焼き尽くす火のよう。)、32・4(性急な者の心も知識を悟り、もつれた舌もはっきりと早口で語る。)、35・6(そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。)、41・17(苦しむ者や貧しい者が水を求めてもそれはなく、その舌は渇きで干からびる。わたし、主は彼らに答え、イスラエルの神は彼らを見捨てない。)、45・23(わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い、)、50・4(神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。)、54・17(あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、あなたを責め立てるどんな舌も、さばきのときに、あなたがそれを不義に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。──主のことば。」)、57・4(あなたがたは、だれをからかい、だれに向かって口を大きく開き、舌を出すのか。あなたがたは背きの子、偽りの末裔ではないか。)、59・3(実に、あなたがたの手は血で、指は咎で汚れている。あなたがたの唇は偽りを語り、舌は不正を告げる。)、66・18(「わたしは彼らのわざと思いを知っている。わたしはすべての国々と種族[欄外注「直訳・舌」]を集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。)
[v] 嘘שָׁוְאサー(むなしい、破滅) 4回:1・13(もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集──わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。)、30・28(その息は、あふれて首まで達する流れのようだ。それは国々を破滅のふるいにかけ、諸国の民のあごに、迷いださせる手綱をかける。)、59・4(義をもって訴える者はなく、真実をもって弁護する者もいない。空しいことに頼り、噓を言い、邪悪をはらみ、不正を産む。)
[vi] 参考に、ナンシー・リー・デモス『女性が信じる40の嘘』、山口衣子訳、いのちのことば社、2010年。
[vii] イスラエルの聖なる方 イザヤ書における「聖なる方」「聖・聖とする・聖なる・聖所」קָדוֹשׁカドーシュ、קֹדֶשׁ コーデシュ、קָדַשׁカーダシュ、מִקְדָּשׁミクダーシュ
[viii] 勿論、リーダーや権力者が正直であればいい、なんて理想が言いたいのではありません。そんな夢は非現実的だからこそ、自分たちもどれだけその影響を受けているか、歪んだ考えが染みついているかを自覚したいのです。
[ix] 2. 様々な「暴力」の形。支配とコントロール 全国女性シェルターネット すべての女性に対する暴力の根絶を
[x] これを「ガスライティング」と呼ぶことがあります。ガスライティングとは?定義や言葉の由来
[xi] 「さっきも話したけれど、人から守られた経験が少ない人間からすれば、人のことを信用するのは、とてもむずかしいからだ。しかも自分がなにひとつ提供してていきよういないのに、そんな相手から、あなたを守ってあげる、助けてあげるなど、とつぜん言われても、どう対応していいのかわからない。それにのったら最後、どんなひどい目にあうのだろう、とすら、思ってしまう。ここは安全な場所だとか、だから信頼してくださいということばが、かえって危険なことばに聞こえてしまって、ついぞ、攻撃的な態度をとってしまうんだよね。「なんか、裏表があるような気がしてよけい信用できなくなる。殴ったり蹴ったり、「バカ」とか「キモい」とか言ってくる人間が本物で、なんかニコニコして「あなたは大事」なんて言われちゃうと、絶対ウソだ、裏があるはずと思っちゃう。相手の見ている私のすがたはちがうって。だからいつ切り捨てられるかわからない。ケチョンケチョンにやってくれる人は、私のへんてこな部分をわかってくれてるから」。家で性虐待を受け、学校ではイジメを受けつづけた仲間の話だ。」上岡陽江『生きのびるための犯罪(みち) (よりみちパン!セ YP 14)』(新曜社、2024年)、132〜133ページより。
[xii] イザヤ書における「計画・思慮・助言」 עֵצָה エーツァー 20回 יָעַץヤーアーツ 16回
[xiii] 「トピック 神の計画と人間の計画 イザヤは宮廷の知恵に通じ、王の外交政策に提言できる書記官の立場にあったのではないかと推定されている(Fichtner1949)。それは、イザヤに由来すると考えられるテキストに、王国の政策決定において用いられる「計画する(ヤーアツ)」、「計画(エーツァー)」という用語が多く出てくるからである(例えば、王が「助言を求める(ヤーアツ)」。王上12:6-15参照)。実際、イザヤは預言者として召命を受けた後に、時の王アハズに直接会うことができた(7章)。このことは他の預言者には報告されていないことである。
この「計画する」「計画」という言葉は、重要な箇所で用いられている。まず、5:18-19において、エルサレムの指導者たちが「イスラエルの聖なる方の計画を近づけ、実行させよ、そうしたら我々は認めよう」(19節)と神を挑発するかのような傲慢な言葉を発していることが取り上げられている。それに対してイザヤは災いを告げ、コンテキストは違うが、神の言葉として「わたしが意図したように事は実現し、計画したように事は成る」(14:24)という言葉を記している。
また7:5では、シリアとエフライムが同盟を結び、ユダのエルサレムに傀儡政権を樹立しようとした試みを「共に悪事を企み(計画し)」と表現している。しかしそれは失敗に終わった。それと対比的なのは、公正と正義に基づいて行動する新しい王の称号として「驚くべき計画者」(9:5)という名称が使われていることである。またこのことは、イザヤの後期の活動の中でも同様である。エジプトとの同盟政策を進める人々を批判して「彼らは、謀(計画)を巡らすが、それはわたしから出たものではない。同盟を結ぶが、わたしの霊によってではない」(30:1)という神の言葉をイザヤは記している。
他方、この「計画する」「計画」という言葉が最も多用されているのは14:24-27である。そこでは「アッシリアの軛」からの解放が告げられている。そして「これは、全地に向けて定められた計画である。また、これは、すべての国々に伸ばされた手である。万軍のヤハウェは計画された。誰が覆せよう。ヤハウェが手を伸ばされた。誰が元に戻せよう」(26-27節)という神の言葉が記されている。神の計画は、諸国民の国際社会においても貫かれていることが告げられている。
すなわちイザヤは一貫して、神の計画と人間の計画を対比し、人間の様々な計画が出て来る根拠を厳しく問い質している。それは、とりわけ国内外の政治の場面である。そして、その自らの計画を隠す行為に「災い」を告げ、神に立ち帰るように勧めている。
「災いだ、計画をヤハウェに深く隠す者は。彼らの所業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我々のことを見ているか。誰が我々のことを知っているか。」あなたがたの考えは逆さまだ。陶工が粘土と同じにみなされるであろうか。造られた者が、それを造った者に言えるだろうか。『彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が陶工に言えるだろうか、『彼には分別がない」と」。(29:15-16)
この箇所は、10:5-15の「アッシリアへの裁きの言葉」と軌を一にしている。それは次の最後の言葉に最もよく示されている。「斧が、それを振るう者に向かって誇れるだろうか。のこぎりが、それを引く者に向かって威張ることができようか。それは、鞭が、自分を振り上げる者を使い、杖が、木でない者を持ち上げるのに等しい」(10:15)。」、大島『VTJ』、97〜98ページ
[xiv] 例えば、「25:1 主よ、あなたは私の神。私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、真実に成し遂げられました。2あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町から失せ、もう永久に建てられることはありません。3それゆえ、力強い民もあなたをほめたたえ、横暴な国々の都もあなたを恐れます。4あなたは弱っている者の砦、貧しい者の、苦しみのときの砦、嵐のときの避け所、暑さを避ける陰となられました。…8神である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全知の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。主がそう語られたのだ。9その日、人は言う。「見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。私たちを救ってくださる。この方こそ、私たちが待ち望んでいた主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」など。
[xv] 人間の高ぶった支配は終わらせて、争いや対立そのものを終わらせ、剣を鋤に打ち直し、ともに主の言葉を喜んで聴くようになる、新しい世界の創造――そういう将来をイザヤは繰り返し語るのです。これが主のことば、イスラエルの聖なる方のご計画です。人々が冗談にして笑って皮肉を言っても、主の御計画は成就するのです。