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2024/6/30 ヨハネの福音書17章20〜23節「すべての人を一つに」招詞:ゼパニヤ3章17節

イエスが最後の晩餐の席で最後に祈った長い祈りが、この17章です。ここでイエスは、

20わたしは、ただこの人々[目の前にいる弟子たち]のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

と祈ります。「彼らのことばによってわたしを信じる人々」とは誰でしょう。弟子たちの伝道によってイエスを信じることになる人々です。使徒の働きには多くの人々が、弟子たちの宣教を通してこの道に入りました。そして、このヨハネの福音書が書かれた頃、一世紀の末にはローマ帝国中に確実にキリスト者は広がっていました[i]。この福音書が読まれるのを聞いた人々の中にはイエスの弟子たちの弟子もいたでしょう。この17章20節の言葉を聞きながら「ああ、イエスが私のためにもお願いしてくださっている!」と胸を熱くしたでしょう。勿論その人々だけではありません。弟子たちの言葉が口から口に広がり、書かれた言葉は新約聖書に纏まり、私たちもその言葉によってイエスを信じるようになりました。ですからここでイエスが祈っているのは私たちのためでもあります。イエスは私たちのために、父に願うのです。何を?

21父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。

イエスと父なる神とは、互いのうちにいる、「一つ」と言える程、親しく結びついています。何度もお話しているように、この「一つ」とは「同じ」とか粘土のように一緒くたというのとは違います。イエスと御父は別で、同じとか変身するのではありません。違う人格(人ではないので「位格」とも言います)であります。だからこそ、自立したお互いとして、愛し、尊び、喜び、信頼し合う「一つ」があります。この「神のかたち」に作られたのが人間だと創世記1章26節に書かれています。「神のかたちに造られた」と「男と女に造られた」が並行しているのです。2章ではより詳細に「人がひとりでいるのはよくない」と神はパートナーを造りますが、もう一人同じ人を作るとか似たような性質の人を作るではなく、男と女という大きく違う人格、感覚も個性もリズムも違う、別の人格を作って「助け手」とします。その違う二人が、一つになるのが結婚です。一人になるのではないのです[ii]。新改訳聖書は60年前の初版で、この聖句「ふたりは一つ」を引用したマタイ19章5節を「一心同体」としました。これは行き過ぎだ、ということで第三版も現在の「2017」も「一体」に直しています。「一つ」とは一心同体ではないのです。二人は二人なのです。二人があるから、一つになるのです。それぞれがそれぞれである上での一つ交わりです。自分を消したり相手に合わせて一致を装ったりせず、私が自分だからこその、心からの関係です。御父と御子イエスとが一つであるのと同じです。言い換えれば、愛することにおいての「一つ」なのです。

22またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように、彼らも愛されたことを、世が知るためです。

ここで言い換えられるように、「栄光を与えた」とは「愛した」ということですね。父が御子に与えた栄光も愛であり、御子が弟子たちに与える栄光も愛です。その愛によって彼らは一つになるのです。そこに生まれる「一つ」なのです。そして、それを見て世は「ああ本当にイエスは神に遣わされたのだなぁ、神は弟子たちを愛しのだなぁ」と認めざるを得なくなる[iii]。この「完全に一つになる」とは、目的を達成する、目標に成し遂げる、という意味での「完全」です。弟子たちが一つになること、形ばかりの仲良しや一致ではなく、主の愛により、自分となり、一つ民となること、そしてそれを世が見て、ぐうの音も出なくなる…。

実際には、キリスト教会といってもたくさんの教派があります。教会に対する大きな疑問の一つが、教会の不一致です。カトリックとプロテスタント、福音派と主流派、「あれもキリスト教ですか」と言われて「あれは私たちとは違います」と答えたりなんかして、ますます「キリスト教も所詮はほかの宗教と変わらんなぁ」と思わせてしまう。そこで、多くの教派が合同したり、教会合同(エキュメニカル)運動という組織が立ち上がったりしてきました。それはそれで尊い運動でもありますが、決して組織を一つにすることがここでいう「一つ」ではありません。何よりも、イエスが祈られた通り、これは父が一つとしてくださる御業です。人間がまねをしたり、取り繕ったりする一体感ではありません。強制して作り上げる一致など、人間業でしかありません。

このヨハネの福音書でも、世の分裂が何度も炙り出されました[iv]。イエスを巡る見解で分派が起こり、イエスに癒してもらった息子を親が見限り[v]、イエスを評価しようとする議員を他の議員が黙らせる[vi]。しかしイエスは「世は分裂していて一致とは無縁だ」とは言わず、世が秘めている、本当の一致への憧れ、悲願、諦めと不信と切望とを汲み取っているのでしょうね。

コンピュータを弄る方ならウブンツという名前をご存じでしょう。南アフリカのズールー語で「他者への思いやり」、もっと言えば「あなたの中に私は私の価値を見出し、私の中にあなたはあなたの価値を見出す」という訳しきれない単語です[vii]。このウブンツの文化の中にサボナと言う言葉があります。それは「あなたは私の中にいて、私はあなたの中にいる。あなたは私にとって大切、私はあなたにとって大切。私たちは互いの一部である」[viii]。こういう言葉もあるのだなぁ、と感心します[ix]。このサボナこそ、父がイエスの中にいて、イエスが父の中にいて、私たちもイエスの中にいて、イエスも私たちの中にいる--まさにサボナそのものです。

神の約束を表現する言葉をなかなか探しあぐねて、「一心同体」というちょっと違う言葉を言ってしまう私たちです。この私たちのために、神は愛する一人子を遣わされました。私たちはもうイエスのうちにある者として一つであり、やがて完全に一つとなる日を信じることが出来ます。考え方の違う教派や、赦し難い問題、深い溝が出来てしまった関係も、神が一人子イエスを遣わして与えるほどに愛してくださった、という愛を土台とする完成に向かっています。

御父が御子を愛するように――同じように私たち一人一人を愛された…。とてつもない言葉です。私たちの罪も、憎しみや傷も、すべて知っていて、それでも蔑んだり、我慢を求めたり、目を背けたりしない愛です。この愛によって、私たちは一つである恵みに与っており、完成されていく途上にあります。途上にあって、回復途中の分裂が、愛のなさが、一緒に歩むことの困難さがあることを胡麻化したりしないのです。決して自分たちが一致していると印象付けるためのパフォーマンスはしません。無理に合同もしないし、でも出来る小さなことを、真実な繋がりを大切に、祈りつつ積み重ねていきたいのです。

確かに初期キリスト教は、すべての人に福音を伝え、それは当時の考えでは非常識な交わりを生みました。ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人、男尊女卑ではない夫婦の関係、親子の和解…。そうした違いだらけの人々を、一つ神を礼拝し、一つの救いに与る、一つ教会と告白することで、一つとしたのです。それは、ローマ社会にあって非常識な変わった(ユニークな)共同体としての姿を人々に強烈に印象付けました[x]。卑しめられていた奴隷や女性や病人も、富んでいながらも何かを求めていた富裕層も、聖書の豊かな福音により、考えたこともないほどの光を心に頂いた。それが、新しくユニークな教会、ともに礼拝する一つの交わりを生み出したのです。それはまさに神の業です。イエスの祈りの実です。私たちも、この祈りに包まれているのです。

「聖なる主よ。永遠の三位一体のように、私たちがあなたに愛され、私たちが互いに一つとなるとは、途方もないこと、思いを超えたことです。しかし、このゴールを引き降ろすような信仰から救い出し、御子イエスが祈った通り、私たちを一つにしてください。あなたの愛によって私たちを癒し、愛によって一つとなる将来を待ち望みます。抵抗する思いをも、受け取ってください。今ここでも、その始まりを与え、世に対する驚きに満ちた証しとしてください」

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[i] 増えたがために、徐々に教会に対する風当たりは強まり、ユダヤ人のキリスト者にはその共同体から追い出された人々もいました。ローマ市民や異邦人は、ローマ皇帝を拝まない厄介な人々として迫害されることも始まっていました。信じることが危険を伴う中で、このヨハネの福音書は書かれました。

[ii] 先日、中村寿夫牧師から頂いた本、『夫は人工膀胱、妻は人工肛門 牧師夫妻のがんばらない恵老生活』でも、夫と妻が何でも一緒ではなく、好みやリズムや受け止め方を違うことを大事にしていると、繰り返していました。

[iii] 21節では「信じる」というのです。この「信じる」は、事実として信じる、認めざるを得ないというニュアンスです。20節の「信じる」がイエスというお方を信じる、信頼して、信じる生き方に飛び込む、というニュアンスなのとは違います。そういう信仰をもたらすために、弟子たち、教会が一致しなきゃ、ではありません。でも、弟子たちの間に、御父と御子の愛による一致がもたらす「一つ」があることによって、世が、イエスが神から遣わされたことを認めざるを得なくなるため、というのも決して軽んじられてはいない。

[iv] キドナー:「世界」が分裂していた(例えば、7:43(そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。)、9:16(すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。)、10:19(このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。)、12:42-43(しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。43彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。)のに対し、イエスの信奉者たちは団結していなければならなかった(13:34-35;17:21-23)不統一は、より広い文化全体の特徴であった。たとえば、都市間の対立は一般的であった。作家や演説家は、国家、軍隊、家族などの統一の必要性と、不統一の危険性を強調した。平和を実現した人々を称賛することもあった。1031 個人的な敵意は党派政治では標準的であったが、贔屓教師や文学競争などの問題にも及んだ。1061 しかし、時には敵同士が和解することもあった。)(Google翻訳による)

[v] ヨハネの福音書9章22~23節:彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。23そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言ったのである。

[vi] ヨハネの福音書7章45~52節。

[vii] エラ・フランシス・サンダース『翻訳できない世界のことば』(前田まゆみ訳、創元社、2017年)。

[viii] ヨハン・ガルトゥング『日本人のための平和論』(御立英史訳、ダイヤモンド社、2017年)693/898。

[ix] 紛争転換の方法 SABONA の学校教育における一実践 室井美稚子など参照。

[x] 2世紀の文書「ディオグネトスへの手紙」では、このように描写されています:クリスチャンとそうでない人々との違いは、国籍や言語や習慣ではありません。クリスチャンは彼らだけの町に離れて住むわけではなく、特別な方言を話すわけでもなく、風変わりな生き方を実践するわけでもありません。……ギリシアでも外国でも、それぞれ決められたとおりにどのような街にも住み、服装や日常の食べ物などの習慣は、その地域の普通の習慣に従います。しかし、彼らは、常識では信じがたい驚くべき生活を我々に示しています。例えば、彼らは自分の国の家に住んでいますが、そこでの行動はむしろ一時滞在者に近いものです。……運命が彼らをここに肉体をもって置いたのですが、肉に従っては生きません。彼らの日々は地上で過ぎ去りますが、彼らの国籍は天にあります。彼らは定められた法律に従いますが、プライベートな生活ではその法律を超越します。すべての人に愛を表しますが、すべての人は彼らを迫害します。彼らは誤解され、有罪を宣告されますが、死の苦痛を受けることで命へとよみがえらされるのです。彼らは貧しいのですが、多くの人を富ませ、すべてのものに欠乏していますが、すべてのものをあふれるばかりに持っています。……彼らは[呪いに]祝福で応答し、虐待に礼儀正しく応答します。彼らは自分たちが行ったよいことのために、悪事を行ったかのように鞭打ちを甘んじて受けます。……キリスト者は自由に人をもてなすが、純潔は保っている。彼らはすべての人を愛するのだが、すべての人から迫害されている。彼らは貧しいのだが、すべての人を豊かにしている。……ひとことで言えば、彼らがこの世にあるということは、ちょうど魂が体の中にあるようなものだ。