2024/3/3 ヨハネの福音書14章22~31節「わたしの平安を与えます」
イエスが十字架につけられる前夜「最後の晩餐」で語られた「訣別説教」では、何度か弟子たちの質問で横やりが入ります[i]。それはどれもイエスの言葉からずれた的外れ、頓珍漢(とんちんかん)な発言です。イエスの答はその質問に答えるより、問いそのものを問い直した応答をします。
22イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」
これに対するイエスの答えは
「23…だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
ユダの質問と噛み合っていません。これはこの前のイエスの言葉
「21わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」
を言い換えた言葉です。そもそもユダの質問が、このイエスの言葉に噛み合っていません。この言葉を受け止めて「そうだ、イエスの戒めを守ろう、そうしてイエスをますますはっきりと知らせていただこう」と思うよりも、「どうして世にはご自分を現さないのですか」なんて余計な質問をする。これに対してイエスは、他の誰かのことではなく、一人一人が自分のこととしてイエスの言葉を守ることの大切さを繰り返して答えるのです。でもイエスは、この時の弟子たちがまだご自分の言葉も真意も分からず、どう聞けばいいのか理解できないことも十分ご承知です。
25これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
ここで16節で約束されていた
…もう一人の助け主…
が再登場します。いま弟子たちは、イエスの言葉がピンと来ず、ちぐはぐな質問で混ぜっ返すしか出来ない。だからこそ聖霊が来て、弟子たちも私たちも、イエスの言葉に教えられ、それを思い起こさせていただけるのですね。また、神にとって「思い起こす」とは、ただ忘れていたのを思い出すことではありません。契約を思い出すとは、契約に沿って行動してくださること、民を思い出すとは、民を救い出してくださること。思い出すならそのように生きるのです[ii]。ですから聖霊も弟子たちに、「あ~イエスの言葉はこうだったっけね」と思い出させるだけでなく、イエスの言葉に生きるように働くのです。逆に言えば、聖霊の働きとは、聖霊に満たされた実感(恍惚感、高揚感)があるなしではありません。イエスの言葉に心が教えられて、それを行動に移していくこと、そのように少しでも生き始めるなら、聖霊の働きがあるのです。聖霊は「眼鏡のような方」と説明されます。眼鏡は周りを見えるようにするのであって、眼鏡が見えるようならよくない眼鏡です。聖霊は、与えられたと感じるより、イエスが見え、イエスの下さる教え・戒めの眼差しで、人や自分を見るようにさせてくださる「助け主」です。同じことは続く27節にも言えます。
27わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。…[iii]
平安は「平和」とも訳されます[iv]。平安というと心の穏やかさ、平和というと争いや心配事がない、環境的な比重があります[v]。ここで約束されているのも、単に穏やかな気持ち、内面的な平安ではありません。平和・平安の両方を含めた広い平和の状況です。旧約聖書のヘブル語でシャロームという恵みが完成した状態です。神と人間との関係が完全に修復された状態で、それを中心に、環境、心、人のあらゆる面があるべき状態に修復され、借金がすべて清算され、繁栄している――それが「わたしの平安」と言われる、イエスご自身の平和シャロームです[vi]。
その後の
「わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。」
は、以前は「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」でした。勿論、イエスの平安と世が与える平安はそれ自体も違うのですが、与え方からして違うのです。世間一般の平安は、安心する出来事があるかなしか、状況次第で与えられる平安でしょう。また、あなたがしっかりしていれば、これこれ犠牲を払ったら、という条件付きで与えられます。あるいは、そうした周囲には心を閉ざして、信仰や祈りで達観すれば、平安な境地を持てる、という主観的な平安です。イエスの与え方は違います。無条件で与える、という宣言です。その状況は「あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません」と、危うく、心騒がずにおれないことは変わらないでしょう。でもこの世界にイエスが来て、生きたのは、平和の回復をもたらすためでした。イエスは不信仰を嘆き、死別の場で涙を迸(ほとばし)らせ、汗を流して祈りました。同時に、父なる神との揺るぎない関係をいつも疑わず、それがイエスの軸でした。その軸に支えられて、イエスが持っていた平和・シャロームをイエスは弟子たちに残す、与える、というのです。
パウロはローマ書5章で言います。
「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
だから神の栄光にあずかる望みを喜んでいる。更に、苦難さえも喜んでいる、それは苦難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を生み出すから。その希望は失望に終わることがない。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから、と言うのです[vii]。平和をもう持っている、苦難さえも喜ぶ、聖霊が与えられている…。今日の箇所に重なります。
30節でも言われます。
「わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。…」
イエスを葬ろうとする人々の背後にサタンがいます。しかし「この世を支配する者」と言っても
「…彼はわたしに対して何もすることができません。」
と言います。まもなくイエスは捕らえられ、十字架にかけられます。苦しめられ、侮辱され、私たちの想像を絶する痛みと孤独と悲しみに会います。それでもそれはイエスの敗北ではなかった。サタンは無力でイエスに対して何もできなかった。なぜでしょうか?
「31それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。」
神はそのひとり子イエスをお与えになったほど、世を愛されました。その十字架の死は、苦難も死も、屈辱や裏切りさえも厭わない程、私たちにご自身を与えてくださった、究極のしるしでした。ひとり子を与える神、その命令に愛のゆえに従ったイエスに、サタンは結局何も出来なかったのです。
「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」
まだ15章、16章、17章と続いて、18章でやっとイエスと弟子たちは、ここから立ち上がるのですが、「立ちなさい」だなんて、早まって口走ったのでしょうか? いいえ、ここにこそイエスの思い、私たちへの積極的な派遣の視線が雄弁に溢れています。イエスは十字架を前にしても、弟子たちに新しい戒めを与え、聖霊を与え、平和を与えて、新しい生き方をいただいて出て行く、踏み出させようとしています。もう一人のユダが聞いたように「どうして世にはご自分を現さないのですか?(現したらいいのに!)」と座ったまま強請(ねだ)る者を立ち上がらせて、イエスから平和を戴いた者として、この世界に出て行く。聖霊を実感できなくても、平安な感情に浮き沈みはあっても、この世を支配する者のほうが優勢に思えても、そういう中でこそ、今日の言葉は語られています。
イエスが十字架を通して全うされた、動くことのない平和を与えてくださっています。ヨハネも福音書も希望とはあまり言いませんが、パウロは平安を希望と結びつけていました。私たちがどんな状況でも、力強く支えられ、新しい目を持って歩む。希望を失わず、ユーモアをもって歩めます。だから、イエスに愛された者として、立ち上がり、ここから出て行くことが出来ます。私たちの毎日の、小さなこと、精一杯の喜びが、主の尊い証しなのです。
「主よ、私たちに新しい戒めと、それを助ける聖霊なる神と、あなたの平和を下さった恵みを感謝します。それゆえ、見ること聞くこと、人や出来事にも、希望や祈り、嘆きや愛おしさをもって向き合うことが出来ます。あなたがすべてを贖い、永遠のシャロームを完成させる日を待ち望みます。復活の主が「平安があなたがたにあるように」と言われたごとく[viii]、私たちをもシャロームをもって送り出してください。今週も私たちをあなたの平和でお支えください」
[i] 14章5節(トマス)、8節(ピリポ)、22節(イスカリオテでないほうのユダ)、16章17節、29節(弟子たち)。
[ii] 創世記9章15~16節(そのとき、わたしは、わたしとあなたがたとの間、すべての肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い起こす。大水は、再び、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水となることはない。16虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い起こそう。」)、出エジプト記2章24節(神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。)、32章13節(あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」)、レビ記26章42節(わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こす。またイサクとのわたしの契約を、さらにはアブラハムとのわたしの契約をも思い起こす。わたしはその地を思い起こす。)、45節(わたしは彼らのために、彼らの父祖たちと結んだ契約を思い起こす。わたしは彼らを国々の目の前で、彼らの神となるためにエジプトの地から導き出したのだ。わたしは主である。」)、民数記15章40節(こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なる者となるためである。)、詩篇25章6節(主よ 思い起こしてください。 あなたのあわれみと恵みを。 それらは とこしえからのものです。)、エレミヤ書15章15節(「主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。)、31章20節(エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──主のことば──)、使徒20章31節(ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。)、など。
[iii] ヨハネに出て来る「平安」エイレーネーは、以下の通り:14章27節(わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。)、16章33節(これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」)、20章19節(その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」)、21節(イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」)、26節(八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。)
[iv] ギエイレーネー。聖書協会共同訳「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
[v] 現代の平和学では
[vi] 「シャロームとは元来、何かが欠けていたり、損なわれたりしていない充足した状態のことで、そこからさらに進んで、無事、安否、平安、健康、繁栄、安心など、人間が生きていく上でのあらゆる領域にわたって真に望ましい状態を表す言葉です。エイレーネーも、シャロームが含んでいる多様な意味内容を受け継ぎ、人間の生の全領域にわたって神の意志に基づいた真に望ましい状態を指している言葉です(この辺りの説明は『新聖書大辞典』より)。したがって、私たちは、「平和」という言葉から、「真に望ましい状態」であること、あるいは「真に望ましい状態」になることを何が邪魔し、何が妨げているのかを考えなければなりません。それは戦争という状況だけではなく、私たちの日常、身の回りで見つけ出すことができるはずです。それが何であるかは、人によって異なります。「平和」という言葉が各個人のそれぞれの生活の場で、具体的な状況や現実と結びつけられたとき、行動すべきことが具体的に明らかとなるはずです。」同志社大学キリスト教文化センター「シャローム―平和の実現」より
[vii] ローマ5章1~5節:こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
[viii] 復活した日の夜、弟子たちはまだ恐れて戸を閉め、鍵をかけることで安心しようとしていました。イエスはその恐れている弟子たちに現れて、シャロームの挨拶をして、彼らを派遣するのです。