2024/1/7 ヨハネの福音書13章1~11節「あなたが私の足を洗って」
「1さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」
と始まる通り、いよいよイエスが過越の子羊としていのちを献げ、去る時が来た、最終段階に入りました。この13章から17章までが「最後の晩餐」、そして18、19章で逮捕と十字架に雪崩れ込んでいきます[i]。その最後の時、イエスが集中したのは、
最後まで愛された。
ご自分のものである、愛する弟子たちに、愛を注ぎ尽くすことでした。そして、その最初になさったのが、4節からにある、弟子たちの足を洗う事、「洗足」でした。
当時の道路は、今ほど整備されず、泥や埃だらけ。行き交う馬・牛・家畜の糞尿も混じり、外を歩いて帰ってくれば、履き物ごと足は汚れているわけです。家に入る時には汚れた足を洗うのです。そしてお客様を迎える時は、その家の召使や奴隷がお客の足を洗って迎えるのが良いもてなしでした。ただし、それをするのは決して主人ではありません、奴隷や召使いです。つまり足を洗うことは、身分の低さ、卑しさを認めること。それを、イエスはなさったのです。
4イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
弟子たちはどんなに驚いたでしょう。当時の食事は、椅子や正座でなく、低い食卓の周りで左肘をついて横になり、右手で食べました。右隣の人が自分の胸辺りに頭が来て、左の人は頭を回さなければ見られません。足は外に投げ出します。イエスは外側の円周に沿って、一人一人の足を洗って回ったのでしょう。もし弟子が、イエスの足を洗えと言われたら洗ったかもしれません。でも他の弟子の足を洗うなんて、その役を押し付けられるのは真っ平御免だったでしょう。それをなんとイエス様が立ち上がって、自分たちの足を一人一人洗い始めて、驚きと恥ずかしさと申し訳なさが混じったでしょう。そしてイエス様の自分たちへの愛に打たれる思いもどれほどかは入っていたでしょうか…。それを言い表す言葉を、彼らは持ち合わせません。
やっと口を開いたのは、一番弟子のペテロです。
6こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。7イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」8ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」9シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」」
ペテロの、一本気というか極端というか、おっちょこちょいな為人(ひととなり)をよく表す台詞です。イエスに足を洗ってもらう。それはペテロの激しい拒絶が現すように、実に恐れ多い、勿体なさすぎることでした。イエスがそれをなさった。それがこの後14節で「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。…」との勧めになり、引いては34節「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」に展開し、15章12節の年間聖句でも更に繰り返して念を押されます。主が愛したように愛し合う、揺るがしがたい原点になります。しかし、そういう模範とか謙遜とか仕える、という道徳に飛ぶ前に、イエスは
「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります」
と意味深なことを言っていました。これは、十字架と復活を果たして神に帰り、聖霊を遣わした時に分かるということです。単に「なーんだ、そういうことだったのか」と分かるとか「そう言ってくれれば分かったのに」とは違う、イエスのいのちをかけた愛をレンズとして初めて分かる、足洗いなのです。また、イエスが洗うことがなければ
「あなたはわたしと関係ないことになります。」
とも言われます。謙遜や道徳であれば、「イエスに足を洗っていただくなんて滅相もない」と固辞し、自分が人の汚れた足を洗うのに徹する、という方が立派かもしれません。イエスにはそんな考えはありません。わたしがあなたを洗う。これなくして、あなたとわたしの関係はない、というのです。
この個所は、十字架の死を頂点とするイエスの愛を極みまで現す導入です。イエスは弟子たちの足が汚れ、心がどんなであろうと、彼らを愛し、きよめ、揺るがない関係を下さる方です。そのために自らが立ち上がり、上着を脱ぎ、手拭を腰に、水を汲み、弟子たちの汚れて臭い足を手で洗い、拭きます。奇蹟の力でパパっとではなく、手で、一人一人の足元に跪き、一人一人の足を洗われました。この後、イエスは捕らえられて、都の外で上着も腰布もはぎ取られて十字架に着けられます。その裂かれたからだと流された血は、私たちの罪をきよめるためでした。それに先立つこの洗足は、イエスが私たちのために死なれたことが、弟子たち一人一人の足を洗うように、私たち一人一人を洗うようにきよめてくださる愛であったことを生々しく、ありありと見せてくれます。それは洗われた者が100%完璧にきよくなった、ということではありません。ペテロが「足だけでなく、手も頭も」と口走ったのを、イエスは笑い飛ばします。
10…「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。…
ここは「足以外は」という部分がない写本もあり、非常に難解な箇所だそうです[ii]。でも難しく考えることはないでしょう。日常的にもお風呂に入っていれば、家に帰ったら洗うのは汚れた部分だけです。イエスが私たちをきよくしても、自分では頭も手もきよくないのが物足りなく思うかもしれない。でも、イエスが十分だと仰って、汚い臭いと遠ざけず、「わたしのもの」と恥じることなく言ってくださる。であれば十分です。そのことを表すのが教会の聖礼典です。洗礼はイエスが私たちを洗ってくださった、一度きりのしるしです。聖餐は、私たちが既に洗礼によってイエスの十分なきよめに与って、神の民に入れられていることを思い起こすしるしです。しかし、洗礼や聖餐が自動的に罪のきよめを保証するわけではありません。
10…あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。11イエスはご自分を裏切る者をしておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
ということは、イエスはユダの足も洗っていました。どんな思いで洗ったのか、ユダをも愛しておられたイエスはどんな思いでこう言ったのでしょうか…。そして、裏切るユダ、とんちんかんなペテロをさえ愛し、その足を洗われたイエスだからこそ、私たちは、自分をもイエスは愛してくださり、私の足、心も含めた全身の汚れを洗い、私の罪のためにも十字架にかかり、あなたがたはきよいと言ってくださっていると信じて良いのです。
大いなる神の子イエスが、私たちを愛されています。足の汚れも、頭の鈍さや忘れっぽさ、勘違いも、罪の汚れもご承知です。人に仕えるために自分の手を汚すことを厭う、愛のなさ、あるいは手も心も汚れていると思っていても、その私たちの全身丸ごとを愛して、自ら立ち上がり、惜しみない愛と謙りと生々しい御業で、私たちを十分に洗い、受け入れてくださった。そうしてご自身と私たちを関係なくない関係としてくださいました。このイエスの限りない愛、私たちへの惜しまぬ奉仕によって、私たちは生きています。「だからあなたがたも互いに足を洗い合え」と言われるのは、何よりも、まずこのイエスの謙りと、私たちが確かに洗われた、という確実な事実に、私たちの心が砕かれることが必要です。上に立ちたい、人に仕えるより仕えられたい、格好悪いことはしたくない、という価値観が妄想で、薄っぺらで、恥ずかしいものとして、すっかりひっくり返されるのです。ここが神の愛を告白する私たちの原点です。
「あなたが私の足を洗ってくださいました。今日この一年最初の礼拝で、本当に深く、驚くべきあなたの御業に思いを潜め、心砕かれて始められる幸いを感謝します。日毎の糧を備えたもう主が、日毎の歩みの足を助け、仕えてくださっています。今、聖餐に与ります。最後の晩餐で、足を洗い、パンと杯を差し出された主を思い、戴かせてください。その愛を戴いた者として私たちを新しくし、すべての人を全人的に尊び、仕えるよう、私たちを洗い続けてください」
[i] 「最後まで」という語には欄外に「極みまで」とあります。新共同訳は「この上なく愛し抜かれた」と訳していました。聖書協会共同訳は「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。」とします。この「最後」「極み」あるいは「目的」と訳されるテロスの動詞形が、19章30節の「完了した」です。イエスの十字架上の最後の言葉「完了した」に至るのが、13章1節の「最後まで」です。
[ii] 水浴と足を洗うが、洗礼と告解だ、いや洗礼と聖餐だ、義認と聖化だ、などと色々な解釈がなされてきました。