ようこそ。池戸キリスト教会へ。

2026/3/22 イザヤ書37章33〜38節「力強い神に支えられている」

 イザヤ書の36章から続いてきた出来事のクライマックスです。北方のアッシリア帝国が勢力を伸ばし、周囲の国々を征服してついにエルサレムまで攻めて来ました。それはイスラエルが形式的に主を礼拝し、社会を不正や暴力で満たし続けてきた事への裁きでもありましたが、この時、ヒゼキヤ王は主に立ち返り、神殿で祈りました。今日の33から35節はその祈りに対する主の答えの続きで、今、アッシリアの王について、

彼はこの都に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾を持って迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。

矢、盾、土塁を築く…。これらはアッシリアの得意とする常套戦術ですが、それらを主はことごとく一蹴しています。

彼は、もと来た道を引き返し、この都には入らない―主のことば――。

 この言葉の通りに

36主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が翌朝早く起きてみると、なんと、彼らはみな死体となっていた。

というのです。大変な奇跡です。一夜にして20万近い兵士が死体となった。「主の使い」とありますが、イザヤ書にはここにしか出て来ませんし、聖書には禍を、クマバチとか鷲の翼とかいう表現で表すことがありますから、ここも必ずしも、見える形で天使が現れたとは限りません。急な病気になったか、同士討ちをしたか、何かしらの理由で大勢が急死したことを「主の使い」と表現しているのかもしれません。実際、主の使いとしか言えない、余りに急な出来事だったのです。当時の文献を見ますと、アッシリア王セナケリブがエルサレムを囲んだことまでは書かれているのですが、その後は書かれておらず、不利な記録は残していない、中途半端な記載になっています[i]。何かエルサレム攻撃を中止せざるを得ない出来事があったことは疑われていません。

 しかしヒゼキヤ王やエルサレムの民にすれば大変な救出の奇跡です。絶体絶命と思われた中、祈りに答えて主がアッシリア軍の惨敗を約束し、その通り、何十万の兵が打たれたのです。この時の勝利を歌ったのが詩篇 48篇 [ii]と 76篇[iii]とされます。主の勝利を力強く賛美しています。

詩篇48篇主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。
主の聖なる山 私たちの神の都で。
見よ 王たちは集って ともどもにやって来た。
彼らは 見ると驚き おじ惑い 慌てた。
その場で震えが彼らをとらえた。
子を産むときのような激しい痛みが。
私たちは聞いたとおりを見た。
万軍の主の都 私たちの神の都で。
神は都をとこしえに堅く立てられる。
この方こそまさしく神。
世々限りなく われらの神。
神は 死を越えて私たちを導かれる。

イスラエルの歴史の中に、いつもこのような出来事が起きたわけではありません。むしろこの出来事は特別です。イザヤ書の中でも特筆すべき、生ける主の業として独特な位置を占めています。主は本当に歴史を収めておられる方である。私たちの信仰は現実離れした宗教でも、現実逃避でもない。本当にこの世界は神の支配の手の中にある。そのことを、はっきり示す、前にも後にもない、神の介入の出来事の一つがこのアッシリアの包囲からの解放でした。

 それだけに、この出来事は諸刃の剣でした。このエルサレム解放が、間違った「エルサレム信仰」になりました。「神はエルサレムを特別扱いして守る。自分たちが何をしていても主はエルサレムを必ず守ってくださるのだ」という思い上がりにも繋がったのです。百年も経たずにバビロニア帝国が攻めて来た時、預言者エレミヤの警告に人々は「これは主の宮だ。エルサレムにいれば大丈夫。また主は助けてくださるのだ」と耳を貸しませんでした。主が求める正義や憐れみを侮り続けました[iv]。本当に大事なのは、形ばかりの信心深さと人への不正の問題です。そうでなければ自分の野望を握り締め、他の人の生活に踏み入るなら、センナケリブと変わりません。「守られる」ではないのです。主イエスの時代にも「エルサレムにいれば守られる」という信念に、イエスは警告します[v]。私たちもこの箇所から「何があっても神様が守るから大丈夫」という、都合のいい、お気楽すぎる結論は出来ません。勿論、敵が攻めて来たり包囲された時、主の助けを祈ります。戦争や暴力の終わりを真剣に祈ります。でも、真剣に祈りさえすればきっと助かるだなんて約束を引き出すことは、ここの真意ではありません。むしろ、こんなにも力強く偉大な神を、形ばかりの礼拝で済ませ、自分を大きくし、人の境界線を踏み超えることがどれほど思い上がりか。そんな民に対してさえ憐れみ深く、こうして守られるとはどれほどの恵みと忍耐か。その恵みに、私たちは生かされて、今までも、今日も、これからもあるのだ――小さく、無力で、破れた私が生かされている恵みに立ち戻らせてくれるこの37章です。これは最後のセンナケリブの姿にも、しみじみと思わされるのです。

37アッシリアの王センナケリブは陣をたたんで去り、帰ってニネベに住んだ。38彼が自分の神ニスロクの神殿で拝んでいたとき、その息子たち、アデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を撃ち殺した。彼らはアララテの地へ逃れ、彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。

37章7節で主の言葉として、センナケリブが国に引き揚げて、そこで彼を剣で倒す、と告げていました[vi]。その通りになったのです。これを読むと、ニネベに帰ってすぐ殺されたように思いますが、実際はエルサレム包囲から20年後、前681年の事です。それだけ隔たりはあるにせよ、イザヤ書はこれを主の預言の成就と見ています。この死の方が18万の兵士の死よりも厳しい。侵略や戦争では大勢が死にます。神が本気を出せば仕方ない、と言い訳しながら、エルサレムから遠ざかれば大丈夫、と考えた帰路だったかもしれません。しかし、帰った都の神殿で、でした。自分の神としていたニスロク――これがどういう神かは不明ですが、センナケリブを守れなかったのは確かです[vii]。そして敵によってでなく、息子、我が子たちによって殺された。大アッシリア帝国を広げて、諸国を支配下に入れるつもりでしたが、自分の最も身近な家族、いずれは後継となる息子の二人の剣によって、というところに、センナケリブの築いていた帝国が、いかに脆いものだったか…、その自惚れが虚しかったかを思うのです。

センナケリブを笑うわけではありません。ヒゼキヤも息子マナセはひどい暴君になりました。私たちもそれぞれに自分の家族のことでは、何かしらの痛みや愛憎があるものでしょう。35節で「わたしのしもべダビデのために」と言われますが、ダビデ王も、我が子にいのちを狙われましたし、よき父親の模範とは程遠い、大きな罪を犯した王です。そのダビデに、主が約束していたのは、ダビデの子孫から、永遠の王が出る、という約束でした[viii]。上から力づくで支配するのではなく、主の御心に適った王、ダビデ自身の罪や惨めさから救う王の約束です。そのダビデへの約束(ダビデ契約)がこの

わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。

と言われている、主の理由なのです[ix]

主は、世界の創造主であり、何十万の軍隊の包囲も終わらせる、力強いお方です。そしてその力を、小さく失敗したダビデを通して成し遂げると約束してくださった主です。私たちは、この主の力に支えられています。自分の力や立派さに思い上がるのは愚かなことです。振り返れば、足元の自分の家族、最も身近な人との関係も、主のあわれみによって支えていただいているに他なりません。私たちは、奇跡や正義を待ち望むに勝って、自分のため、自分の家族との関係の中に、主が働いてくださることを、謙虚に、日々祈り続ける必要がある者です。

イザヤ書は、アッシリアからの解放でヒゼキヤの話を終わらず、なお次の38、39章と続けて、ヒゼキヤの内面を取り扱っていることを語ります。アッシリアからの解放で万々歳とはしないのです。敵の脅威を去らせただけでは終わりません。主ご自身が、ヒゼキヤを深く変えてくださいます。主は私たちにも恵みによって迫ってくださいます。頑なな壁を超えてくださり、弱さや痛みに触れてくださいます。その全能の力で、私たちの内側を癒してくださるのです。

「主よ、かつての歴史に確かに刻まれた力ある出来事に、御名を褒め称えます。その御業を、今も続く戦争や侵略、様々な暴力にもう一度と願いつつ、私たちの内側や家庭の中もまた、それを必要としていることをも告白します。不可能のないあなたが、最善をご存じのあなたが、この世界をあわれんでください。そして私たちにも惜しみなく働いて、新しくしてください。心の扉を開いて、あなたを日々お迎えし、痛みの中に現される恵みを待ち望ませてください」

[i] ヘロドトス『歴史』第2巻、141節。Wikipedia、「エルサレム包囲戦」も参照。

[ii] 詩篇48篇

主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。

主の聖なる山 私たちの神の都で。

高嶺の麗しさは 全地の喜び。

北の端なるシオンの山は大王の都。

神はその都の宮殿で ご自分を砦として示された。

見よ 王たちは集って ともどもにやって来た。

彼らは 見ると驚き おじ惑い 慌てた。

その場で震えが彼らをとらえた。

子を産むときのような激しい痛みが。

東風によって あなたはタルシシュの船を砕かれる。

私たちは聞いたとおりを見た。

万軍の主の都 私たちの神の都で。

神は都をとこしえに堅く立てられる。 セラ

 

神よ 私たちはあなたの宮の中で あなたの恵みを思いました。

神よ あなたの御名と同じく あなたの誉れは地の果てにまで及んでいます。

あなたの右の手は義に満ちています。

あなたのさばきのゆえに シオンの山が喜び ユダの娘たちが楽しみますように。

 

シオンを巡り その周りを歩け。

その塔を数えよ。

その城壁に心を留めよ。

その宮殿を巡り歩け。

後の時代に語り伝えるために。

この方こそまさしく神。

世々限りなく われらの神。

神は 死を越えて私たちを導かれる。

[iii] 詩篇76篇

神は ユダにご自分を示される。

イスラエルに その御名の偉大さを。

その仮庵はサレムに その住まいはシオンにある。

神はそこで 弓の火矢を砕かれる。

盾と剣も 戦いも。 セラ

あなたは輝かしく 獲物で満ちる山々にまさって威厳があります。

剛胆な者たちは略奪され 深い眠りに陥りました。

どの勇士たちにも 手の施しようがありませんでした。

ヤコブの神よ あなたが叱りつけると 戦車も馬も 倒れ伏しました。

あなたは 実にあなたは恐ろしい方。

お怒りになれば だれが御前に立てるでしょう。

 

天からあなたの宣告が聞こえると 地は恐れて沈黙しました。

神が さばきのために 地のすべての貧しい者たちを救うために

立ち上がられたそのときに。 セラ

まことに 人の憤りまでもがあなたをたたえ あなたは あふれ出た憤りを身に帯びられます。

 

あなたがたの神 主に 誓いを立て それを果たせ。

主の周りにいる者はみな 恐るべき方に贈り物を献げよ。

主は 君主たちの霊を刈り取られる。

地の王たちにとって 恐るべき方。

[iv] 「ヤハウェが帝国の統治者であることを如実に示すこの驚くべき確証の時代が、今やその後の偽りの自信の源泉となり、原動力となったと想像するのも無理はない。701人の救出を直接的に手にしていたエルサレムの指導者たちこそ、「平和がないのに、平和だ、平和だ」(エレミヤ6:14; 8:11; エゼキエル13:10)と言えたに違いない。1世紀後、ハナヌヤを偽りの裁きに導いたのも、おそらくこの同じ奇跡であっただろう(エレミヤ28:3-4参照)。

この奇跡はユダにとって力強い確信の源泉であった。同時に、高くつく自己欺瞞の源でもあった。その自己欺瞞を否定する発言は後になってからなされた。今となっては、この伝承はただ驚きと感嘆、そして感謝の念を抱かせるだけだ。イザヤの伝承は歴史に対する独特の見方を提示している。今回はそれが目に見える形で効果を発揮した。信仰こそが、まさに世に打ち勝った勝利なのだ。」 ブルッゲマン

[v] マタイの福音書24章15〜22節。

[vi] イザヤ書37・7:今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」

[vii] 「彼が神殿で祈りを捧げていた時(20年前に彼の標的であったヒゼキヤが祈ったのと同じような?)、実の息子たちに殺されたことは、彼の生涯における最後の皮肉と言えるだろう。」 オズワルト

[viii] Ⅱサムエル記7・11〜29:「…主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。

あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。

彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。

あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」

ナタンはこれらすべてのことばを、この幻のすべてを、そのままダビデに告げた。

ダビデ王は主の前に出て、座して言った。「神、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。

神、主よ。このことがなお、あなたの御目には小さなことでしたのに、あなたはこのしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ、これが人に対するみおしえなのでしょうか。

ダビデはこの上、何を加えて、あなたに申し上げることができるでしょうか。神である主よ、あなたはこのしもべをよくご存じです。

あなたは、ご自分のみことばのゆえに、そしてみこころのままに、この大いなることのすべてを行い、あなたのしもべに知らせてくださいました。

それゆえ、申し上げます。神、主よ、あなたは大いなる方です。まことに、私たちが耳にするすべてにおいて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はいません。

また、地上のどの国民があなたの民イスラエルのようでしょうか。御使いたちが行って、その民を御民として贖い、御名を置き、大いなる恐るべきことをあなたの国のために、あなたの民の前で彼らのために行われました。あなたは、彼らをご自分のためにエジプトから、異邦の民とその神々から贖い出されたのです。

そして、あなたの民イスラエルを、ご自分のために、とこしえまでもあなたの民として立てられました。主よ、あなたは彼らの神となられました。

今、神である主よ。あなたが、このしもべとその家についてお語りになったことばを、とこしえまでも保ち、お語りになったとおりに行ってください。

こうして、あなたの御名がとこしえまでも大いなるものとなり、『万軍の主はイスラエルを治める神』と言われますように。あなたのしもべダビデの家が御前に堅く立ちますように。

イスラエルの神、万軍の主よ。あなたはこのしもべの耳を開き、『わたしがあなたのために一つの家を建てる』と言われました。それゆえ、このしもべは、この祈りをあなたに祈る勇気を得たのです。

今、神、主よ、あなたこそ神です。あなたのおことばは、まことです。あなたはこのしもべに、この良いことを約束してくださいました。

今、どうか、あなたのしもべの家を祝福して、御前にとこしえに続くようにしてください。神である主よ、あなたがお語りになったからです。あなたの祝福によって、あなたのしもべの家がとこしえに祝福されますように。」」

[ix] https://jesus-web.org/program/20150512-2/