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2026/2/8 イザヤ書33章13〜16節「焼き尽くす火を住まいとして」交読・7詩24篇

イザヤ書のこの部分は33章の最初から35章までのまとまりの一部です。預言書は「予言」ではなく、神が預言者に預けた言葉です。神はこれから起きる未来について教えるよりも、主がすべてを治めていることに信頼して、今ここでどう生きるか――人としての本分へと私たちの目を向けさせる方です。ここでも、大きな主の支配を通して、私たちの今の生き方を整えてくださる事が語られています。

13「遠くの者よ、わたしのしたことを聞け。近くの者よ、わたしの力あるわざを知れ。」

イスラエルの地から離れている者にも主は主であられます。近くにいる者も近いからと関係ないと慢心するのでなく、主の言葉を聞くようにと言われます。直接、私が今ここで知りたい言葉、神がいるなら聞いてみたい興味についての返答ではなく、神ご自身がすべての人に――今も私たち一人一人に告げられる言葉がここにあり、私たちのうちに、神の前に立つ場面を、神が人に見せてくださるストーリーを思い描かせるのです。

14罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者たちを震えがとらえる。「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられるか。私たちのうち、だれが、とこしえに燃える炉に耐えられるか。」15義を行う者、公正を語る者、強奪による利得を退ける者、手を振って賄賂を受け取らない者、耳をふさいで流血について聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者。

イザヤが語った時代、イスラエルは諸外国の脅威に振り回されていました。生きた信仰・信頼は失せて礼拝は形骸化し、自分たちの安全を占うためだけのような宗教になっていました。そのような民に対して、主の前に立つことこそ、本当に恐れるべきこと、うまく立ち回って逃れることなど出来ない、真剣に考えるべきことだ、と警告します。15節を裏返せば、当時のイスラエルの中には、義よりも不義が罷り通っていました。裁判は不正で、強奪や賄賂が蔓延はびこっていました。そうした罪・悪で心を占めている生き方を問題として気づかせるのです[i]。因みに、14節の「火に耐えられるか」と訳されているのは、客となるとか滞在するという言葉です。火に我慢して耐える、というのではなく、火が来て、利得とか賄賂、思い上がり、頼りにしてしがみついていた神ならぬ諸々が焼き尽くされても、それでも立ち果おおせる――お客に呼ばれたかのように滞在できる。それは、淡々と正しく生き、善い事を求める人だ、ということでしょう。「耳をふさいで流血について聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者」というのは、悲惨な事件や悪事に目を瞑るとか、他人事とするということではないでしょう。主ご自身が、暴力や悪を見据えて、その叫びを聞かれる方なのですから。ここで言うのは、酷むごい話を楽しみに聴こうとする、悪事を見物する野次馬根性への非難でしょう。今なら、テレビで犯罪やスキャンダルを面白がって取り上げるような番組、事件の現場に居合わせたら助けるよりもスマホで動画を撮り始めたり、そうした投稿を見続けたり拡散することをしない、と言い換えられるでしょう[ii]

16このような人は高い所に住み、その砦は岩場の上の要害である。彼のパンは備えられ、彼の水は確保される。

しかし、この言葉の先には、大きな喜びがあります。

17あなたの目は麗しい王を見、遠くまで広がる国を眺める。18あなたの心は、恐ろしかったことを思い巡らす。「数えた者はどこにいるのか。量った者はどこにいるのか。やぐらを数えた者はどこにいるのか。」19あなたはもう横柄な民を見ない。難しくて聞き取れない外国語を、口ごもって、わけの分からないことばを話す民を。[iii]

恐ろしかった過去、横暴な侵略者たちに怯えた日々は完全に過ぎ去って跡形もない。そう言える将来が来るのです。麗しい王と、遠くまで広がる国、という将来像です。更に続きます。

20私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、移ることのない天幕、エルサレムを見る。その杭はとこしえに抜かれず、その綱は一本も切られない。

シオンあるいはエルサレムは、イスラエルの都です。イザヤの時代、そこで行われていた不法や形式的な礼拝の罪が厳しく責められてもいました。しかし、ここではさばきの先にある恵みが「安らかな住まい」と言われます。天幕とは杭を打ち、テントを広げて、綱を結び、またそのうち杭を抜いて移動するものです。或いは、誰かが来て綱を切られてしまうかもしれない。そういう心配が一切なくなる、安らかな住まいとなったエルサレムを見る、というのです。

21しかも、そこには威厳ある主が私たちとともにいてくださる。そこには多くの川があり、幅の広い川がある。櫂で漕ぐ舟もそこを通わず、大船もそこを通らない。

最初がいいですね。「しかも、そこには威厳ある主が私たちとともにいてくださる。」[iv] 加えての川があるのは有難いのですが、古代はその川を使って敵が忍び寄ったり大船が現われたりする不安もあったでしょう。ですから22節

まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちに法を定める方、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。

私たちの裁判官であり、立法者であり、王。その事がここまでの描写の中心です。33章の先の2節で祈られました。「主よ、あわれんでください。…苦難の時の、私たちの救いとなってください。」その祈りが聞かれたのです。この主が、麗しい王として現れて、遠くまで広がる国を治め、横柄な支配者を過去に追いやり、都エルサレムを安らかな住まいに換えてくださる。川があっても敵が来る心配は無用で、主だけが裁き主、王となってくださる。こういう救いを下さる。加えて、

23あなたの帆の綱は解け、帆柱の基に結ぶこともできず、帆を張ることもできない。そのとき、おびただしい数の分捕り物が分けられ、足の萎えた者も獲物をかすめる。

足の萎えた者――今は分配の列に並ぶのもやっと、という人さえ、不利ではなくなる。そして結び。病気が癒されてなくなるのか、どんな病気も気にしなくてよくなるのか、「24そこに住む者は「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の咎」神や人との関係を壊した問題そのものが「…除かれる」――赦される、怒られない、にもまして除かれるのです。

ここに描かれるのは将来の素晴らしい回復です。元に戻るという回復ではなく、大変化です。聖書が述べる救いは、幸せ、帰郷、癒し、繁栄…様々な面がありますが、ここには「変化」の素晴らしい図を見ることが出来るでしょう。そして、その変化をもたらす峠は14節でした。「焼き尽くす火」です。火が燃えるものを焼き、不純物を取り除いて、金や銀を精錬する様に、私たちの見せかけや儚い誇りや、被っている仮面やあれこれの思い込みが焼かれて朽ち果てる。足が萎えた人や病気の人の生き辛さも焼かれてなくなり、主がともにおられることを見る。そして私たちも、主がともにいようと思ってくださる私たちとされる。そんな大変化の救いです。

焼き尽くす火」の欄外の引証聖句にある申命記4・24は

あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたみの神である。

――主ご自身を焼き尽くす火と言います。それは旧約時代だからでなく、もう一か所、新約時代のヘブル書12・29でも

私たちの神は焼き尽くす火なのです。

と言う通りです[v]。神は焼き尽くす火、神は私たちを純金のように溶かし、陶器のように窯で本物に焼き上げるお方です。ここ、15節では「義を行う者、公正を語る者」以下は、とこしえに燃える炉に投げ入れない、と言われません。誰もが、神とともに歩む時、遅かれ早かれ、火の中を通るような思いをします。それは痛く苦しいことでもありますが、主の御手の中で、本当に価値あること、朽ちない尊さがあることを知る経験です。神を敬うことの貧しい生き方から、威厳ある主がともにいてくださる、その栄光に与るよう、救われていくのです。自分では焼かれたら自分なんか何も残らないと思いたくなっても、主はいわれます。

あなたの目はそれを見る。主が私たちとともにいてくださる。この方が私たちを救われる。

と。この約束を戴いていることが、私たちの頂いた救いであり、それが今の私たちの生き方をも変え始めています。

「主よ、あなたが見せてくださる景色は、なんと素晴らしく、優しく、喜ばしいものでしょう。この救いに与らせるため、あなたはひとり子イエスを人として私たちに送ってくださり、その体での営みを恵みとまことで満たし、私たちに永遠を指し示す足跡とされました。どうぞ焼き尽くす火であるあなたの救いに私たちを与らせ、精錬し、あなたがご存じの私たちとしてください。そして私たちの地上での出来事も、主の救いによって、朽ちない恵みに用いてください」

[i] 15節は交読した詩篇24篇を、18節は詩篇37篇を下敷きにした言葉です。

[ii] そこに主が来られたら、慌ててカメラを隠すのではないでしょうか、それとも、その主に向かってカメラをまだ向けようとするぐらい、主を恐れる心が麻痺しきっているかもしれません。

[iii] 「18節は、3つの修辞的な問いを投げかけます。「数えた者はどこにいるのか?誰が量ったのか?誰が数えたのか?」これは、ユダのあらゆる資源を押収、没収し、課税し、貪り尽くした占領者たちの強欲な行為を指しています。言うまでもなく、これは占領の主目的の一つであり、帝国軍によって長きにわたって行われてきました。つまり、土地の富を奪い取ることです。あらゆる大国がそうしており、ユダに対しても確かにそうしました。 19節は、18節の修辞的な問いに対する勝利の返答を示しています。彼らはどこにいるのでしょうか?答えは「どこにもいない、いなくなった、見えなくなった、追放された」です。ユダはもはや、奇妙で傲慢で威圧的な言語を話す傲慢な占領者たちを見ることはないでしょう。今やこの地はヤハウェの律動のために解放されました。信仰の言葉、ユダの「母語」だけが、今や聞こえる唯一の音なのです。」、ブルッゲマン

[iv] 聖書協会共同訳は、次のように訳します:「そこには/主の威厳が私たちのためにある。/そこには川があり、その流れは幅広く/櫓で漕ぐ舟はそこを通らず/強大な船もそこを通過しない。」

[v] この事に絞った黙想は、C・S・ルイス篇『燃やし尽くす火 ジョージ・マクドナルドのことば』(中村妙子訳、新教出版社)から与えられました。