2026/2/22 イザヤ書35章「喜び歌う復讐」
イザヤ書の35章は大きな区切りの一つです。13章からの流れが厳しさとは対照的な喜びに溢れる歓喜の歌で幕を下ろし、36章から次の段落に入ります[i]。この章は「旧約聖書中最も美しい信仰告白」とも呼ばれます[ii]。聖書は、聖なる主の厳しい言葉で迫る書でもありますが、それを凌駕して余りある祝福――荒野と砂漠に花が咲き、美しく変わり水が流れる、と言って、私たちを慰め、力づけてくれます。
1荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う。2これに、レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光が授けられるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
「荒野と砂漠…荒地」と殺伐とした光景は、イザヤが語ってきた神の厳しい言葉がその通りになった現実です。主は当時の世界にも、今の私たちにも、罪、不正、高ぶりを厳しく非難し、人の虚栄を打ちます。その荒野・砂漠が喜び、喜び躍り、花を咲かせる、というのです。サフランとあります。私、サフランライス――黄色いご飯――を思い、ここも一面黄色い花景色かなと想像しました。多くの英語聖書ではクロッカスです。春に咲く、紫や白、黄色などの花です。サフランはクロッカスの一種で秋に咲く紫の花です。その黄色い雌蕊を集めた香辛料は、花150からやっと1gが採れる、世界一高価なスパイスだそうです[iii]。寒さには強く、生命力の逞しい花です。荒れ地が、紫のサフランの花を埋め尽くすように咲かせる。更にそこに重なるレバノンは立派に聳える杉の木で知られた地です。カルメルは地中海を見下ろす絶景で、その麓のシャロンは美しい緑の景勝地[iv]。砂漠にサフランはともかく、杉の木は絶対に生えません。でもここでは、砂漠にサフラン、レバノン杉の森、カルメルから見下ろす絶景や、緑の広がるシャロンも重ねられる。それほどの色鮮やかな光景でしか表現できない大変化が描かれます。
絶景に立ったり、美しい絵(音楽や物語でも)に触れたりした時、感動するだけでなく、苦しいような涙が出ることがないでしょうか。あまりに美しいものは、自分の中にある美しくないもの、破れや傷、失ってしまった何かを呼び起こすからかもしれません。今は、そのようにしか考えられないのかも無理ないのでしょう。しかし、イザヤはいうのです。
3弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
弱った手や蹌踉よろめく膝、心騒ぐ者に対する「強くあれ。恐れるな」に通じるのです。弱った心を強める知らせがあるのです。それは、あなたがたの神がやって来る、という知らせです。神が来られる。それも「あなたがたの神=私たちの神」として来てくださる。そして、神が私たちの神として来られる以上、そこで「復讐」「神の報い」が来るとも言い換えられ、来て、あなたがたを救われる、というのです。「復讐」なんて言われるとドキッとしますが、あなたがたを救うことこそが「神の復讐」、報いだというのです。この復讐という言葉は「仕返し」でなく「バランスが崩れている関係を正す、正しい統治を回復する」という意味なのだそうです[v]。神が私たちの心・人生の崩れたところ、神が本来私たちに下さろうとしていた生き方を取り戻してくださる――壊れたものを直し、騒いでいる心に恐れなくてよくしてくださる。そういうリベンジをしてくださる――そういう私たちの神が来てくださることは救いなのです。
それは大きな変化です。だから5節、6節は色々な含みがあるでしょう[vi]。目の障害や聴覚の障害が本当に癒やされること、あらゆる病気が癒やされる、とも読めます。実際、イエスが来られた時、多くの病人を癒したのです[vii]。でもイエスは「見えると思っているから見えない」とも指摘しました[viii]。パウロの手紙にも「あなたがたの心の目が見えるようになって…」と祈るのです[ix]。イザヤ書も、心の耳、心の目の頑なさを言います[x]。体の目や耳か、心の目や耳か、というより、体も治るし、神の栄光や恵み、御心も見える。膝の痛みが消えるだけでなく、神の道を歩み、走ったり踊ったりするようになる。口を、喜び歌うために開く――そういう全人的な癒しでしょう。主がもたらすのは、単なる癒しとか治療という以上に、すべてが新しくされること、私たちが心から、足の爪先から髪の毛の先まで、シワの一本一本まで、主の愛によって満たされていく回復です。私たちが心から歌い、飛び跳ねる、という通りです。それは、
……荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。7焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の湧くところとなり、ジャッカルが伏したねぐらは 葦やパピルスの茂みとなる。
この荒野に水、川が流れて、豊かに潤うという図は、この先、イザヤ書40〜55章で繰り返される表現です。水の少ないあの地で、水が湧き、葦やパピルスの茂みとなるとの言葉は、力強く、希望を呼び覚ました言葉でしょう[xi]。荒野にも湧き出る水、獣のねぐらでしかなかった場が水辺のようになる――それを見て、私たちの目から鱗が落ち、躍り出し、喜び歌う。これは他でもない、私たち――私が、あなたが歌い、踊る。そういう光景を想像していますか?
そして最後8節〜10節には「大路」が出て来ます。「聖なる道」が通っています。
汚れた者はそこを通れない。これは、その道を行く者たちのもの。そこを愚か者がさまようことはない。9そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ることはなく、そこには何も見つからない。贖われた者たちだけがそこを歩む。
汚れた者とか愚か者、獣などなどのあらゆる妨害に脅かされることなく、贖われた者たちがその大路を通って帰って来る。そして
10主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。
この歌は、51章11節でもそのまま繰り返されます。イザヤ書から戴く希望、ゴールのエッセンスの歌です。そして、聖書最後の黙示録でも7章と21章で引用される歌です。
この「贖われた」とは、代価を払って買い戻す、という意味です[xii]。主が民のために代価を払って、私たちをご自分のものとしてくださるのです。ですからこれは完全に受け身です。自分の力や相応しさには一切よらず、ただ主の恵みと主ご自身の犠牲によって、贖われた者とされ、その大路を通って帰って来るのです。元はと言えば、イザヤ書の時代の人々は「汚れた者…愚か者」でした。形ばかりは礼拝の義務を果たしていても、心は罪で汚れ、折角の頭を自分の狭い考えで無駄遣いする愚か者でした。自分で自分を綺麗にしたり、賢くどうにかしたりは無理なのです。けれども、だからこそ、主が贖ってくださるのです。ここにもう国や民族、身分や何かの条件は一切ありません。どんなに汚れた者と言われたり自分でも愚か者だと呆れていても、その私のどうしようも足りない部分も、主が贖ってくださり、私も「贖われた者」に入れられて喜び歌い、大路を帰って行ける。それを脅かし邪魔する者を恐れなくてよい!
1節のサフランは、バラと訳されたこともありました。砂漠がバラに変わる、私たちの人生が薔薇色になる、という期待は誰もが抱きがちです。しかし、バラではなくサフランです。その世界一の産地、イランのサフラン畑は、一見乾燥した地面に、ずっと紫のサフランが広がっています。荒れ地が楽園のお花畑に一変するというよりも、荒れ地が小さな花を沢山咲かせ、その一つ一つに小さな宝がある、という景色なのです。トーマス・キーティングという方は言います。
「私たちは神に自分の人間臭さ――自分の弱さのうちに、自分の依存症(止められない習慣)のうちに、自分の罪のうちに――神が神であることを現していただくよう、招かれている。」
私たちの無力さ、問題こそ、神が私たちを贖って、救ってくださる空間です。主に贖われた者たちは、その恵みを与えられています。私たちの弱さの荒野に、破れた砂漠に、罪の闇の中に、主が来てくださり、砂漠がサフランを咲かせるような御業を見せてくださる。その恵みが見える目を下さる。だから今も私たちは、毎日の旅路で、失望したり投げ出したり、自分ではどうにも出来ない中でこそ、「主よ、ここに来てください、神が私たちの神であることを現してください」と祈るのです。
「私たちの神。私たちの贖い主なるあなたは、荒野に花を咲かせ、闇に光を照らし、いのちの歌を喜び歌わせてくださいます。今、私たちに見えないとしても、あなたの恵みはあるのです。何よりもあなたは、御子イエス・キリストによって私たちを贖い、あなたのものとされ、神の復讐を果たされました。罪に心騒ぐ時、共に生きる難しさに心が荒む時、そこに来られる主を仰がせてください。地上の旅路を守り、将来の完成を今日の歌を歌って待ち望ませてください」
[i] 「この節をもって、13章から35章までの部分はクライマックスを迎えます。7章から12章では、「神は諸国民の主権者か」という問いが提起されました。神はアッシリアから救い出すことができるのでしょうか。それとも、神はもっと大きな神に飲み込まれるのを待っている、ただの神々の一人なのでしょうか。つまり、神は信頼できるのでしょうか。13章から35章は、13章から23章、24章から27章、28章から33章、34章から35章という4つの主要なセクションでこの問いに答えようとしました。最初のセクションでは、神がそれぞれの諸国民を支配することが主張されます。2番目のセクションでは、神は単に諸国民に反応する存在ではなく、実際には世界の舞台で主権を持つ役者であることが示されます。3番目のセクションでは、神の助言が単なる人間の指導者よりも優れていることが示されます。最後に、最後の2章は、2つの行動方針の最終的な結果を示しており、第35章は第11章と第12章と全く同じところで、神は救済できる、そして救済するであろうという約束で終わります。神は信頼できると言えるでしょう。しかし、問題は残ります。これは単なる抽象的なものなのか、それとも具体的な現実となり得るのか?アハズは諸国民を信頼できないことを証明しました。では、神についてはどうでしょうか?神の信頼性は実証できるのでしょうか、それとも断言するだけなのでしょうか?遠い未来に関する神の約束は盲目的に信じるべきなのでしょうか、それともその現実性を今体験できるのでしょうか?これが第36章と第39章の主題です。」オズワルト
[ii] 説教「砂漠は喜び番紅花の如く花咲く」 新宿西教会2020年2月2日礼拝説教 深谷春男牧師
[iii] https://note.com/bibleline/n/n8cda1e635012
[iv] 「レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光を賜る」とは、どういう意味でしょうか。レバノンはパレスチナ北部の森林地帯です。カルメルは地中海に突き出た半島で、シャロンはそこから南に広がる美しい平野です。神は被造物に、御自身の栄光を分かち合うことを願っています。しかし、被造物が自分の栄光を産み出そうとする試みは、すべて災難に終わります。もし私たちが神にのみ栄光を帰すなら、神はご自分の栄光を私たちに与えてくださいます。レバノンは、その高い杉の木と、カルメル山はふもとのシャロンの肥沃な平野が豊かさのシンボルです。 油井、277ページ
[v] 「他方、35章4節の「報復が、神の報いが来る。神は来られ、あなたがたを救う」という文言は理解しにくい面があります。神は「報復の神」であるとすると、その神が来て「あなたがたを救う」とはどのような意味なのでしょうか。 そもそも「報復」(ナーカム)という語は、旧約聖書の言語であるヘブライ語もその一つであるセム語では、単に「仕返しをする」ことではなく、基本的には「バランスがくずれている関係を正す。」「正しい統治を回復する」という意味です(旧約学者左近淑の教示による)。そうであるならば、旧約聖書の「報復の神」とは、報復に次ぐ報復という人間の現実を正当化するものではありません。むしろ神の正しい統治の回復を祈るのが、人間の取るべき態度であることを意味しています。」、大島、上、183~183ページ
[vi] イザヤ書35章5~6節:そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。6そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。……
[vii] マタイ11・4(イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。5目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。)、12・22(そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。)、15・30(すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れて来て、イエスの足もとに置いたので、イエスは彼らを癒やされた。31群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった人たちが治り、足の不自由な人たちが歩き、目の見えない人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。)、20・34(イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。)など。ヨハネの福音書9章。
[viii] ヨハネの福音書9・41:イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」
[ix] エペソ人への手紙1・17〜(どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。…)、同3・16〜(どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。…)、ピリピ1・9〜(私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。)
[x] イザヤ書6・9〜10:すると主は言われた。「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」
また、26・10(悪しき者は、恵みを受けても義を学びません。公正の地にあっても不正を行い、主のご威光を見ようともしません。)なども。
[xi] 「荒地に水が流れるというテーマは、イザヤ書四〇章から五五章のテーマであり、第二の出エジプトに強調を置きます。七節は、ジャッカルが住んでいた所が人の住めるところに変わると言います。葦とパピルスは水量豊かなエジプトのナイル川のデルタで育った代表的な植物です。荒野がナイルのデルタのような肥沃な穀物の宝庫となるのです。」 油井、279ページ
「荒れ野」の変容というモティーフは「第二イザヤ」(40〜55章)の部分において見られます。41章17〜22節においては「荒れ野」「乾いた地」「荒れ地(砂漠)」という三つの語がすべて使われ、苦しむ人や貧しい人が水を求めるならば、「私は荒れ野を池に変え 乾いた地を水の源とする。……荒地に糸杉、にれ、つげの木を共に植える」と記されています。 また、そもそも「第二イザヤ」の冒頭において「荒地に主の道を備えよ。私たちの神のために 荒地に大路をまっすぐに通せ」という呼びかけがあり、起伏のある地は平らに、険しい地は平地となれと語りかけられています(40・3〜4)。これはバビロン捕囚から帰還する道を開くという直接的な意味ではなく、自由の道を神自身が開くという比喩的な表現であるので、35章1〜2節に近いと思います。さらに51章3節には「荒れ野の変容」自体は記されていませんが、このような賛歌が記されています。「主はシオンを慰め そのすべての廃墟を慰め 荒れ野をエデンのように 荒れ地を主の園のようにされる。そこには喜びと楽しみ、感謝と歌声がある」。この賛歌はないよ的に35章の「荒れ野の変容」の詩に近く、両者は響き合っています。 大島、上、188ページ
[xii] 「9d-10 「贖われた者たち・・・・・・贖われた者たち」。この「贖う」という動詞は、イザヤ書ではここで初めて用いられる。√gā’alは贖う方の人格、贖われた者との人格的な関係を強調し、神が彼らのために直接介入されることを示している。ヘブル語のgō’ēlは分詞形であって、無力な親戚のひとりをあたかも自分自身のように助ける最も近い親族を表す専門的な用語である(レビ25・25、民数5.8)。go’elはしばしば「復讐する者」と訳されている。それは危害を受けた親族のために仕返しをする権利を持っていることを表している。このことは、人間関係の代償的な本質を劇的に示している。誰かが死んだら、他の人にその立場を取り替えてもらうことである(民数35・12、申命1.6)。それゆえに、go’ēlの立場はしばしば、それを受け入れることを躊躇される(ルツ3・12、4.1-6)。だからといって、誰かに譲渡することのできない義務である。それゆえ、ここでは主のみがその民を贖うことができることを示している。それは誰にもできない立場であり、ここでは主ご自身が親族のようになって彼らの必要性をご自分の上に負い、無力の者の立場に立って全能の力を働かせ、その代価を払われることを意味している(レビ27・13、15、3)。pādâ(「贖う」)については1・2を参照。「入り」。巡礼の旅(8-9節)は目的地に着いた(10b)。「楽しみと喜びがついて来」(10d)。今まで体験したことのない本当の幸福に到達する。主の民と主の喜びが一つに結びつく。「悲しみと嘆き」は「楽しみと喜び」の否定語に相当することばである。彼らはシオンの町を「喜び」で満たし、巡礼の幸福な合唱団が賛美をもって町を満たす。」モティア、291〜292ページ

