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2026/1/27 イザヤ書32章1〜8節「平和をつくり出す義」

イザヤ書32章は、32章33章、二章に跨って、王が治めてくださり、義と平和が満ちる将来を描いています。

見よ。一人の王が義によって治め、首長たちは公正によって支配する。

この言葉をイザヤが書いた時、他にもハッキリとあるメシア預言だと思っていたのでしょうか。しかし、700年後、初代教会がイエスを伝え、このイザヤ書を読んだ時、この「一人の王」とは紛れもなくイエスのことだ、と思ったことでしょう。2節に畳み掛ける「風を避ける避け所、嵐を避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、乾ききった地にある、大きな岩の陰」という四つの譬えも、イエスに出会った人々の実感だったでしょう。嵐の海で弟子たちが船に乗っていた時、あるいは真昼の井戸辺で水を汲もうとした女性――彼らのイエスとの出会いにピッタリなのがこれらのイメージです。助け、避難所、潤い、安心をイエスは下さいます。

更に加えて、3節は

見る者の目は固く閉じることがなく、聞く者の耳は注意深く聞く。4性急な者の心も知恵を悟り、もつれた舌もはっきりと早口で語る。

と理解力、感受性、知恵を持つようにさせてくださる。せっかちでそそっかしい人も早とちりをしなくなり、口下手な人も雄弁に語るよう、変わるのです。嬉しいことではありませんか。

そういう、この王の統治を描きつつ、それとは反対の不法や悪をもきっちりと見据えます。ただ能天気に、明るく平和な理想を描くだけ、ではないのです。

もはや、愚か者が高貴な人とは呼ばれず、ならず者が上流の人とは言われない。なぜなら、愚か者は愚かなことを語って、心で不法を企み、不敬虔なことを行って、主に向かって迷いごとを語るからだ。飢えている者を飢えさせて、渇いている者に飲み物を与えない。

裏を返せば、今はその逆がある。心で不法を企み、不敬虔なことを行う人が高貴な人と呼ばれている。この「愚か者」は前の訳では「しれ者」と訳されていました[i]。愚かも愚か、どうしようもない、という意味です。それは頭が悪い、IQが低いということではなく、神を恐れず、飢えている者や渇いている者を助けようともしない、間違った愚かさのことです。頭はよくて、世渡りも巧みだから、高い地位を得て、上流階級を占めているとしても、その知性を、神を恐れることなく、自分本位に使っているなら、それは折角の頭脳を無駄遣い・悪用した愚かな人、愚の骨頂の痴れ者だと主は言われます[ii]。今はそんな狡い人が高貴な人に見せかけているとしても、そういうならず者社会はもはや終わる。この「ひとりの王が義によって治め」る時に、高い地位を保つことも、飢えた人、貧しい人を踏みつけることは、もはや一ミリたりとも出来ない――そう語るこの言葉は、将来の理想を描くだけでなく、痛烈に現在の上流層、支配層を批判している言葉でもあります。

それは更に9節以下「安逸を貪る女たちよ」と語り出して展開します。これも以前の訳では「のんきな女たちよ」でしたが[iii]、呑気にはよい意味もあるのに、それが悪いかのように読まれないように、でしょうか、訳が変わりました。

安逸を貪る女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしのことばに耳を傾けよ。

女たちと言われますが、男たちは聞かなくてよいわけではなく、むしろ先の「ならず者」が男たちへの言葉だと聞き流そうとしていた女性たちに釘を刺している――もしくは、エルサレムの都そのものを擬人化しているのでしょう[iv]

10うぬぼれている女たちよ。一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもやって来ないからだ。

葡萄は当時の生活必需品であり、産業でしょう。その葡萄の収穫の終わりは、葡萄だけでなく、生活そのものの困窮、安逸を貪ってなどいられなくなる、着物を引き裂いて嘆かずにおれない大激変を指しますね。

14なぜなら、宮殿は見捨てられ、町の騒ぎもさびれ、オフェルと見張りの塔は、いつまでも荒れ野に、野ろばの喜ぶところ、群れの牧場になるからだ。

ここには敵の侵略や戦争という言葉は使われずに、ただ自惚れて暢気に構えている安逸は、悲しみと嘆きに替わることが述べられています。そしてそれは、女性だけでなく、男性もすべての者が含まれますし、とりわけ、高貴な人、上流の人、その地位に胡坐をかいている人々を指しています。

15しかし、ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになる。[v]

ここで一転するかのように、豊かな緑の樹々の光景が立ち上がります。荒野が果樹園に、果樹園が森に![vi] しかしそれは単に、14節までで告げられた、葡萄園や今の街や光景が一旦は荒野に廃れた後に回復する、という以上のことです。「いと高き所から私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされる」なのです。霊という旧約聖書の言葉は、息とか風とも訳せます。神がいと高き所から私たちに息を吹き込んで、私たちを内側から力づけてくださる、という新しさがあります。そして

16公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。

1節と対応しています。

見よ。一人の王が義によって治め、首長たちは公正によって支配する。

それが私たち一人一人に霊が注がれる――私たちの息遣いも新しくするほど、深く正しい支配の始まりとなる。だから、荒野にあってもそこに公正が宿るから、果樹園となるのです。果樹園が森と見なされる、というのは「一人の王が義によって治め」てくださるからです。こういう内側からの刷新抜きに、繁栄が回復する、将来は平和になる、などと明るい未来が語られているのではありません。

17義が平和をつくり出し、義がとこしえの平穏と安心をもたらすとき、18私の民は、平和な住まい、安全な家、安らかな憩いの場に住む。

神を恐れない愚かさ、ならず者が狡賢く立ち回っている悪質さは、そこには蟻の子一匹ほども入り込めないから安心してよいのです。同時にその義――神の義――は平和をつくり出すような義です。弱い者や貧しい者の苦しい事情を汲み、罪のもたらした傷を癒し、憎しみを心から和解させ、過去の過ちを赦して、平和をつくり出す義です。冷たく切り捨てる、杓子定規な義とは全く違う、創造的クリエイティブな義です。それは、表面的な平穏ではない、本当に深い安心をもたらします。18節で、平和な…安全な…安らかな…と三段階で繰り返して保証するような、深い義です。

ビジネスの世界で「心理的安全性」ということが言われるようになっています。心理的に安全だとは、ザックリと言えば、会社、学校、どんなグループでも自然体の自分でいられ、安心して発言できる。失敗を恐れずに挑戦できる、お互いを尊重し合える関係性があることです。勿論、自分にとってだけでなく、相手が自分と考えや意見が違っていても、偽りなく率直な発言が出来る[vii]――「こんなことを言ったら笑われる」「怒られる」といった不安がない場[viii]

その理想には、教会にとっても大きなヒントがあります。あるがままの自分でいられ、批判や恥をかくことを恐れたりしなくていい、安全な憩いの場がそこにはあります。それが、一人の王、主イエス・キリストの始めてくださった、神の国です。その御国への希望に、教会は生きます。その将来を語るこの32章は、今の痴れ者、ならず者を痛烈に批判します。私たちのうちにある悪質な罪があるままでは、この安全な家とは無縁です。私たちの中にある不義や冷たい正義にも関わらず、主は私たちを救ってくださいます。それは、私の罪、安全な場には相容れない冷たさ、隠れた「ならず者」な自分から救い出してくださる、ということです。自分の知恵や力を誇って、心の奥で握りしめているようなことは、そこには持ち込めないのです。

19あの森は雹が降って倒れ、あの町は全く卑しめられる。20ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばを放し飼いにするあなたは。

これほど安心した生活が始まるのは、主が上から霊を注いで、私たちを深く新しくしてくださるからです。それは、私たちの努力ではありません。主が、私たちの王となり、私たちを治めてくださることです。このままの救い、ではなく、このままからの救い、なのです。

「王なる主よ、私たちを治めてくださる時を、待ち望みます。やがての時に向けて、今この時も、私たちのうちの恐れや冷たさを、あなたの義、十字架の正しさによって砕いてください。安心を求めつつ、それを壊すような思い、言葉、不安を日々取り扱ってください。聖霊を注ぎ、私たちがあなたの恵みに深く息をつき、新しくされて、ともに歩む教会とならせてください」

[i] 第3版 5 もはや、しれ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が上流の人と言われることもない。6なぜなら、しれ者は恥ずべきことを語り、その心は不法をたくらんで、神を敬わず、主に向かって迷いごとを語り、飢えている者を飢えさせ、渇いている者に飲み物を飲ませないからだ。

[ii] 「愚か者は社会を軽蔑する者として見られています。5節から7節の記述は、箴言の教えのようなものを想起させます。「愚か者」とは単に愚かな人々ではないことは明らかです。むしろ、彼らは社会構造に必然的に損害を与える、根本的な道徳的無関心と無秩序を体現し、実践しています。したがって、愚か者は無知な者ではなく、常に取引をし、他人を利用し、社会の福祉に貢献することなく利己的な行動をとる、駆け引き屋です。彼らはヤハウェを誤解しているため、必然的に隣人関係も誤解します。具体的には、飢えている人や喉の渇いている人のために何もしません。彼らは、共同体が負うべき責任を負っている困窮者に無関心です。カルヴァンは次のように述べています。 人間があまりにも残忍になり、他人の不幸に心を動かされず、人間としての感情をすべて放棄してしまうと、彼らは、同類の欲求に何らかの同情心を持つ獣たちよりもさらに悪い存在に違いありません。(解説VII、411-12)」ブルッゲマン。

[iii] 第3版 9 のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。

[iv] 「悲しみと喪失への呼びかけは、理由もなく述べられています。愚か者や悪人の行い(5-7節)にその理由が暗示されているかもしれませんが、明確な関連性は示されていません。神への無視にも隣人への無視にも、喪失の動機は見当たりません。多くのことが推測されるかもしれませんが、何も述べられていません。女性たちが知っているのは、かつては存在せず、これからも存在しない幸福な世界に、今、悲しみはふさわしいものだということだけです。」ブルッゲマン

[v] 「読者は9節から14節にかけて強調点が変化することにお気づきになるでしょう。そこでは完全に物質的な側面が強調されていました。ここではその比喩表現は維持されていますが、そこに霊的な意味合いが加えられています。それは、神の祝福の究極の証は豊作や安全な状態ではなく、義にかなった生活と公正な取引であることを示唆するものです。この世における安全の定義と、神を信じる者の定義は常に異なります。信じる者の安全は、この世を超越する神にあります。」オズワルト

[vi] 同じ表現は、イザヤ書29・17でもありました。

[vii] 心理的安全性、本当に必要ですか?より。

[viii] 安全な場(心理的安全性) LLCチーム経営合同会社チーム経営(LLCチーム経営)より。