2026/1/18 イザヤ書31章「人ではなく、神である方」招詞:ヘブル人への手紙12章28~29節
イザヤ書31章は、最初1~3節で
助けを求めてエジプトに下る者たち
への批判で始まり、最後8~9節で
アッシリアは人のものでない剣に倒れ、
との宣告で結ばれます。エジプトを頼りにすることを警告して、アッシリアの滅びで締めくくる――これは前回と前々回で二回に分けて読んだ30章と重なります。長い30章に比べて、半分以下のこの31章ですが、内容的には繰り返しとも言えます。北からアッシリア帝国が迫って来る中、イスラエルは南のエジプトに助けを求めました。神である主への背信、形ばかりの礼拝や宗教行事といった問題を責められても、それを認めて方向転換するよりも、エジプトの軍事力を頼みとしたのです。これに対するイザヤの預言は、重ねて、エジプトは頼りにならないことと、アッシリアは滅ぼされること――この二つを繰り返します。この31章も真ん中あたりの6節に
帰れ、イスラエルの子らよ。あなたがたが反抗を強めているその方のもとに。
と呼び掛けます。神である主は、何度も何度でも、こう呼びかけます。敬虔な民に「帰れ」ではなく「あなたがたが反抗を強めているその方のもとに」「帰れ」と言われる[i]、底知れない赦しと限りないあわれみの神です。
1…彼らは馬に頼り、数が多いといって戦車に、非常に強いといって騎兵に拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。
当時、馬はあのスピードと力で、人間の生活を大きく変えた存在でした。馬を用いた戦車、馬に跨って戦うことに特化した騎兵の登場は戦争の様相を塗り替えました。だから馬を当時の最新鋭兵器、ハイテクと呼んでもよいでしょう[ii]。そして今と同様、新型の兵器というのは、それを持つこと自体を競争したり、勝利の保証のように祭り上げたりしてしまう。そして、神である主よりも、エジプトを頼み、馬や戦車や騎兵さえあれば、それもより多く揃えれば大丈夫、と勘違いしていたのでしょう。
2しかし、主は知恵のある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない。主は、悪を行う者の家と、不法を行う者を助ける者に対して立ち上がる。
馬や戦車を多く揃えれば大丈夫、なんて知恵がない言い草です。短絡過ぎます。人間の歴史を見ても、最新鋭の武器が勝利や安全保障になるわけでなし。神とは交換不可能なのです。
3エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も肉であって霊ではない。主が御手を伸ばされると、助ける者エジプトはつまずき、助けられる者イスラエルは倒れて、皆ともに滅び果てる。
二行目の「肉であって霊ではない」は、一行目の「人間であって神ではなく」を言い換えたと言ったらよいでしょう。馬肉の事とか、馬も死んだら霊を供養するとか、そういう事でなく、造られた者と造り主なる神、やがて死ぬものと死ぬことのないものとの、圧倒的な違いです。神であり霊である主が、見えない御手を伸ばせば、人間が頼りになると思っていたものも倒れ、それを頼りにしていた側も倒れて滅びる。それが「肉」の延長に言われる儚さです。
この圧倒的な差、ということをもっと卑近な例に手繰り寄せて伝えるのが、4~5節です。
4まことに、主は私にこう言われる。「獅子、あるいは若獅子が獲物に向かって吼えるとき、たとえ大勢の牧者がそこに呼び集められても、獅子は彼らの声にひるむことなく、彼らの騒ぎにも動じない。そのように、万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘の上で戦う。5万軍の主は、舞い飛ぶ鳥のようにエルサレムを守る。これを守って救い出し、これを助けて解放する。」
獅子ライオンが吼える時の堂々たる姿――それと共に、舞い飛ぶ鳥の姿も思い描かせます。羽を広げ、雛のいる巣を敵から守る親鳥は、命がけで蛇や鳥と戦いますし、予め絶妙な形に巣を作って、安全を守ろうとする。そのように、主はエルサレムを守って救い、助けて解放するのです[iii]。3節で
…皆ともに滅び果てる
とありました。2節にも
わざわいをもたらし
と言いましたが、それは馬や人間的なものに縋りつく最終的な成れの果てのことであって、主ご自身の約束はこの5節ですね。こういって止まないのが神である主です。だから、6節
帰れ、イスラエルの子らよ。あなたがたが反抗を強めているその方のもとに。
なのです。しかし、その帰ることも、人が自分の力でしなければならない――「結局最後はお前次第」――ではありません。
7その日、イスラエルの子らは、それぞれ銀の偽りの神々や、金の偽りの神々を退ける。それらは、あなたがたが自分の手で自分のために造ったもので、そのことは罪過となっている。
銀や金で造った神々、像は、いくら高価でピカピカでも、所詮は偽りの神々に過ぎません。でもそんなものを神と呼んで崇めている。高価なものですから、手に入れるまでにはよく調べ、時間をかけ、お金もかけたでしょう。それだけに、これだけ高い買い物をしたんだから何かしてくれるんじゃないかと的外れな期待をして、手放せないのも人の心理です。それを「その日」には「退ける」――その「罪咎」を主ご自身が取り除いてくださるから、退けられるのです。
8「アッシリアは人のものでない剣に倒れ、人間のものでない剣が彼らを食い尽くす。アッシリアは剣の前から逃げ、若い男たちは苦役に服する。9その岩は恐怖のために過ぎ去り、その首長たちも旗を捨て、おののき逃げ去る。…
やがてアッシリアの大軍勢は、一夜にして疫病か急病によって倒れます。「岩」とは頼みにするものの譬えです。それも過ぎ去る、そして戦おののき逃げ去る…。馬や戦車、人間の戦略や軍備によらず逃げていく。これが
シオンに火を持ち、エルサレムにかまどを持つ主のことば。
です。こうして読んでいくと、この31章は特に、人間であって神ではないものと、人や肉とは違う神との圧倒的な違い、という対象コントラストが重ねられているようです。それは、人間が心を奪われがちな、最新型の技術による安心、高額な財産をつぎ込んだ保証で引き換えられるようなものでは全くない、神である主ご自身を求め、神として、この方の元に帰る、ということです。
決して、神である主がいるから、危機対策は要らない、ということではありません。私たちが知恵を尽くして、生活上の諸問題、健康管理、財産管理、見通しを持ち計画を立てることは私たちに委ねられた責任です。しかし、そのための手段や技術を過信してしまい、馬や戦車とは言わなくても、自分には財産がある、健康や若さ、進んだ医療技術がある、人望や経歴や、築いてきたあれもこれもある――と握り締めているとしたら、愚かで危険なことです。
主は、馬よりも偶像よりも、賢く、強く、躓いたり滅びたりしない神です。獅子のように堂々として、鳥のように健気に、ご自分の民を守る方です。主は神であって、人ではないのです。そして、ご自分に反抗を強め続け、頑なで忘れっぽく、何度も同じことを言わなければならないような私たち人間にさえ、「帰れ」と言い続けてくださる、限りなく憐み深い神です。そして、私たちに今も呼び掛けるとともに、やがて、銀や金や、何かしら高価だと思い込んで手放せずにいる偶像を、手放させてくださる方、私たちの生きた救い主です。
イスラエルの民は神に反抗をしていました。しかし彼らの歩みは主の御手の中にありました。その意味で主は「帰れ」と言い続けています。
口先での反省や生き方を改める以上のことです。
馬や力の世界と、神の世界――肉と霊、現実と信仰の二つの選択肢で信仰を選べというよりも、現実のすべては、霊であり神である主の御手の中にあるのです。
今まで、神よりも戦車や最新技術や自分なりの方法でうまくやってきた、と思っていたことも、全部、主なる神が備えた、一時的な、不完全な、でも確かに助けになったことです。
また、うまくいかなかったこと、失敗や後悔も、主なる神の御手の中にあった。
そして今の私がある。
そう気づき、過去を主の新しい光の中で見つめる時、神に帰ることが始まります。
それを悔い改めとも呼びます[iv]。
主は、怯えたり過信したりする民ともずっとともにおられました。
その事に目を開かれ、過去も今も将来も、すべてを主の手の中に新しく見る「悔い改め」が私たちにも呼び掛けられています。
「シオンに火を持ち、エルサレムにかまどを持つ主」あなたは焼き尽くす火[v]、すべてを清め、朽ちるものを灰にし、朽ちない栄光へと導かれます。私たちを精錬し、守り救い出し助けて解放してくださいます。私たちの過去も今も将来も、ただあなただけが神です。二度とは帰らない地上の日々、私たちの人間的な一歩一歩、朽ちる物の束の間をもあなたは惜しみなく装ってくださいます。この眼差しで、すべてを新しく見、新しい思いをもって歩ませてください」
[i] 「人間であれば、こういうでしょう。「あなたは契約を破った。だからあなたには何の借りもない。」「もう、限界だ。これ以上あなたを赦すことはできない。もう私は弱みにつけこまれまい。」そのようなときも、神の圧倒的な慈しみと耐え忍ぶ愛が押し寄せ、「私は神である。人ではない」という勝利の声が響き渡るでしょう。」ブレナン・マニング、11月18日「不変の神と反抗する民」。
[ii] 「ここで馬に重点が置かれていることから、エジプトの援助が特に望ましいと思われた理由が容易に想像できる。中期青銅器時代(紀元前1800年頃)に近東に馬が導入されて以来、この地域の戦争は、まず戦車術によって、そしてこの頃には騎兵隊の出現によって、革命的な変化を遂げていた。馬のスピード、スタミナ、機動性は、軍隊に兵力の何倍もの機動力と衝撃力を与えた。その結果、騎馬軍は、その効果が著しく限られていたユダのような小国や丘陵地帯の国でさえ、大きな威信を得るようになった。これは、今日の第三世界の国々が最先端の兵器の保有に固執するのとよく似ている。この兵器は、特定の状況における実際の有用性はさておき、ほとんど魔法のような効果を持つと考えられていたようだ。そのため、ラブシャケは皮肉を込めて、ユダの人々は馬を持っていてもどう扱えばよいのかわからないだろうと述べている(36:8, 9)。 しかし、国の運命は馬やミサイルにかかっているわけではない。特別な兵器があれば神への依存から解放されると考える者は、滅びへの道を歩んでいる。これは、堕落した世界において武器と神への信仰が相反するという意味ではない。むしろ、特定の状況において武器が何を意味するにせよ、神の道に従うことが何よりも重要であるという意味である。」オズワルト
[iii] 「「守り」「救い出し」「助けて」「解放する」。四という数字は、「あらゆる側面」を意味している。」 モティア、269ページ
[iv]「ヨハネが説教した悔い改めとは、途中で進路を変更することではありません。それよりもさらに根本的なことです。ヨハネが説教した悔い改めとは、過去との絶縁ではありません。それよりもさらに複雑なことです。ヨハネが説教をした悔い改めが求めるのは、過去を書き改めることです。前へと大胆に歩みを進めていこうとする前に、後ろを振り返れ、との呼びかけです。わたしたちに向かって、自分たちが通ってきたが十分には経験してこなかった過去、自分たちが受け継いできたがそこに根ざすことをしてこなかった過去と出会うことを求めるのです。まだ知ることのない将来へと足を踏み入れていく前に。(中略)エッセイストであり短編小説家であるユードラ・ウェルティは、『一作家の生いたち』の中で、すでに十分に理解していると思っている経験の記憶を探求していくときに起こる深い洞察について、このように書いています。「互いのつながりがゆっくりと見えてくる。……原因と結果の間に線が引かれていく。……そして突然、光が投げ返される。列車がカーブをまわったときのように、そこに、意味という山が背後に、すでに通ってきた道にそびえ立っていたのが見えるようになる。しかも、その山は今なおそこにある」…意味という山が背後にそびえ立っている……、しかも今なおそこにある。そのことこそ、ヨハネが説教した悔い改めの土壌です。ヨハネは、昔の預言者の衣服を身にまとい、神の民の歴史をその身をもって示しています。それは、次のことを説教するためでした。わたしたちが十分に理解することのなかった、神がこれまで行ってくださったすべてのこと、そして、自分たちの記憶の中にあるのに十分に信じることのなかった、神がこれまで語ってくださったすべてのこと、それらはすべてまさにこの時を、メシアの到来の時を指さしているのだ、と。(中略)・わたしたちが記憶の中の経験を呼び起こし、初めに理解していたよりもさらに多くの神のみわざの証拠や、それまで知っていたよりもずっと多くの神の恵みのしるしや、これまで表していたよりももっと多くの神への感謝をそこに発見して、もっと誠実で従順に明日を生きたいとの願いをもつ、今までとは異なった自分を見出すとき、わたしたちは悔い改めているのです。…わたしたちに与えられた信仰や、繰り返し聞いてきた福音や、幾度も幾度も話してもらった物語に立ち帰る際、それが安住の場所ではなく、変化を与えてくれる場所であることを見出すとき、わたしたちは悔い改めているのです。神が、昨日までの平凡な日々にしてくださったすべてのことは、わたしたちの罪を赦して信仰と喜びの明日を可能にするために、この日、来てくださっているキリストを新しく指さしていることを知るとき、わたしたちは悔い改めているのです。」、トーマス・ロング『何かが起ころうとしている アドベント・クリスマス説教集』(平野克己、笠原信一訳、教文館、2010年)43〜47ページ。
[v] ヘブル12・28~29:このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。29私たちの神は焼き尽くす火なのです。

