2026/1/11 イザヤ書30章19~24節(19~33節)「私たちが真実でなくても主は」
30章前半は「わざわいだ、頑なな子ら。」と始まり、主に背いて、エジプトとの同盟を過信して、イザヤも黙らせようとする民の姿がありました。15節に「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」と言われても「しかし、あなたがたはこれを望まなかった。」こうして自滅に直行していました。しかし18節「それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。」――「それゆえ、滅びてしまえ。もう知らない」ではない、主というお方の憐み、恵み、義(正しさ)というものの途方もなさの「それゆえ」でした。この事を踏まえると後半19節からも薔薇色の祝福やパラダイスを語っているのではない、と気づきます。頑なな子ら、主に逆らい、イザヤの口も塞ごうとした民に対しても、主が恵みを与えようと待っています。その立ち上がって与えようとしているあわれみとは何かがこの19節以下に展開していきます。
19ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。[i]
主は、生きておられて、人の叫びに答え、必ず恵みを与えてくださる方です。そのキャッチボールには時間がかかるかもしれません。「もうあなたは泣くことはない」と言うのも、人間にとって悲しみや痛みがなくなる、という事ではないでしょう。病気や別れ、苦難や暴力が今はあって、そういう中で、「もうダメだ。神なんていない。希望なんてない」と自暴自棄、自己憐憫から泣いているとすれば、そんな涙に終わりが宣告される。それはただ、主がおられるからです。私たちの叫ぶ声に答え、必ず恵みを与える神がいます。その答えや恵みが与えられるまで、人の目にはタイムラグがあるように思えても、必ず主は恵みを与えてくださいます。
20たとえ主があなたがたに苦しみのパンと虐げの水を与えても、あなたを教える方はもう隠れることはなく、あなたの目はあなたを教える方を見続ける。21あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。
苦しみや虐げの中でも、短い導きの言葉を聞きつつ行く…。これも前半の10、11節ではイザヤの言葉を聞こうとしない態度が言われていたのとは対照的です[ii]。民が聞きたい答、人が神や占い師に求めやすい「どうしたらいいか教えてほしい」という声を聞ける、というのとは違う。そういう自分本位な思いから、神こそ「あなたを教える方」として立ち返り、落ち着いて信頼する態度に、立ち戻ることが言われています。22節にあるように、
銀をかぶせた刻んだ像と、金をかぶせた鋳物の像[それなのに神や魔力があるように崇め、願いをかなえてください、答えを教えて]を汚れたものと見なし、不浄の物としてそれをまき散らし、これに出て行け」と言う。
までになる。これも、主が与えてくださる恵みとあわれみによることです。
続く23~26節は農耕や、山、運河、月や太陽で描く、世界に注がれる恵みとあわれみです。同時に、22節の偶像崇拝の放棄とも繋がります。そうした信仰は、農業の豊作と結びついていたからです[iii]。根拠のない豊穣祈願の習慣の終わりと共に、主ご自身が宣言されます。
23あなたが土地に蒔くあなたの種に主は雨を降らせてくださる。それで、その土地の産する食物はみずみずしく豊かである。その日、あなたの家畜の群れは広々とした牧場で草をはむ。
主こそが畑も天候も収穫も恵みとしてくださるのです。更に
24土地を耕す牛やろばは、シャベルや熊手でふるい分けられた味の良いまぐさを食べる。
と良く世話をされた光景が描かれます。それは、飼い主たちが良いものを食べ、健康を回復しているからこそ、でしょう[iv]。
25大いなる殺戮の日、やぐらの倒れる日に、高い山、そびえる丘の上すべてに、水の流れる運河ができる。26主がその民の傷を包み、その打たれた傷を癒される日に、月の光は太陽の光のようになり、太陽の光は七倍になって、七日分の光のようになる。
櫓やぐらは人間の高ぶりの象徴です。それが倒れる日、人間の権力者たちの傲慢が崩れる日の事です。高い山の上に運河が出来るとか、月が太陽のように輝き、太陽の光が七倍になるとか、信じがたい表現ですし、文字通りそうなったら地球は一溜りもないでしょう。でもこういう表現でイメージさせるような、私たちの創造や理解を超えたことが起きる、主はそうなさる。そして、主がその民の傷を包み、打たれた傷を癒される、ということも、今私たちが理解して、想像するよりも、遥かに素晴らしく、恵みとあわれみに満ちた形でなされるのでしょう。
この事を踏まえた上で、30章最後の27~33節の部分では、諸国に対する裁きが語られます。
27見よ、主の御名が遠くから来る。立ち上る濃い煙とともに、怒りに燃えて。その唇は憤りに満ち、舌は焼き尽くす火のよう。28その息は、あふれて首まで達する流れのようだ。…
この裁きの部分では、31節に「アッシリアは」とありますから、直接には、今イスラエルにとっての脅威となっているアッシリア帝国が念頭にあるのでしょう。そのアッシリアの脅威に対抗するために、イスラエルはエジプトに頼りました――主を信頼するよりもエジプトとの同盟に活路を見出そうとしました。この30章は、最初の7節でエジプトへの依存の過ちから始まり、最後の27~33節の7節でアッシリアの終わりで結ぶ、そういうブックエンド構造です。そして、その間の前半では、主の民の頑なさ、主への不信を露わにした上で、後半「それゆえ」と言って、主の恵みとあわれみの約束が描かれていく。頑なさがもたらしている殺伐とした前半と、主の憐みがもたらす、想像が追い付かないほどの瑞々しく、輝いている後半のコントラストが、見事というよりも、アンバランスにミスマッチしている、ダイナミックな30章です。
ここに、主の眼差しが、世界の大きな情勢(国家や、国際情勢、戦争や経済)にも、私たちの身近な、いや意識さえしていないような心の状態――偶像崇拝や傷の癒し――にも向けられていることを確認します。大きな状況を解決して、平和な楽園を語る、だけでもない。心や精神の平安だけを語って、現実から目をそらさせてしまう、でもない。人の心の癒し、変化、新しくされることと、世界の悪や力による支配がしっかりと裁かれて終わる事とは切り離せない、とても大事なこと、主のご計画の本質です。その事は最後の27節以下でも、29節で
あなたがたには、聖なる祭りの祝いの夜のような歌があり、主の山、イスラエルの岩に行くために笛に合わせて進む者のような、心の喜びがある。
と言い、32節でも
主が下す懲らしめの杖がしなるたびに、タンバリンと竪琴が鳴らされる。主は武器を振り回して、これと戦う。
主の戦いの中に、歌やタンバリン、竪琴が奏でられます。笛に合わせて進む者のような心の喜びがあります。人が癒されて、踊り、歌い、新しい時代が始まったと喜びで夜を明かすような、そんな光景を合間に挟みつつ、国々の時代が終わらされていく。そう歌う30章です。
主イエスが来られた後、宣教を始めた初代教会は、このイザヤ書の言葉も主イエスにおいて成就して私たちに届けられたと宣教しました。今日の招詞、Ⅱテモテ2章11~13節は初代教会において造られた最も古い讃美歌の一つとも言われます[v]。その中でも特に
「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である」
という言葉が、今日のイザヤ書30章と共鳴します。人間は真実でない、頑なで、二枚舌で変わりやすい。そんな人間に対しても主は変わらず真実でいてくださる。それがイエス・キリストの生涯において、ハッキリと示されました。罪を憎みつつ、なお人を愛し、私たちを恵もうと、待たずにはおれない――それゆえ、主はご自身を十字架に与えることも厭いませんでした。罪の赦し、神との関係がご利益主義や形式的なものとなることを終わらせて、キリストへの信頼に立ち戻らせてくださる。その癒しが始まりとなって、主はこの世界の支配を終わらせて、神の恵みとあわれみの御国を来たらせるのです。
「王なる主、恵みとあわれみに富む正義の神様。あなたは私たちの罪や傷も、この世界の争いや醜さも、すべて私たち以上にご存じです。そして、あなたは私たち以上に、その悲惨に怒り、悲しみ、それでも尚――いいえ、それゆえにこそ、御子イエスを遣わして、この世界のどん底から救いの御業を始めてくださいました。主よ、あなたに立ち返って落ち着きます。救ってください。静かにして信頼させてくださり、力づけてください。私から、御業を始めてください」
[i] 「前の段落で述べたように、この部分は裁きのさなかに神の恵みが現れることによって生じる効果について述べています。第一に、ユダヤ人は神を認めます(19-21節)。第二に、彼らは自分たちの必要を満たそうとしていた偶像礼拝を捨てます(22節)。第三に、神は偶像が満たすと公言しながらも満たすことのできなかったものをまさに満たされます(23-26節)。」オズワルト、Google翻訳による。
[ii] 「重要なのは、イスラエルが教えに耳を傾け、目を見、耳を澄ませるということです。この効果的な教えのシナリオは、イスラエルが聞くことを拒み、幻想を好む9-11節の反抗的な態度とは対照的です。しかし今、教師はトーラーの道に従って教えを説くのです。11節でイスラエルは「道を離れる」つもりであるのに対し、ここではイスラエルは道を歩んでいる。このように、この聖句は、エレミヤ書31章33節で「すべての人がトーラーを知るようになる」と述べられているように、根本的な方向転換と新たな態度を予期している。」ブルッゲマン。
[iii] 「多くの注釈者は、これらの節とそれ以前の節の間には重要な断絶があると考えています。15 しかし、それは決して事実ではありません。偶像が崇拝されたのは、あらゆる面で、特に農業において豊かさをもたらすと信じられていたからです。しかし、預言者たち、特に捕囚前の預言者たちは、豊かさは神から来るものであり、神が与えてくださるものを偶像に求めることは、実際には豊かさを奪うことであると指摘しました(列王第一 17:1; 18:1, 45; ホセア 2:8, 9, 21-23; 9:2; 14:8; アモス 4:7-9; 9:13-15)。16 ここでも同じことが指摘されています。イスラエル人が偶像、つまり自分たちの計らいへの依存をやめて初めて、彼らは偶像から得ようとしていたものを経験するのです。」オズワルト。
[iv] 「動物は神の祝福の特別な受益者として区別されています。収穫後には穀物が豊かに実り、牛やロバでさえ、穀物(ふるい分けられたもの)を混ぜ合わせたもの(ベルル)を塩で味付けしたもの(ハミース)を食べます。この食事は豊かさを物語るだけでなく、神の世話によって心が和らぎ、家畜の世話をするようになった飼い主の存在も物語っています。」、オズワルト。
[v] テモテへの手紙第二2章11~13節:次のことばは真実です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」

