2025/9/7 イザヤ書19章「わたしの民エジプト」
聖書には六六巻の書物がある中で、出エジプト記は、日本語聖書の中で、地名がタイトルになった旧約唯一の書です。「イスラエル記」「ユダヤ記」はないのに「出エジプト記」はある。しかも、これは良い場所ではなく、聖書の民にとっては、自分たちを奴隷としていた国です。そこから「出」(出て来た)という場所です。また、その後に与えられた十戒では序文で
わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
と言われます[i]。「奴隷の家エジプト」そこから出て来た、因縁の国です。エジプトから出て来た後も、イスラエルの民はすぐ南の超大国エジプトと関わりを持ちました。ソロモン王はエジプトのファラオから妻をもらいます。その息子のレハブアム王の治世には、エジプト王がエルサレム神殿に攻めて来る…。戦ったり同盟を組んだり、という変遷がありました[ii]。その因縁の国エジプトに対しての宣告が、このイザヤ書19章で述べられていきます。
ここで述べられるのは、エジプトも力を失って、すっかり衰える姿です。
…見よ。主は速い密雲に乗ってエジプトに来られる。エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底から萎える。2「わたしはエジプト人を駆り立てて、エジプト人にはむかわせる。彼らは、兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と争い合う。
内紛が起こり、内輪もめで混乱をします。3節では
偽りの神々や死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てる。
と混乱が新興宗教やカルト、占い、オカルトに走ってますますグチャグチャになると言われます。
5~10節は、ナイル川が干上がる様子です。エジプトの生命線、エジプトそのものであるナイル川が乾いて、漁師も魚が取れない、亜麻を梳く職人も仕事が出来ず、この二大産業が立ち行かなくなって、経済的に破綻する様子です。また、11~15節は「知恵」が役立たずになります。エジプトの知恵といえば、箴言が多くを書き写したり、ソロモンの知恵の比較対象にしたりするほどの敬意が払われていました。その知恵もエジプトは喪失するのです。
14主がエジプトの中に混乱の霊を吹き入れられたので、彼らは、そのあらゆる行いによってエジプトをよろめかせる。まるで酔いどれが吐きながらよろめくように。
こんなヨレヨレな姿が大国エジプトを待っている。ナイル川も知恵も終わる。かつて経験したことがない破滅を迎える。しかし、それで終わりではない。16節からは調子が一変します。
16その日、エジプト人は女のようになり、万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手の前に、恐れおののく。17ユダの地はエジプトにとって恐怖となる。これを思い出す者はみな、万軍の主がエジプトに対して図る計画のゆえにおののく。18その日、エジプトの地には、カナン語を話し、万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こる。その一つは、イル破・ハ壊・ヘレスの町と言われる。19その日、エジプトの地の真ん中には主のために一つの祭壇が建てられ、その国境くにざかいのそばには主のために一つの石の柱が立てられる。
意味が分かりにくい、学者でも意見が一致しないところもあるのですが、要点は明らかです。
20それはエジプトの地で、万軍の主のしるしとなり、証しとなる。彼らが虐げられて主に叫ぶと、主は彼らのために戦い、彼らを救い出す救い主を送られる。21そのようにして主はエジプト人にご自分を示し、その日、エジプト人は主を知る。そしていけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。
エジプトは混乱のどん底から、主を恐れる国、主への祭壇を立て、主に仕える国になる。
22主はエジプト人を打ち、打って彼らを癒される。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らを癒される。
主が彼らを打つのは、罰して滅ぼすためでなく、癒されるためだった。ナイル川や偽りの神々を礼拝する偶像崇拝から、生けるまことの神である主を礼拝する関係へと癒される――主は癒してくださるのです。ここでは出エジプトの時、イスラエル人のために使われた言葉がエジプト人のために使われています。かつてエジプトで苦しめられていたイスラエル人の叫びを主は聞かれ、イスラエル人のためにエジプト人と戦われ、エジプト人は自分が打たれることで主を知る、と言われたのが、ここではエジプト人の叫びに主が応え、彼らのために戦うと言われます。そして彼らが打たれるのは癒されて、主を知るため、と言われます。こんな言葉遣いのもじりによって、主はエジプトに対する扱いを、イスラエルと同じに引っ繰り返すのです[iii]。
23~25節では、世界地図が新しくされる将来が描かれます。北の脅威のアッシリア帝国も、南のエジプト王国も、ともに主に仕える。
23その日、エジプトからアッシリアへの大路ができ、アッシリア人はエジプトに、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人はアッシリア人とともに主に仕える。24その日、イスラエルはエジプトとアッシリアと並ぶ第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。25万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手で造ったアッシリア、わたしのゆずりの民イスラエルに祝福があるように。」
この「わたしの民」も「わたしの手で造った」も、ずっとイスラエルに言われてきた特別な呼び名です[iv]。イスラエルの民こそ、主が「わたしの民」と呼んで特別扱いされた民です。そのイスラエルを踏みつけてきたのがエジプトです。十戒の最初に「奴隷の国エジプト」と名指しするような、敵国の総称です。そのエジプトを打つ、ナイル川も干上がらせて、知恵も骨抜きにして、滅ぼす、というのなら分かる――しかし、ここで主はエジプトに、ご自分を知らせ、癒し、「わたしの民」と呼ばれると言われます。そればかりではない、ここでアッシリアが飛び入りします。北のアッシリア、南のエジプト、両大国は今は脅威で、やがて滅びると言われて納得していたところ、エジプトとアッシリアとの間に大路ハイウェイが出来て、戦いではなく交流が始まるなんて言われて、面白くない気がしなかったでしょうか。何より24節で「イスラエルはエジプトとアッシリアと並ぶ第三のもの」だなんてとんでもない! エジプトもアッシリアも滅びて、イスラエルが第一のものとなる、ではないのですか、と思わなかったでしょうか。
この19章の中だけでも、理屈では矛盾するような表現がいくつもありますし、実際にこれがいつか成就したのか、これから成就することなのかも不明です。むしろ、これはいつどう成就するか、というよりも、これをイザヤの口から聞かされたイスラエルの人々にとってのメッセージだったのでしょう。イスラエルとユダの中には、アッシリアに対抗するのに、エジプトと同盟を組もう、エジプトの知恵や宗教なら救ってくれるのではないか、という甘い希望があったのでしょう。これに対してイザヤは、エジプトが所詮は人間に過ぎないことを語ります。同時に、直ぐに言葉を続けて、そのエジプトもアッシリアも再び立ち上がる。イスラエルが第一になり替わる、ではなくて、第三と言われる。そういう言葉を聞かせてくださる。自分たちが最後には祝福される、というゴールだけを考えているなら、激しく抵抗するような将来です。勿論、どんな悪や酷い過去も不問にして幸せになる、なんてことではありません。それぞれの生き方を徹底的に問われ、相応しい報いを課せられる。でも、そうして打たれることで、主を知り、神ならぬものを慕ってきた生き方から癒されて、主に仕え、祝福に与る――そうしたい神、そうすると決めている神なのです。この主の民だから、私たちは自分の中の赦せない心を取り扱っていただくのです。
「イザヤ19章の大路ハイウェイ」というムーブメントがあります。この御言葉に立って、エジプト、アッシリア(中東諸国)、イスラエルがともに主を礼拝する共同体となり、祝福となると信じて仕えています。その宣教によって、イスラム圏の中にも福音が届けられています[v]。
罰ばちが当たればいい、という考えを砕かれて、祝福を祈る――主が祝福を与える人に、私も祝福を願い、祈る――私よりも祝福してください、そう心から祈るように変えられていく、というのも私たちが必要な「癒し」です。そう祈る相手は――皆さんにとってのエジプトのような人は――誰でしょうか。
「憐み深い主。あなたの憐みに人は苛立ち、怒り、十字架で応えました。しかしその御子イエスにこそ、私たちはあなたという方を知らされました。悪を憎まれるあなたは悪人を愛し、その救いを備えられる方です。あなたの計画は私たちの小さな頭の理解を超えていますが、主よ、どうかあなたの愛を与えてください。預言書に溢れている恵みで、私たちが癒され、悪を憎み、罪を悲しみ、恵みを求める者と変えてください。そうして私たちを祝福してください」
[i] 出エジプト記20・2。
[ii] 聖句検索 結果 | 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)
[iii] 出エジプト3・9(今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。)および、出エジプト14・14、25(主があなたがた[イスラエル人]のために[エジプト人と]戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」…戦車の車輪を外してその動きを阻んだ。それでエジプト人は言った。「イスラエルの前から逃げよう。主が彼らのためにエジプトと戦っているのだ。」)が、イザヤ書19章では「…彼らが虐げられて主に叫ぶと、主は彼らのために戦い、彼らを救い出す救い主を送られる。そしていけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。」(20節)に。
また、出14・18(ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」)が、「そのようにして主はエジプト人にご自分を示し、その日、エジプト人は主を知る。」(21節)
また、出3・20(わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中であらゆる不思議を行い、エジプトを打つ。その後で、彼はあなたがたを去らせる。)は、イザヤ書で「主はエジプト人を打ち、打って彼らを癒される。…」(22節)に、変容されています。
[iv] 「わたしの民」「わたしの手でつくった」は、イスラエルへのことばだったが(Ⅱサムエル3・18(今、それをしなさい。主がダビデについて、『わたしのしもべダビデの手によって、わたしはわたしの民イスラエルをペリシテ人の手、およびすべての敵の手から救う』と言われたからだ。」)、イザヤ29・22〜23、詩篇28・9(どうか御民を救ってください。あなたのゆずりの民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって いつまでも彼らを携え導いてください。)、出5・1(その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」))、エジプトとアッシリアに広げられる。これこそ、アブラハム契約の約束「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12・3)、「アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。」(18・18)
[v] 「デレク・アブラハムのビジョンと使命は、エジプト、イスラエル、アッシリアが共に祝福であることを諸国に宣言することです。神の契約、約束、そして預言的な計画はイスラエルと諸国の両方に及び、これらの具体的な内容は聖書に具体的に記されています。 メシアニック・ジューとインターナショナルは、中東の現場で信仰を持つコミュニティを鼓舞するために活動しています。彼らは、生き残り戦略や教会の国家主義的な精神を超え、この地域がイザヤ書19章のハイウェイと神の王国を反映することを望んでいます。」
参照、 https://firmisrael.org/learn/the-isaiah-19-highway-and-the-way-of-abraham/