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2025/9/14 イザヤ書20章「裸の預言者」

 預言者イザヤについて記される中で、今日の20章はとりわけ印象に残る箇所でしょう。

…「行って、あなたの腰の粗布を解き、あなたの足の履き物を脱げ。」彼はそのようにし、裸になり、裸足で歩いていた。主は言われた。「わたしのしもべイザヤが、エジプトとクシュに対するしるし、また前兆として、三年間裸になり、裸足で歩いたように…

とあるのですから、腰の粗布をはだけて、足も裸足になり、それも三年間過ごした、という。イザヤ書の内容をザっと触れる時にも、この出来事は必ず紹介されるようです。イザヤの預言活動は、言葉だけではなく、行動パフォーマンスによる預言でもあった、というこの章です。とはいえ学者たちも慎重になり、「裸」とは言っても下着はつけていたのではないか、丸裸で歩くとしたらそれが律法違反になるだろうから、などと言って、読者の関心が本筋から逸れないよう、注意してくれています。本筋は、アッシリアがエジプトとクシュ(エチオピア)にまで攻め込んで来る、という予告です。1節のアシュドデというのはエルサレムのほぼ真西の港町で、ペリシテ人の町でした。当時の記録から分かることとして、エジプトはクシュエチオピア人の統治下に入っており、アシュドデはエジプト・クシュからの入れ知恵で、アッシリアに反旗を翻しても大丈夫と高を括りました[i]。その見込みは軽率であって、三年後、紀元前711年にアッシリアはアシュドデに南下し、これを攻め取りますそれが、今日の1節のことです。その時、既にイザヤは腰の粗布を解き、裸足で歩く生活を三年続けていました。つまり、アシュドデが迂闊にもエジプト・クシュを頼みにしてアッシリアに背いた頃から、主はイザヤに、このパフォーマンスをさせていたのです[ii]。その意味を明らかにしたのはどの時点かは不明ですが、ここではっきりと、

そのように、アッシリアの王はエジプトの捕虜とクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にして、裸足のまま、尻をあらわにして、エジプトの恥をさらしたまま連れて行く。人々は、クシュを頼みとし、エジプトを誇りとしていたゆえに、打ちのめされ、また恥を見る。

 イザヤが恥晒しな格好を続けたのは、エジプト人、当時クシュ王朝だったエジプトが頼みになるどころか、近く彼らも裸の恥を晒しながら捕虜として引かれて行く、というしるしでした。

その日、この海辺の住民は言う。「見よ。アッシリアの王の前から逃れようと、助けを求めて逃げて来たわれわれの拠り所がこの始末だ。われわれは、どうして助かることができるだろうか」と。」

 こう言って、アッシリアの力を舐めてかかり、エジプトを当てにし過ぎた愚かさに直面する日が来る。そのことを、イザヤは身をもって示していたというのが、この行為預言なのです。

 ところで、イザヤがこんな突飛な行為預言をするのは他にありません[iii]。7章8章で、わが子を同伴して預言に行く、というのも奇抜ですが、ここには及びません。エゼキエルやエレミヤには幾つもあります。イザヤはここだけです。しかも、これはイスラエルの民のためではなく、エジプト人・クシュ人、ペリシテ人――イスラエル人ならぬ民のためのパフォーマンスでした。勿論、エジプトは拠り所とするにあたらず、というのは、ユダの王や民にとってもイタいメッセージでした。19章で見たように、イスラエルにとって南の大国エジプトの存在は大きかったのです。ですからそのエジプトが頼みの綱どころか、尻を露わにして捕虜となる日が来る、というのは、エルサレムの住民に向けられたブーメランでもあります。しかしならばこそ、イザヤは言葉でそう伝えるだけでも良かったでしょうに。あちらに期待しても失望に終わるだけだぞ、主の側に留まっているのだぞ、と言えば良かったでしょう。それを、主は、エジプトやクシュの捕囚となった裸の姿を、イザヤに演じさせるのです。あちら側の末路を先取りさせるのです。そして、これがイザヤの生涯で唯一と言っていい、突飛な行為による預言なのです。

 主は、エジプト人が惨めに恥を晒しながら捕囚となることを、決して「身から出た錆」自業自得、最終的な裁きだとは思われません。前回、19章後半、16~25節でみた通り、主は最後にはエジプトを癒して、エジプトとアッシリアとイスラエルをともに祝福されると言われていました。主はエジプトにも熱い、アツい祝福を用意しているのです。しかし、そのためにこそ、今の問題は打たれて、見せかけははぎ取られ、アシュドデを唆したような軽薄さは報われ、恥を晒さなければなりません。高ぶりを砕かれて、低く謙って、心の底から作り変えられるプロセスが必要なのです。それは痛みや恥を伴います。苦しいとご存じです。その痛みを主は自らの痛みとして引き受けておられます。だから、主はイザヤにこの行為預言をさせたのです。

 3節で主は「わたしのしもべイザヤが」と言います。「わたしのしもべ」という言い方はイザヤ書で初めてですが、この後「わたしのしもべ」または「主のしもべ」という言葉は30回以上繰り返される重要なことばです[iv]。その最たるものはイザヤ書53章の「苦難のしもべ」の歌です。その前にも後にも、主のしもべの働きは豊かに歌われます。主のしもべは、主なる神の御心を現し、世界を贖う業を果たし、苦難で卑しめられつつ、そのいのちをもって、主から託された務めを果たす[v]。そう豊かに展開していく「主のしもべ」への伏線として、今日の所で「わたしのしもべイザヤ」と呼ばれている――その生涯唯一の行為預言を、裸で歩くという恥の形で担う――それもイスラエルにとって複雑な関係の、異邦人のエジプトのために、彼らを待ち受ける屈辱を先取りして担う形で引き受ける――この20章があるのでしょう。この箇所から、イザヤのようにどんな御心にも従うのがキリスト者…という読み方もされますが、むしろ、イザヤは主のしもべの伏線です。私たちのため、主イエスがこうしてくださったのです。

 主のしもべであるイザヤが、エジプトを頼りとする者のため、裸で歩いたように、主のしもべであるイエスは、私たちのため、十字架の恥と苦難を引き受けてくださいました。十字架刑は実際に裸で行われました。イザヤの「裸」は下着を着けていただろうとは言えますが、主イエスの十字架は、下着も籤引きにされたともありますから[vi]、文字通りの裸でした。主のしもべである主イエスが、十字架にいのちを捧げたのは、私たちの祝福のためでした。

 主が十字架で、私たちに代わって、罪の罰を背負ってくださったことにより、私たちは滅びることはないと約束されています。決して、イエスの十字架は、私たちもやがて十字架に苦しむしるしではなく、むしろ、私たちが決して滅びることなく、救いに与るしるしです。しかし、エジプト人が捕囚とされる経験を通って、本当の祝福に与ったように、主の民である私たちも、謙らされる経験を通ります。エジプト人を頼りとしていた人々が、「われわれの拠り所がこの始末だ。われわれは、どうして助かることができるだろうか」と言ったように、自分が本当に何を頼りにしていたか、主ならぬ何かを神にしていたかに、気づかされることを繰り返します。

ヘブル4・13神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。

とも言われるように、主の前には自分のすべてが丸裸に知られ、曝け出されているのだと深く知って行くのです。そして、私たちのすべてを残らずご存じである方、私たちが何一つ隠すことが出来ない主が、その私たちを愛し、御自身の民として生かすために、神の栄光もはだけて、苦難と辱めの十字架をも負うてくださいました。主のしもべとして、私たちを滅びの道から立ち帰らせるための務めを、すべて果たしてくださいました。だからといって、世界の揺れ動きに巻き込まれないわけではありません。生きる厳しさや恥から無縁ではないでしょう。その道は、主イエスが先に歩んでくださった道です。そこから、祝福に続かせてくださる道です。

「聖なる、聖なる、聖なる主よ。あなたのしもべイザヤの人生の、強烈な一断面を思い巡らし、そこにこそ見える、主イエスの私たちへの御業に思いを馳せます。私たちのため、祝福を備え、あなたならぬものを頼りにしてしまう背きを赦し、何度でも救い出して止まず、御子をさえ与えられた主。あなた以外に神はいません。どうぞ私たちがますますあなたを知り、あなたに知られている自分であり、互いであることを深く深く思い潜め、歩めますよう、お導きください」

[i] 「四年間にわたってエジプトは、忙しくパレスチナの小さな国々の反アッシリア動乱を助長してきた。反乱の旗を揚げるならば、すぐエジプトの軍隊が駆けつけることを約束して。前七一三年にアシュドデは反乱を強行したが、前七一一年にアッシリアの巻き返しを受けてしまった。アシュドデの王は、傀儡政権に取り替えられてしまった。しかし、反乱は続いた。新しい傀儡政権の王も追い出され、エジプトがなおも背景に立ちつつ、使節がユダとエドムとモアブに送られた。連合に再結集するようにと誘いをかけたのである。ヒゼキヤの場合は、アッシリアからの報復を受けなかったので、多分同盟に入らなかったであろう。しかしアシュドデは、同盟に加わらざるを得なかったのである。アッシリアの王サルゴンは、タルタンを送って(1節)、アシュドデはアッシリアの領土に加えられてしまった。エジプトは案の定、その約束を守らなかったのである。」 モティア、187〜188ページ

[ii] 732年 シリア、アッシリアに滅ぼされる。

722年 イスラエル、アッシリアに滅ぼされる

715年 ユダ王国、アハズ死去、ヒゼキヤ即位 クシュのシャパカがエジプトを統治

713年 アシュドデがアッシリアに反旗を翻す。(クシュ王朝のエジプトの後押し?)

主が命じて、イザヤは腰の粗布を解き、履き物を脱いで過ごし始める?

711年 アシュドデ、アッシリアに滅ぼされる。 シリア・イスラエルの反アッシリア同盟から20年!

[iii] 「この章は、二つの点でユニークである。一つは一三章から始まった諸国への宣告の中で、預言に関しての状況を明らかにしている点(一四28にも短い言及はある)、他は預言者イザヤにとって、象徴的行動で主の聖旨を示すのはここだけという点である。預言者の象徴的行動で主のことばを示す手段は、預言者エレミヤとかエゼキエルには割合頻繁に見られる(エレミヤ一三、一六、一九章、エゼキエル四、五章等)。耳で聞くと共に、目で見ることで一層印象強く訴えることができるが、その象徴行為は預言者にとって決して容易ではないばかりか、人々からは異常に思われるような行動が多かった。またそうでなければ、人々に強く訴えかけることはできなかったであろう。だから、このような象徴的行動によっても、人々が御心に聞き従わなければ、それだけ彼らの不信仰が厳しく責められたに違いないと言えよう。」 141ページ

[iv] 「しもべעֶבֶד」40回: 「わたしのしもべ」では初、そしてこの後、繰り返される。

14:2 諸国の民は彼らを迎え、彼らのところに導き入れる。イスラエルの家は主の土地で、その寄留者を男奴隷、女奴隷として所有し、自分たちを捕らえた者を捕らわれ人にし、自分たちを追い立てた者を支配するようになる。

20:3 主は言われた。「わたしのしもべイザヤが、エジプトとクシュに対するしるし、また前兆として、三年間裸になり、裸足で歩いたように、

22:20 その日、わたしはわたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、

24:2 民は祭司と等しくなり、男奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸し手は借り手と、債権者は債務者と等しくなる。

36:11 エルヤキムとシェブナとヨアフは、ラブ・シャケに言った。「どうか、しもべたちにはアラム語で話してください。われわれはアラム語が分かりますから。城壁の上にいる民が聞いているところでは、われわれにユダのことばで話さないでください。

37・5 ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、

37:24 おまえはしもべたちを通して、主をそしって言った。「多くの戦車を率いて、私は山々の頂に、レバノンの奥深くに上って行った。そのそびえる杉の木と美しいもみの木を切り倒し、その果ての高地、木の茂った園にまで入って行った。

37:35 わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」

41:8 だがイスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしが選んだヤコブよ、あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。

41:9 わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。

42:1 「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。

42:19 わたしのしもべほど目の見えない者が、だれかほかにいるだろうか。わたしが送る使者ほど耳の聞こえない者が、ほかにいるだろうか。わたしと和解した者のような目の見えない者、主のしもべのような目の見えない者が、だれかほかにいるだろうか。

43:10 あなたがたはわたしの証人、──主のことば──わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にも、それはいない。

44:1 「今、聞け。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。

44:2 あなたを造り、あなたを母の胎内にいるときから形造り、あなたを助ける主はこう言う。恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。

44:21 ヤコブよ、これらのことを心に留めよ。イスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしがあなたを形造った。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ、あなたはわたしに忘れられることがない。

44:26 主のしもべのことばを成就させ、使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムについては『人が住むようになる』と言い、ユダの町々については『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う。

45:4 わたしのしもべヤコブのため、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたを、あなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書きを与える。

48:20 バビロンから出よ。カルデアから逃れよ。喜びの声をあげて、これを告げ、聞かせよ。地の果てにまで響き渡らせよ。「主が、そのしもべヤコブを贖われた」と言え。

49:3 そして、私に言われた。「あなたはわたしのしもべ。イスラエルよ、わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」

49:5 今、主は言われる。ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、母の胎内で私をご自分のしもべとして形造った方が言われる。私は主の御目に重んじられ、私の神は私の力となられた。

49:6 主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

49:7 イスラエルを贖う方、その聖なる方、主は、人に蔑まれている者、国民に忌み嫌われている者に、支配者たちの奴隷に向かってこう言われる。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。真実である主、あなたを選んだイスラエルの聖なる者のゆえに。」

50:10 あなたがたのうちで主を恐れ、主のしもべの声に聞き従うのはだれか。闇の中を歩くのに光を持たない人は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。

52:13 「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。

53:11 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。

54:17 あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、あなたを責め立てるどんな舌も、さばきのときに、あなたがそれを不義に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。──主のことば。」

56:6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、

63:17 主よ。なぜあなたは私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心を頑なにして、あなたを恐れなくされるのですか。あなたのしもべたち、あなたのゆずりの地の部族のために、どうかお帰りください。

65:8 主はこう言われる。「ぶどうの房の中に甘い汁があるのを見れば、『それを損なうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、そのすべては滅ぼさない。

65:9 わたしは、ヤコブから子孫をユダから、わたしの山々を所有する者を生まれさせる。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。

65:13 それゆえ、神である主はこう言われる。「見よ、わたしのしもべたちは食べる。しかし、おまえたちは飢える。見よ、わたしのしもべたちは飲む。しかし、おまえたちは渇く。見よ、わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、おまえたちは恥を見る。

65:14 見よ、わたしのしもべたちは心の底から喜び歌う。しかし、おまえたちは心の痛みによって叫び、霊に傷を受けて泣き叫ぶ。

65:15 おまえたちは自分の名を、わたしの選んだ者たちにのろいとして残す。神である主は、おまえたちを殺す。しかし、自分のしもべたちをほかの名で呼ぶ。

66:14 あなたがたがこれを見るとき、その心は喜び、骨は若草のように生き返る。主の手はそのしもべたちに知られる。その憤りは敵たちに。」

[v] 新キリスト教辞典「しもべ」の項を参照。

[vi] ヨハネの福音書19章23節。

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