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2025/6/8 使徒の働き2章1〜6節「喜びの聖霊降臨の日」池戸ペンテコステ礼拝

今日の箇所に伝えられている出来事が、「聖霊降臨日」という教会の祝日の始まりです。クリスマス、イースターと並ぶ、三大祝日の三つ目がこの日です。ペンテコステとも呼ばれるのは、1節の「五旬節の日」とある言葉の元々がペンテコステという原語だからです。

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。

この「皆」というのはイエスの弟子たちで、1・15によれば百二十人程いました。ここに集まっている3〜4倍でしょうか。しかし、賑やかに、熱気に満ちた集まりだったのでしょうか。いいえ、むしろ彼らは少し前、逮捕されたイエスを見捨てて逃げた人々です。臆病で、恐れていた弟子たちです。何が起きるかをハッキリとは知らず、不安もあったろう人々。そこに、

すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。3また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

怯えて集まっていた弟子たちは、聖霊が来たこの日、大胆に話し始めた。座っていた彼らが立ち上がって、外国の言葉で話し始めたのです。それが五旬節の出来事でした。

これは、イエスが前もって何度も語っていた通りの約束でした。1章4〜5節には、

イエスは…こう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。

とあります[i]。イエスの十字架と復活があり、弟子たちがそのイエスとお会いしても、それだけでイエスを伝える伝道は始まりませんでした。むしろイエスは聖霊が来て、力を受けるまでは待てと、待つことを命じました。五旬節の日の朝、弟子たちは集まっていて、既にそこに「教会」はありましたが、聖霊が来た時からイエスを証しする教会として立ち上がったのです。そして、聖霊が彼らにさせたのは、他国のいろいろな言葉で話すことで、

さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。…

そして9節から11節まで

パルティア人、メディア人、エラム人、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、…

と延々国や地域の名前が挙げられます。当時の世界中の地域から集まったユダヤ人は、生まれたその地域の国の言葉の方が第一言語になっていて、ユダヤ人のヘブル語は苦手な片言になっていたのでしょう。その彼らの第一言語、しっくりくるお国言葉で弟子たちが話し始めました。ここに地名が長々と書かれるのは、この聖霊降臨日に起きた出来事が何であったかと直結するからです[ii]。ですから14節からペテロは立ち上がって人々に語りかけます。これは預言者ヨエルによって語られたことを思い起こさせます。

17…終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。…

あの言葉が今起きている。神がご自身の霊を注いで、老若男女すべての人を新しくすると言われていた。それは、50日前に十字架につけられたイエスがよみがえり、天に上げられ、聖霊を注いだ。

33ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。

聖霊降臨はイエスがキリストである証しです。イエスの十字架は、人々の拒絶と罪であると同時に、その罪を赦して神の民として新しくするための、神の計画でした。そして、十字架の後、神はイエスを復活させ、天に上げられた後、五十日目にイエスが聖霊を注ぐこと、この全体が神の計画していたこと、預言者を通して約束していたことでした。

ヨエルだけではありません。イザヤも他の預言者も、将来の聖霊の約束を預言しています。この五旬節はその成就された日なのです。教会の三大祝日は、御父が御子を与えてくださったクリスマスと、御子が十字架の死から復活されたイースターと、聖霊が注がれたペンテコステです。これは三位一体と対応して、御父が決意し、御子が実行した御業を、聖霊が私たちにシッカリ届けてくださる三段階です。そして、クリスマスも十字架と復活も既に起きた出来事で、もう一度お願いしますだなんて思う必要がないのと同じく、聖霊の降臨ももう起きた出来事で、繰り返しを求めるような出来事ではないのです。聖霊が注がれたからこそ、弟子たちの証しは始まり、多くの人に福音が届けられました。聖霊が注がれなければ、伝道も信じる心や悔い改めも一切不可能だったでしょう。何よりも、ただ十字架と復活を信じて罪が赦される、という以上に、聖霊を受けて新しい息を吹き込まれることが、神の計画、預言者の言葉、この五旬節の日に語られた宣教です。それはこの日ほど派手でも、華々しいわけでもないかもしれません。

41彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。42彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。43すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。44信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、45財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。46そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、47神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

この素晴らしさは羨ましくもあります。しかし「使徒の働き」の続きでも徐々に初めの熱狂は消えていきます。弟子たちがいろいろな言葉で話したのはこの時だけで、6章では言葉の問題が苦情に繋がるとか、14章では言葉の知らない外国でのひと騒動に見舞われます。それでも教会は言葉や文化の違いを超えて福音を語り、一つイエスを主とする交わりを広げてきました。主の教えを守り、一つのパンを分け合う聖餐のテーブルを囲み、食事をともにし、祈りをささげてきました。それは、五旬節の日に聖霊が注がれて起きた出来事が指し示していたことです。

ペンテコステという言葉で、不思議なしるしや神秘的体験と結びつける教派もあります。聖霊が働くなら、恍惚としたり「スピリチュアルな体験」を考えたりするはず、という思い込みも強いでしょう。反動で聖霊について語ることを警戒する教派も少なくありません。

それとは対照的に、私たちは既に聖霊の働きの中にあるという捉え方が私たちの教派の告白です[iii]。私たちの教派の大きな源流であるジャン・カルヴァンは「聖霊の神学者」と言われます。イエスの救いを、イエスの聖霊が届けてくださる。信仰も義認も罪の赦しも聖化も、すべて聖霊の働きだと、どこを切っても聖霊を語るからです。それを今日、ペンテコステに祝うのです。

とりわけ聖霊は弟子たちに、世界の人々の言葉を語らせました。それまでヘブル語以外の外国語なんて、野蛮な言葉、汚れた異邦人の言葉と思っていたでしょう言葉を語り始める。それがペンテコステに弟子たちを変えた聖霊の御業、イエスの福音がどんなものかを伝えるしるしでした。聖霊は私たちにも、自分の言葉、自分の立場を守る生き方、「話が通じない奴」と切り捨てる生き方とは180度違う、自分とは違う相手の言葉を考える事、その人に伝わってほしいと言い方を模索する事、橋渡しになるような言葉を作ろうと、コミュニケーションを大切にする[iv]。自分が特殊な体験や聖霊の力パワーを帯びるという以上に、言葉の違う者たちに福音を届け、その心に働いて、一つ主を仰ぐ交わりを下さり、パンを分け合う――すなわち、主イエスを証しする教会は、ただ聖霊がこの世界に来られたこの日から始まって、今の私たちがあるのです。

「ご自身の聖霊を遣わされた主イエスの父なる神。今日の五旬節、あなたが聖霊を注ぎ、主イエスの証しを始められたことを、世界の教会とともに祝います。主イエスの十字架と復活により、罪の赦し、分断の和解、回復の希望を、聖霊が届けてくださいました。今なおその途上で、言葉が通じない思いをしている私たちを憐れんでください。ペンテコステの出来事に深く驚き、将来の幻により励まし喜びをお与えください。」

ラファエロ『聖体の論議』 この絵画の中に、ラファエロは天上と地上の両方にわたる場面を創り出した。画面の上方では、光背に囲まれたキリストが、左右に祝福された聖母マリアと洗礼者ヨハネを従えるデイシスの配置で描かれている。さらにその上方の最上部には父なる神が天使たちとともに描かれている。 天上界には、このほかにも様々な聖書の登場人物が描き込まれており、左端に座り鍵を握っているペトロ、その隣で裸の胸をむき出しにしているアダム、右端に座り本と剣を持つパウロ、右側で光の角を帯びて十戒が刻まれた石板を持つモーセなどが両側に描かれている。キリストの足元には、白い鳩の姿に表象された聖霊が配され、その両脇にはプットたちが四つの福音書を開いて掲げている。 その真下、画面の下段中央には、祭壇の上に聖体顕示台が置かれている。祭壇の両側には、神学者たちが描かれ、聖変化をめぐって論議している[7]。キリストの身体、血、魂、神性が聖餐に宿ることについて、教会を代表する人々が論じているこの場面には、いずれも古代末期ないし中世前期の人物であり、光背にそれぞれの名が書き込まれた4人の教会博士たち、すなわち、教皇グレゴリウス1世とヒエロニムスが祭壇の左側に、アウグスティヌスとアンブロジウスが右側にそれぞれ着座している。加えて、いずれもルネサンス期のイタリアの人物である、教皇ユリウス2世、教皇シクストゥス4世、サヴォナローラ、ダンテ・アリギエーリらも描き込まれている。シクストゥス4世は金色の教皇服をまとって画面の下段にいる。そのすぐ後ろには、赤い衣をまとい、詩人としての偉大さを象徴する桂冠を被ったダンテがいる[8]。 署名の間に描かれた霊界は、当時の様々な著作や絵画の精神世界を表現しているが、このフレスコ画の詳細な構成において、ラファエルには助言を求める相手がいたものと思われる。近年では、ヴィテルボのエギディウス(イタリア語版)が、直接、間接に、着想の源として採用されていたと考えられている[9]。 Wikipediaより

『聖体の論議』ラファエロ

[i] ルカの福音書24・39(この他に、見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」)、使徒の働き1・6〜8(そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」)があります。

[ii] それは、イエス・キリストの十字架と復活が世界中に宣べ伝えられること、あらゆる言葉、文化、地域の違いを超えて届けられるすべての人の救いであること、それを届けるため聖霊が臆病だった弟子達を力づけ、あらゆる国からの人々の言葉で語るようにもしてくださること、そして自分の言葉で福音を聞いた人々が、それを理解して、心を打たれて、イエス・キリストを受け入れるようにも、聖霊が働いてくださる――それがこの日に起きた出来事でした。

[iii] 例えば、使徒信条の「我は聖霊を信ず」について、ハイデルベルグ信仰問答53はこう告白します。「「聖霊」について、あなたは何を信じていますか。答 第一に、この方が御父や御子と同様に永遠の神であられる、ということ。第二に、この方はわたしに与えられたお方でもあり、まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる、ということです。」。その他、ウェストミンスター信仰告白は「聖霊について」という項目は設けませんが、すべての告白において聖霊の働きを言及します。

[iv]基準を基準として意識するのは、ほとんどの場合、その基準に当てはまらない人です。白い肌を持つ人は、肌の色による区分になど意味はないと考えます。なぜなら、ヨーロッパに暮らす白人の生活においては、肌の色は重要ではないからです。異性愛者は、性的指向による区分になど意味はないと考えます。なぜなら、異性愛者の生活においては、自身の性的指向は重要ではないからです。自身の身体に違和感を持たない人は、性別を当然のものととらえます。なぜなら、自身の身体に疑念を持ったことがないからです。

基準など本当にあるのだろうかと疑う贅沢が許されるのは、基準に当てはまる人のみです。

さて、民主主義の挑戦の本質は、どこにあるのでしょうか。法を作る者と法の適用を受ける者とのあいだの基準の不均衡を、どう解消すればいいのでしょうか? 崩壊したように見える民主主義的意思決定プロセスを、どう再生させればいいのでしょうか? 人民主権の概念を政治システムに組み入れるプロセスを、どう排除のメカニズムから解放すればいいのでしょうか? 

私の答えは、「翻訳によって」です! 

あまりにささやかな答えに見えるかもしれません。ですが、私にはこれが、いま挙げたすべての排除の形式を打倒するための、最も強力な答えに思われます。

私たちは、基準を応用へと翻訳しなければなりません。概念を経験へと翻訳しなければなりません。技術分野や経済政策分野の専門用語を、私たちの日常生活にどんな影響が出るかという点ではっきりした関連性と作用の見える物語へと翻訳せねばなりません。「我々」は均一であり、「他者」は「我々」とは異なっている、という呪いを、「皆が似ている」へと翻訳せねばなりません。ただひとつの真正なものがある、という神話を、多くの声へと翻訳しなければなりません。個人としても集団としても、私たちが育つ過程でともにあった物語や像を、ほかの人たちにも理解できる物語や像へと翻訳しなければなりません。」、カロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから』(浅井晶子訳、みすず書房、2019年)、199〜200ページ