2025/6/1 イザヤ書10章12〜23(20~23節)「力ある神に立ち返る」
15節にこうあります。
斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができるだろうか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができるだろうか。それは、むちが、それを振り上げる人を動かし、杖が、木ではない人間を持ち上げるようなものではないか。
滑稽な問いです。皆さんが斧や鋸のこぎりや鞭や杖を使っていたら、その道具があなたに話しかけて、「俺が切ったのだ。俺が頑張ったから、賢いから、この仕事がここまで出来たのだ。すごいだろう。有難く思え」などと言い出したら、どうでしょう? ちょっとは楽しいかもしれませんが…。
ここで斧や杖と言うのは、12節に「アッシリア」とあり、5節には「アッシリア、わたしの怒りのむち」と言い、「杖」という字も見当たります。主はアッシリアを道具として、イスラエルを打とうとしています。それはイスラエルが、神を敬わず、形ばかりの宗教儀式をするだけで、神に従うことを捨てていたからでした。甚だしい罪、何百年も続いてきた不正と暴力の社会を、神は今遂に打とうとしています。そのために神はアッシリアを選びました。当時、勢力を南に伸ばしてきたアッシリアを用いて、イスラエルに裁きをもたらされます[i]。
しかし、主はアッシリアによってご自分の民の悪を罰せられるとはいえ、アッシリアの思い上がりを容認することはありません。彼らの豪語する台詞を、厳しく聞き咎めるのです。アッシリアの台詞は8~11節に既に述べられていましたが、13~14節でもう一度、アッシリアの言葉として書き刻みます。
私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が諸国の民の境を取り払い、彼らの蓄えを奪い、全能者のように住民をおとしめた。14私の手は、諸国の民の財宝を巣のようにつかみ、私は、見捨てられた卵を集めるように地のすべてのものを集めたが、翼をはためかす者も、口を大きく開ける者も、鳴く者もいなかった。
「私は…私が…俺が…俺の手で」という思い上がりです。自分を「全能者のように」とまで思い上がっています。神のつもりです。そして、諸国の民を親鳥のいない巣、母鳥から見捨てた卵のようだと、世界を顧みる神を否定しています。そう豪語する甚だしい傲慢に、
16それゆえ、万軍の主、主はその最も肥え太った者たちをやつれさせ、その栄光のもとで、炎が燃え上がる。17イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上がって、そのおどろと茨を一日のうちになめ尽くす。18主はその美しい林も果樹園も、また、たましいも、からだも滅ぼし尽くし、それは病人が瘦せ衰えるときのようになる。19その林の木の残りは数えるほどになり、子どもでもそれらを書き留められる。
アッシリアが呆気なく、やつれ果て、焼き払われて、見る影もなく滅ぼされる終わりを来たらせます。それも歴史の未来で、やがてはそうなる、というのでなく、主ご自身が来て、一日のうちに、と言われる、特別な介入による急激な衰退です。これは実際特別なことで、イザヤ書の中ほど、37~38章で一つのクライマックスとして記される、紀元前701年の出来事です。
ここにはキリスト教が、聖書から教えられ、告白している「摂理」という教理の特徴があります[ii]。「摂理」とは神がすべてのものを治めており、何一つ偶然や神の予定外のことはない、という告白です[iii]。鳥一羽、花一輪、髪の毛一筋から、歴史の動きや王の判断まで、何一つ漏らさず、神の御手の中にあって起きないものや偶然や失敗はない、という告白です。ここでも、アッシリア大帝国さえ、神は斧や杖だと言い放ちます。アッシリア自身はそんな自覚もなく、自分で好きなように動いた野蛮な帝国ですが、それさえ神の不思議な御手の中でのことでした。
しかしこれは「運命」とか「決定論」とも違います。「神が定めたのなら何をしても無駄だ」と諦めたり、「全部神の定めだ」と正当化するどころか、神は調子に乗ったアッシリアに対し、厳しく非難し、その責任を問うているのです。人知を超えた神は人も何事でも用いますが、人は人で自分の行動や考えや思い上がりの責任を負うている――神のせいには出来ない、確かに自分が選んだ行動であり、自分の心や考えであることに弁解の余地はない――これが摂理です。
ユダの罪が、アッシリアの侵略を招いたように、今でも世界の中では罪や愚かな選択が、問題を起こしたり、非難されたり、蒔いた種を刈り取ることはあります。大きくは国際関係から、身近なところでは違法行為がバレてすべてを失うようなスキャンダルまで、そういう因果関係も主の御手の杖・鞭とも言えるかもしれません。しかしそれは、そこに加担する一人一人の行動や残酷な考えを決して正当化しません。「あいつがやったことは間違っているのだからどんなに叩かれても文句は言えないのだ」などと言い放った人は、その冷たい言葉の責任を負う――実際口にせず、悪辣な行動はとらず、一言嘲ったり投稿して「ざまあみろ」と思うだけ…でも主はアッシリアの行動だけでなく、心の思い上がりを聞き咎めたのではありませんか?
何よりも、主の動機や目的は、罰やさばきではありませんでした。アッシリアや思い上がった国をさえ用いて、イスラエルの民の悪を打ったのは、その悪に怒り、とうとう我慢も限界に達したから罰する、というのではなく、なおご自分の民が立ち帰るため、回復のためでした。
20その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。21残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。22たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。
21節の欄外に「シェアル・ヤシュブ」とあります。7章に出て来たイザヤの子どもの名前でもあり、「残りの者は帰って来る」という意味です。22節の真ん中の
残りの者(だけ)が帰って来る
もシェアル・ヤシュブです。イスラエルの悪に報いるためアッシリアは用いられました。でもそれは、イスラエルがその報いを経て、主に真実をもって頼るようになるため、人間のどんな権力も足元にも及ばない「力ある神に立ち返る」ためでした。そうは思わずに調子に乗ったアッシリアの思いは思い上がりとして、主は咎め、彼らの力や計画を覆します。それは私たちの理解や予想を超えたことです。だからこそ、私たちは、すべてのことが主の測り知れない御手の中にあることと、悪や暴力や冷たい正義は決して正当化されないこと、そして、分からないことは山ほどある中で、この私が今ここで、善を選び、人の罪に対しても、回復より罰を願う心を捨てて、本当に力ある神、世界の権力や科学や情報や知恵を集めたよりも強く、それらをも用いて、私たちをご自身に引き戻してくださる主に立ち返るのです。
この箇所のメッセージはイザヤ書でも何度も繰り返されますが[iv]、22節は新約のローマ書9・27~28で引用します[v]。そこでも人と神との関係が、陶器師と陶器の関係に準えて語られます。私たちのいのち・生涯が「人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による[vi]」と教えられます。そして「たとえ、イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる。主が、語られたことを完全に、かつ速やかに、地の上で行おうとしておられる。」と今日のイザヤ書が引用されます。陶器や斧、杖のような私たちに、摂理の神秘は理解しきれませんし、すべてを支配する神を信じても、今起きている出来事に「御心だ」と安易に言うべきでもありません。ただ、私たちが今あるは主の測り知れない憐みによること、大きすぎて深すぎて見えないほどの憐みによること、それゆえ私たちが、冷たい正義感や思い上がった考えを砕かれながら、神への生きた捧げものとして生きるよう語る御言葉はハッキリしています。それとは程遠い生き方、正反対の生き方をしていても、それでも主はすべての人を通して、摂理をなさるでしょう。しかし、主の摂理の目的は、私たちが主に真実に頼ること、心から力強い神に立ち帰ることです。運命や宿命論ではない、恵み深い主の摂理を信じるのです。
「歴史の主、全世界の神、永遠の王。そのあなたが、栄光を捨てて人となり、十字架の死を通して、神の国を打ち立ててくださいました。悪を用い、悪を裁き、罪人に赦しといのちをあたえてくださいました。あなたのなさることは、土塊つちくれや杖の分際の私たちには到底分からないほど、素晴らしく、大きく、恵みに満ちています。主よ、私たちを通して、あなたの憐みと回復をなさってください。大国や戦争よりも強く尊い、神の国を現して、御心を成就してください」
[i] イスラエル民族の北半分である北イスラエル王国を終わらせ、南に残されたユダ王国の都エルサレムにまで攻めさせます。ユダ王国は一時、アッシリアと友好政策を取って生き延びようとしていますが、その目論見は全く愚かだったことが分かる時が来るのです。
[ii] とはいえ、「摂理」を徹底的したものと信じつつ、人間の自由意志との両立を謳うカルヴァン主義と、神の摂理と人間の自由意志との協同を信じるアルミニウス主義者とでは、この箇所も異なる視点から解釈する。参照、Robert Shank on Calvinist Pastors and the Warning Passages of Scripture
[iii] 「万物の偉大な創造主である神は、すべての被造物、行為、また事物を、大小もらさず、最も賢い、きよい摂理によって、無謬の予知と、御自身の御旨の自由不変の御計画に従って、その知恵と力と義と善とあわれみの御栄光への賛美へと、保持し、指導し、処理し、統治される。」ウェストミンスター信仰告白第五章「摂理について」、第1節。
[iv] イザヤで繰り返される、この「つくり主(陶器師・農夫・親)」と「被造物(陶器・斧や鍬・子ども)」の例証には、以下の通り:イザヤ書29・16(ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。 )、45・9~10(ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。陶器は土の器の一つにすぎないのに、粘土が自分を形造る者に言うだろうか。「何を作るのか」とか「あなたが作った物には手がついていない」と。わざわいだ。自分の父に「なぜ子を生むのか」と言い、母に「なぜ産みの苦しみをするのか」と言う者。 )、64・8(しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。)
[v] ローマ9・27〜28:イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。
「たとえ、イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる。主が、語られたことを完全に、かつ速やかに、地の上で行おうとしておられる。」
そこでも、前後には、神の主権についての言葉がある。ローマ9・18〜24:ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。19すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」20人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。21陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。22それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。23しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。24このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
[vi] ローマ人への手紙9・16。