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2025/5/4 イザヤ書9章8〜21(8~17節)「なおも御手は伸ばされている」

 前回9・7までで「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」というクリスマスを預言する言葉を聞きました。今日の8節以降は厳しい言葉が続きます。8~12節が一纏まりで、最後の12節の結びで

それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。

13~17も最後の二行が、18~21節も同じです。次の10・4も

それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。

で、四回同じくらいの長さの段落で、繰り返し、イスラエルへの裁きが語られます。

主はヤコブに一つのことばを送られる。それはイスラエルに下る。この民、エフライムとサマリアに住む者たちはみなそれを知り、高ぶり、思い上がって言う。…

 この最初の「一つのことば」が何であれ、それを聞いてもイスラエルの民は、高ぶり、思い上がった反応をする、というのです。この場合のイスラエルとはイスラエル民族全般というよりも、南北に分裂している、北イスラエル王国を指しています。「エフライム」とは北イスラエルの中心になった部族、「サマリア」は北イスラエルの首都です。南のユダ王国よりも堕落ぶりは激しく、ここでの台詞も極めて傲慢です。10節では、主が言われる通り煉瓦れんがが落ちるなら、もっと頑丈な切り石で再建すればいい。無花果桑が切り倒されたら、もっと高価な杉の木を植えよう、という[i]。ああ言えばこう言う、というか、「パンがないならケーキを食べればいいじゃないの」と言ったという切迫感のなさが重なります。こんな傲慢な北イスラエルは、南ユダ王国より百年早く滅亡します。11、12節で言われるのは、アラムやペリシテの近隣諸国からの攻撃という、主のさばきです。サマリア陥落の日も迫っていましたが、それでも主はその彼らに語ってやまないことがこの9章8節から11章で聞こえて来るのです。[ii]

 しかし、周辺諸国との関係がこじれても、

13しかし、この民は自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めない。14そこで…

と続くのは、長老や身分の高い者、偽りを教える預言者、民を迷わせている指導者たちを打つ、という国内の秩序の混乱です。社会のシステムが滅茶滅茶になるのです。指導者だけでなく

17…若い男…みなしごも、やもめも、あわれまない。

とあります。為政者が悪いとは言え、

皆が神を敬わず、悪を行い、すべての口が愚かなことを語っているからだ。

その悪や愚かな言葉の責任が問われる、という大混乱が告げられます。

17それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。

と繰り返して、18節からには、彼らの悪が

火のように燃えさかり、茨とおどろをなめ尽し、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。19万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火の餌食のようになり、だれも互いにいたわり合わない。

国土が焦土になってしまう、という禍です。そして、その荒廃した中で、互いに労り合わず、嚙みつき合って、それでもなお満たされない、飢えて孤立した様子です。21節のマナセとエフライムは、兄弟です。しかし、助け合うよりも敵対し合うのです。しかし、

それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。

 まだこれが10章に続くのですが、思わず「もう御手を引いたら良いのに…」とも言いたくなります。神が、まだ怒りが収まらないからと人間を懲らしめて鬱憤を晴らさずにおれない、というなら、そんな神を信じるなど真っ平御免です[iii]。しかし、主の御手は決して引っ込められることはありません。10・4の次に「御手」は11・11で登場します。

その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りの者を買い取られる。…12主は国々のために旗を上げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。

その御手は、民の残りの者を集めるために伸ばされるのです。この先にも主の御手という言葉はイザヤ書で何度も繰り返されます。手という言葉は百回も出て来ます。三つほど引用しましょう。

43・13これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を行えば、だれがそれを戻せるだろうか。

64・8しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。

65・2わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた。自分の考えのまま、良くない道を歩む者たちに。[iv]

 主は御手を引き上げず、ご自分の民を取り扱ってくださる、伸ばしていてくださる。それが主の御手であり、主という方です。その御手は、私たちを造り、贖い、また悪を罰し、様々な働きをします。けれども主の御手そのものは、同じです。恐ろしい手ではなく、主の手が私たちを形づくり、私たちを悪から救い出すのです。陶器師のように、私たちを造り上げてくださいます。そして地上で、多くのものを束の間与えもし、取り上げもします。

 聖書の最初の創世記で、最も大切な言葉の一つは43・14の「私も失うときには失うのだ」とつぶやく気づきの台詞でしょう。失うことに何としてでも抵抗し続けてきたヤコブが「私も失う時には失うのだ」と悟る[v]。それは地上では避けられない現実です。罪があるから、罰として御手が下り、悔い改めたら勘弁して手を引き上げる…、そんなことではないのです。

今日の「それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。」とあるのも、怒りが収まらないから、ではありません。御手は伸ばされ続けて、神の手の業である人を造り上げるのです。人が悪を捨て、高ぶりも愚かなことばもすっかり恥じて謙り、孤児や寡婦やもめや誰をも蔑んだりしないようになるまで、働きを止めない、主の御手がなおも伸ばされるのです。

「怒りまくる神」というありがちな神像は大きな悪を一時的に止めるには効果的でも、「大きな悪はしませんから、あなたの関わりも程々で結構です」というような信心しか生みません。神が本当に良い方、真実なる神であれば、大きな問題だけでなく、根本的な歪みも見過ごしませんし、最も大切なのが神との関係を深めるという課題であることで、妥協はなさらないのです。これは「怒りまくる神」よりも甘いどころか、恐れ多く、甘えの余地のないことです。C・S・ルイスは言います。

神が善であるから私は恐れない、という人は何を考えているのか。歯医者にも行ったことがないのか」[vi]

善良な歯医者だからこそ、痛みを治して解放してはくれず、悪い所、隠れた症状も見逃さず、根治しようとするものです。まして神は、愛なる神だからこそ、ご自身のかたちに造られた人間が、神に似た者になるために、この地上の旅路を用います。真実な神だからこそ、容赦なく、治療が終わるまで御手を伸ばし続けるのです。

 今日の8節は、7節と一変したかに見えました。キリスト降誕の知らせから、冷たい裁きに唐突に移ったようでした。でもその節目には「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」とあります[vii]。万軍の主の熱心――人間の敬虔さとか魅力とかでなく、ただ主の熱心が、主に背を向け、闇の中を歩んでいた民のために、御子を赤ん坊として遣わす、福音を成就させます。その主の同じ熱心が、高ぶってみことばをも侮るイスラエルの民に御手を伸ばし、何としてでも、その心を変えようとせずにはおれない…。そう思うと、7節と8節はまるきり違う話ではなく、切っても切り離せない繋がりだと見えてきます。主の怒りは、主の熱心から出る、熱い怒りです。人間の冷たい怒りとは違い、主の熱い思いゆえ、諦めずに手を伸ばし続けてくださるのです。

 悲惨な戦争や内乱や社会問題を見て、神のさばきだ、メッセージだと決めつけて、そこまで大変な思いをしていない自分たちはまだ大丈夫なのだ、とどこかで他人事にしていませんか。戦争や大きな事件は、それまで温存されてきた「悪が火のように燃えさかり」大惨事になったのです。同じ罪や冷たさ、また主なる神ならぬ何かを、神のように握り締めている罪――神が御手をもって取り扱ってくださる必要のある心が誰にでもあるのです。そして、主は、その御手を伸ばして私たちに触れ、私たちを捕らえてくださいます。たとえ、その手に釘を打たれようとも、決して引っ込められることなく伸ばされたまま、私たちを救い出してくださるのです。

「万軍の主。力強く、正しく、恵みに満ちた御手で、今日まで守り、導いてくださったことを感謝します。そのあなたに作られた私たちですのに、感謝も喜びも忘れて、あれこれと手を伸ばし、心を置いてしまいます。この私たちも北イスラエルの民も、あなたは愛し、御手を伸ばしてくださいました。地上の旅路の出来事の一つ一つが、あなたの御手として、私たちを助け、本来の神の子どもとして形作りますよう。そうして、御心が天でのごとくに地でなりますよう」

[i] 10節「れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに変えよう。」

[ii] 大島は5章から10章の構造を以下のように解説します:

A「災いあれ」の告知(六回) 5章8~24節

B 「それでもなお、主の怒りは去らず その手は伸ばされたままだ」(一回)5章15節

C イザヤの回顧録 6章1節~8章18節

B 「それでもなお、主の怒りは去らず その手は伸ばされたままだ」(四回)9章7節~10章4節

A「災いあれ」の告知(一回) 10章1~4節 大島、『イザヤ書を読もう 上』115ページ

 

「このような読み方が可能である根拠は、最初に掲げた5章から100章の構成が示しています。まず、5章8~24節の「災いあれ」のリフレイン詩は、南王国の内政的問題を明らかにしています(A)。/それに引き続き25節に「それゆえ、主はその民に対して怒りを発し御手を伸ばし、彼らを打たれた。……それでもなお、主の怒りは去らずその手は伸ばされたままだ」と記されています。この時点では「その民」とは南王国ユダを指しています(B)。/しかし、「イザヤの回顧録」(C)を挟んで、9章7節~10章4節の連続四回のリフレイン詩では、これも明らかに「この民」(9・8、10、12、15、18、「私の民」10・2)とは北王国イスラエルのことを指し、その神の裁きは継続していることが語られています(B)。5章25節を含めた合計五回のリフレインは、相互に密接な関連があることを示しています。しかも、興味深いことに、最後のリフレイン詩には、冒頭に「災いあれ」という語が付されています。「災いあれ、不正な掟を定める者苛酷な判決を書き記す者に。彼らは弱い者の訴えを退け私の民の苦しむ者から権利を奪う。寡婦を餌食とし、孤児を獲物とする。……それでもなお、主の怒りは去らずその手は伸ばされたままだ」/(10・1~4)。この「災いあれ」で始まる詩は、5章8~24節の南王国の内政批判と軌を一にする内容です。すなわち、10章2節の「私の民の苦しむ者」とは、むろん現在の繋がりでは北王国を指していますが、5章8~24節のリフレイン詩の繋がりを考えると、南王国と読み替えても違和感がありません。/すなわち、イザヤが北王国への裁きを語る時には、一方的な非難としてではなく、同じことが南王国の現実でもあることを常に念頭に置きながら語っていることが、二つのリフレイン詩の繋がりから明確に言えます。また内容的にも、両者(5.8~25と9・7~10・4)の関係が認められます。その意味で預言者イザヤは、本来同じ神を信じている北王国の民を、南王国の民と同様に「神の民」と捉える視点を決して忘れなかった、広い意味での「全イスラエル」の預言者であったと言えます。」大島『イザヤ書を読もう上』118〜119ページ

[iii] この繰り返しに、神の怒りの恐ろしさ、いや、神という方そのものの恐ろしさ、怒り狂う暴君ぶりを感じる人もいるでしょう。

[iv] 手יָדヤードはイザヤ書に92回:1・12:あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよとあなたがた[直訳:の]に求めたのか。

1:15 あなたがたが手כַּףを伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたのは血まみれだ。

1:25 わたしは、わがをおまえに対して向け、おまえの金かすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除く。

2:8 その地は偽りの神々で満ち、彼らは自分ので造った物を、指で造った物を拝んでいます。

3:6 そのとき、人は父の家で自分の兄弟を捕らえてこう言う。『あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れ果てた有様を、あなたので治めてくれ。』

3:11 悪しき者、悪人はわざわいだ。そのの報いは自分自身に降りかかる。

5:12 彼らの酒宴には竪琴と琴、タンバリンと笛とぶどう酒がある。彼らは主のなさることに目を留めず、御手のわざを見もしない。

5:25 それゆえ、主の怒りはその民に向かって燃え、これに御を伸ばして打つ。山々は震え、彼らの屍は、通りで、あくたのようになる。それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。

6:6 すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。そのには、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。

8:11 まことに、主は強い御手をもって私を捕らえ、この民の道に歩まないよう、私を戒めてこう言われた。

9:12 東からはアラムが、西からはペリシテ人が、その口いっぱいにイスラエルを食らう。それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。

9:17 それゆえ、主はその若い男たちを喜ばず、そのみなしごも、やもめも、あわれまない。皆が神を敬わず、悪を行い、すべての口が愚かなことを語っているからだ。それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。

9:21 マナセはエフライムを、エフライムはマナセを、そして彼らはともにユダを敵とする。それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。

10:4 ただ、捕らわれ人の足もとに膝をつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ。それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。

10:5 「ああ、アッシリア、わたしの怒りのむち。わたしの憤りの杖は彼らのにある。

10:10 エルサレム、サマリアにまさる刻んだ像を持つ、偽りの神々の王国を私がに入れたように、

10:13 それは彼がこう言ったからである。「私は自分のの力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が諸国の民の境を取り払い、彼らの蓄えを奪い、全能者のように住民をおとしめた。

10:14 私のは、諸国の民の財宝を巣のようにつかみ、私は、見捨てられた卵を集めるように地のすべてのものを集めたが、翼をはためかす者も、口を大きく開ける者も、鳴く者もいなかった。」

10:32 その日のうちに彼はノブで立ちとどまり、娘シオンの山、エルサレムの丘に向かってを振り上げる。

11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣にを伸ばす。

11:11 その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りの者を買い取られる。彼らは、アッシリア、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シンアル、ハマテ、海の島々に残っている者たちである。

11:14 彼らは西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、ともに東の子らからかすめ奪う。彼らはエドムとモアブにもを伸ばし、アンモン人も彼らに従う。

11:15 主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中で御手をその川に向かって振り動かし、それを打って七つの水無し川とし、履き物のままで歩けるようにする。

13:2 「はげ山の上に旗を掲げ、彼らに向かって声をあげ、を振って、彼らを貴族の門に入らせよ。

13・7:それゆえ、すべての者[直訳:]は気力を失い、すべての人の心は萎える。

14:26 これが、全地に対して立てられた計画。これが、万国に対して伸ばされた御手

14:27 万軍の主が計画されたことを、だれがくつがえせるだろうか。御手が伸ばされている。だれがそれを押し戻せるだろうか。

17:8 自分ので造った祭壇に目を留めず、自分の指で造った物、アシェラ像や香の台は見ない。

19:4 わたしはエジプト人を厳しい主人のに引き渡す。力ある王が彼らを治める。──万軍の主、主のことば。」

19:16 その日、エジプト人は女のようになり、万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手の前に、恐れおののく。

19:25 万軍のは祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしので造ったアッシリア、わたしのゆずりの民イスラエルに祝福があるように。」

20・2:当時、はアモツの子イザヤによって、すでにこう語っておられた。「行って、あなたの腰の粗布を解き、あなたの足の履き物を脱げ。」彼はそのようにし、裸になり、裸足で歩いていた。

22・18:あなたをまりのように丸めて、広々とした地に投げ捨てる。そこであなたは死ぬ。そこであなたの誇る戦車も。あなたの主人の家の恥さらしよ。

22:21 彼にあなたの長服を着せ、彼にあなたの飾り帯を締め、彼のにあなたの権威を委ねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。

23:11 主は御手を海の上に伸ばし、王国を震わせた。はカナンについて命令を下し、その砦を滅ぼし尽くした。

25:10 がこの山にとどまるとき、モアブはそこで踏みつけられる。藁が汚水の中で踏みつけられるように 。

25:11 泳ぐ人が泳ごうとしてを伸ばすように、モアブはその中でを伸ばす。しかし主は、そのの巧みさも、その高ぶりも低くされる。

26:11 よ。あなたの御手が上げられても、彼らは見ようとしません。どうか彼らが、この民へのあなたの熱心を見て、恥じますように。まことに火が、あなたに逆らう者をなめ尽くしますように。

28:2 見よ、主のもとには激しく力強いものがある。それは、突き刺さり荒れ狂う雹の嵐のようだ。激しい勢いで押し流す豪雨のようだ。主は御手をもってこれを地に下される。

28:4 肥えた谷の頂にあってこれを麗しく飾る花もしぼみ、夏前の初なりのいちじくの実のようになる。だれかがそれを見つけると、すぐにに取り、吞み込んでしまう。

29:23 彼が自分の子らを見て、自分たちの中にわたしののわざを見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる者を聖として、イスラエルの神を恐れるからだ。

31:3 エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も肉であって霊ではない。御手を伸ばされると、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、皆ともに滅び果てる。

31:7 その日、イスラエルの子らは、それぞれ銀の偽りの神々や、金の偽りの神々を退ける。それらは、あなたがたが自分ので自分のために造ったもので、そのことは罪過となっている。

33・21:しかも、そこには威厳ある主が私たちとともにいてくださる。そこには多くの川があり、幅の広い川がある。櫂で漕ぐ舟もそこを通わず、大船もそこを通らない。

34:17 主はこれらのもののためにくじを引き、御手が測り縄で測って彼らに分け与えたので、彼らはとこしえまでもこれを所有し、代々にわたってここに住む。

35:3 弱ったを強め、よろめく膝をしっかりさせよ。

36:15 ヒゼキヤは、「が必ずわれわれを救い出してくださる。この都は決してアッシリアの王のに渡されることはない」と言って、おまえたちにを信頼させようとするが、そうはさせない。』

36:18 ヒゼキヤが、「はわれわれを救い出してくださる」と言っても、おまえたちは、そそのかされないようにせよ。国々の神々は、それぞれ自分の国をアッシリアの王のから救い出しただろうか。

36:19 ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムの神々はどこにいるのか。彼らはサマリアを私のから救い出したか。

36:20 これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私のから救い出したか。がエルサレムを私のから救い出せるとでもいうのか。』」

37:10 「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえが信頼するおまえの神にだまされてはいけない。エルサレムはアッシリアの王のに渡されないと言っているが。

37:14 ヒゼキヤは、使者のからその手紙を受け取って読み、の宮に上って行き、それをの前に広げた。

37:19 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらが神ではなく、人ののわざ、木や石にすぎなかったので、彼らはこれを滅ぼすことができたのです。

37:20 私たちの神、よ。今、私たちを彼のから救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけがであることを知るでしょう。」

37・24:おまえはしもべたちを通して、主をそしって言った。「多くの戦車を率いて、私は山々の頂に、レバノンの奥深くに上って行った。そのそびえる杉の木と美しいもみの木を切り倒し、その果ての高地、木の茂った園にまで入って行った。

37・27:その住民は力失せ、打ちのめされて恥を見て、野の草や青菜、育つ前に干からびる屋根の草のようになった。

40:2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものをから受けている、と。」

41:20 それは、がこれを行い、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、ともに悟るためである。

42:6 「わたし、は、義をもってあなたを召し、あなたのを握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。

43:13 これから後もわたしは神だ。わたしのから救い出せる者はない。わたしが事を行えば、だれがそれを戻せるだろうか。」

44:5 ある者は『私はのもの』と言い、ある者はヤコブの名で自分を呼び、ある者はに『のもの』と記してイスラエルの名を名乗る。」

45:9 ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。陶器は土の器の一つにすぎないのに、粘土が自分を形造る者に言うだろうか。「何を作るのか」とか「あなたが作った物にはがついていない」と。

45:11 イスラエルの聖なる方、これを形造った方、はこう言われる。「これから起こることを、わたしに尋ねよ。わたしの子たちについて、またわたしののわざについて、あなたはわたしに命じるのか。

45:12 このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。このわたしがで天を延べ広げ、その万象に命じたのだ。

47:6 わたしは、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し、彼らをあなたのに渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた。

47:14 見よ。彼らは刈り株のようになり、火が彼らを焼き尽くす。彼らは自分のいのちを炎のから救い出すこともできない。これは身を暖める炭火でもなく、その前に座れる火でもない。

48:13 まことに、わたしのが地の基を定め、わたしの右の手יָמִיןが天を延べ広げた。わたしが呼びかけると、それらはこぞって立ち上がる。

49:2 主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私をかくまい、私を研ぎ澄まされた矢とし、主の矢筒の中に私を隠された。

49:22 神であるはこう言われる。「見よ。わたしは国々に向かってを上げ、わたしの旗を諸国の民に向かって揚げる。彼らは、あなたの息子たちを懐に抱いて来る。あなたの娘たちは肩に担がれて来る。

50:2 なぜ、わたしが来たときだれもいなかったのか。わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。わたしのが短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないというのか。見よ。わたしは叱って海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える。

50:11 見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火の明かりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことは、わたしのによってあなたがたに起こり、あなたがたは苦悶の場所で伏し倒れる。

51:16 わたしのことばをあなたの口に置き、このの陰にあなたをかばい、天を置き、地の基を定め、『あなたはわたしの民だ』とシオンに言う。」

51:17 目覚めよ、目覚めよ。エルサレムよ、立ち上がれ。あなたはから憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。

51:18 彼女が産んだすべての子らのうち、だれも彼女を導く者はなく、彼女が育てたすべての子らのうち、だれも彼女のを取る者はない。

51:22 あなたの、ご自分の民を弁護するあなたの神、はこう言われる。「見よ。わたしはあなたのから、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。

51:23 わたしはこれを、あなたを悩ます者たちのに渡す。彼らは、かつてあなたに『ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう』と言った。それで、あなたは背中を地面のように、また歩道のようにして、彼らが乗り越えて行くのに任せた。」

53・10:しかし、彼を砕いて病を負わせることはのみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、のみこころは彼[の]によって成し遂げられる。

56:2 幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず、どんな悪事からもそのを守る人は。このように行う人、このことを堅く保つ人の子は。

56・5:わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念[直訳:]の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。

57・8:あなたは、扉と柱のうしろに、自分を記念する像を置いた。あなたはわたしを捨てて裸になり、そこに上って自分の寝床を広げ、彼らと契りを結び、彼らの寝床を愛し、彼らの象徴物[直訳:]を見た。

57・10:あなたは、長い旅に疲れても、『あきらめた』とは言わなかった。あなたは元気を回復し、それで弱らなかった。

59:1 見よ。が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。

60:21 あなたの民はみな正しい者となり、永遠にその地を所有する。彼らは栄光を現す、わたしが植えた枝。わたしので造ったもの

62:3 あなたはにある輝かしい冠となり、あなたの神ののひらにある王のかぶり物となる。

64・7:しかし、あなたの御名を呼ぶ者はなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎によって、私たちを弱められました。[聖書教会共同訳:あなたの名を呼ぶ者も/奮い立ってあなたにすがる者もおりません。/あなたは私たちから御顔を隠し/私たちを罪のに渡されました。]

64:8 しかし、今、よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。

65:2 わたしは終日、頑なな民にを差し伸べた。自分の考えのまま、良くない道を歩む者たちに。

65:22 彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者たちは、自分ので作った物を存分に用いることができるからだ。

66:2 これらすべては、わたしのが造った。それで、これらすべては存在するのだ。──のことば──わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。

66:14 あなたがたがこれを見るとき、その心は喜び、骨は若草のように生き返る。はそのしもべたちに知られる。その憤りは敵たちに。」

 

右の手יָמִיןヤーミーン 9回

9・20:右にかぶりついても、なお飢え、左に食らいついても、満たされず、それぞれ自分の腕の肉を食らう。

41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

41:13 わたしがあなたの神、であり、あなたの右の手を固く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。

44:20 灰を食物とする者は、心が欺かれ、惑わされて、自分を救い出せず、『私の右の手に偽りはないか』とさえ言わない。

45:1 は、油注がれた者キュロスについてこう言われる。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする。

48・13:まことに、わたしのが地の基を定め、わたしの右の手が天を延べ広げた。わたしが呼びかけると、それらはこぞって立ち上がる。

54・3:あなたは右と左に増え広がり、あなたの子孫は国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。

62・8:は右のと力強い腕によって誓われた。「わたしはあなたの穀物を再び敵に食物として与えはしない。あなたが労して作った新しいぶどう酒を、異国の民が飲むことはない。

63・12:その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分けて、永遠の名を成し、

 

手כַּףカーフ 手、手のひら、足の裏 16回

1:6 足の裏から頭まで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

1:15 あなたがたがを伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。

28:4 肥えた谷の頂にあってこれを麗しく飾る花もしぼみ、夏前の初なりのいちじくの実のようになる。だれかがそれを見つけると、すぐにに取り、吞み込んでしまう。

33:15 義を行う者、公正を語る者、強奪による利得を退ける者、を振って賄賂を受け取らない者、耳をふさいで流血について聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者。

36:6 おまえは、あの傷んだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、それは、それに寄りかかる者のを刺し貫くだけだ。エジプトの王ファラオは、すべて彼に拠り頼む者にそうするのだ。

37・25 私は井戸を掘って水を飲み、足の裏でエジプトのすべての川を干上がらせた」と。

38:6 わたしはアッシリアの王のからあなたとこの都を救い出し、この都を守る。

49:16 見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。

55:12 まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、平安のうちに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、を打ち鳴らす。

59:3 実に、あなたがたのは血で、指は咎で汚れている。あなたがたの唇は偽りを語り、舌は不正を告げる。

59:6 そのくもの巣は衣にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、暴虐の行いがそのにある。

60・14 あなたを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてあなたのところに来る。あなたを侮った者どもはみな、あなたの足もとにひれ伏して、あなたを『主の都、イスラエルの聖なる方のシオン』と呼ぶ。

62:3 あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。

イザヤ書における「手」 יָדヤード 力、元気、右の手יָמִיןヤーミーン、手のひら・足の裏כַּףカーフ

[v] 創世記43・14:全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」

[vi] C・S・ルイス『悲しみを見つめて』(西村徹訳、新教出版社、1976年)、62ページ。詳しくは以下の文を:「9 費用を計算すること 前章でわたしが「あなたがたは完全な者となりなさい」というわれらの主の命令について語ったために、非常に多くの人びとが頭を悩ましているようである。ある人たちはこの言葉の意味をこんなふうに取っているらしい。つまり、「あなたがたが完全な者でなければ、わたしはあなたがたを助けてやらない」というふうにである。ところが、わたしたちは完全な者になることはできない、したがって、もしキリストがそういう意味で言ったとするなら、わたしたちの立場は絶望的である。

しかし、わたしはキリストがそういう意味で言われたとは考えない。彼が言わんとしたのは次のようなことではなかったかとわたしは思う。すなわち、「わたしの与える助けは、あなたがたが完全な者になるための助けのみである。あなたがたはもっと小さいことを求めるかも知れないが、わたしはそれ以下のものは与えないのだ」。

この点を少し説明したいと思う。わたしは子供のころ、たびたび歯痛に悩まされたものであった。その時、母のところに行けば何か薬をくれてその晩は痛みがとれてよく眠れることを、わたしは知っていた。だが、わたしは母のところに行かなかった――少なくとも、痛みがよほどひどくなるまでは行かなかった。なぜ行かなかったか。その理由はこうである。母がアスピリンをくれることは分かっていた。しかし、母はそれだけではすまさなかった。あくる朝わたしを歯医者につれて行くにきまっていた。つまり、わたしは母からわたしの欲しいものを、欲しくない余計なものと抱き合わせでなければ、もらうことができなかったわけだ。わたしは今すぐ痛みがとれることを望んだのだが、わたしの歯を恒久的になおしてもらうことなしには、その望みをかなえることができなかったのである。ところで、わたしは歯医者という奴をよく知っていた。彼は、まだ痛くもないほかの歯までいじりまわさなければ満足しないのだ。歯医者ときたら、眠っている犬をわざわざ起こすようなことをする――庇を貸せば母屋まで取ろうとするのである。

言ってみれば、われらの主は歯医者のようなものである。彼に庇ひさしを貸せば母屋まで取ろうとするのである。人びとは、自分で恥ずかしいと思う特定の罪(たとえばオナニーとか生理的な臆病さとか)や、明らかに日常の生活を損っているような特定の罪(たとえば短気とか酒びたりとか)を癒してもらおうとしてキリストのもとに行く。彼は確かにそれをなおしてくれるだろう。が彼はそれだけではすませないのである。あなたが頼んだのはそれだけなのに、ひとたび彼を呼び入れたら、徹底的な治療を受けさせられてしまうのである。

キリストが人びとに、クリスチャンになる前に「費用を計算するよう」命じたのはそのためである。彼はこう言うのである、「勘違いしてはいけない。もしわたしに任せるなら、わたしはあなたを完全な者にしてあげよう。あなたが自己をわたしの手にゆだねた瞬間それは始まるのだ。それ以下でもそれ以外のことでもない。あなたは自由意志を持っている。だから、いやならわたしを押しのけることもできる。しかし、押しのけないのなら、はっきり言っておくが、わたしはこの仕事を徹底的にやるつもりだ。あなたがそのためにこの世でどんなに苦しみ、死後どんな思いもかけぬ浄化を受けねばならぬとしても、いや、わたしがそのためにどんなに犠牲を払わねばならぬとしても、あなたが文字通り完全な者となるまでは―――わたしの父がわたしのことを『わが心にかなう者』と言われたように、あなたについても無条件に『わが心にかなう者』とおっしゃることができるようになるまでは――わたしは休まないし、またあなたも休ませない。このことをわたしはやれるし、またやるつもりだ。だが、それ以下のことだったら、わたしはやるつもりはない」。

しかも――これはこの問題のもう一つの重要な面であるが――究極的には絶対的完全性以下の何ものにも満足されることのないこの助け主は、同時に、あなたが明日、最も単純な義務を果たそうとして試みる初めての弱々しいつまずきがちの努力を、よろこんで下さるのである。あるすぐれたキリスト教文学者(ジョージ・マクドナルド)が言っているように、父親というものはだれでも、幼児が初めて歩こうと努力するのを見て喜ぶものである。しかし、どんな父親でも、成長した息子がしっかりと自由自在に男らしく歩くのを見るまでは満足しないだろう。それと同様、「神を喜ばせることはやさしいが、満足させることはむずかしい」――とその文学者は言っている。

このことの実際的な結論はこういうことになる。すなわち、一方では、神の完全さに対する要求のゆえに、あなたは現在の善良たらんとする試みに際して、いや、現在のいろんな失敗に際してさえも、少しも落胆する必要はない。あなたが倒れるたびごとに、神はあなたを助け起こして下さる。そして、神はあなた自身の努力では決して完全さに近づくことができないことを百も承知でおられる。

だが、他方、あなたは、神がそれに向かってあなたを導き始めたその目的地は、絶対的完全性であること、また、あなた自身を除けば全宇宙のいかなる力も、神があなたをその目的地につれて行くのを妨げることはできない、ということを最初からはっきり自覚していなければならない。これがわれわれの覚悟すべきことなのである。このことを自覚しておくことは非常に重要である。そうしないと、われわれは、ある点までくると、しりごみし始め、神に抵抗し始める公算が大きいからである。われわれの多くは、明らかに邪魔物である一つ二つの罪をキリストのおかげで克服してしまうと、おれはもう十分に善良な人間だと(口に出して言わぬまでも)そう感じがちなものである。キリストにやってもらいたいことはもうこれですっかりやってもらった、あとはそっとしておいてくれるとありがたいんだが……。「おれは別に聖者になろうと思ったわけじゃない。ただ世間に対してはずかしくないあたりまえの男になりたいと思っただけだ」とわたしたちはよく言う。しかも、そんなふうに言う時、おれは謙遜なんだ、などと腹の中で思っているのである。

しかし、これは致命的な誤りである。むろんわれわれは、キリストがわれわれを造り変えようとしているものになりたいと思ったこともないし、変えてくれと頼んだこともない。けれども、問題は、われわれが自分をどんなものにしようと思ったかではなく、神がわれわれを造った時われわれをどのようなものにしようと意図されたか、である。神が発明者であり、われわれは機械にすぎない。彼がわれわれをどのようなものにしようと考えておられるか―――そのようなことはわれわれに分かるはずがない。神はすでにわれわれを以前のわれわれとはすっかり違ったものに変えてしまった。ずっと以前、わたしたちがまだ生まれず母の胎内にいた時、わたしたちはさまざまな段階を経過したのであった。われわれは、ある時にはむしろ植物に似ており、またある時には魚に似ていた。人間の赤ん妨らしくなったのは、ずっと後の段階に進んでからのことである。もしわたしたちがそのような初期の段階にいたときに意識を持っていたとするなら、わたしたちはいつまでも植物や魚みたいなものでいることに満足しきっていたかも知れない――つまり赤ん妨として生まれることを望まなかったかも知れない。しかし、神は、その間つねにわれわれに対するご自身の計画を自覚しておられ、それを実現する決意を持っておられたのである。

それと同じようなことが今、高次の段階で、起こっているのである。わたしたちは、いわゆる「平凡な人間」にとどまっていることで満足しているかも知れない。しかし神は、それとは全く違った計画を押し進めようと決意しておられるのである。その計画からしりごみするのは謙遜ではない。それは怠惰であり、臆病である。その計画に従うことは、うぬぼれでも誇大妄想でもない。

それは従順であるこの真理の持つ二つの面について、こんなふうに言うこともできる。すなわち、一方において、われわれは助けを借りずに自分だけの努力によって、「はずかしくない」人間として、たとえ今から二十四時間だけでもやって行ける、などと決して考えてはならない。もし神がわたしたちを支えて下さらなければ、われわれのうちだれ一人として何か大きな罪を犯すことからまぬがれうる者はいないのである。また、他方、最も偉大な聖者の、今までに知られているどんな霊的聖潔もどんな高徳的行為も、神が究極的にわれわれ一人びとりのうちに造り出そうとしておられることには、とうてい及ばない。その、神の仕事はこの世では完成されないだろう。しかし神はわれわれが死ぬ前に、できるだけ遠くまで進ませておこうとしておられるのである。

わたしたちが人生行路において難行することがあっても驚いてはならないのは、そのためである。人がキリストの方に向かい、かなり順調に(彼の悪癖がいくつかなおされたという意味で)歩みを進めている時には、これからは万事がうまく行くに違いない、と考えがちである。ところが、苦難――病気や、金の心配や、新しい誘惑など――がやってくる、すると彼は失望してしまう。こういうことは(と彼は思う)おれがまだ悪い人間だった昔なら、おれを目ざませ、悔い改めさせるのに必要だったかも知れないが、なんだって今ごろ……?

そのわけは、神が彼をいっそう高い段階に押し上げようとして、以前には彼が夢想だにしなかった勇気と忍耐力と愛とを持たなければならないような立場に、彼を置きたもうからである。それはわれわれには不必要なことと思われる。しかしそれは、神がわれわれをどんなにすばらしいものに変えようとしておられるかを、わたしたちがまるっきり知らないからなのである。

ジョージ・マクドナルドからもう一つ譬えを借りたいと思う。あなたが一つの生きた家だと仮定してみていただきたい。神がきて、その家を建てなおそうとなさる。多分初めのうちは、神がしておられることをあなたは理解できるだろう。彼は排水の具合をよくしたり、屋根の漏れをとめたりなどしておられる。それらの仕事は、どっちみちやらなければならなかったことなので、あなたは別に驚かない。ところが、やがて彼はその家をひどく乱暴に扱いはじめ、家は激しい痛みを感じ、なぜこんなことをされるのか全然理解できない。いったい彼は何をしようとしているのか。その答えはこうだ。彼は、ここに新しい棟を増築し、あそこにもう一階建てまし、いくつかの塔を立て、広い前庭を作り――要するに、あなたが考えていたのとは全く違った家を建てているのである。あなたは品のいい小じんまりした家にしてくれるものと思っていた。ところが、彼は宮殿を建てている――しかも彼はご自身そこにきて住もうとしておられるのである。

あなたがたは完全な者となりなさいという命令は、観念的なホラ話ではない。また、不可能なことをやれという命令でもない。神はわれわれを、その命令に従うことのできる者にしようとしておられるのである。神は(聖書の中で)われわれのことを「神々」であると言った。神はその言葉を実証しようとしておられるのである。もしわたしたちが神にこれをまかせるなら―――というのは、われわれは、その気なら、神を妨げることもできるのだから――神はわたしたちのうちで最も弱い、最も汚れた人間をも、神もしくは女神にして下さるのである。現在のわれわれには想像もできないようなエネルギーと歓喜と知恵と愛とが生きいきと脈打つ、まばゆいばかりに輝く不死の存在へと変えて下さるのだ。そしてまた、神はわたしたちを、彼ご自身の無限の力と喜びと善とを完全に(とはいえ、むろん、小規模にではあるが)神に向かって反映する、曇りのない明るい鏡にして下さるのである。その道程は長く、われわれはいくつかの非常な苦痛を経なければならないだろう。だが、わたしたちはそれを覚悟しなければならない。神はそれ以下のことでは満足なさらないのだ。神は本気で言われたのである。」 C・S・ルイス、『キリスト教の精髄』(柳生直行訳、新教出版社、1977年)302〜310ページ

[vii] イザヤ書における「熱心」קִנְאָהキーナー 7回

熱心קִנְאָהキーナー:9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍のの熱心がこれを成し遂げる。

11・13 エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない。

26:11 主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは見ようとしません。どうか彼らが、この民へのあなたの熱心を見て、恥じますように。まことに火が、あなたに逆らう者をなめ尽くしますように。

37:32 エルサレムから残りの者が、シオンの山から、逃れの者が出て来るからである。万軍のの熱心がこれを成し遂げる。』

42・13 主は勇士のように出で立ち、戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって力を見せつける。

59・17 主は義をよろいのように着て、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。

63:15 どうか、天から見下ろし、ご覧ください。あなたの聖なる輝かしい御住まいから。あなたの熱心と力あるわざは、どこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか。