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2025/4/27 イザヤ書9章1〜7(1~4節)「闇を照らすみどりごの誕生」

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。…

 この言葉を、受難週と復活日イースターを経た今日読むと、改めて気づくのではないでしょうか。この言葉もまた、死の中からの復活の言葉だったと気づく。ひとりのみどりごの誕生とは、闇の中からの光、絶望の中での希望を、主が語ってくださる言葉です。イザヤ書という、聖書の歴史の中でも、暗く、混乱した時代に、その問題の根深さを見つめた上で、主がそこに宣言してくださった約束がここに語られています。その中心にあるのが「ひとりのみどりご赤ちゃん」の誕生です。

 この事は、8章最後の22節から読むとなおいっそう分かるでしょう。[i]

8・22彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者、9・1しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。

 ここで言われる苦難とか地名は、北方のアッシリア帝国が下って来て侵略しようとしていた地方の現実の荒廃を指しています。「ゼブルン…ナフタリ」は、イスラエルの領土の最北の部分です。イスラエルは南北に分裂して、北のイスラエル王国はアッシリアに略奪されようとしています。しかしその最北端のゼブルンとナフタリも栄誉を回復する――辱められっぱなしではない。「海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤ」、エルサレムから見れば北の西岸や東の地域まで広く「栄誉を受ける」のです。この苦難と暗闇は、現実の荒廃、戦闘や搾取、蹂躙の苦しみと闇、辱めや追放です。ただ精神的にとか「霊的」「宗教的」な罪や問題ではありません。あるいは、そうした闇とか諸問題が、熱心に聖書の神を信じれば避けられるという勧めや、信仰しない者が遠くで辱められていようと構わない、という態度でもありません[ii]。イザヤは今ここで、現実に荒れ果てさせられようとしている地も、栄誉を受ける――

闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。

 この光輝く将来を語るのです。勿論、「明るい将来」と言うと、とってつけたような感じがします。辱めや苦悩、死の陰の地に住むとか追放といった経験が人間の心にどんなにか深いダメージを与えるか――明るさやモノだけで癒されないことは、聖書の神は私たち以上によくよくご存じです。ですから「あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。」

 喜び、喜ぶ、楽しむ、喜ぶと繰り返し、刈り入れや戦利品の分配という具体的なイメージを描かせて、喜ぶ姿を語るのです。また、刈り入れも戦利品も、どちらも自分の願いが叶って与えられるというより、与えられる喜び、予定できないサプライズです。

それは更に具体的には、こう根拠が語られます。

あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。

首の軛、肩の杖、背中の鞭。それらが砕かれるから、大いに喜び楽しむのです。見える重労働や、見えない重税、そしてすっかりそんな痛めつけられる生活に慣れきって、もう沁しみ付ついてもう自分の一部のように思っている、後悔とか怒りとか憎しみや赦せない気持ち、罪悪感、プレッシャー…そうしたすべての束縛を主は打ち砕いてくださる。心から喜ぶことを妨げる一切の事々を、神は打ち砕いてくださるのです。だから、闇の中を歩んでいた民が大いに喜ぶのです。

そればかりではありません。4節と同じく5節にも、理由を表す接続詞があります。

まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる…

[…からだ]。」なのです。2・4では

剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。

とありましたが、武器が農具になり、戦いが学ばれないだけでなく、戦争を思い出させる靴や衣服に至るまでも焼かれるのです。今なら、高松の平和祈念館に行けば、戦時中の服や生活の展示を見ることが出来ます。痛々しい展示ですが、戦争の悲惨さを忘れないことで戦争を防ぐための教育です。そうした痛々しい反面教師はもう要らなくなることは、本当に争いや辱めは二度とない、大いに喜んでいい、という保証です。

 そればかりではありません。6節も、4節5節と同じく、理由を表す接続詞があるのです。

[なぜなら]ひとりのみどりごが私たちのために生まれる[から]、ひとりの男の子が私たちに与えられる[から、…彼らはあなたの御前で喜ぶ]。

 闇の中を歩んでいた民が大きな光を見て、大いに喜ぶようになるのは、ひとりのみどりごが私たちのために生まれるから…。なんとも不思議なことです。でも、それが神である主の御計画でした。今までも主はイザヤを子どもと共に遣わしました。7章ではシェアル・ヤシュブと共に王の前に立ち、インマヌエルと呼ばれる子どもの誕生が告げられました。8章ではマヘル・シャラル・ハシュ・バズという変わった名前を子どもに名付けるよう命じました。そして、

8・18見よ。私と、主が私に下さった子たちは、…しるしとなり、不思議となっている。

と言ってきました。子どもたちの名と存在そのものが、頑なな大人たち、王や権力者たちに対するしるしになる――戦いが襲えば、最も傷つけられる子ども、戦争とは相容れない子どもが主の裁きのしるしとなりました。その延長に、ここで「ひとりのみどりごが私たちに生まれる」と告げられるのです。その子は主権があり、不思議で、知恵と力があり、人間のような限界も衰退もない、私たちを永遠に守り、平和を与えたもう方です[iii]。その名がまたユニークです[iv]

…主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。…

 この永久の平和の君が来られるから、闇の中を歩んでいた民は、喜び楽しむようになります。しかし、それが堂々とした英雄の姿ではなく小さな赤ん坊として生まれたのです   。「不思議」というのがその名の始まりでした[v]。ただ力づくで敵を打ち負かし、神の力で何でも解決して、「それからいつまでも平和に暮らしましたとさ」とではない。赤ん坊の姿で差し出される。そして今やそれが、神の御子キリストご自身がこのみどりごとなった、という不可思議極まりない誕生として知らされています。主は、自ら赤ん坊となって私たちにご自身を与えて、私たちを闇から救い出し、この世界のすべての辱めを癒し、重荷を下ろさせ、喜ばせる神です。

 クリスマスに読まれる箇所ですが、新約聖書で直接引用されるのは、6節ではなく1節2節です。マタイの福音書4章15~16節です[vi]。イエスが辺境のカペナウム、ゼブルンとナフタリの地の港町に住んで、そこから宣教を始めたことに、イザヤ書の成就を語るのです。当時「ローマの平和」と呼ばれる時代に入り、いちおう戦争は終結していました。しかし、戦争の爪痕や差別や暴力は続いていました。イエスはその世界の片隅の、光から遠く離れた町に住んで、光となった。それがイエスの宣教の始まりでした。その後もイエスは不思議な助言を語ります。血気流行る弟子たちに、何度も子どもたちを示して、神の国を示します[vii]。私たちの生き方を、顧みられない人、最も小さい者、蔑まれた罪人へと方向転換させる方――何よりもまずご自身が、子どもとなり、闇の中に来られて生きて下さり、模範となったお方です。十字架に死んで葬られ、復活して私たちに平和を告げられたお方です。この方こそ、私たちのために生まれた方です。私たちに与えられたイエスです。精神的な平安や今の幸せにも優って、この世界の闇や痛みを癒し、戦争をその原因から深い爪痕に至るまで拭い去ってくださって、喜びを与えてくださる。こんな不思議な方のお生まれと死と復活を告白するのです。

「不思議な助言者、平和の君なる主、イエス・キリストの父なる神。イザヤの時代に告げられたこの信じがたい言葉は、本当に成就しました。ただ偏に、万軍の主、あなたの熱心によってでした。その熱心の中に包まれて、私たちも平和に与り、心の罪や棘、軛も鞭も打ち砕かれるとの約束を、感謝しつつ、その成就を待ち望みます。嬰児となった主よ、私たちをも幼子となる道を歩ませ、武器や争いを捨て、あなたの平和の証し、復活のしるしとならせてください」

[i] もう少しだけさかのぼって8・19からを読むと、この言葉の意味がもう一つ見えてきます。すなわち、「自分の神」である主の「みおしえと証しに尋ねなければならない」のに、「霊媒や、ささやき、うめく口寄せに尋ねよ」と言われて「死人に尋ね」るような、「夜明けのない」人が、「迫害され、飢えて国を歩き回り、飢えて怒りに身を委ねる。顔を上に向け、自分の王と神を呪う」、そのような人が「22彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者」なのです。そのような現状しか見えないとしても、神である主は一方的な恵みをもって「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。」という将来を約束されるのです。この事は、まことに、人間の側の信仰にはよらないこと、ひとえに「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」と言われる主権的な御業です。

[ii] 地上にあっては、国々の興亡や人生の浮き沈みは避けられないのです。主は最も大事なこと、揺れ動かないご自身との関係に立ち返らせてくださり、この世にあっての賢明な知恵を教えてくださって、私たちがより賢く、生き生きと、この地上の旅を共に歩めるようにし、ご自身がともにいてくださいますが、それは私たちが願う繁栄や成功や安定を保証するためではありません。もしそのための信心であれば、神との関係は手段になり、生けるまことの神を恐れるよりも、自分に都合の良い偶像を拝んでいるに過ぎません。

[iii] イザヤ書における「平和」 שָׁלוֹם シャローム 28回

平和(シャロームשָׁלוֹם)はイザヤ書に27回(その最初がここです):9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

26・3 志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

26:12 主よ。あなたは私たちのために平和を備えてくださいます。まことに、私たちのすべてのわざも、あなたが私たちのためになさったことです。

27:5 あるいは、もしわたしという砦に頼りたければ、わたしとを結ぶがよい。をわたしと結ぶがよい。

32:17 義が平和をつくり出し、義がとこしえの平穏と安心をもたらすとき、

32:18 私の民は、平和な住まい、安全な家、安らかな憩いの場に住む。

33:7 見よ。彼らの勇士は通りで叫び、平和の使者たちは激しく泣く。

38:17 ああ、私の味わった苦い苦しみは平安のためでした。あなたは私のたましいを慕い、滅びの穴から引き離されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。

39:8 ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は平和と安定があるだろう、と思ったのである。

41:3 彼は彼らを追い、難なく進んで行く。まだ自分の足で行ったことのない道を。

45:7 わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを行う者。

48:18 あなたがわたしの命令に耳を傾けてさえいれば、あなたの平安は川のように、正義は海の波のようになったであろうに。

48:22 「悪しき者には平安がない。」主はそう言われる。

52:7 良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。

53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

54:10 たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。──あなたをあわれむ方、主は言われる。

54:13 あなたの子たちはみな、主によって教えられ、あなたの子たちには豊かな平安がある。

55:12 まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、平安のうちに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。

57:2 その人は平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。

57:19 わたしは唇の実を創造する者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼を癒やす。──主は言われる──

57:21 悪しき者には平安がない。──私の神はそう仰せられる。」

59:8 彼らは平和の道を知らず、その道筋には公正がない。自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも平和を知らない。

60:17 わたしは青銅の代わりに金を運び入れ、鉄の代わりに銀、木の代わりに青銅、石の代わりに鉄を運び入れ、平和をあなたの管理者とし、正義をあなたの監督者とする。

66:12 主はこう言われる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の栄光を与える。あなたがたは乳を飲み、脇に抱かれ、膝の上でかわいがられる。

[iv] 名前は、7章、8章の流れなら、「シュアル・ヤシュブ」「インマヌエル」「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」同様、「ペエル・ヨーエーツ・エル・ギボール・アビー・アド・サル・シャローム」と呼んでもよい。

[v] イザヤ書における不思議פֶּלֶאペレは、以下の3回:

9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

25:1 主よ、あなたは私の神。私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、真実に成し遂げられました。

29:14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び、不思議なこと、驚くべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」[直訳:「驚かせる驚きによって驚かす」、聖書協会共同訳:それゆえ、私は再びこの民を/驚くべきによって驚かす。/この民の知恵ある者の知恵は滅び/悟りある者の悟りは隠される。」]

動詞פָּלָאパラーは、イザヤ書に3回:

28:29 これも万軍の主のもとから出ること。その摂理は奇しく、その英知は偉大である。[聖書協会共同訳:これもまた万軍の主から出たことである。/主は驚くべき計画を行われ/大いなる洞察を示される。]

29:14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び、不思議なこと、驚くべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」[直訳:「驚かせる驚きによって驚かす」、聖書協会共同訳:それゆえ、私は再びこの民を/驚くべき業によって驚かす。/この民の知恵ある者の知恵は滅び/悟りある者の悟りは隠される。」]

[vi] マタイ4・12~17:イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。13そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。14これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。15「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。16闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」17この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

[vii] それはイエスの平和が、上から押し付ける平和、人間的な平和とは違う、現実の荒廃や諸問題が及ぼす心の闇、幼い子どもの心も暗く病ませている罪の傷をも視野に入れている平和(シャローム)だからでしょう。