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2025/2/23 イザヤ書3章13~17節(13〜26節)「ぶどう畑の回復」ヨハネの福音書15章5、9節

 イザヤ書3章後半、2章から4章の一纏まりの終盤に差し掛かって、主がユダヤの民の罪を厳しく責める言葉が続きます。

13主は論争するために立ち構え、もろもろの民をさばくために立たれる。14主は、ご自分の民の長老たちや君主たちと、さばきの座に入られる。…

諸々の民が主の裁きに服するのですが、特にユダの長老や君主、指導者層の罪が問われます。

…あなたがたは、ぶどう畑を荒れすたらせた。貧しい者からかすめた物が自分たちの家にある。

葡萄畑は、イザヤ書で繰り返される、主の民を現すモチーフです[i]。ですから長老や君主、指導者たちは葡萄畑の農夫、園丁なのです。それが葡萄の木を世話するどころか荒れ廃れさせ、貧しい者たちの者を掠め奪って、自分の物としている。

15なぜ、あなたがたは、わが民を砕き、貧しい者の顔を臼ですりつぶすのか。――万軍の神、主のことば。

文字通り、砕いて、顔を臼で磨り潰したのではないかもしれませんが、富裕層にとって貧者、弱者たちはどうなろうと構わなかったし、主はその貧しい者たちの顔や心まで深く目を留めておられることがこの言葉に現れています。そして、その指導者たちの罪を象徴するのが、その女性たちの姿勢や歩き方だと主は見るのでした。

16主は言われた。「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小股で歩く。」

いかにもツンと澄まして自信たっぷり歩いている、という様子です。脚に鈴を鳴らしながら、というのは当時の流行でしょうか。これは富裕層、指導者層の婦人たちの描写です。貧しい者、下層民にはこんなお洒落の余裕はありません。それを意に介さずに贅沢を楽しんでいることを責められるのです。

17それで、主はシオンの娘たちの頭の頂をかさぶたでおおい、主は彼女たちの額をむき出しにされる。

そして、18節~23節へと長いリストが始まります。

18その日、主はもろもろの飾りを除かれる。足飾り、髪の輪飾り、三日月形の飾り物、19耳輪、腕輪、ベール、20頭飾り、くるぶしの鎖、飾り帯、香の入れ物、お守り札、21指輪、花輪、22礼服、外套、羽織物、金入れ、23手鏡、亜麻布の衣服、ターバン、かぶり物を。

 21ものお洒落アイテムリストです。これだけファッションに気を使って、周りは見えなくなっていました。この中には、高価な輸入品も含まれます。また、三日月やお守りなど、異国の偶像崇拝と結びついた小道具もあるとされます。ただのお洒落でなく、高級志向や迷信めいた装飾品も気にしなくなっていることが伺えます。それらの飾りは悉く取り除かれるのです。

24こうして、芳香は悪臭となり、帯は荒縄、結い上げた髪ははげた頭、豪華な衣装は粗布の腰巻き、その美しさは焼き印となる。25あなたの男たちは剣に、あなたの勇士たちは戦いに倒れる。26シオンの門は悲しみ嘆き、さびれ果てて地の上に座す。

ここで分かるように、ここで描かれるのは、ユダに敵が攻めて来て、男たちは打ち負かされ、生活を守るはずの門も倒され、都全体が廃墟と化すという裁きです。その外敵からの暴力によるのが

17頭の頂をかさぶたでおおい…額をむき出しにされる

なのです。

四1その日、七人の女が、一人の男にすがりついて言う。「私たちは自分のパンを食べ、自分の服を着ます。私たちがあなたの名で呼ばれるようにして、恥辱を取り去ってください。」

 戦いに敗れて、男たちは多くが死んで、男性が圧倒的に足りなくなる絵です。決して女性が惨めだとか、男にはいい時代ではありません。悲惨の極みです。そして、その時にはあの飾り物や贅沢品、身分の高さや肩書さえ、何の役にも立たず、縋り付くしかない、という絵です。

 この流れでの今日の言葉です。女性のお洒落や飾りアクセサリー自体が、否定されるのではありません。責められたのは君主たちの慢心です。それが妻や娘たちの過剰な趣向品三昧になっていた。華美な妻や娘を見て、思い上がっていたのでしょう。見える生活が華やかで、高価なものを好きに買える贅沢が出来ると、人は勘違いしてしまう。責められているのは贅沢や装飾ではなく、ぶどう畑に象徴される、民を導く務めを疎かにして、貧しい人々を踏み躙っていた現実です。

この背景をすっ飛ばし18~23節を抜き出し、聖書は飾り物を全部否定していると言いきられることがあります。ある教会では「化粧は罪」と言い切っていました。また、17節「頭の頂をかさぶたでおおい」や24節の「芳香は悪臭となり」の言葉を、事故や病気で火傷や大怪我を負った人に「贅沢や外見にばかり捕らわれていた自惚れへの罰だ」というのも乱暴です[ii]

18節で主は「もろもろの飾りを除かれる」と言われますが、この「飾り」という言葉は、イザヤ書でこの先も何度も出て来るのです[iii]。直近では4章2節

その日、主の若枝は麗しいものとなり、栄光となる。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなる。

この言葉が19回も繰り返されます。今はまだその予告だけとしましょう。ここでは高価な飾りを取り除くのは、そんなものよりももっと輝かしく、取り除かれることのない輝きが与えられるため、ということだけ確認しておきます。美しく装おうとすることが贅沢で罪だ、などというどころか、主は人に惜しみなく輝かせ、装おうつもりです。

19節からの装飾品リストにはここにしか出て来ない言葉もありますが、他の箇所でも、お祝いや約束で出て来るものもあります[iv]。飾りは、特別な時にも、日常的にも、神が下さったものです。箴言の結びに出てくる「しっかりした妻」の賛歌には、衣服のことが称賛の大半を占めます[v]。神が美しく造られた世界の中で、人は着る物、生活、芸術、仕事を美しく装うことで造り主の栄光を現すのです。それは決して退けられるものではありません。

だからこそ、イエスはこう言って思い出させました。

…栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ[vi]

私たちをソロモン王の財力と知恵をもってしても及ばないほど装い、良くしてくださる神がいます。その神の大きな恵みを、今、贖われている途上にある私たちは忘れやすい。ですから使徒ペテロも[vii]、パウロも[viii]、装いを飾ることに慎み深くあれ、と言います。見えるすべてをお造りになった、見えない主よりも、造られた見える輝きに心を奪われやすい。しかし、神よりも物、金で買える豪華さ、人間の力で手に入れられる美しさに、自分の価値を置こうとするなら、つまり、物や美しさを「神」としてしまえば、決して満たされることはありません。18節から23節のリスト、これ、全部を一度に羽織ったのでしょうか。とっかえひっかえ身に着けて、それでも飽き足らず、新製品、流行り物、もっと高価なものを買っていたのかも、と想像します。もし、輝かしさや美しさ、外見に自分の価値を持とうとするなら、素の自分を無価値で醜いとしか思えない泥沼になります。そのためには貧富の問題も後回しになり、戦争さえ引き起こし、最後には必ずすべてを失うことになります[ix]

そんな生き方が美しくも価値があるはずもありません。しかしイエスは譬えで明言しました。そんな間違った夢に全財産を使い果たし、ボロボロの無一文になって、いや悪臭をプンプンさせ、恥辱の烙印を押された息子をも、走り寄って抱きしめ、口づけして、一番良い着物を着せて、なお費用を惜しまず、大宴会で迎える。それが、父なる神の愛だと[x]

14節で触れたように「ぶどう畑」という象徴をイザヤは繰り返します。イエスが

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です

と教えた時、このイザヤ書のぶどう畑を下敷きにしました。その葡萄の木と枝に準えてイエスが教えたのは

わたしの愛に留まりなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい

でした[xi]。飾りで装った人が高ぶって貧しい人を見下す、そういう考えとは全く違う生き方を、イエスは初めてられたのです。

「造り主なる神。すべての美しいもの、輝き、良いものは御手の業、あなたのもの。私たちを楽しませ、装われる恵みを称えます。その良い物を、我が物としようと貶め、歪め、互いを愛するよりも比べ、妬み、競う罪を、あなたが終わらせる厳粛さに震えます。私たちの服や好みがあなたを褒めたたえますように。そして、それらが廃れ、すべて失われても、主イエスのゆえに、あなたの愛が私たちを輝かせます。主の眼差しをもって鏡をも人をも見させてください」

[i] イザヤ書における「ぶどう・ぶどう園 כֶּרֶם 」

[ii] 韓国のキリスト者で、事故で大火傷を負った女性、イ・チソン教授の話を参照。https://www.manza.co.jp/show/culture_heaven/20090602jisunlee.html 彼女は現在、梨花女子大学の社会福祉学教授をしているそうです。火傷事故から23年ぶりに母校に、 梨花女子大学がイ・ジソン氏を教授に任用。韓国語記事としては、https://www.joongang.co.kr/article/25144020 、https://www.chosun.com/national/national_general/2022/08/06/H2342CDTF5EK7GIQXOV5OMIKPA/ などあり。

[iii] 飾りתִּפְאָרָהティパーラー 勇気、栄光、輝き、誇り。用例は以下の通り:

3・18 その日、主はもろもろの飾りを除かれる。足飾り、髪の輪飾り、三日月形の飾り物、

4・2 その日、主の若枝は麗しいものとなり、栄光となる。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなる。

10・12 主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げるとき、アッシリアの王の思い上がった心の果実、その高ぶる目の輝きを罰せられる。

13・19 こうして、諸王国の誉れ、カルデア人の輝かしい誇りであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼしたときのようになる。

20・5 人々は、クシュを頼みとし、エジプトを誇りとしていたゆえに、打ちのめされ、また恥を見る。

28・1 わざわいだ。エフライムの酔いどれが誇りとする冠、その麗しい飾りの、しぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの、肥えた谷の頂にある。

28・4~5 肥えた谷の頂にあってこれを麗しく飾る花もしぼみ、夏前の初なりのいちじくの実のようになる。だれかがそれを見つけると、すぐに手に取り、吞み込んでしまう。5 その日、万軍の主は、民の残りの者には輝かしい冠、栄えの飾り輪となり、

44・13 木で細工する者は測り縄で測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の立派な姿に仕上げて、神殿に安置する。

46・13 わたしは、わたしの義を近づける。それは遠くはない。わたしの救いが遅れることはない。わたしはシオンに救いを、イスラエルにわたしの栄えを与える。」

52・1 目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ、シオンよ。あなたの美しい衣をまとえ、聖なる都エルサレムよ。無割礼の汚れた者は、もう二度とあなたの中に入っては来ない。

60・7 ケダルの羊もみな、あなたのもとに集まり、ネバヨテの雄羊は、あなたに仕える。これは受け入れられ、わたしの祭壇に献げられる。わたしは、わたしの輝かしい家をさらに輝かす。

60・19 太陽はもはや、あなたの昼の光とはならず、月の明かりもあなたを照らさない。主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの輝きとなる。

62・3 あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。

63・12 その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分けて、永遠の名を成し、

63・14 谷に下る家畜のように、主の御霊が彼らを憩わせた。このようにして、あなたはご自分の民を導き、ご自分のために輝かしい名を成されました。

63・15 どうか、天から見下ろし、ご覧ください。あなたの聖なる輝かしい御住まいから。あなたの熱心と力あるわざは、どこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか。

64・11 私たちの聖なる美しい宮、私たちの先祖があなたをほめたたえたその場所は火で焼かれ、私たちが宝とした所は、すべて廃墟となりました。

イザヤ書における「飾り・輝き」תִּפְאָרָהティーラー )

また、ティパーラーの語根 פָּאַר パールの用例は以下の通り:

10・15 斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができるだろうか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができるだろうか。それは、むちが、それを振り上げる人を動かし、杖が、木ではない人間を持ち上げるようなものではないか。

44・23 天よ、喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地の底よ、喜び叫べ。山々よ、喜びの歌声をあげよ。林と、そのすべての木々も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに栄光を現されたからだ。

49・3 そして、私に言われた。「あなたはわたしのしもべ。イスラエルよ、わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」

55・5 見よ。あなたが、あなたの知らない国民を呼び寄せると、あなたを知らない国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者のゆえである。主があなたを輝かせたからだ。」

60・7 ケダルの羊もみな、あなたのもとに集まり、ネバヨテの雄羊は、あなたに仕える。これは受け入れられ、わたしの祭壇に献げられる。わたしは、わたしの輝かしい家をさらに輝かす

60・9 まことに、島々はわたしを待ち望み、タルシシュの船は真っ先に、あなたの子らを遠くから運んで来る。彼らの銀と金とともに。それは、あなたの神、主の名のため、イスラエルの聖なる者のためであり、主があなたを輝かせたからである。

60・13 レバノンの栄光は、もみの木、すずかけ、檜も、ともに、あなたのもとに来て、わたしの聖所を輝かせる。わたしは、自分の足台を栄光あるものとする。

60・21 あなたの民はみな正しい者となり、永遠にその地を所有する。彼らは栄光を現す、わたしが植えた枝。わたしの手で造ったもの。

61・3 シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。

イザヤ書における「輝かす・栄光を現す」  פָּאַר パール

[iv] 61・3(シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。)、エレミヤ書2・32(おとめが自分の飾り物を、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れた。その日数は数えきれない。)、ゼカリヤ書3・4~5(御使いは、自分の前に立っている者たちにこう答えた。「彼の汚れた服を脱がせよ。」そしてヨシュアに言った。「見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。)

[v] 「古代のファッション・デザイナー 聖書を読んでいくと、そこに登場する女性の多くが「ファッション・ビジネス」に関わって いることに驚かされる。たとえば、箴言三一章の「真珠よりもはるかに尊い・・・・・・しっかりした妻」(一〇節)。この女性は暗いうちに起き、家の者に食事を整え、貧しい者を助け、畑を買い 入れ、ぶどう畑を作り(一五、一六、二〇節)、家庭とビジネスの両方を切り盛りしていた。また優れたシェフで、「商人の舟のように、遠い所から食糧を運んで来」た(一四節)。だが、ここで一番コメントが多いのは、衣服についてである。「羊毛や亜麻を手に入れ、喜 んで自分の手でそれを仕上げ」(一三節)、「糸取り棒に手を差し伸べ、手に糸巻きをつかむ」 (一九節)。明らかに彼女は、どの材料を買い、どのように糸をまいて織っていくのかを知って いた。彼女の作るものは、ただ機能的というだけではなく、人目を引くほど美しかった。「家 の者はみな、緋の衣を着てい」たので(二一節、新改訳脚注参照)、雪の降るような寒さでも安 心していた。高価な緋色の染料を、彼女は苦労して手に入れたに違いない。また、「自分のための敷き物を作り」とあるように、寝室のインテリアにも気を配った。彼女のワードローブは、 今ならラルフ・ローレンに匹敵するセンスだった。いや、基調色が深紅色という大胆さに、ラ ルフ・ローレンも驚いたかもしれない。「GQ」誌が取材に来て、「スカーレット・気品ある女 性の世界」というタイトルで記事を組んだだろう。カメラマンは、最高級の染め物である「麻布と紫色の撚り糸でできている」(二三節) ドレスを着てほしいと頼んだだろう。 また「彼女は亜麻布の着物を作って、売り」とあるように、衣料品の生産販売をしていた。しかもそれは、ただ、隣近所の人に分けていたのではない。「帯を作って、商人に渡す」(二四 節)とあるように、本格的なビジネスだった。

この妻には、上記のような手腕よりも、さらに大切な資質があった。それは、主を恐れていたことだ(三〇節)。「麗しさはいつわり。美しさはむなしい」。だからこそ彼女の品位、知恵、そして信仰こそが何にも勝って大切なのだ。にもかかわらず、彼女のファッションのセンスは、 神から与えられた素晴らしい賜物として、その他のいろいろな能力と共に詳しく述べられ、高 く評価されている。」(ポール・マーシャル『わが故郷、天にあらず この世で創造的に生きる』(島先克臣訳、いのちのことば社、2004年)170〜172ページ

「クリスチャン・クチュール さて、では服装という分野では、いっさい何の制限もないのだろうか? 有り金すべてをはたいて、最新流行のスーツを買い続けてもよいのだろうか? ファッションショーにいつも出 入りして、『GQ」誌や『ヴォーグ』誌を定期購読すべきなのか? 答えを一言で言えば、ノ ーである。もし私たちがそうするならば、クリスチャン文化とクリスチャンのファッションのあり方の本質からずれることになる。

第一に、服装(メイク、アクセサリー、シェイプアップのための運動も)は、一つの偶像になり得る。それに執着し、とりつかれたようになる。プライドの原因にもなる。だから聖書は、 そのような虚栄心を表す装飾品に対しては、非常に批判的なのだ。ペテロは当時の女性たちに こう語った。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面 的なものではなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです」(Iペテロ三・三 四)。同じ原則が男性にも適用されている(詩篇一四七・一〇―一一、イザヤ三・一六一二六、マタイ二三・一―一二)。

だからといって、素敵な服装や魅力的な髪型、その他の身だしなみを聖書が禁じているわけ ではない。ここで問われているのは、その背後にある心の姿勢だ。人に振り向いてほしいから 着飾って教会に行くのか、それとも、まるで賛美をもって神を喜び礼拝するように、身に着け ているものをもって神を喜び礼拝するのか。教会でも職場でも、ショッピングモールや会議で も、私たちの身だしなみの動機は何なのだろうか。それが問われているのだ。 またニューヨークやロサンゼルス、ミラノの最新ファッションを追いかける必要もない。それらは堕落している可能性があるし、人間を堕落させるものであるかもしれない。九〇年代半ばに流行した娼婦スタイルや麻薬中毒者ルックが、神の国を表しているとは思えない。私たちは独自のあり方を求めることができるはずだ。クリスチャン・ファッションなるものを創り出 せるかもしれない。笑わないでほしい。もしスラム街の野球帽やグランジ・ロック歌手の服が トレンドになるなら、私たちにできないとは言えまい。

服装には、また別の面がある。それは、お金と時間だ。世界には、飢えている人が大勢いる。 私たちの町にも、いろいろな深刻な問題がある。教会にも様々な必要がある。服(食事も本も) が良いものだからといって、持ち金全部をそれにはたいてよいということではない。私が気に入っている方法は、リサイクルショップに行くことだ。私の一番良いスーツはアルマーニだが、買った時は、ほんの二回着ただけの品で値段は安物の新品より安かった。仕立て屋のフランク が二十ドルで直してくれ、世界中のどの会議にもセンス良く出席している。

ここで一番大切なのは、聖書の精神を見極めることだ。これ見よがしに派手なものでもなけ れば、着られればいいという冴えないものでもない。私たちの生き方、身づくろい、服の生地 や色、形を通して、神の造られた世界の豊かさを祝い、神が与えてくださった想像力を表現し たいというあふれるばかりの思いを外に表す。それが、私たちのファッションなのだ。だから、 クリスチャンのファッションへの姿勢というのは、浪費的でもなければ、しみったれたもので もない。イスラエルの民の生活が、質素な日常とお祭りとの見事なバランスだったように、私 たちは倹約と、お祝いの両面を学んでいく。出費を抑えるのに時があり、使うのにも時があるのだ(イザヤ六一・一〇——一一参照)。」(同176〜178ページ)

[vi] マタイの福音書6・29~30。

[vii] Ⅰペテロ3・3~4・あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。4むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神のみ前で価値あるものです。

[viii] テモテへの手紙第一2・9~10・同じように女たちも、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪型や、金や真珠や高価な衣服ではなく、10神を敬うと言っている女たちにふさわしく、良い行いで自分を飾りなさい。

[ix] デイビッド・フォスター・ウォレスは言いました。「お金やモノを崇拝し、そこに生きる意味を見いだそうとすれば、いつまで経っても満足することはありません。これは事実です。自分のカラダや美しさ、性的魅力を追い求めれば、自分の醜さに苦しみ、死神がやってくる前に何度も心の死を経験することでしょう。」ケニオン大学の卒業式スピーチ「This is water」より。

[x] ルカの福音書15・11~24の「放蕩息子の譬え」を参照。

[xi] ヨハネの福音書15・1~12。