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2025/1/5 ヨハネの福音書21章20〜節「あなたに関わりがあることは」

ヨハネの福音書の結びです。前回19節でイエスが言った

「わたしに従いなさい」

が22節でも繰り返されます。

「あなたはわたしに従いなさい」

の御声がヨハネの福音書を結ぶ主題(テーマ)です。それを引き出したのは、ついて来なさいと言われたペテロが、余所見(よそみ)をしてした質問でした。

20ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄り掛かり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。21ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。

イエスはペテロに15~19節で個人的に語りました。「わたしを愛していますか」「わたしの羊を飼いなさい」と三度、そして、望まない形での死を予告されました。その上で

「わたしに従いなさい」

と言われた、その言葉をペテロは受け取った。しかしそこでふと振り向くと、もう一人の弟子が目に留まる。彼には何と言うだろう? 彼の使命は? 彼の最期は? 「主よ、この人はどうなのですか?」と問うたのです。これにイエスは答えます。

22イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

別の弟子への主の御心がどんなであろうと、それはあなたには何の関わりがありますか、と一蹴です。決してヨハネとペテロには何の関係もないというのではありません。この後、使徒の働きを見ると、ペテロとヨハネが二人一組であちこちに出て来ます[i]。主の教会を牧する働きに任じられたパウロは決して「他の人は関係なく、独り主に従えばいい」ではないのです。ただ、その教会の人々、同僚、一人一人に主が望んでいることが何であろうと、それは本人でないペテロには何の関わりがありますか。私たちは主の民として互いに関わりがあります。愛し合い、仕え合う体の部分です[ii]。ただ、それぞれに主が持っているご計画、経験や将来、その人と主との関係は、本人と主だけのもの、他の人には関わりないことです。それを踏まえず、人の事を詮索したり、比べてやっかんだり、スキャンダルやプライバシーを云々するのは、全くの余計なお世話です。しかしこの詮索好き、噂話や興味本位がヨハネの福音書の締め括りで釘を刺されるポイントです。「ナルニア国年代記」も、この主の言葉を踏まえて「それはあなたの話ではない」と窘(たしな)める箇所があって、今日の結びが実は大きな洞察だと思い起こさせてます[iii]。私たちの会話、見ているテレビや情報、「祈りの課題の共有」という名目でしていることはどうでしょうか。自分には関係ない他人の情報は極力慎み、スイッチを切りましょう。しかしそんなお喋りをやめることがゴールではありません。最も肝心なのは

「わたしに従いなさい」

イエスに従うことです。22節には「あなたは、わたしに従いなさい」と、他ならぬあなたへの言葉として強く言われます。噂話や無用な好奇心を警戒されるのは、主に従うことを妨げるからです[iv]。神の子であり良い羊飼いである方、いのちのパンであり世の光である方、世を裁くのでなく、救うためにいのちを捨てて、よみがえって平和を告げられる、そのイエスに目を注ぎながら生きること。そしてイエスが愛し仕えてくださったように私たちも愛し合い仕え合うこと――それが、イエスに従う羊の生き方、この福音書が語って来た「いのち――永遠のいのち」でした。ペテロとヨハネはしばらくともに活動しますが、やがてそれぞれ違う道に召されていきます。同僚であれ夫婦や親子であれ、私たちは違う人生、別の使命、一人一人への特別な御心を生かされます。その違いを受け入れることから、他者を愛することが始まります[v]。人は人、自分は自分、立ち入れない境界線があることが、愛するスタートなのです[vi]

しかしそのイエスの言葉でさえ、新たな噂話を教会の中に広めてしまいます。

23それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。

24これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。

その弟子はヨハネだと伝えられてこの福音書は「ヨハネの福音書」と呼ばれます。「私たち」とはヨハネの弟子たちで、ヨハネの死後、その証言を弟子たちがまとめた面もあるでしょう。ヨハネは紀元1世紀の末まで生きて、最も長生きをした使徒です。それが彼が死なないという噂に拍車をかけたのかもしれません。ヨハネは、どんな思いだったのでしょうか。

主のことばが正しく伝わらないもどかしさもあったでしょう。不死身だと思われる、嬉しくもない色々な体験も重ねたかもしれません。それと共に、ヨハネが「死なない」という発想は、イエスが下さる「永遠のいのち」を、不老不死・永久の長寿という程度で考えている現れでしょう。ただ時間がいつまでも続くだけの「死なない」ことを、イエスが豊かに示してくださったいのちとすり替えて求めてしまう。そんなものではない。だからヨハネはこの福音書を書いて、イエスがどんな方か、どんないのちを下さるか、自由、愛、栄光、仕えること、平安、赦しなど生き生きと証ししてきて、最後でこの誤解をあっさり流したのだろうと思います。

もう一つ、ペテロの質問に対してイエスが窘めて

「あなたに何の関わりがありますか」

と言った言葉は、ヨハネからしたら、イエスが自分を守ってくれた言葉でしょう。イエスはペテロを見て諭すとともに、その背にヨハネを庇(かば)ってくださった。イエスはペテロを見て諭すとともに、その背にヨハネを庇(かば)ってくださった。あなたのことはあなたのこと、他の人が境界線を踏み越えてあれこれ聞いて来るとしても、わたしはあなたを守る。その守るための言葉さえ人は誤解して、またあることないことを言うとしても、気にしなくてよい――わたしも誤解されてきた――。ただ大事なのは、他の人がどうではなく、わたしに従いなさい。

人のプライバシーに嘴を突っ込んだりしない、という道徳ではありません。一人一人が主に従うこと、それもヨハネが証した主、私たちを守り、一人一人それぞれに違う人格・人生を備えて関わられる主、人の噂からも人を噂する愚かさからも守り、羊飼いが羊を導くように守り、羊のためにいのちを捨てた主――この主イエスに従うよう、ヨハネは招いています。ここまで語ってきたイエスの偉大さ、素晴らしさに与るためには、小さな覗き見趣味、境界線を踏まえない好奇心が取り扱われる必要があります。そして、そこからイエスは変えてくださいます。

25イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

これは確かに大袈裟な表現かもしれません。当時多用された、膨大さを伝える、似たような言い方の一つでしょう。しかし、他にもたくさんあったのです。イエスに出会った人、従う者とされた人、奇蹟も癒しもあったでしょう。また、ヨハネにとって、ペテロの質問を却下してくれたことも、イエスの「行われたこと」として小さくはなかった。そうしたたくさんの、イエスの配慮とみわざに軌道修正をしていただきながら、主に従ったヨハネが、ここに証しをしたのが、ヨハネの福音書です。それがヨハネの直筆か、死後に弟子がまとめたのか、「ほかにもたくさん」ってどんなことがあったのか…。どうであれそれは、私たちに何の関わりがあるでしょうか。私たちに関わりのあるのは、ヨハネが証ししてくれた主イエスを知り、この主に従うことです。主に導かれ、主がしてくださったように、違う互いを愛することです。そういう御業を主は今も続けています。私たちも世界に溢れていく、主のみわざの一つとされるのです[vii]。「ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。」(Ⅰサムエル12・24、2025年年間聖句)

「神の御子、私たちの羊飼い、惜しみなくいのちを捨てて、私たちを贖われた主よ。私たちを、滅びから、罪から、恐れから、そして余計な好奇心や誤解からも救ってくださることを感謝します。大いなることをなさったあなたを見上げる一年が始まりました。どうぞ私たちの唇も思いも、互いを尊び、愛するものとしてください。只今から聖餐に与ります。裂かれたパンと一つの杯により、主の愛を思わせてください。そしてあなたに従うことに引き戻してください」

ヨハネが晩年に流刑とされたパトモス島。

[i] 使徒の働き3・1~4・23、8・14~25。また、ルカ22・8も。

[ii] イエスに従うとは、難行苦行をしたりキリスト者として立派な人生を頑張って送る、ということではありません。かつてそんなことを考えていたペテロにイエスは言いました。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」(ヨハネの福音書13・37)。ペテロは今、自分のプライドが砕かれる大きな挫折をし、そこで初めて主に出会い、主に従うことが出来るようになりました。

[iii] C・S・ルイスの「ナルニア国年代記」で、イエスの言葉が下敷きにされている、主な個所は以下の通り:「いとしい者よ。」とアスランが、まことに静かにいいました。「あなたも、あなたのきょうだいも、ナルニアへたちもどることはないだろう。」「ああ、アスラン!」エドモンドとルーシィとが、いっしょにうちひしがれた声をあげました。「わが子たちよ、ふたりとも、年をとりすぎたのだ。」とアスランがいいました。(中略)「では、ユースチスも、ここにはもうもどってこられないのですか?」とルーシィ。「わが子よ、」とアスラン。「ほんとうにそれを知る必要はあるのかね? それよりも、さあ、天空に入り口をひらこう。」(C・S・ルイス『朝びらき丸東の海へ』(瀬田貞二訳、岩波少年文庫、1985年)345~346ページ)、「「それじゃ、アラビスにけがをさせたのもあんたですか?」「わたしだ。」「でも、なぜ傷を負わせたんです?」「いいか、」とその声はいいました。「いまわたしが話していることは、あの子のことではなくて、あんたのことだ。わたしは、そのひとにはそのひとだけの話しかしないのだ。」「あなたは、いったいどなたです?」とシャスタはたずねました。「わたしは、わたしだ。」その声は、たいそう深く低い声でいったので、地面がふるえました。そしてつぎに、「わたしだよ」とすんだ明るい大声でくりかえしました。そしてさらに、三度めに、「わたしさ。」とほとんどききとりにくいほどやわらかく、しかも木の葉をさらさらとならして、まわりじゅうからきこえてくるようにささやくのでした。」(C・S・ルイス『馬と少年』(瀬田貞二訳、岩波少年文庫、232~233ページ)、「わたしのせいで、あのむすめにもっと悪いことでもおこりましょうか?」「わが子よ、」とライオンがいいました。「わたしはあんたの話をしているのだ。あの娘のはなしではない。わたしはだれにでも、その人自身のはなししかしないのだよ。」(前掲書、283ページ)

[iv] 人が誰であれ自分以外の人に対して、不必要な関心を持つと、主が与えた交わりを建て上げることは阻害されてしまいます。エデンの園の最初から、神は人を男と女という大きく違う、別人格同志として創造されました。その違いは比べたり優劣をつけたり出来るものではなく、別人格だからこそ境界線を大事にして、尊び合い、愛し合うことで、神ご自身の交わりに近づけられていく、尊重すべき違いです。しかし、人が神から離れた時、人は自己中心になり、違いをも歪んだ受け止め方をするようになりました。十戒の結び、第十戒は「隣人のものを欲しがってはならない」と、心の中で隣人のものを自分のものとしたがる傾向を戒めています。

[v] 国際協力の現場で長く働いてきた柳沢美登里氏は、「社会・文化とキリスト者の成熟」をテーマにした論集で次のように述べています。「この「神の国」建て上げに欠かせないのが「隣人愛」だ。自分の文化基準で読み込みやすい「隣人愛」を、イエスはどのように実践しただろうか。イエスの他者との関係を見ると、日本社会の理解とは異なる「隣人愛」の姿が浮かび上がる。第一に、隣人の願いだと思い込み「至れり尽くせり」行った挙句、行う側は疲弊し、受け取る側は困惑・依存する悪循環に陥るものではなかった。また、イエスは一人一人がその人に備えられた異なる認識や感性があると理解し、他者の尊厳を認め、日本人にはまどろっこしく聞こえる「治りたいか」と問いかけられた。「他者」の尊重は、始めに相手は自分とは異なると認識することから始まる。「自分自身のように隣人を愛する」とは、「あなたと私は違います。私はあなたとは違う存在として大切にされたいので、私と違うあなたとして尊重します。」と関わるものと思える。「違い」を強調されると疎遠に感じる日本人にとって、この「違い」は神が造られた証しであり、尊重の基盤だと意識することは重要だ。…「国際協力」という多様な文化が交錯する場で、日本人が「秩序尊重」に重きを置くことで一致が保たれる一方、キリスト教組織でも説明責任より和を重んじ、組織での権威濫用が明らかにされない状況に陥りやすいことを思い知った。「和の重視」の裏にある弱点だ。」、柳沢美登里「キリスト者と共同体の成熟」『福音主義神学 53 社会・文化とキリスト者の成熟』(日本福音主義神学会、2024年)、12~14ページ。

[vi] 「神の問いかけナチスの強制収容所のガス室で殺されたユダヤ人は、私たちより罪深かったのでしょうか。ガテマラのマヤ先住民は、軍隊によって誘拐され、拷問を受け、処刑されましたが、彼らはどうでしょう。餓死してしまった数百万のアフリカの人々は・・・・・・?そして、虐殺に加わった人々はどうなのでしょう。 これらの問いは下からのものです。誰が良くて誰が悪いかを見分けたいとき、こうした問いが湧き上がってきます。これは、天からの問いではありません。それは、神が問われることではありません。神は人間のわずかな違い、ましてや他人をあれこれ断定することを求めていません。 神からの私たちへの問いは、「この時代のしるしを、あなたの悔い改めと回心を促すしるしとして見分けていますか?」ということです。何よりも肝心なことは、兄弟姉妹の言語を絶する苦悩を通して、あらゆる傲慢、またあらゆる裁く心と非難の思いから解放され、イエスのような柔和さと謙遜さが身につくよう心から願っていますか、ということです。私たちは、他人についてあれこれ考えるのにたいへんな時間を費やします。周りの人や遠くの人について、くどくど意見を交換して心を乱し、変えねばならないのは何よりも自分の心であり、また変えることができるのは自分の心以外にない、という真理を無視してしまいます。 私たちは何度も繰り返しこう言います。「彼についてはどう?彼女についてはどう?」。イエスが私たちに語ることは、かつてヨハネについて尋ねたペテロへの返答と同じです。「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21.22)。」『ナウエンと読む福音書』、79〜80ページ

[vii] 「読者よ。私は今あなたの前に、神の御子にして、御父により、永遠にして言い表すことのできない時に生れ、すべてのことにおいて御父と同質にして同格、しかしこの終りの時に預言的託宣により、私たちのために受肉され、苦しみを受け、死に、死人のうちよりよみがえり、王とされ、すべてのものの主とされた、あなたの救い主であり主であるイエス・キリストを差し出す。この方こそ、恵みとまことに満ちた方、世の罪を取り除く神の小羊、天へのはしごと門、罪の毒を消す上げられた蛇、渇きをいやす水、いのちのパン、世の光、神の子どもたちの贖い主、羊飼い、また羊の門、よみがえりといのち、多くの実を結ぶ一粒の麦、この世の君の征服者、道であり真理でありいのちである方、まことのぶどうの木、そして、あらゆる時代を通して全世界のすべての忠実な信者の贖罪、救済、義として、御父により定められ、私たちに与えられた方なのである。それゆえ、父なる神に祈り、福音によって教えられ、真実な方として主を知り、この方にのみ救いがあることを信じ、信じることにより、この世界にあって神が私たちのうちに生きておられることを感じ、来るべき世において主の永遠にして最も祝福された交わりを楽しむようになろうではないか。」ブリンガーによるヨハネの福音書注解の結びの言葉(ライル、4、534ページより)。