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2025/12/7 イザヤ書28章14~29節「奇しい摂理は目の前に」

明日から12月、来週からアドベントに入りますが、今日も読みますイザヤ書は、クリスマスではなく、アッシリアの大軍の訪れを告げての警告を語っています。紀元前8世紀末、イスラエルの国に、北からのアッシリア帝国の侵略軍が迫っていました。しかし、アッシリアの脅威に重ねながら、イザヤが一番伝えたいのは、神である主に会う備えをせよという事です。神の民であることに胡坐をかかず、間違いを認め、悔い改めることです。

その悔い改めるべき間違いを14節で「嘲る者たちよ」と呼び掛ける言葉からうかがえます[i]。前回28章の前半で、酔いどれとかふらつくという表現、9節の「赤ちゃん」扱いする馬鹿にした態度を見ました。イザヤの言葉をおちょくり、神の招きを笑っていました。その態度が

それゆえ、嘲る者たちよ。

と言われるのです。具体的には15節の通り、エジプトと同盟を結んだので、アッシリアだろうと洪水だろうと押し寄せてきてもへっちゃらだ、と思い上がっていたようです。また

…まやかしを避け所とし、偽りに身を隠して来たのだから。

という言葉は、これまでも口先三寸でうまく立ち回って来たんだ、これからだってうまくやるさ、という思い上がりが見て取れます。しかし、

16それゆえ、神である主はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。17わたしは公正を測り縄とし、義を重りとする。雹はまやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。

と言われます。

この最後の「まやかしの避け所…隠れ家」が15節最後とかぶっています。嘲る者たちが豪語していた安全など、雹と水とで押し流されてしまうのです。更に18節でも

あなたがたの、死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。みなぎる天罰が押し寄せると、あなたがたはそれに踏みにじられる。…

と重ねられて、彼らの計算が何の役にも立たない。それは、

20まことに、寝床は身を伸ばすのには短すぎ、覆いも身をくるむには狭すぎる。」

 短すぎるベッドや幅の足りない毛布で寝るのが、どんなに寝辛いか、経験がありますか?

 21節に「実に、主は起き上がられる。…」と言って「ペラツィムの山…ギブオンの谷」と続くのですが、これはⅡサムエル5・20[ii]とヨシュア記10・10~11[iii]に書かれている出来事で、そこにイスラエルの敵が破られた様子が「雹の石で」とか「水のように」とあるのです。しかし、主は今、イスラエルの敵にではなく、イスラエルに雹を降らせ、水で押し流すように、彼らの高慢ちきな態度をへし折る――というのです。「そのみわざは不可思議。その働きは意外。22だから今、あなたがたは嘲ってはならない。」神の力やさばきを小さく侮って嘲ることは実に愚かですし、その神の前に小さく当てにならない人間の力や知恵に安住することも愚かです。

少し戻って16節

「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。」

これは、新約聖書で引用されます。招詞のⅠペテロ2・6とローマ9・33です。

見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」[iv]

イザヤが語っていた「一つの石」とは主イエスの事だ――他のものはどれも、絶対当てになると思ってもまやかしでしかないのとは違い、主イエスこそは決して失望させられることがない頼るべき岩だ――これが、イエスが来て、いのちを献げてくださって以降、教会が歌い上げている告白です。それも、冷たく、堅いだけの岩ではない、むしろイエスは、神の子でありながら人となり、温かい肉、弱さや痛みを知る人間となりました。「試みを経た石」とある通り、苦しみや誘惑を味わい尽くしました。まやかしや偽りが罷り通る世界で、嘲られ、傷つき、いのちを献げてくださったイエスです。ご自分に信頼する者を、決して失望に終わらせないお方――そう言われていたのは、イザヤの時代から700年後に来る/来てくださった、イエス・キリストである、というのが、新約聖書で繰り返される告白です。それは、頼りになりそうなエジプトや、自分たちのまやかしや知恵を過信して生きるよりも、遥かに信頼に足る土台です。

 この主の確かな、そして私たち一人ひとりをよく知って、養い育て、取り扱ってくださることが豊かに示されるのが、畑の譬えを語る23節以下です。

23あなたがたは、私の声に耳を傾けて聞け。私の言うことを注意して聞け。24農夫は種を蒔くために、いつも耕してばかりいるだろうか。土地を起こし、ならしてばかりいるだろうか。25その地面をならしたら、ういきょうを蒔き、クミンの種を蒔き、小麦を畝に、大麦を定まった場所に、裸麦をその境に植えるではないか。

農夫が畑をずっと耕し、鍬で土を起こしてばかり…ではなく、畑を均ならし終えたら種を蒔きますよね。その種も、何の種かによって蒔き方を選びます。茴うい香きょうはフェンネルと言った方が分かる方もいるでしょう[v]。クミンも香辛料としてスーパーでも見かけるものです[vi]。料理に入れるため、小さな種をザっと蒔きます。小麦は畝に、大麦はまた定まった場所に蒔き、その間には「裸麦」――スペルト小麦とも呼ばれる、小麦大麦よりも雑な麦[vii]――を植えます。こうした農業の知恵は紀元前8世紀にはもうありました。これを

26農夫は厳しく指導され、彼の神は彼に教える。

と言います。人が農業や植物、自然についての知恵を持つのも、神がそれを長年かけて教えてくださるからです。更に

27ういきょうフェンネルは打穀機で打たれず、クミンの上では脱穀車の車輪を回さない。ういきょうは杖で、クミンは棒で打たれるのである。28パンのために麦は砕かれるが、打穀をいつまでも続けることはしない。脱穀車の車輪を回すことはしても、馬がこれを砕くことはない。

茴香フェンネルもクミンも、杖や棒で打って種を落としたのでしょう。決して小麦のように脱穀車にはかけません。また小麦を馬に踏ませて台無しにもしません。米の方が身近な日本では、何でも精米機にかければいい訳ではない、と言い換えましょうか。それぞれに適した蒔き方、育て方、収穫をして、香辛料も穀物も食卓に美味しそうに出されるのです。畑をただ耕したり、どの種も同じように扱ったりはしません。

29これも万軍の主のもとから出ること。その摂理は奇しく、その英知は偉大である。

 主は、作物にそれぞれの特性を与え、それを農夫に教える方です。なのに、人間は神の業を、いつも同じように考え、薄っぺらに考えがちです。今まで大丈夫だったのだからこれからも大丈夫だろう、とか、神のご計画はもう決まっているのだから私たちが何をしようとも変わらないとか。また、主が禍を下されるならもうダメだ、全滅だ、とか。だからこそ、ここでのイザヤの言葉はそうした人間の単純化を引っ繰り返します。農夫を考えて見よ、ましてそれを教える神は、その時その時代、その人その状況に応じて、働くのだ。そして、その実を打たれる。外側の殻は取られます。罪のゆえの罰だけでなく、上辺や朽ちる殻、人間的な力や誇りは過ぎ去るのです。それは人にとって躓きでもあり、痛みも失望も伴う脱穀です。しかし打穀は滅ぼすためではない。台無しにするような砕き方はしない。一人ひとりを深く知り、その必要も問題も、本人以上にご存じの神が、奇しい摂理と偉大な英知をもって、働いてくださるのです[viii]

それは主イエスにおいて見ることができます。主はご自分に来る一人一人に、異なる言葉をかけ、違う方法で出会いました。主を信じるまでも、信じてからも、それぞれに応じた形で私たちを鍛え(精米し)、私らしさの香りを薫らせてくださるのです。人となり、悲しみや痛み苦難も試みも知る、十字架の主、そして復活の主イエスが、私たち一人ひとりの人生を導いてくださっています。私たちはその神の御業を薄っぺらに考えて、見えるわずかな所で裁いたり、決めつけたり、嘲ったりすることを強く自戒しましょう。そして、私たちの予想を遥かに超えて不可思議、意外で奇しく、偉大なご計画の中に生かされていることに驚き恐れを抱くのです。

「聖なる主、永遠の父なる神様。あなたの偉大で大いなる御業を、自分の小さな狭い理解で分かったように思い、自惚れと絶望との両極を揺れ動く私たちを恥じ入ります。そしてそんな私たちを永遠の愛で愛し、恵みと憐みを注ぎ、かけがえのない人生を下さる幸いに驚くばかりです。まやかしや嘘を、とりわけ嘲りの言葉を、強いてでも取り除いてください。あなたが私たちを通して現そうとしておられる、芳かぐわしい御業を慕い求め、主に信頼して歩ませてください」

 

[i] 14それゆえ、嘲る者たちよ、主のことばを聞け。エルサレムでこの民を治める者たちよ。15あなたがたがこう言ったからだ。「われわれは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとえ、洪水が押し寄せても、それはわれわれには届かない。われわれは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」

[ii] Ⅱサムエル5・20:ダビデはバアル・ペラツィムにやって来た。ダビデはそこで彼らを討って、「主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた」と言った。それゆえ、その場所の名はバアル・ペラツィムと呼ばれた。

[iii] ヨシュア記10・10~11:主は彼らをイスラエルの前でかき乱された。イスラエルはギブオンで彼らを激しく討ち、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダに至るまで彼らを討った。11彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主が天から彼らの上に、大きな石をアゼカに至るまで降らせられたので、彼らは死んだ。イスラエルの子らが剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。

[iv] ローマ9・30~33 それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。31しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。32なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。33「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。

同10・11 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」

Ⅰペテロ2・4~6 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。5あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して捧げる、聖なる祭司となります。6聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」

[v] 【ういきょう】 へ ケツァフ(イザヤ28・25)。ういきょうはFoenicalum vulgareと言って、畑に栽培される、せり科の宿根草である。茴香(ういきょう)精は昔からヒステリーの妙薬とされ、またその趣旨は催乳剤として用いられた。ただ、これを用いると乳はよく出るが、この母乳を飲んだ幼児が下痢を起す傾向がある。この球根をFenotioと言って、南ヨーロッパでは野菜のようにして食べる。エーゲ海のパトモス島あたりでは野生しているのが見られる。/一度、根を下ろすと大変強い植物で、毎年よく繁茂して香辛料に用いられ、あるものは「ういきょう」、あるものは「クミン」となっていても、同じような目的に用いられたようである。 『新聖書事典』157頁。
フェンネルシード/Fennel seed S&B

  • [vi] クミン(へ kammon, ギkuminon)クミンはせり科の植物である。学名をCuminam Cyminum L. と言って、香辛料として用いられた。せり科のものでは、ういきょう、クミン、キャラウェイ、いのんど等、今日でも用いられるものが多い。葉や茎が用いられた李、また種子が用いられたりする。/クミンはひめういきょう、または馬芹(まさん)とも言って、中近東一帯で広く栽培され、特にその種子が用いられる。その種子の採取法についてはイザヤ28・25-27に記されており、彼らがこの種を丁重に取り扱ったことを示している。/クミンは特にパンを焼くときに香りづけとして用いられたが、最近はクミンの代わりにキャラウェイの種子が用いられるようである。/クミンは律法により、その十分の一を宮に納めるべき品であった(マタ23・23)。 『新聖書事典』、413頁。
    クミン/Cumin S&B

[vii] 「「裸麦」は大麦の原種に近いとされる「カワムギ」の突然変異が固定したもので大麦の変種とされます。イザヤ28:25では、「小麦はうねに植え」、「大麦は定めた所に植え」、「スペルト麦」は「その境に植えられた」ようです。ここからも、「小麦」と「大麦」は畑のよい場所に植え、質の劣る「スペルト麦」は畑の境の痩せた地にに縁取りとして植えられたことがわかります。「小麦」のパンにくらべて、「スペルト麦のパン」は美味しくはなかったからでしょう。しかし、人によっては大麦のパンよりも好まれたようです。」https://smallvoice.sakura.ne.jp/sv/index.php/2023/02/06/superutomugi/

[viii] 「いわゆるシオン神学において、顕著な役割を果たすこの部分の初めから(二八―三三章)、シオンの最終的運命に関する預言者の教えは決して単純ではないと認識することが重要である。神はシオンとすべてそこに住む者をいかなる災いに対しても守ることなく、また圧倒するような災難においてもすべてを運び去るつもりはない。シオンの山と全地における神の働きは、類のないものであり神秘的である。それは同時に神の民を教えていくべきであった者たちの計画が無効であると宣言し、義人を識別することを求めるようにという、内的な論理をもつ。彼らは、わけのわからない早口言葉のようなものを除いて、神の言葉をもはや聞かないし、また神の類のない行動を理解しない。彼らはまことに重い耳、閉じた目、理解することのない心を持つ民となる(六・一〇)。」サイツ、307ページ