2025/12/14 イザヤ書29章1~14節「不思議なことをする神」第2アドベント
1ああ、アリエル、アリエル。ダビデが陣を敷いた都よ。年に年を加え、祭りを巡り来させよ。
「アリエル」と聴いて、映画「リトルマーメイド」のヒロインを思い出す方もいるでしょう。欄外に「エルサレムの詩的呼称」とあります。都エルサレムを呼ぶ、古風な呼び名です。2節の最後「祭壇の炉」も欄外で「ヘアリエル」とあります。エルサレムの神殿に祭壇があり、その上でいつも生贄が燃やされている――そこからエルサレム自体を「祭壇の炉アリエル」と呼んだのかもしれません。しかし1節の欄外でそうは書かず「エルサレムの詩的呼称」と書くのは、正確な語源は断定できないからです。その別の可能性の一つが「神の獅子ライオン」説です。獅子の強さ、威厳は聖書の中にもあちこちに伺えます。その名でエルサレムを呼んでいた、という説です[i]。そしてこの「神の獅子」の意味でのアリエルが、現代までイスラエルでも、英語圏でも子どもに名付けられることは多く、あの映画のヒロインにも使われている、というわけです[ii]。
しかし、今日のイザヤ書29章では、このアリエルの名が、皮肉な名前として響いています。ダビデの戦いという勇ましい歴史があり、年毎に祭りが行われ、生贄が山ほど焼かれていても、神である主の目に映るエルサレムは、忌まわしいものでした。アリエルの名がどんな由来であれ、実態は大違いでした。その礼拝は形ばかりで、心と生き方は主の掟から離れていました。
2わたしはアリエルを虐げるので、そこにはうめきと嘆きが起こり、わたしにとっては祭壇の炉のようになる。
エルサレム自体を燃やすべき祭壇の炉にしよう。敵を呼び寄せて包囲させ、その高ぶりを低くして、傲慢が砕かれた塵の中から語るあなたがたとしよう、と言います[iii]。主は、定例行事としての祭り、儀式、礼拝でよしとする方ではありません。生贄を献げてさえおけばいい、儀式や決りを守ってさえいれば神は宥められる――そんな歪んだ思い違いを忌避するのです。それは主が人との生きた交わりを求め、その全生活を見ておられるからです。ですから5節で急変します。
5しかし、敵の群れは細かいほこりのようになり、横暴な者の群れは吹き飛ぶ籾殻のようになる。しかも、それは突然、不意に起こる。6万軍の主はあなたを訪れる雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす火の炎をもって。
エルサレムは「塵のようになる」。しかし、それを囲む敵はもっと「細かい埃」「吹き飛ぶもみ殻」となる、と言われ、以下に続く言葉の激しさ、徹底ぶりが語られます。主はエルサレム神殿の、ただの宗教と化した礼拝を憎んで、それを終わらせるために敵に包囲をさせます。しかしその敵が、エルサレムを打ち負かそうとする野望は、夢にしか過ぎないものとして終わらせるのです[iv]。主は、御自身の民の信仰が的外れになるのを妥協なく正されますが、その民を見捨てて滅ぼし尽くすことは決してなく、却ってその裁きを通しても、御自身が神である栄光を現されるのです。この事がいよいよ、人が神である主と出会う礼拝となります。
9驚き、たじろげ。目を閉ざされて、盲目となれ。彼らは酔うが、ぶどう酒のせいではない。ふらつくが、強い酒のせいではない。10主はあなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、預言者というあなたがたの目を閉ざし、先見者というあなたがたの頭をおおわれた。
これを言われるのは、1節からの続きで「アリエル」エルサレムの民でしょう。驚け、とは言われますが、気付け、悟って悔い改めよ、とは言われない[v]。「盲目となれ」であり、主が眠りの霊を注ぎ、預言者や先見者という目(主の事を見せてくれる存在)を閉ざした、というのです。主が彼らの心を鈍くした。だから11節では「封じられた書物」という言葉で、主の言葉と、民の理解とがどうしようもなく通じない、理解不能な関係となることが描かれます[vi]。
この原因は、主から言わせると、そもそも民の側の問題、罪の故でした。
13主は言われた。…それは、この民が口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れているからだ。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことである。
口先で、唇で、礼拝をしている。讃美や祈りを捧げている。けれどもその心は主から遠く離れている。その民の選択のゆえに、主が民の目を閉ざしている、というのです。
ここで言われるのは、もっと熱心に礼拝をせよ、もっと心から信仰に励め、ではありません。それは、主への恐れではなく、人間の命令から出る発想です。イザヤ書の後、主の厳しい裁きを経たイスラエルの民は、猛反省して、偶像崇拝を徹底的に退け、律法を字義通り守ろうとします。戦争中でも安息日を死守し、異邦人とは食事を一緒にせず、きよく生きようとしました。特に熱心な人々はパリサイ人と呼ばれ、厳格に律法を守る禁欲主義者となります。それが主イエスが来られた一世紀の社会でした。その時の様子が分かる箇所の一つが、マタイ15章です。この時パリサイ人は、食事の時に手を洗う儀式をしないと、イエスを問い詰めました。その時、イエスの答えの中で、今日のイザヤ書29章13節が引用されます。
7偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。8『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。9 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」[vii]
イエスはパリサイ人たちが、手を洗って俗世の汚れをきよめるという人間の規律は几帳面に遵守するのに、父と母を敬うことは神への誓い程重要ではないとしたパリサイ的信仰を非難しました。更に、手を洗うかどうかより心が「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしり」を出す、元凶だと教えます。その汚れた心は隠して、神を熱心に拝んで正しそうに振舞ってさえいれば、私は大丈夫、親や他人は蔑ろにしていい、とは「自分たちの言い伝え…人間の命令」であり、主の心とは遠いのです。誰かを愛するなら、自分の方を向いている時だけ良い顔を求めることではないでしょう。他の人に対してビクビクしたり嘲ったり怒っている、一人の時の涙や疲れ、夜にうなされている――そうした全生活に現れた心が、正直になり、癒されて、健やかになることを願うでしょう。それを人は間違ってしまう。しかしこれは、人間の心の問題と、主ご自身のさばきの両面であって、人間の努力や心がけでどうにかなるものではありません。イザヤ書29章でもこう続くのです。
14それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び、不思議なこと、驚くべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」
主ご自身が「不思議なこと、驚くべきこと」をなさる。これこそが私たちの希望です。そしてこの言葉も、新約聖書で引用されています。Ⅰコリント1章19節です。18節から読みます。
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
こうイザヤ書を引いてパウロが言うのは主イエス・キリストの十字架です。自分が賢い、正しい、分かっているという人は決して知ることができない十字架こそ、神の力、神の知恵です。神の子キリストが、最も卑しくなり、ご自分のいのちを十字架に捧げました。それによって私たちは、神の子どもとされました。「悪い考え」や汚れた心を秘めたまま、正しさや儀式や熱心さで取り繕う宗教――人間の命令――とは全く違う、神ご自身からの不思議に与ります。十字架のキリストの恵みを知り、またその力によって、神の愛を戴き、神を愛し、また他者を愛するよう変えられていく。その福音への伏線が、今日のイザヤの言葉の「驚くべきこと」です。
主は人間の教えを守る宗教生活から救い出し、全生活の王、慰め主、救い主となる神です。この不思議な神こそ礼拝するのです。私たちが何をするかでなく、神が何をしてくださったか、今何をしておられるか、そして将来何をしようとしておられるか――それが聖書の主題テーマです。そして、それゆえに今私たちの生き方、心の考え、人との関わりも深く変えられるのです。
「私たちの礼拝する神。あなたが求めるのは多くの犠牲や口先の美しい言葉ではなく、真の礼拝であり、私たち自身です。私たちがどんなに鈍く頑なでも、あなたが私たちを愛し、厳しくとも諦めることなく、御心に近づけたもう恵みを感謝します。その証しである、不思議な、十字架の福音を感謝します。飼葉桶に来られた主が私たちの心にもおいでください。そして私たちにも、あなたと人への愛を、諦めない心を与え、真の礼拝者として今週を歩ませてください」
[i] 「アリエルの正確な意味については依然として議論が続いています。基本的に3つの説があります。(1) urusalima(「サレムの町」(エルサレム))の異形であるuruel(「エルの町」(キサネ))。しかし、uru-からari-への変化は言語学的に容易に説明できません。 (2) 「神の獅子」は、ユダが獅子であること(創世記49:9)、獅子の王座(カイザヤ上10:19, 20)、そして貪り食う獅子(イザヤ31:4。サムエル記下23:20、歴代誌上11:22も参照)への言及によって裏付けられている。しかし、直接の文脈にはこの訳出を支持するものは何もない(チェイン、デリッチ)。(3) 「祭壇、炉」(エゼキエル43:15、おそらくメシャ碑文の12行目)。この語の解釈は、1節の「祭り」に一致し、2節の最後の節の意味を説明するため、近年かなり普及している。エルサレムは神の祭壇兼炉、つまり神を喜ばせる唯一の崇拝の中心であることを誇りにしている。しかし、実のところ、神はまったく喜んでおられないのです。」Oswalt、グーグル翻訳による。
[ii] Wikipedia、「アリエル」(英語) イスラエルでは主に男性の名。女性名はヘブル語では「アリエラ」らしいが、英語圏では男女ともに使われる。
[iii] 3わたしは、あなたの周りに陣を敷き、前哨部隊で囲み、あなたに対して塁を築く。4あなたは低くされ、地の中から語りかけ、あなたのことばは、ちりの中からつぶやく。あなたの声は、死人の霊のように地の中から出て、あなたのことばは、ちりの中からささやく。
[iv] 7アリエルに戦いを挑むすべての民の群れ、これを攻めて、取り囲み、これを虐げる者たちはみな、夢のようになり、夜の幻のようになる。
[v] 「驚き、たじろげ」は、欄外に「別訳「のろくなれ、驚け」」ともある通りです。
[vi] 11そのため、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。読み書きのできる人に渡して、「どうか、これを読んでください」と言っても、「それは封じられているから読めない」と言い、12また、読み書きのできない人にその書物を渡して、「どうか、これを読んでください」と言っても、「私は読み書きができない」と答えるであろう。
[vii] また、参照マルコ7・6〜8:イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。7彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』8あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」

