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2025/11/3 イザヤ書25章「死も涙も恥辱も永久に」招詞:エペソ1・8~10

イザヤ書は、前回の24章から27章で、将来に用意されている主の勝利、永遠の御国の訪れを歌っています。そして一章ずつ、その喜びが盛り上がって行きます。今日の25章は、一層歓喜がエスカレートしています。讃美の歌が、1~5節、そして9節で歌われています。まず、

主よ、あなたは私の神。私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、真実に成し遂げられました。

その遠い昔からの不思議な御計画とはどんな計画かが、2~5節で歌われます。

あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町から失せ、もう永久に建てられることはありません。それゆえ、力強い民もあなたをほめたたえ、横暴な国々の都もあなたを恐れます。

これは、イザヤ書がこの段落の前、23章まで描いてきた、近隣の大国の終わりを纏めています。2~5節には「横暴な国々…横暴な者たち…横暴な者たち」と「横暴な」が3度も繰り返されますが、権力者、暴力を振るう支配者、為政者は鎮められます。そして、彼らが社会に生み出し放置している弱っている者、貧しい者を主は顧みてくださいます。

あなたは弱っている者の砦、貧しい者の、苦しみのときの砦、嵐のときの避け所、暑さを避ける陰となられました。横暴な者たちの息は壁に吹きつける嵐のようです。砂漠の日照りのように、あなたは他国人の騒ぎを抑えられます。暑さが濃い雲の陰で鎮まるように、横暴な者たちの歌は鎮められます。

この、横暴な者たちの終わりと、弱っている者、貧しい者の安心・慰めの二本柱が、1節の「遠い昔からの不思議なご計画」と言われていることです。主は、遠い昔からこの計画を持っておられた。人が人を支配する横暴さが終わり、抑圧されてきた人々の神となって、憩いと癒しを与える!

1節欄外にはエペソ1章11節とあります。今日は招きの言葉をエペソ1章8節からとしました。エペソ書を書いた使徒パウロは「みこころの奥義」という言い方で「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」という神のご計画を明らかにします[i]。それは、パウロにとってユダヤ人と異邦人、男と女、自由人と奴隷、そうした間にある壁が壊されて、一つ主の民となるという、神のご計画です。イザヤの表現とは違うようですが、同じ御計画です。それは、イザヤ書25章の6節以下でよりハッキリします。

万軍の主は、この山の上で万民のために、脂の多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多い脂身とよくこされたぶどう酒の宴会を開かれる。

脂の多いというとコレステロールを気にする現代人の私たちは胸焼けしそうになるかもしれませんが、当時では最高の御馳走です。脂身を気にする以前に、肉を食べることさえ少なかった人々、貧しく、飢え、虐げられてきた人々がここに招かれるのです。「万民」「万国」「すべての顔」と繰り返されます。民族や身分、能力や見た目など関係なく、すべての人のため、主は大宴会を開くのです。

それは万民を覆うベール・覆いが呑み込まれることでもあります。

この山の上で、万民の上をおおうベールを、万国の上にかぶさる覆いを取り除き、永久に死を呑み込まれる。…

このベール、覆い、死が並行しています。更に続いて、

神である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。主がそう語られたのだ。

この8節は、新約聖書で二箇所に引用される、有名な、慰めに満ちた言葉です。使徒パウロはⅠコリント15・55で

死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に呑み込まれた。」

と言い[ii]、ヨハネは黙示録21章4節で

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。

と歌います[iii]。パウロもヨハネも、将来の最終的な希望について語る中で、今日のイザヤ書を引用します。これは旧約にある復活信仰です(また26・19も)。将来、死が呑み込まれて、大宴会に招かれるという復活信仰です。光景がここにあります。同時に、その復活とは単に体が甦るだけではありません。すべての顔から、すべての涙を、主ご自身が拭い取り、恥辱を取り除いてくださる。これもまた「死は呑み込まれた」と本当に言えるためには欠かせないことです。弱さ、貧しさ…、横暴な者たちの息で苦しめられ、その歌を聞かされてきた、世界に自分の居場所はないし、神様だってあの人たちを祝福しているようで、自分たちは後回しだ…、そのように思っている限り、体が不死身になったとしても心は死に毒されたままです。この世界で、まことの神、私たちを生かしたもう、生ける恵みの主を崇め、信じるよりも、権力者たちに都合の良い物語、疑いや不安で塗り固められた物語を信じているならば、それこそが神を見えなくしているベールや覆いでしょう。神をも小さく冷たく考える目隠し、人に対してもいのちの尊さを値踏みし、差別し嘲るフィルター、そして自分自身も、弱くちゃだめだ、涙を見せず、恥を抱えて、生き辛さを強く持つ――そんなままでは、永遠のいのちよりも、消えてしまったほうが楽だ、と思うでしょう。しかし、主がシオンの山の上の大宴会に招いてくださって、その祝宴に与る時、そうしたすべての死――涙も恥も、横暴な者の声も一切の覆いが取り除かれるのです。死は、その影や爪痕一つさえ、残せないのです。主がそうしてくださるのです。だから、一人一人が心から言うのです。

その日、人は言う。「見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。私たちを救ってくださる。この方こそ、私たちが待ち望んでいた主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」

本当に心から言うのです。自分でもこんな神、こんな主を待ち望んでいるなんて知らなかったけれど(諦めていたけれど)、こんな救い主がいたらなぁと心の奥底で悲願していた、その主こそこの方だ、と喜び、その御救いを楽しみ喜ぼう、と言える。言わせてくださるのです。

しかしその救いは、横暴な国や横暴な者には終わりでもありました。狡賢い権力者は、国が負け、政権が転覆しても、狡猾に抜け駆けするものですが、この最後に、主の前にその手は通用しません。

10…モアブはそこで踏みつけられる。藁が汚水の中で踏みつけられるように。11泳ぐ人が泳ごうとして手を伸ばすように、モアブはその中で手を伸ばす。しかし主は、その手の巧みさも、その高ぶりも低くされる。

15章16章で出て来たモアブは、高ぶりを特性としていました。ここではなおも泳いで逃げようとする、自分の手の巧みさを頼みとして、自分の縄張りを保とうとするようです。そのような企みは踏みつけられ、低くされる。主の勝利を見て、万民への惜しみない招きを見て、まだ自惚れを優越感を握り締めることもあるとしたら、それは甚だしい自殺行為であることが釘を刺されるのです。ですから12節は「モアブの」とは言わず、

おまえの要塞、そそり立つ城壁を主は引き倒して、低くし、地に投げつけて、ちりにまでされる。

と突如二人称単数になります。モアブ民族がとは済まない、自分ではない、とは言えない。イザヤの言葉を聞いても、都合のいい所だけを摘まみ食いして、主の前に謙らず、他者に横暴、横柄な者とは、お前ではないかと問われるようです。何かしら、要塞や城壁のように縋り付いているものが、高ぶりや横暴さとなっていないか。いや目を塞ぎ、顔を隠すベールとなって、「私の神」となってくださる神との関係を妨げていないか。それが何であれ、最後にはすべての城壁は粉々にされて塵に帰する。悲しみも横暴さも、死も、呑み込まれる――それこそが主の遠い昔からの御計画です。そして主は、このご計画を成就するために、自ら人となりました。弱さ、貧しさ、涙、恥辱をとことん味わいました。十字架の死を受け入れて、そこからよみがえらされました。その不思議な、本当に不思議な主イエスの御生涯はこのイザヤ書25章を確信させてくれ、イザヤ書25章は主イエスを預言しているのです。

「主、私たち一人一人が『私の神』と告白する私たちの神。あなたを知らぬ横暴な者の歌が勝ち誇るように響き、私たちの目も曇り、思いが流されてしまう中、この世界の創造主にして完成者なるあなたと、あなたの不思議なご計画を仰がせていただきました。今なお途上にあって、死の力が勝って見えても、謙らせてください。弱さ、貧しさ、涙に御手を伸べる主を仰がせてください。主の下さった新しい歌、あわれみと希望の賛美を歌いつつ、生きる勇気を下さい」

[i] エペソ人への手紙1・3~11。また、同3・3~6、参照。

[ii] Ⅰコリント15・54~55。また、黙示録20・14(それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。)もイザヤ書25章8節欄外の証拠聖句にあります。

[iii] ヨハネの黙示録21章4節。また、同7章17節も。