2025/1/12 イザヤ書1章1〜9節「きゅうり畑の番小屋のように」
私たちの使っています旧約聖書の順番では、後半三分の一を「預言書」が纏められています。その最初に来るのが預言者イザヤの書。この書の時代背景は1節に
「これは彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである」
と明記されます[i]。これは紀元前8世紀の末、前750年頃から695年頃まで、40年にわたる時代がイザヤです[ii]。当然、イザヤ自身、若い頃から老年期に踏み込むまでの人生の苦節がありますし、その時代に、イスラエルは200年以上にわたって南北に分裂してきたのが、ついに北王国イスラエルが滅亡します。それは、北方での国際情勢が、シリア王国の勢力から、アッシリア王国が力を伸ばして、版図を塗り替える、という大きな変化の中でのことでした。イザヤの同時代に、他にも預言者が何人も立てられますが、その一人、預言者アモスの書では、富裕者の贅沢と、弱者に対する不正義と暴力、そして偶像崇拝と不道徳の横行が非難されます[iii]。そういう背景も含めた、激動の時代に、神から言葉を預かった預言者イザヤの書はこう始まります。
2天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子どもたちはわたしが育てて、大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。3牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」
天と地を証人に呼び寄せて始まるイザヤの言葉は[iv]、神から神の民イスラエルへの訴訟、裁判の開廷宣言でした。飼葉桶なんて出てくると、クリスマスのイエスの揺り籠を思い起こしますが、ここでは家畜さえ自分の飼葉桶を知っているのに、神の民が自分にとって大事な神、育ててくださった主なる神を知らない、という譬えでした。そして、クリスマスの飼葉桶も決してファンタジックなメルヘンではなく、イエスの誕生を迎える場所が、そこ以外になかったという人間の冷たさ、鈍感さ、忘恩ぶりの象徴でした[v]。因みに、クリスマスの馬小屋の絵には牛とロバが描かれるという伝統があるのは、このイザヤ書1章3節に由来するのだそうです[vi]。
4わざわいだ。罪深き国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。
ここでは四つの言い方で、イスラエルの民の不法な現状が浮き彫りにされ、三つの文章で、彼らの罪状が訴えられます。主に対して罪あるものとなっている姿です。この「イスラエルの聖なる方」というのもイザヤ書の特徴の一つですが[vii]、その方を侮っている、というのは、実は必ずしも彼らが主への礼拝・信仰に完全に背を向けていた、ということではありません。南のユダ王国はエルサレム神殿もあり、そこでの生贄や神殿儀式は続けられていました。この1章の11節や13節以下でも明らかになる通りです。形式的には、主を礼拝し、捧げものを欠かさなかった。けれどもそれとともに、普段の生活では金銭とか社会の権力を慕い、迷信や占いに惹かれ、弱者や少数の人々を搾取していました。そうした背信を捨てて、主に従え、と言われていたのに、ユダヤの人々はどちらをも手放そうとしませんでした[viii]。
5あなたがたは、反抗に反抗を重ねてなおも、どこを打たれようというのか。頭は残すところなく病み、心臓もすべて弱っている。6足の裏から頭まで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。
ただ国際情勢や社会の問題の上辺を見て怒るのではないのです。人が病み、弱り、傷だらけであることを嘆いています。そしてそれに必要な手当がなされず放っておかれている様も見て、嘆いているのです[ix]。特にここでは、実際にユダヤの地が戦争・略奪で荒廃している状況が描かれます。
7あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は火で焼かれている。土地は、あなたがたの前で他国人が食い荒らし、他国人に破壊されたように、荒れ果てている。」[x]
イザヤの時代のユダヤは、現実に戦争に巻き込まれ、悲惨な状況を呈していました。そのことを神はここで目を逸らさず見、また神の民がその自分の現状に気づくよう、呼びかけます。神を侮って、形式的な宗教に堕している結果は破壊的でした。それが訴えられます。しかし、そのような悲惨な結果を語って、脅して責め立てるだけではないのです。
8しかし、娘シオンは残された。あたかも、ぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。9もしも、万軍の主が私たちに生き残りの者をわずかにでも残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。
ソドムとゴモラとは、創世記18〜19章に出てくる背徳の町です。ソドムとゴモラは主の怒りを受けて町ごと滅ぼされ、跡形もなくなりました。ユダヤの地も、主を侮り続ける罪を遂に裁かれるなら、ユダヤは焼け野原となったでしょう。しかしそうではありませんでした。「娘シオン」とはエルサレムの都にあるシオンの丘から、エルサレムそのものを、引いてはユダヤ人全体を指す言い方です。ここでも主の民が、罪の報われて全滅せず、僅かな「生き残りの者」を残されたこと――ここにイザヤは、主の哀れみを見させます。我が子を愛して見捨てない、主なる神の父としての慈しみを見ます。愛すればこそ、その背きや暴力を、主は真剣に嘆き、激しく責め、放っては置かれません。しかしそれは愛すればこそであって、決して怒りに任せて滅ぼし尽くしはしない。回復がある。残された者がいる。これがイザヤ書を貫く語りです[xi]。
これは、今の時代からすれば、二千七百年も前のことです。こんな昔の話をなぜ今読むのでしょうか。イエス・キリストの時代からさえ、七百年も遡る時代です。最初のキリスト者達が置かれたローマ帝国の属国という立場は、イザヤ書の世界情勢とは大きく異なります。しかし、キリスト者達はイザヤ書を、非常に大切に読みました。新約聖書が書かれていく前は、いわゆる旧約聖書こそ、教会にとってはイエスの福音が証しされている聖書でした。その中でもイザヤ書は特別に大きな役割を果たしたと思われます。というのは、新約聖書ではイザヤ書が遠回しに引用される箇所は400回を超えますし、直接引用されるだけでも66回で、詩篇に次ぐ多さなのです。クリスマスに読まれるのもイザヤ書9章、11章ですし、受難週にはイザヤ書53章の預言が欠かせません。そしてもう一つが、今日の9節を引用するローマ書9章29節です。
また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」
ここではイザヤの言葉が、ユダヤ人だけでなくそれ以外の「異邦人」も含めて全てへの言葉として読み直されています。ローマ9章では少し前の23、24節で「あわれみの器」という言い方が出て来ます[xii]。「あわれみの器」。私たちが正しいから、良い行いをしたからではない。そんなことで胸を張れる人は誰もいない。ソドムやゴモラを責めることすら出来ない。ただ、主の深い哀れみにより、私たちは残されてここにいる。それは紀元前8世紀も、紀元1世紀も、21世紀も変わりません。教会とは、葡萄畑の小屋、きゅうり畑の番小屋のようなものです。
当時、農夫は畑とは離れた所に住み、収穫期だけ畑の中に小屋を建てて住みました[xiii]。立派な邸宅ではない、侘しいといえば侘しけれど、小屋がそこにあるのは畑や果樹を世話するためでしょう。居心地や見栄えを良くして、自分たちが何様かでもあるからここに残されているのだ、と思い上がるとしたら禍です。いや、そんな自惚れで病んでいる痛みにも鈍感になっている私たちを憐れみ、罪を責めつつも残し、なおこの世界に置いてくださる主です。そして、このイザヤの証しした預言が、イエスの誕生と苦難と復活によって、本当に成就しました。
神の民から、ぞんざいに扱われた主は、その人間たちとの関係回復のため、この世界に来られました。主イエスの生涯は、人としての場所さえ与えられず、飼い葉桶に寝かされて始まりました。最後も、生きる価値を否定された十字架にかけられました。そうしてまで成し遂げようとしたのは、人が、形式的に、あるいは「救われるために」神のご機嫌を伺う義務的な宗教ではなく、生きた神との関係を回復してくださる、あわれみの救いの成就でした。神の畑である世界に、ソドムやゴモラやバベルの塔を建てる人間の中に、きゅうり畑の番小屋のような教会を建てられました。イザヤが語る主のあわれみは、イエスにおいて完全に人となったのです。
そのことを最初のキリスト者達は聞いたのです。ですからイザヤ書は「第五の福音書」とも言われてきました。その「イザヤによる福音書」に、主イエスの福音と私たちへの御心を確かめます。
「聖なる主。激動の時代に生きたイザヤを通して与えた幻が、今の私たちの光となり、私たちも謙り、心砕かれて、あわれみの器となり、池戸という主の畑に置かれた仮小屋として、この地に仕えさせてください。私たちの傷を包み、病を癒してください。厳しい言葉の力が、あなたの計り知れない永遠の恵みです。そのあわれみのゆえにこれまでも、今も、これからもあることを、このイザヤ書に共に聴き始めた旅路を通して、深く、生き生きと覚えさせてください」
きゅうり畑の番小屋と遠景[i] この四人の王の名前は、1~39章に全員登場する。ウジヤは6・1、7・1、ヨタムは7・1、アハズは7・1、3、10、12、14・28、38・8、ヒゼキヤは36~38章に。
[ii] 「「アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。」イザヤはウジヤ(紀元前七九二一七四○年)、ヨタム(紀元前七五〇一七三二年)、アハズ(紀元前七四三——七二九年)、ヒゼキャ(紀元前七二九―六八七年)、マナセ(紀元前六九七―六四三年)の治世の初期に及ぶ期間が活動期です。その 活動の前期においては、アモス及びホセアと時代を同じくし、後期においてはミカと同時期です。」、油井義昭『福音の予告 イザヤ書 講解説教』、一粒社、2014年、1ページ。
[iii] 前掲書、2ページ。
[iv] 申命記4:26 私は今日、次のことで、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。あなたがたは、ヨルダン川を渡って所有しようとしているその地から追われ、たちまち滅び失せる。そこで、あなたがたは長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされる。」、32:1 天よ、耳を傾けよ。私は語ろう。地よ、聞け。私の口のことばを。」
[v] ルカの福音書2・7:…そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
[vi] 「聖画の動物 いわゆる“聖画”のイエスさまの飼葉おけには、通常、ロバと牛が描かれていることにお気づきですか。聖書の記事には飼葉おけは出ていても、ロバや牛は記されていません。それが四世紀ごろから、この二種類の動物があらわれ始めます。では、なぜロバと牛なのか。これが、実は、「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」(イザヤ一・三)という聖句を下敷きにしている、と知ったら、あなたは聖なる飼葉おけの絵を、少しく違った思いでながめられることでしょう。」、小畑進『キリスト教慶弔学事典 冠祭』(いのちのことば社、1982年)、594ページ。
[viii] 「自分の運命をコントロールしようとすることは神を否定することを意味しますが、神の道を受け入れることは恐ろしい権力の放棄を意味しました。典型的には、彼らは神と神々の両方を保持しようとしましたが、不幸な結果になりました。ほとんどの場合、彼らは意識的に神を放棄しませんでしたが、両方を保持しようとする試みは放棄に等しく、預言者の目には反逆でした。」Oswaltより。
[ix] 社会的行動を訴えつづけた福音派キリスト者ロン・サイダー逝く クリスチャニティ・トゥディhttps://jp.christianitytoday.com/2022/08/ron-sider-died-evangelicals-for-social-action-jp/
[x] 7節では、その傷が戦争による災禍であることを示す。申命記28・51(あなたの家畜が産むものや大地の実りを食い尽くし、ついにあなたは根絶やしにされる。彼らは穀物も新しいぶどう酒も油も、群れの中の子牛も群れの中の子羊も、あなたには少しも残さず、ついにはあなたを滅ぼす。)の成就でもある。
[xi] イザヤ書を概観するのに、以下の記事を紹介します:
「道に迷うのは大嫌いです。見知らぬ街をぶらぶら歩き回ったり、スーパーでなかなか見つからない商品を必死に探したりすることほど、私にとってイライラすることはほとんどありません。私は、そのような瞬間に周囲の人にあまり好かれていないと告白します。
しかし、イザヤ書を読むたびに私が感じるのとまったく同じです。読み始めると、同じ考えが私の注意を捕らえます。私はすぐに迷ってしまう、完全に方向感覚を失う、イザヤ書は大きすぎる、すぐには構造が認識できない。おそらくあなたも同じ経験をしているでしょう。イザヤ書 24 章の中ほどあたりで、あなたをそこに導いた曲がりくねった道と、あなたを待ち受ける未知の道に、あなたはよろめき始めます。
おそらく地図が役に立つでしょう。イザヤの預言の 5 つの動きを地図に表すことで、少しお役に立てればと思います。これらの動きは、この巨大な書物の中で私たちが位置を把握するのに役立ちます。ご覧のとおり、これらの動きは、イザヤが神について最もよく述べた「イスラエルの聖なる者」という表現を中心にしています。
- イスラエルの聖なる者とその民(イザヤ1-12)
イザヤ書の冒頭部分は、神とその民との関係について述べています。読者は、そこに 3 つの力が働いていることにすぐに気づくでしょう。
まず、反逆。この書はユダの罪の暴露から始まります。第 1 章では、神の民は 5 回にわたって反逆者と呼ばれています (イザヤ 1:2、5、20、23、28 )。これは後に、神が正義と義を求めて来られたが、流血と叫びしか見つからなかったとイザヤが記録する中で強調されています (イザヤ 5:7 )。
第二に、裁き。神の裁きの現実は、最初の12章のそれぞれに事実上散りばめられています。これは、第9章と第10章で、次のようなぞっとするような言葉が4回繰り返されることで、おそらく最も効果的に示されています。「それでもなお、主の怒りはおさまらず、その手はなお伸ばされている」(イザヤ9:12、17、21; 10:4)。
3 番目は希望です。反逆と裁きは結末ではありません。神と神の民の関係は消滅したわけではありません。希望は、王の子の約束とともに最高に君臨しています (イザヤ 7:14、9:1–7、11:1–16 )。この「第 5 の福音書」の冒頭の章は、顔に冷水を浴びせられたように感じるかもしれません。しかし、希望の兆しは読者に前進するよう励まします。
- イスラエルと諸国の聖なる者(イザヤ13-27)
焦点は、神とその民との関係から、神と諸国との関係に移ります。イザヤの神は個人的な存在ですが、同時に世界的な存在でもあります。
この運動はバビロンに対する預言から始まります。バビロニア人はまだ世界的超大国ではありませんでした。彼らの手による神の民の侵略、破滅、追放はまだ先のことでした。それでも、彼らは権力の絶頂期に全能の神によって屈服させられることになります (イザヤ 13:11 )。バビロニア人だけが屈服したわけではありません。13 章から 27 章まで、次々と国の名前が挙げられ、それらの国に対する神の力が主張され、それらの国が敗北することが約束されています。
これらの章を順に読むと、すべての国に対する神の正義の裁きの力が増し加わります。しかし、もう一度言いますが、裁きは最後の言葉ではありません。いつの日か、すべての人々と国々のために宴会が開かれます (イザヤ 25:6–8 )。神の裁きと救いはどちらも世界規模です。
神の裁きと救いは両方とも世界的なものです。
この第 2 楽章は、その繰り返しの性質上、読みにくいものとなっています。しかし、第 1 楽章と相まって、第 3 楽章の理解を深めるために必要な基礎を築いています。
- イスラエルの聖者と至高の恵み(イザヤ28-39)
この第 3 楽章は、最初の 2 つの楽章の内容を繰り返しますが、審判と救済のテーマを至高の恵みで満たしています。
イザヤは陶工のイメージを使って神の主権を描写しています (イザヤ 29:16 )。イザヤの神は許可を求める必要がありません。神の手は、出来事を形作り、導くために活動しています。唯一の適切な応答は、イスラエルの神を畏敬の念をもって見つめることです ( イザヤ29:23 )。
イスラエルの聖なる方は、この力を気まぐれに使うことはありません。イザヤは、神の力が常に彼らの善のために発揮されていることをイスラエルに確実に知らせたいのです(イザヤ書 30:15)。イザヤ書 30 章は、この慈悲深さと優しさに満ちています。
イスラエルの聖なる者はこの力に関して気まぐれではありません。
第 36 章から第 39 章には、イザヤ書の他の部分と比べて印象的な物語が含まれています。これらの章を注意深く読むと、この物語の幕間が神の至高の恵みをさらに示していることがわかります。
- イスラエルの聖者とそのしもべ(イザヤ40-55)
ここからは、強調点と調子が明らかに変化します。第 40 章の冒頭から、希望がはっきりと感じられます。
この強調とトーンの変化とともに、新しい登場人物である僕が登場します。これらの章には、4つの「僕の歌」があります(イザヤ42:1–9、49:1–7、50:1–11、52:13–53:12)。これらの歌によると、この僕は聖霊に満たされ(イザヤ42:1)、預言者として語り(イザヤ49:1、5)、従順に歩み(イザヤ50:5)、身代わりとして死ぬ(イザヤ53:4–6)。
これらのしもべの歌については多くのことが語られるかもしれませんが、しもべが大きな変化をもたらすと言えば十分でしょう。これまでイザヤ書全体を通して約束されてきた救いをもたらすために行動するのはしもべです。ですから、第 5 楽章に移ると雰囲気が再び変化したのも不思議ではありません。
- イスラエルの聖なる者とその王国(イザヤ56-66)
イザヤの長大な預言の最後の部分は、読者を神の王国へと導きます。イスラエルのこの聖なる方は王です。彼の王国は僕によって守られ、彼の民を待っています。
身代わりの僕が勝ち取った栄光の救いの後で、再び罪の悲惨さに直面するのは、いくぶん衝撃的です (イザヤ 57 章)。これは対照的なことです。イザヤの目的は、罪の悲惨さを詳しく述べることによって、神の王国の正義を示すことです(イザヤ 65:13–16 ) 。王国は正義であるだけでなく、救済でもあります。イザヤ 59 章は、イスラエルの聖者が救いを身にまとい (イザヤ 59:17 )、また、救い主がシオンに現れる (イザヤ 59:20 ) ことを読者に思い起こさせます。
そして、この書は、欠点のない王国の展望で終わります(イザヤ65:17-25)。イスラエルの聖なる方の欠点のない王国は、この世の王国に包囲されている神の民の最終的な目的地です。
イスラエルの聖なる者
この地図が読者の皆さんにとってイザヤ書を理解する助けとなることを願っています。しかし、自分の位置を把握することよりも重要なのは、5 つの楽章すべてに共通するテーマであるイザヤの神を知ることです。
イスラエルの完全な王国の聖なる者こそ、この世の王国に包囲されている神の民にとっての究極の目的地です。
ヤハウェは旧約聖書の中で31回「イスラエルの聖者」と呼ばれています。驚くべきことに、そのうち25回はイザヤ書に登場します。この神の称号はイザヤが特に好んで使っていたものです。それは読者に、この神が他の神とは全く異なる唯一無二の存在であることを思い起こさせます。しかし、「イスラエルの」という語句が加わることで、この聖なる神に属する民であることを思い出させます。イスラエルの歴史におけるこの極めて重要な瞬間に、イザヤは神の民が「贖われた者たち」として知られるようになることを保証しています(イザヤ書35:9、51:10、62:12、63:4)。
イザヤの焦点は、イスラエルの聖なる者とその民の救済です。イザヤの願いは、読者が迷うどころか、イスラエルの完璧な王国の聖なる者の中に自分の居場所を見つけることです。」
https://www.thegospelcoalition.org/article/isaiah-five-movements/ Gospel Coalition より「イザヤ書の五つのムーブメント」 翻訳はgoogle翻訳による。
[xii] ローマ9・23〜24:しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。24このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
[xiii] 「農民は村に住み、畑まで歩いて行くのが通例でした。収穫期には往復して時間を無駄にするのはもったいないので、家族は畑に小さな小屋を建て、収穫が終わるまでそこでキャンプをしました。収穫が終わった後の小屋はなんと寂しい光景だったことでしょう。役に立たず、劣化し、神が民に約束した姿とはまったく逆のものでした。」Oswalt