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2025/10/19 イザヤ書24章1~7節「主の地に立って生きる」

今日のイザヤ書24章には「」という言葉が何度も出て来ます。数えてみたら17回ほどになるはずです[i]。これがこの章の特徴です。しかし聖書の最初、創世記1・1は

初めに神が天と地を創造された。

と始まります。聖書は最初から天と地、世界全体を視野に入れています。陸や地球、そして私たちが普段生活し、歩き回り、その上で生きている世界…。私たちは、この会堂に集まって目に見えない神を礼拝するだけでなく、この会堂から出た時に目にするすべてのものが造り主なる神から来ている被造物として、そこに神の御手を見るのです。私たちは、神が造られた地の上を歩きまわっているものです。現代は地の上に舗装をして、靴を履いて、地に触れることなく、地を意識もせずに過ごしているでしょう。聖書の時代、履き物といえば薄いサンダルか、貧しい人は裸足だったと言います[ii]。自分が足の裏で感じている地。その地を

見よ。主は地を荒れ果てさせ、その面をくつがえして、住民を散らされる。

と言われ、続けて、地、地、地と繰り返すこの章の生々しさを、裸足になってでも感じ取りたいものです。

前回まで13~23章は、イスラエルの周辺諸国への裁きの言葉がずっと続いて来ました。バビロン、アッシリア帝国、モアブ民族、そして商業都市のツロに対する言葉で、それぞれの権力の罪が断罪されて、その先に主が造ろうとしている新しい世界の事が描かれてきたのです。今日の24~27章は、ここまでの諸国への言葉を引き継いでいます。地に置かれた人間は、地上に、本来の神の祝福を育てるより、自分たちの国々・帝国を造り出して、地上を我が物顔で踏み躙るようになってしまった。だから、その地を神は覆され、住民を散らされる、と13~23章が言い換えられる。その時、人間の身分とか富とか上下関係は全く意味がなくなります。

 2民は祭司と等しくなり、男奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸し手は借り手と、債権者は債務者と等しくなる。

人と人の間に造られていた力関係は白紙に戻される。でもそれは、平等になって良かったね、などと言えるものではありません。私たちの社会が本当に平等に、誰をも虐げたり、特権を持てたりしなくなるとしたら、一旦全部が解体されなければならないでしょう。ここで主が語っているのはそういう大解体作業です。その時

…地の最も高貴な人たちもしおれる

のです。

5節にある「永遠の契約」は創世記9・16に最初に出て来る言葉です[iii]。あのノアの箱舟、大洪水の件くだりの結びに出て来るのです。ノアの大洪水は、人間が地に増え広がるに連れて

地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾いて……地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた」[iv]

それを神はご覧になって、大洪水を決断され、ノアの家族だけを箱舟に乗せたのです。18節に出て来る

天の窓が開かれ

も、創世記7・11の「天の水門が開かれ」と通じます[v]。あの大洪水は「地は神のもの、人が地を乱すなら神は、地を取り戻す」と明らかにされた出来事でした。その大洪水の後、箱舟から出て来たノアの家族に対して主が与えたのが「永遠の契約」です。主は、再び大水による大洪水で地を滅ぼすことは決してない、と約束されました。大空の虹をしるしとして誓われました。私たちは、また洪水が起きて滅ぼされるんじゃないかとビクビクするのでなく、地を滅ぼさず、支えて守る神、この地上に良い事をしてくださる神を仰ぐことができる。信頼と感謝をもってこの地に生きることができる。それが「永遠の契約」であり、虹のしるしであり、私たちが足を着けているこの地なのです。

この他にも「永遠の契約」と言われる言葉は何か所にも出て来ます[vi]。主はただ地を滅ぼさないと契約されただけでなく、その地で、人が神との契約に生き、神の地に置かれた民として生きるよう、動かない契約を下さったのです。その土台にあるのが、ノアに与えられた「永遠の契約」です。主は、この世界を滅ぼさず、地に生きる私たちを生かしていてくださる。その恵みを放り出して、地を人間の争いや利得の舞台とするなら、それは大いなる勘違いです。

7節から13節には「ぶどう」のイメージが繰り返されます。地に植えられた葡萄の木が豊かに実を付けるはずが、萎れて、僅かな実を残すばかりになった絵です。それが、地にある諸国の都の末路となる。思い上がった陽気さ、宴会、繁栄も惨めに衰え果てる、というのです。

しかしその後14節から16節前半まで、この荒廃の描写が一変します。それも一旦、ですが…。

14彼らは声をあげて喜び歌い、西の方から主の威光をたたえて叫ぶ。15それゆえ、東の国々で主をあがめよ。西の島々で、イスラエルの神、主の御名を。16地の果てから、私たちは「正しい方に誉れあれ」というほめ歌を聞く。

権力者の帝国が解体されて喜ぶ人、それをしてくださった主を称えて褒め歌う人がいます。西の海から日の昇る東まで、広く主への賛美が聞こえます。地で虐げられ、邪険にされていた人々にとって、この主の裁きは、喜びであり、待ち望んでいた主の御業だったのです。しかし、これに続いてイザヤは言います。

16…しかし私は言った。「私はだめだ、だめだ。ああ、悲しい。裏切り者が裏切り、裏切り者が裏切り、裏切った。

地の裁きを聞いて喜ぶ人々がいます。しかしイザヤはここで尚、嘆かずにおれない。自分の絶望と、裏切り者の裏切り行為を(五回も言葉を重ねて)訴えて、安易に喜びに浮かれるなんて出来ないと、地が揺さぶられる悲痛な将来をもう一度描くのです。

19地は割れに割れ、地は破れに破れ、地は揺れに揺れる。20地は酔いどれのようによろめき、仮小屋のように揺れ動く。地の背きはその上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。

地は、神の御手がなければ脆いものです。やがて酔っ払いや倒れそうな仮小屋みたいに、寄り掛かれないものとなる地なのです。しかし、それで終わりではありません。

21その日、主は天では天の大軍を、地では地の王たちを罰せられる。22彼らは、囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、何年かたった後に罰せられる。23月は辱めを受け、太陽も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前にあるからである。

天の大軍も地の王も、月も太陽も、恥じてひれ伏すような、万軍の主が王となり、その長老たちもともに栄光に輝いて、地を治める新しい時代が始まるのです。こう言って、25章から27章まで、勝利の歌がいくつも、歌われていくのです。

その明るい幾つもの歌が歌われる前、この24章の大半は、その手前の今、地が迎える裁きを描きます。「こんな暗い章は飛ばして、早く明るい歌に行った方がいい」という声もあるかもしれません。今日の16節半ばでイザヤは嘆きます。一旦、喜びや賛美を聞きながら、なお地の惨状を嘆いて「私はダメだ、ダメだ。ああ、悲しい」と言わずにおれなかった。ここにも、聖書の眼差しの深みがあります。地で裏切りが蔓延っているのに、その深いダメージをすっ飛ばして、将来の回復に安易に飛びついて「ハレルヤ」と浮かれるのでは、それこそ裏切りというものです。月も太陽も恥じるような、主の輝かしい支配が来るとき、まして私たち人は、どれほど自分の心、隠れた思いまで照らされて、恥じ入りたくなるでしょうか。

今日の招詞はローマ8章です。

被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。23それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています[vii]

私たちの足元には、主が造り、永遠の契約で保っている地があります。争いや裏切りがあって呻いている地です。そして、主が愛し、御子イエスが人として来られ、足で歩まれた尊い地です。どうぞ、裸足にならなくても、足の裏に地を感じて見てください。この地を主の目で、イザヤの目で見てください。この地に生かされているのです。讃美することも悲しむことも許されています。呻きつつ、待ち望みつつ、地に生かされている私たちです。

「御心が天で行われるように地でも行われますように。御心ならぬ力で苦しみ呻く万物は、贖いを待ち望んでいます。主がどんなに地を愛し、地に生きる私たちを慈しんでいるかを想い、希望と勇気を持てますように。人の営みゆえに、生きることの疲れや空しさばかりを思う私たちですから、足の下に踏みしめている地の尊さと、それを支えたもう主の御手の確かさ、聖さを、思い巡らし、心に刻ませてください。主とともに、誠実に、一歩一歩を歩ませてください」

[i] 地エレツは、1、3、4(×2)、5、6(×3)、11、16、18、19(×3)、20(×3)。21節の「地」は違うことば。また、「荒れ地」(10)、「大地」(13)、「地上」(17)、「地下牢」(22)は含みません。

[ii] ジョン・ドレイン『ビジュアル聖書百科』(いのちのことば社、1999年)、110頁。

[iii] イザヤ書24章5節:地はその住民の下で汚されている。彼らが律法を犯して定めを変え、永遠の契約を破ったからである。

[iv] 創世記6章5、11、12、13節。

[v] 創世記7章11節:ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、大いなる淵の源がことごとく裂け、天の水門が開かれた。

[vi] 創世記17・7:

13・19:

出エジプト21・16:

Ⅱサムエル23・5:

詩篇105・10:

イザヤ55・3:

エレミヤ32・40:

エゼキエル16・60:

ヘブル13・20:

[vii] ローマ人への手紙8章19~24節:被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。20被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。21被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。22私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。23それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。24私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょう。