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2025/10/12 イザヤ書23章12~23節「商業の都ツロも」

今日のイザヤ書23章は「ツロに対する宣告」です。ツロはイスラエルの北にある港町ですが、とても繫栄した商業都市です。

 

参考に、エゼキエル書の平行記事、26~28章、特に27章をチラッと見ると、ツロのことが出て来ます。この都が誇った立派な船舶の造りと、貿易した商品のリストが、延々と24節にも亘って挙げられているのが分かるでしょう[i]。ツロは、造船技術と航海術に長けて、地中海をまたにかけて貿易を進めていた都市です。聖書では、ダビデやソロモン王との交易など、何度も登場する、重要な港町です[ii]。そして、その経済大国ツロへの「宣告」が述べられるのがこの23章です。13章から続いてきた、諸国への宣告の締め括りがこの23章です。ここまでは、軍事的大国――覇権を巡って争い、領土を広げて侵略してくるような国々でしたが、このツロはちょっと違いました。商業の国、経済至上主義のリーダー、消費文化の支配者…それがツロでした。他の国との争いには加わらず、世界を征服しようなんて意図はない――けれども、地中海世界の西の果てから南のアフリカまで、交易のネットワークを造り上げて、経済力で広い地域を支配していたのがツロでした。そのツロに対しての宣告は、

…タルシシュの船よ、泣き叫べ。ツロは荒らされて家もなく、そこには入れない。キティムの地から、それは彼らに示される。

と始まりますが、ツロから西に行き、スペインのタルシシュとを往復していた商船が、途中のキティムで、ツロの滅亡を知らされる、という絵でしょうか。3節の「シホル…ナイル」というのはエジプトのことで、ツロはエジプトの小麦を買い上げていました。そのツロの滅亡で、エジプトのダメージも大きいことが5節でも、10節でも言われるのです。6節からはツロの歴史の古さや、王冠を戴くイメージ、商人たちの権力が取り上げられて、そのツロが滅びることの嘆かわしさが強調されます。

 8だれが、王冠を戴くツロに対してこれをはかったのか。その商人は君主たちで、その貿易商は地で最も尊ばれていたのに。万軍の主がそれを図り、すべての麗しい誇りを汚して、地で最も尊ばれている者をみな卑しめられた。

ツロの経済力は「王冠」と結び付けられます[iii]。大きな経済力を持つ存在は、将軍や大王にも無視できないものになります。日本の江戸時代も「士農工商」の制度で一番下のはずの商人が最後は最も力を持ちました。今でも「世界で最も影響力のある人」の上位には、各国の大統領、首脳と並んで、Amazon、Microsoft、Googletと超大企業のトップが並びます[iv]。その城は無敵に思えます。だからそのツロの終わりなんて、誰がしたのか、と問うて、「万軍の主がこの計画を立てられた」と言うのです[v]。世界を左右してきた経済力も、万軍の主、神にはかなわない。人は「地獄の沙汰も金次第」と豪語しますが、まことの神はそんな柔ではない。むしろ、そんな言葉で自惚れる人間の傲慢を裁かれて、商人たちの思惑を骨抜きにされるのです。

諸国についての宣告の最後に、このツロが挙げられます。大帝国でも、侵略軍でもない、商業の都ツロが、主のさばきを宣告されます。商売や交易そのものが悪いわけではありませんが、経済力が、軍隊の戦争にも匹敵する悪となりうること――何でも商品にしたり、儲けのためなら賄賂や不正や強引な手段が罷り通ったり、貧富の差を生み出し、倫理も何もなくなってしまうこと――何より、自分の心を覗き込んでみたら、町や店に溢れる商品やコマーシャルに惹き付けられて、そこに主イエスの受肉や十字架と復活、洗礼と聖餐が入る余地のない考えが、大きく占めるようにされている--そういう自分にも気づけるでしょう。

私たちがキリスト者の自由をもって生きるために、主は十戒を与えられました。十戒は

「主のほかに神々があってはならない」

と始まり、最後を

「隣人のものを欲しがってはならない」

と結びます。その反対に、「これも欲しいだろう? それも欲しいだろう? あれがあったらもっと幸せになれるな」と気をそそる。消費社会、商業主義、財閥、経済至上主義…そういうものが、主を差し置いて、神々になってしまう。それが、ツロの象徴する繁栄という偶像です。繁栄とか商売とかが悪い、罪だ、ということではないのですが、それは神に成り変わり、なくてはならない簡単に偶像になる。実に巧妙に、私たちの心を縛り付けて、麻痺させて、神への感謝も、隣人の悲しみや必要を想う心もどこかに行ってしまう――それどころか、ずるさや冷たささえ身につけていってしまう。そんなツロの薄っぺらな華やかさは、必ず破綻するのです。

15その日になると、ツロは七十年の間、忘れられる。一人の王の生涯ほどの期間である。…

この七十年というのがいつのことなのか、諸説あるのですが、王でさえ生涯を終えるほどの年数なのですから、その後戻ってきても、誰も覚えていない。だから竪琴を弾いて歌い回って、思い出してもらおうと虚しい努力をしている遊女のような、もうすっかり枯れ果てたツロになる。こういう将来は、歴史で成就する、というより終末的なことでしょう。しかも17節には、

…彼女は再び遊女の報酬を得て、地のすべての王国と、地の表で淫行を行う。

とある。その欲得まみれの商売、「淫行」とも言われるようなツロの商売を再開する、というのです。文字通り読もうとすると不可解ですが、ポイントはその後でしょうね。

18その儲け、遊女の報酬は、主の聖なるものとなる。それは蓄えられず、積み立てられない。その儲けは、主の前に住む者たちが食べて満ち足り、上等の衣服を着るためのものとなるからだ。[vi]

たとえツロが再び商売を始めて、儲けを得たとしても、それはツロの懐には入らない。商売人たちを潤すのではなく、主のものとなる――それは主の神殿や祭司の収入になる、という意味でもありません。今まで13章から語られてきたのは、商品のように安く扱われてきた人、苦しむ者、主のもとに身を避けてきた人です[vii]。上等の衣服どころか着る物も、生きる価値も奪われて、お腹いっぱい食べることなどない生活をさせられてきた人々です。その人々を、お腹いっぱい食べさせ、上等の衣服を着させることが「主の聖なるものとなる」ということです。ツロや大財閥、Amazonやアップル、トヨタや三菱の収益が、自分たちを肥やすのでなく、貧困を終わらせ、格差を解消するために用いられる…そんな経済システムを想像できますか。少なくとも、経済の神に囚われた人々は、想像したくもない、理解することを拒む言葉です。イザヤはそれを語るのです。その典型が、この23章の「ツロについての宣告」なのです[viii]

 この時代から7世紀後、地上に来られた主イエスは、富の誘惑について重ねて警告しました。それは姦淫よりも多い警告でした。しかも、当時の人々に対して、ご自分がしたわざをツロの人々が見ていたら、とうの昔に悔い改めていたろう、とさえ言われました[ix]。イエスのわざは、富の力を崇める過ちを強く意識していました。同時に、イエスはわざわざツロにまで足を運び、そこにいた一人の母親が、苦しんでいた娘の救いを願った祈りに応えてもくださいました[x]。イエスはツロを責めるより、お金では解決できない大きな悲しみに寄り添いました。民族や国境を超えて、恵みを与えてくださいました。そうして新しいことを始めてくださったのです[xi]

この恵みに従って、多くを持つ際限のない欲よりも、持つ物を分け合うこと、与える喜びに生かされていくこと――それは、ただの道徳ではありません。主がツロの没落に重ねてここに語ること、貪欲の帝国はさばかれ、新しいシステムが始まるという将来が本当に来る。来らせてくださる。その恵みが私たちの中に始まっていて、喜びに与らせてくださるみわざなのです。主は、私たちのために貧しくなることによって、私たちを貪欲から救い出してくださいます。貪欲とは真逆の生き方、自由で喜ばしい生き方へ招かれています。それはツロの人々でさえ、悔い改めずにはおれなかっただろうほどの主イエスのみわざです。私たちは、主イエスをそのような方として受け取り、心を開き、金銭感覚も新しくされていく、そういう民なのです。

「世界の造り主なる主。富も喜びも、すべての良いものは、あなたからの贈り物です。豊かな贈り主なるあなたを見上げさせてください。全世界を手に入れても、幸せも命も買えません。あなたこそ豊かな恵みの神、そして私たちのため貧しくなることを厭わず、卑しめられた者とともにおり、満ち足らせ、引き上げてくださるお方です。物が溢れている時代に生きる私たちを、日々、あなたの恵み、惜しみない幸いへと引き戻し、分かち合う歩みをさせてください」

[i] 他にも、ツロ(ティルス)への預言は、他の預言書にも繰り返されている:

アモス書・・・2章9~10節:彼らの前からアモリ人を滅ぼし尽くしたのは、

このわたしだ。

彼らは杉の木のように背が高く、

樫の木のように強かった。

わたしは、

その上の実も下の根も滅ぼし尽くした。

あなたがたをエジプトの地から連れ上り、

四十年の間、荒野の中であなたがたを導き、

アモリ人の地を所有させたのは、このわたしだ。

ヨエル書・・・3章4~8節:ツロとシドン、またペリシテの全地域よ。

おまえたちは、わたしにとって何なのか。

わたしに報復しようとするのか。

もしわたしに報復しようとしているなら、

わたしはただちに、速やかに、

おまえたちへの報いをおまえたちの頭上に返す。

わたしの銀と金をおまえたちが奪い、

わたしのすばらしい財宝を

おまえたちの神殿へ運び、

ユダの人々とエルサレムの人々を

ギリシア人に売って、

彼らの領土から遠く離れさせたからだ。

見よ。わたしは、

おまえたちが彼らを売ったその場所から

彼らを呼び戻して、

おまえたちへの報いをおまえたちの頭上に返し、

おまえたちの息子、娘たちを

ユダの人々に売り渡す。

彼らはこれを、遠くの異邦の民シェバ人に売る。

──主は言われる。」

ゼカリヤ書・・9章3~4節:ツロは自分のために砦を築き、銀をちりのように、黄金を道端の泥のように積み上げた。

見よ。主はツロを占領し、その富を海に打ち捨てる。ツロは火で焼き尽くされる。

エレミヤ書・・25章22節:ツロのすべての王たち、シドンのすべての王たち、海のかなたにある島の王たち、

同47章4節:すべてのペリシテ人を破滅させる日、

ツロとシドンを助ける生き残りの者すべてを

断ち切る日が来たからだ。

まことに主は、ペリシテ人を、

カフトルの島の残りの者を破滅させる。

エゼキエル書 26~28章:第十一年の、その月の一日、私に次のような主のことばがあった。

「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門は壊され、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった』と言った。

それゆえ──神である主はこう言われる──

ツロよ、わたしはおまえを敵とする。

海が波をうねらせるように、

多くの国々をおまえに向けて攻め上らせる。

彼らはツロの城壁を荒らし、

そのやぐらを壊す。

わたしはそのちりを払い去って、

そこを裸岩にする。

ツロは海の中の網干し場となる。

わたしが語ったからだ。

──神である主のことば──

ツロは諸国の餌食となり、

それに属する沿岸側の町々も剣で滅ぼされる。

そのとき彼らは、わたしが主であることを知る。」

 

まことに、神である主はこう言われる。

「見よ。わたしは、

王の王、バビロンの王ネブカドネツァルを、

馬、戦車、騎兵、そして大軍勢とともに、

北からツロに連れて来る。

彼はその沿岸側の町々を剣で滅ぼし、

おまえに向かって塁を築き、城壁崩しを設け、

大盾を立て、

破城槌でおまえの城壁を突き崩し、

やぐらを斧で打ち壊す。

彼の馬の数があまりにも多いため、

その土煙がおまえをおおう。

打ち破られた町に入る者のように、

彼がおまえの城門に入るとき、

騎兵と車両と戦車の響きに、

おまえの城壁は揺れ動く。

彼は、馬のひづめで

おまえの大通りをすべて踏みにじり、

剣でおまえの民を殺し、

おまえの巨大な石柱も地に倒れる。

彼らはおまえの財宝を略奪し、

商品をかすめ奪い、城壁を破壊し、

住み心地のよい家を打ち壊し、

石や木や土までも、水の中に投げ込む。

わたしはおまえの騒がしい歌をやめさせる。

おまえの竪琴の音も、もう聞かれない。

わたしはおまえを裸岩とする。

おまえは網干し場となり、

二度と建て直されない。

主であるわたしが語ったからだ。

──神である主のことば。」

 

神である主はツロにこう言われる。「刺された者がうめき、おまえの中で虐殺が行われるとき、おまえが崩れ落ちるその響きに、島々は揺れ動かないだろうか。

海の君主たちはみな、その王座から降り、上着を脱ぎ捨て、あや織りの衣服を脱ぐ。彼らは戦慄を身にまとって地面に座り、おまえのことで絶えず身震いし、啞然とする。

彼らはおまえについて哀歌を唱えて言う。

海に住む者よ、

おまえはどうして海から消え失せたのか。

その町と住民は海で最も強く、

ほめそやされた町であったのに。

その町の住民すべてに、

恐怖がもたらされた。

今、島々は

おまえが崩れ落ちる日に身震いし、

海の島々は

おまえの退却を見てうろたえる。」

まことに、神である主はこう言われる。「わたしがおまえを廃墟の町とし、住む者のない町々のようにするとき、大水をおまえの上に湧き上がらせ、豊かな水がおまえをおおうとき、

わたしはおまえを、穴に下った者たちとともに昔の民のもとに下らせ、穴に下った者たちとともに、昔から廃墟であったような地下の国に住まわせる。わたしが誉れを与える生ける者の地に、おまえが住めないようにするためだ。

わたしはおまえを恐怖のもととする。おまえはもう存在しなくなり、人がおまえを尋ねても、永久におまえを見つけることはない──神である主のことば。」

27章 次のような主のことばが私にあった。

「人の子よ、ツロについて哀歌を唱えよ。

あなたはツロに言え。

『海の出入り口に住み、

多くの島々の民と取り引きをする者よ、

神である主はこう言われる。

ツロよ、おまえは、「私は美の極みだ」と言った。

おまえの領土は海の真ん中にあり、

おまえを築いた者は、

おまえを最高に美しく仕上げた。

彼らはセニルのもみの木で

おまえのすべての船板を作り、

レバノンの杉を使って、おまえの帆柱を作った。

バシャンの樫の木でおまえの櫂を作り、

キティムの島々の檜に象牙をはめ込んで、

おまえの甲板を作った。

エジプトのあや織りの亜麻布が、

おまえの帆であり、

おまえの旗じるしであった。

エリシャの島々からの青色と紫色の布が、

おまえの覆いであった。

シドンとアルワデの住民が、

おまえの漕ぎ手であった。

ツロよ、おまえのうちの熟練者が、

おまえの船員であった。

ゲバルの長老と、その熟練者が、

おまえのうちにあって破損を修理し、

海のすべての船とその水夫たちが、

おまえのうちにあって

おまえに商品を持ち込んだ。

ペルシア、ルデ、プテの人々は、

おまえの軍隊の戦士であり、

おまえに盾とかぶとを掛け、

彼らはおまえに輝きを添えた。

アルワデとヘレクの人々はおまえの周りの城壁の上に、またガマデ人はおまえのやぐらの中にいて、周りの城壁に丸い小盾を掛け、おまえを最高に美しく仕上げた。

タルシシュは、おまえがあらゆる財宝に富んでいたので、おまえと商いをし、銀、鉄、すず、鉛をおまえの商品と交換した。

ヤワン、トバル、メシェクはおまえと取り引きをし、人間と青銅の器具をおまえの商品と交換した。

ベテ・トガルマは馬、軍馬、らばをおまえの商品と交換した。

デダン人はおまえと取り引きをし、多くの島々はおまえの支配する市場であり、彼らは象牙と黒檀をおまえに貢ぎとして持って来た。

アラムは、おまえの事業が多岐にわたったので、おまえと商いをし、トルコ石、紫色の布、あや織物、白亜麻布、珊瑚、紅玉をおまえの商品と交換した。

ユダとイスラエルの地もおまえと取り引きをし、ミニテの小麦、きび、蜜、香油、乳香をおまえの商品と交換した。

おまえの事業が多岐にわたり、あらゆる財宝に富んでいたので、ダマスコも、ヘルボンのぶどう酒とツァハルの羊毛でおまえと商いをした。

ダンとヤワンもおまえの商品と交換した。その商品の中にはウザルからの銑鉄、桂枝、菖蒲があった。

デダンは鞍に敷く織り布でおまえと取り引きをした。

アラビア人、ケダルの君主たちもみな、おまえの御用商人であり、子羊、雄羊、やぎで商いをした。

シェバとラアマの商人たちはおまえと取り引きをし、あらゆる上等の香料、宝石、また金をおまえの商品と交換した。

ハラン、カンネ、エデン、それにシェバの商人たち、アッシュルとキルマデはおまえと取り引きをした。

おまえの市場で、彼らは豪華な衣服、青色の衣、あや織物、固く撚った綱でしっかり留められた多彩な敷き物をもって、おまえと取り引きをした。

タルシシュ船がおまえの商品を運んだ。

おまえは大海のただ中で

満ちあふれて、大いに栄えた。

おまえの漕ぎ手は

おまえを大海原に連れ出したが、

東風が大海のただ中でおまえを打ち破った。

おまえの財宝、貨物、商品、

おまえの水夫、船員、修繕工、

おまえの商品を商う者、

おまえの中にいるすべての戦士、

おまえの間にいる全集団も、

おまえが崩れ落ちる日には

大海のただ中に沈んでしまう。

おまえの船員の叫び声に海辺は身震いする。

櫂を取る者、水夫、海の船員はみな、

船から降りて陸に立ち、

おまえのために大声をあげて激しく泣き、

頭にちりをかぶり、灰の中を転げ回る。

彼らはおまえのために頭を剃り、粗布をまとい、

おまえのために心を痛めて泣き、痛々しく嘆く。

泣き声をあげて哀歌を歌い、

おまえのために悲しんで歌う。

だれがツロのように

海の真ん中で滅ぼされただろうか。

諸方の海から得たおまえの貨物が陸揚げされ、

おまえは多くの国々の民を満ち足らせた。

その豊かな財宝と商品で地の王たちを富ませた。

おまえが海で打ち破られ、

おまえの商品とおまえの全集団が、

おまえとともに海の深みに沈むとき、

島々の住民はみな、おまえのことで啞然とし、

その王たちはおぞ気立ち、慌てふためく。

国々の民の商人たちはおまえを嘲り、

おまえは恐怖のもととなり、

とこしえに消え去る。』」

28章 次のような主のことばが私にあった。

「人の子よ、ツロの君主に言え。

神である主はこう言われる。

あなたの心は高ぶり、『私は神だ。

海の真ん中で神の座に着いている』と言った。

あなたは自分の心を神のように見なしたが、

あなたは人であって、神ではない。

あなたはダニエルよりも知恵があり、

どんな秘密もあなたに隠されていない。

あなたは自分の知恵と英知によって富を築き、

金や銀を宝物倉に蓄えた。

商いに多くの知恵を使って富を増し、

あなたの心は富のゆえに高ぶった。

それゆえ、神である主はこう言う。

あなたは自分の心を神の心のように見なした。

それゆえ、

わたしは諸国の中で最も横暴な他国人を

連れて来て、あなたを攻めさせる。

あなたの知恵の麗しさに向かって

彼らは剣を抜き、

あなたのまばゆい輝きを汚し、

あなたを滅びの穴に投げ入れる。

あなたは海のただ中で

刺し殺された者の死を遂げる。

それでもあなたは、自分を殺す者の前で

『私は神だ』と言うのか。

あなたを刺し殺す者たちの手の中にあって、

あなたは、人であり、神ではない。

あなたは他国人の手によって

無割礼の者として死ぬ。

わたしがこれを語ったからだ。

──神である主のことば。」

 

次のような主のことばが私にあった。

「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。

神である主はこう言われる。

あなたは全きものの典型であった。

知恵に満ち、美の極みであった。

あなたは神の園、エデンにいて、

あらゆる宝石に取り囲まれていた。

赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、

緑柱石、縞めのう、碧玉、

サファイア、トルコ石、エメラルド。

あなたのタンバリンと笛は金で作られ、

これらはあなたが創造された日に整えられた。

わたしは、油注がれた守護者ケルビムとして

あなたを任命した。

あなたは神の聖なる山にいて、

火の石の間を歩いていた。

あなたの行いは、

あなたが創造された日から、

あなたに不正が見出されるまでは、完全だった。

あなたの商いが繁盛すると、

あなたのうちに暴虐が満ち、

こうしてあなたは罪ある者となった。

そこで、わたしはあなたを汚れたものとして

神の山から追い出した。

守護者ケルビムよ。

わたしは火の石の間から

あなたを消え失せさせた。

あなたの心は自分の美しさに高ぶり、

まばゆい輝きのために自分の知恵を腐らせた。

そこで、わたしはあなたを地に放り出し、

王たちの前で見せ物とした。

あなたは不正な商いで不義を重ね、

あなたの聖所を汚した。

わたしはあなたのうちから火を出し、

あなたを焼き尽くした。

こうして、すべての者が見ている前で、

わたしはあなたを地上の灰とした。

国々の民のうちであなたを知る者はみな、

あなたのことで啞然とした。

あなたは恐怖をもたらすものとなり、

とこしえに消え失せる。」

 

次のような主のことばが私にあった。

「人の子よ。シドンに顔を向け、それに預言せよ。

神である主はこう言われる。

シドンよ。わたしはおまえを敵とし、

おまえのうちでわたしの栄光を現す。

わたしがシドンにさばきを下し、

わたしが聖であることをそこに示すとき、

彼らは、わたしが主であることを知る。

わたしはそこに疫病を、

その通りには流血を送り込む。

四方から攻める剣のため、

刺し殺された者がそのただ中に倒れる。

そのとき彼らは、わたしが主であることを知る。」

 

「イスラエルの家には、彼らを侮ったすべての周囲の者たちが突き刺す茨も、痛みを与えるとげも再び臨むことはない。そのとき彼らは、わたしが神、主であることを知る。」

神である主はこう言われる。「わたしがイスラエルの家を、散らされていた諸国の民の中から集めるとき、わたしは国々の目の前で、わたしが聖であることを示す。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた土地に住む。

そこに安らかに住み、家々を建て、ぶどう畑を作る。彼らは安らかに住む。周囲から彼らを侮るすべての者にわたしがさばきを下すとき、彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知る。」

[ii] 「ツロの日ヒラムは「いつもダビデを愛し」、またソロモンとも契約と協力を継続した(Ⅰ列王5・1~12)。しかし、その反面、ソロモンはフェニキヤから迎えた女たちによって腐敗していった(Ⅰ列王11・1~5)。そうして彼が導入した宗教的な誤りは、イザヤの時代にまで続いたのである(Ⅱ列王23・13)。北王国では、ツロの場ある信仰が、伊瀬ベルの時代に、ヤハウェ信仰に取って代わってしまった(Ⅰ列王16~18章)。ツロに対する敵意を、預言者たちは絶えず語って来た(エレミヤ47・4、アモス1・9~11、ヨエル3・4、ゼカリヤ9・2~4)。エゼキエルは、ツロについてのみ、主を知ることはないと言っている(エゼキエル25・7、11、30・26)。ところがイザヤは、この第二の宣告シリーズの後半の最後になって、ツロについて希望のかがり火をともすことになる。第一のシリーズ(13~20章)では、世界の政治的な混乱と国々の滅亡に重点が置かれていた。第二のシリーズ(21~23章)では、偶像審が滅ぼされること(21・9)、赦されざる罪(22・14)に強調点が置かれている。政治的な抑圧者であったエジプト(出エジプト1・22)が第一の宣告のシリーズで希望の担い手となったように(19・24~25)、第二のシリーズにおいて、ツロが宗教的に堕落していたのに、最後には希望のシンボルになる。かつてエリヤの世話をしたやもめ(Ⅰ列王17・8~16)が、シンボルとなって、終わりの日に起こることの予型となっている。」モティア、208~209頁。

[iii] あるいはこれは聖書協会共同訳が「誰がこの計画を立てたのか/王冠を授けていたティルスに対して。/その商人たちは町の長/その貿易商たちは土地で尊ばれた者であったのに。」と訳すように「王冠を授ける」とも訳され、ツロが各地の王国で新しい王が戴冠する際にも大きな影響を持っていたことを描いているのかもしれません。

[iv] https://ja.wikipedia.org/wiki/世界で最も影響力のある人物

[v] 「万軍の主がこの計画を立てられた。/あらゆる栄光の誇りを汚し/地上で尊ばれていた者をすべて卑しめるために。」聖書協会共同訳による。

[vi] ブルッゲマン:この追加部分によって、ヤハウェの手によるツロの恐ろしい未来は、即時のものではなく、70年という長期的な地平線へと押し進められます。70という数は人生の尺度であるのかもしれません(詩編90:10参照)、つまり一世代後には物事は変化するのです。いずれにせよ、70という数字が、未来に対する終末論的な見方の暗示となっていることは明らかです(エレミヤ25:11-12; ダニエル9:2, 24)。それがどうであろうと、私たちが興味深く思うのは、預言が今、間違いなく遅ればせながら、大都市の荒廃を乗り越えようとしていることです。

この預言は、嘲笑的な復興への誘いとして、忘れ去られた老娼婦のイメージを用いています。これは明らかに、4節の不妊の女性のイメージと一致する家父長制的なイメージです。娼婦のイメージは、世界経済システムを指すのに痛烈なものです。なぜなら、そのシステムは娼婦のように、金のためなら何でもするからです。

しかしもちろん、娼婦は年老いていくにつれて忘れ去られ、無視され、もはや役に立たなくなります。このイメージにおいて、長らく忘れ去られていた世界システムは、今や街路に再び姿を現し、人々の記憶に残り、そしておそらくは再び関与してくれることを願って歌を歌うように招かれているのです。このように、この詩はティルスの復活を描いているが、それは栄光に満ちた復活とは程遠いものである。

[vii] イザヤ書13・12、14・32、16・3など参照。

[viii] 「これらの節は復興のビジョンを継続し、そのような商売を売春行為として退け続けています。しかし、この復興のシナリオには、15-16節の調子をはるかに超える注目すべき転換点があります。ここでは、この復興した体制において確実に生み出される利益が、大きく方向転換されることが予想されています。それは、預言の伝統が一貫して断固として非難してきた余剰富に蓄積されることはありません。むしろ、利益は「ヤハウェに聖なるもの」となるでしょう。つまり、ヤハウェの主権を認め、ヤハウェがそのような富を可能にしてくださったことへの感謝、あるいはヤハウェが利益の正当な管理者であることを認めるという意味です。さらに、その利益はヤハウェの信奉者たちのための豊かな食料と上質な衣服に使われるでしょう。

ヤハウェの承認は、単に神学的な、あるいは典礼的なものではありません。それは、ヤハウェの信奉者たち、おそらく捕囚後のユダヤ人たちが世界システムの産物を享受するという、実利的かつ政治的な承認なのです。

ティルス[ツロのこと]の運命と世界システムのこの驚くべき転換は、まさにイザヤの教えに則っています。イザヤの伝統において、ヤハウェが勝利することは疑いようがありません。システムを破壊するヤハウェこそが、その回復を主導し、その回復から利益を得るヤハウェなのです。そしてもちろん、この現実解釈においては、ヤハウェは決して孤独ではなく、常にヤハウェの民と共にあります。したがって、世界経済の回復が期待されるのは、無害なものではなく、ヤハウェの恩恵を頼りにする「生身の」ユダヤ人共同体にとって重要なイデオロギー的主張を内包しているのです。

「諸国民への預言」のすべてにおいて、イザヤの伝統は壮大な構想を描いています。この詩ほどそれが如実に表れている箇所はありません。これまでの「諸国民への預言」は、エジプト、アッシリア、バビロンといった超大国を含む、主に単一の国家に焦点を当ててきました。しかし、この詩は世界システム、つまり多くの国家が相互依存の形で参加する経済と商業のネットワークを扱っています。

現代の読者は、ヤハウェが世界経済システムを決定的に統治しているという主張について深く考えるかもしれません。ガット条約、主要7カ国(G7)の共謀、あるいは世界銀行が世界的な「開発」に資金を提供する際限のない能力を思い浮かべるかもしれません。チャールズ・ライヒ(『体制への反対』)が巧みに解説した「経済政府」、その莫大な富の創出と、それに伴う恥知らずな人的犠牲にも注目するかもしれません。米国の読者として、私たちはこの預言に助けられ希望にあふれたユダヤ人として位置づけられているのではなく、利己的なシステムの参加者であり受益者として位置づけられていることに気付くかもしれない。

ここで想像されているのは、まさに世界システムの転換であり、その利益は際限のない富の追求ではなく、世界の近隣地域の発展のために利用される。この預言は、心に深く刻まれる問いを投げかける。困窮者――ヤハウェの繰り返しの守り手――は、世界システムの利益にあずかることを期待する根拠があるのだろうか?もちろん、ティルスもシドンもキプロスもエジプトもタルシシュも、そのような意図はなかった。それでもなお、それは約束されている。世界の商業にとって新たな地平であり、おそらく多くの「嘆き」と「揺さぶり」の後にのみ実現するだろう。ティルスの「計画」は別の計画によって阻まれており、その結末はまだ見えない。」ブルッゲマン

[ix] ルカ10・13:ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって座り、悔い改めていたことだろう。14しかし、さばきのときには、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。

[x] マルコの福音書7・24〜30:イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。家に入って、だれにも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった。ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた。彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた。

[xi] また、「ツロ」的な価値観からの転換という視点では、ルカ19章1〜9節の「取税人ザアカイ」のエピソードも一例としてあげることができましょう。